2014年3月24日月曜日

アニメ「エルフェンリート」の救い(on twitter @rahumj)


★全く驚いた.


 確か日本アニメ史上初だったと思うが,聖書や讃美歌を引用し,すべてラテン語によって書かれた歌詞を持つ,アニメ「エルフェンリート」のオープニングテーマ「Lilium歌手:野間久美子,作詞・作曲・編曲:小西香葉/近藤由紀夫」.

 YouTubeで確認したところ,世界の教会で歌われるようになっていた.

 おそらく唱者たちは,これがアニメのオープニング曲である事はもちろんのこと,そのアニメがいかなる内容を持っていたかについては,知らなかったのでは無いかと思う.

 このアニメの原作となった連載マンガが,青年誌に分類される「ヤングジャンプ」であることからわかるとおり,この作品は
  • 萌え系の美少女
  • 残酷なバイオレンスやスプラッターシーン(四肢切断等)
  • 児童虐待
  • ヌードなどのエロスシーン
  • SF的なストーリー
  • ナンセンスなギャグ
といった特徴を持っており,古い言葉で言えばいわゆる「エロ・グロ・ナンセンス」に分類される.もちろん全く子供向けでは無く,成年男子向けである.事実,CSで放映された時は,過激な暴力描写のため一部シーンの修正のほか、15歳未満視聴禁止のペアレンタルロックがなされた.

 そのような一見低俗で悪趣味な男性向け娯楽作品が,なぜに各国の教会で自然発生的に歌われるようになるほどの,讃美歌的な美しいオープニングテーマを持つに至ったかの謎は,この作品の監督である神戸守の,懺悔にも似た作品解説から了解される.
「一人の人間の中でこれらのことは複雑に絡みあっている。

平凡であることへの劣等感。他人との違いによる劣等感。同じ境遇の者への親近感。そして、救い。
この作品は表面的にはお色気、ラブコメ、バイオレンスだが、本質は差別と救いであろう。

社会問題にもなっている苛め、つまり差別はこの作品の中に詰まっている。誰しも救いは求めている。」
- 神部守(Wikipediaより)
宮崎駿監督作品「風の谷のナウシカ」において制作進行担当の経験もある神戸監督は,おそらくこの作品を好んで視聴するユーザー層の病的精神性について,十分理解していたのだと思う.またこの作品を世に送り出すことによって,彼らのその病的精神性を助長する危惧のある事も十分承知していたはずだ.推測の域を出ないが,神戸監督は,このような作品の制作に携わり,またそれによって自分が生計を立てていることに関して,ある種の罪を感じていたのではないだろうか?

 その罪の意識の中で神戸監督は,作中に一種の「ささやかな贖罪」を挿入しようと試みたのだと思う.それは売上を含むアニメ制作現場の様々な制限の中において,この病的作品のユーザー層をむしろ,この作品世界の中から抜け出させ,「救い」へと 導くためのある種の「仕掛け」であった.彼の選んだその「仕掛け」とはオープニングテーマであり,またその「救い」とは,キリスト教(カトリック)であった.

 極論すれば,この作品はオープニングテーマ曲がすべてであり,その讃美歌を罪深き病者らに聞かせ,洗い清め,「救い」へと導く為に作られたのだ. 果たしてその「救い」は,彼らに届いたのだろうか?そして神戸監督自身は,救われたのだろうか?

 なおこの作品の秀逸な批評については,下記のページがあるので,そちらを参考にされたい.

★Lilium ラテン語歌詞:

Os iusti meditabitur sapientiam,
Et lingua eius loquetur indicium.
Beatus vir qui suffert tentationem,
Quoniqm cum probatus fuerit accipiet coronam vitae.
Kyrie, ignis divine, eleison
O quam sancta, quam serena,
quam benigma , quam amoena
O castitatis lilium
Os iusti meditabitur sapientiam,

★Lilium 歌詞日本語訳:

正しき者の唇は、叡智を陳べ
其の舌は 正義を物語る
幸いなるかな 試練に耐え得る者よ
之を善しとせらるる時は 命の冠を受くべければなり
主よ 聖なる炎よ、憐れみ給え
おお、何と聖なる哉 何と静かなる哉
何と慈悲深き哉 何と情愛厚き哉
おお、清廉なる白百合よ

★聖書・讃美歌引用:

  • 1~2行目:旧約聖書「詩篇」37-30
  • 3~4行目:新約聖書「ヤコブ書」1-12
  • 5行目:グレゴリオ聖歌「キリエ・エレイソン」
  • 6~8行目:賛美歌「めでたし世の希望なるマリアよ」

★歌詞日本語訳引用ページ:

2014年3月23日日曜日

ルターと聖霊(on twitter @rahumj)

公会議主義(Conciliarism)カトリック教会の歴史において公会議にこそ教会内の至上決定権があると唱える思想.公会議の権威が教皇権を超えるものとする.教会の非常時に適用される考え方とされる.アヴィニョン捕囚による教皇並列を解消する手段として期待された.
教皇首位説ローマ・カトリック教会の教理のひとつで,教会の規律と統治に関する問題および信仰と道徳に関する教義の問題の裁治権は,教皇の持つ使徒座の権威に首位があるという説。特に公会議よりも首位があるという説を意味し,公会議主義を否定する。
修道士になっても不安が続いていたルターが,真の平安に辿り着いたのは信仰義認(sola fide)の考え方を持った時(塔の体験)だった.それは同時に修道士の生活や,それを義とする教会を否定することでもあった.彼はその思想を新約聖書の「ローマの信徒への手紙」に見出していた.

 聖書記述と教会の実態に矛盾を感じたルターは,この二者のどちらがより上位の権威を持つのかについて,判定を迫られた.教会を通じてのみ「イエスの教え」が説かれえるのであれば,当然聖書そのものよりも教会に権威の座は存在することになる.

 カトリックにおいて継承される「神の言葉」,いわゆる「信仰の遺産(fidei depositum)」は,2つの伝送経路を持っていた.一つは(イエス・御霊→)聖書原典→ラテン語翻訳聖書→教会→信徒という聖書経路,もう一つは(イエス→)使徒→使徒伝承(「大伝承」*)→教会→信徒という伝承経路である.この「大伝承」からはさらに,「諸伝承」が導出されている.
*…主キリストと聖霊から使徒たちに託された神のことばを余すところなくその後継者に伝え、後継者たちは、真理の霊の導きのもとに、説教によってそれを忠実に保ち、説明し、普及するようにするもの(wikipediaより)
 
 本来ならば,これら2つの経路によってもたらされた「神の言葉」は,その情報発信源が同じであるため,両者は同時に成立し,矛盾しえない.そしてこの2つによって構成されている教会は,聖書的であると同時に使徒伝承的であるはずだった.となると聖書と教会実態の矛盾とは,すなわち「伝統(Tradition,伝承,聖伝)」と聖書の矛盾に他ならなぬとルターは考えたわけだ.結局彼はこの矛盾の原因を,伝統に混入した「人の言葉」に求め,最終的には伝統がすべて「人の言葉」であると判断し,それと決別することとなる.

 しかしこの問題において彼は,伝統が正しく,聖書が間違っていると仮定することも出来たはずだ.つまり聖書の中に「人の言葉」が混入しており,その部分が伝統内の「神の言葉」と矛盾したという想定である.実際ルターは,いわゆる逐語霊感説を否定しており,聖書原典の中に既に,「人の言葉」が混入する可能性を認めていた.

 伝統に「人の言葉」がどれほど入り交じっているかどうかを判定するために,彼は教会史をさかのぼりながら,その伝統の成立過程をつぶさに追っていかねばならない.もしこの史的研究の結果,「伝統」がすべて聖書に基づいていたと判明したのであれば,ルターの感じた聖書記述と教会の実態の矛盾は,彼の認識の問題であり,彼は謝罪したであろう.

 また大学において聖書注解者でもあった彼は,聖書においても「人の言葉」がどれほど入り交じっているかを判定するために,当時公式聖書とされていたヒエロニムスによるラテン語訳ウルガタ版聖書(404年ごろ初版)と,新約聖書の底本的存在であったエラスムスらによるギリシア語新約聖書(テクストゥス・レセプトゥス,1516年初版)の比較なども行ったことだろう.後にルターが完成させるドイツ語訳新約聖書は,このテクストゥス・レセプトゥスが底本としている.

 ただしこのテクストゥス・レセプトゥスは,古くても12世紀以前には遡らないとされ,また初版の一部(ヨハネの黙示録)は,ウルガタ版を参照して書かれたことは注意が必要である.現代においてテクストゥス・レセプトゥスは,新約聖書の原文書とはみなされていない.

 このような権威への理性による学術的アプローチ(哲学的アプローチ,「知の考古学的」教会史研究)は,ちょうど哲学者ミシェル・フーコーが探求した「知と権力の関係」「知に内在する権力の働き」というテーマに重なり,たいへん興味深い.

 これらの理性的学術的探究の結果として,彼は伝統のほとんどは「人の言葉」である判断したのだろうか?それでも疑問は残る.仮にたとえ一言であったも,伝統の中に「神の言葉」が含まれているとルターが判定した場合,彼は伝統を完全に捨てえただろうか?もし含まれていたならば,伝統の中から「神の言葉」を慎重に分離し,伝承していこうとしたのではないか?

 彼はルター聖書を書き表すことで,ウルガタ聖書に含まれていた「人の言葉」の排除にほぼ成功したと考えたかもしれない.しかし彼は伝統に対して,そのような改訂的作業はせず(未確認),ばっさりと切り捨てた.それはなぜなのか?

 一つには,伝統の伝承形式が口伝であったからだろう. 口伝において,「人の言葉」が入り込みやすいのは自明である.むしろ逆に,口伝という伝承形式は,その「人の言葉」が入り込むように意図された伝承形式と言っても良いだろう.宗教一般において,教祖自身が経典を書いた団体よりも,教祖が経典を書かず口伝で弟子に教えを伝えた団体の方が,歴史的に発展しやすいと言われる.

 文書化された聖書においても「人の言葉」が入り込むのであれば,口伝に基づく伝統においてはなおさらだとルターが考えるのも当然といえば当然である.しかし前述のように口伝と言う形式が採用されているのは,「人の言葉」がそれに入り込むことにより,ある種の柔軟性を得て,その宗団が生き残り,発展しやすくなるからだろう.さらに口伝に入り込むそれら「人の言葉」も,実は神の啓示と権威によるものであるという解釈が成り立つならば,それは「人の言葉」ではなく「神の言葉」となる.

 しかし口伝に入り込んだ「人の言葉」が「神の言葉」でなかった場合,その宗教は世俗化し,またアイデンティティを失い,最終的に瓦解してしまう可能性が高い.カトリックの場合,それを修正・破棄する権威が教皇にあった.だとすると,伝統がすべて「神の言葉」であることを保証する最終責任は,教皇にあるということになる.

 ルターが史的探究により確認したかもしれない伝統に入り込んだ「人の言葉」すらも,すべて「神の言葉」であると,教皇がその権威に基づいて保証するのであれば,ルターがそれを「人の言葉」であるとする権威はどこにあるのか?
 
 「それは聖書の権威である」と言いたいところなのだが,それはできない.そもそもこの論議は,ルターの感じた伝統と聖書の矛盾において,彼がいかにして聖書に権威を見出したのかを追求することにあった.伝統の権威は教皇による.ではルターの見出した「聖書の権威」の根拠とは?

 ここにおいてルターは,カルヴァンのような「アウトピストス(聖書の権威の自己証明性)」のような考え方は持っていなかっただろう.となると,その根拠はやはり,ルターの「塔の体験」を絶対的体験にならしめた,その権威に求められなければならない.

 ルターがその個人的宗教経験を,神の言葉と人の言葉の分離のために用いることができたのは,彼が神秘主義者でもあり,そこに教皇とは別の,そしてそれ以上の「権威の源泉(聖霊)」を持っていたからに他ならない.

 彼にとって「塔の体験」は一種の奇蹟であり,超自然であり,啓示であったに違いない.つまり「塔の体験」における聖霊の啓示は,ルターに対し元々聖書に内在していたその権威を照らしだした.それは教会とは無関係に,最上の権威を持つ聖霊によって,新約聖書の「ローマの信徒への手紙」が解き明かされ,「信仰義認」の奥義がルターに示されたことで明証された.彼は聖霊に最高の権威を認めていたからこそ,聖霊によって示された聖書の権威をも認めることが出来たのだ.聖書の権威が認められれば,後はその聖書の権威に基づいて行動するだけであり,教皇に反逆することが可能となる.
 
 またルターは新約聖書のドイツ語翻訳において,意図的に,行為の重要さを強調する「ヤコブの手紙」を翻訳から外そうとした.また旧約聖書の第二正典を,正典として認めなかった.彼はこの時点で,カトリック教会がその権威によって定めた聖書の正典性を疑っていることになる.ルターが一人で聖書の正典性が判定できたのは,「信仰義認」との整合性と言う理性的に判定可能な尺度を用いたからであり,聖霊の権威によるものではないように見える.ルターが聖霊の権威によっているのは,「ローマの信徒への手紙」の権威,言い換えれば「信仰義認」の正当性根拠に関する,限局されたただ一点のみなのかもしれない.

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