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2013年12月7日土曜日

不安と平安(on twitter @rahumj)

「自分の生きているこの場所(世界)は,いかなる場所であるのか?」

 この知識への強い欲求はしばしば,自己の生存に関する不安に依拠していると思われる.

 現代人の特徴と呼ばれて久しい「不安」を持たない人間,すなわち平安に満たされて生きている人間は,この世界よりも,己にもたらされた平安の源泉に関する知識に深い関心を持つ.

 ゆえに平安は,良い意味でも悪い意味でも,人を世界から乖離させる両刃の刃でもある.逆に不安は,人の目を自分のいる世界へと向かわせるポジティブな側面を持つ.

 厭世的平安に甘んずることを戒め,この猥雑な世界の直中において,祈りと不安と共に「生きる」勇気を持つこと.

2013年9月29日日曜日

平安(on twitter @rahumj)

 山を平らげ,谷を埋めると,目に見えるものは何も無くなった.興奮が生ならば,平安は死となる.平安に生を見出し,興奮に死を見出す者は少ない.

2013年9月17日火曜日

眠った子を起こす時(on twitter @rahumj)

 「眠った者」は聞かない者である.ごちそうの準備をし,「さあ食べて元気を出しなさい」と言われても,彼は眠り続ける.それが長引けば,ますます死に近づいていく.

 だからおそらく「眠った者」の手を取って,起こしてあげる必要が,まず第1にある.食事の準備はそれからでもよい.

 眠りは彼にとって平安である.したがって,その眠りから目を覚ますために手を取ることは,彼にとって暴力と感じられる可能性がある.

 故に,手を取って起こす者は,眠っている者に対して,ある種の公的な権威を持っていなければならない.