2013年10月29日火曜日

2013年10月28日月曜日

深淵(on twitter @rahumj)

聖書の行間に神が配置された,無限の深淵をじっと見つめる.

「光の子」らの先へ(ルカ16・8,主日礼拝)

この世の子らは,自分の仲間に対して,光の子らよりも賢く振る舞っている(ルカ16・8)
本日の主日礼拝の説教は,先週に引き続いて「不正な管理人」のたとえについてであった.本日の説教では,このたとえの最後の部分「神と富とに仕えることはできない」を扱ったのだが,このたとえについては,その一節一節についてじっくり考えてみたいので,今回は前回の続きを書こうと思う.

 前回のブログ『すばらしい「不正」』では,不正な管理人が,債務者・主人・管理人のすべてに喜びを与えた「不正(律法違反)」について考えてみた.その時に,上記の聖句については触れなかったので,ここで触れてみたいと思う.

 この聖句で気になるのは,まず「光の子」という特殊な表現だ.「光の子」という表現は,新約において,このルカ16・8,テサロニケI 5:5,エペソ5・8,ヨハネ12・36だけに出てくる.知っている方も多いと思うが,「光の子」は死海文書の「戦いの巻物」中に出てくる表現であり,最終戦争において勝利する者達のことである.おそらく,クムラン宗団やエッセネ派の影響を受けていた原始教会において用いられていた終末論用語と推測される.死海文書によれば,この「光の子」らの敵は「闇の子」であり,最終戦争において「闇の子」は滅ぼされることになっている.しかしおもしろいことに,ここで「光の子」らに対比される者達は,「闇の子」ではなく「この世の子」である.

 最終戦争の後に,「光の子」らが「信仰により救われた者達」,「闇の子」らが「信仰を拒否して滅ぼされた者達」となるのであれば,その最終戦争が起こっていない時点での「この世の子」らは,「現在救われてはいないが,救われる可能性が残されている者達」,すなわち「(完全な)闇の子でも光の子でもない者達」を言い表していると考えられる.

 さて聖句では,その「この世の子」らが,ある種の賢さ,すなわち自分の仲間に対する賢さにおいて,「光の子」らを上回っていると主張している.「不正な管理人」のたとえでは,管理人の不正な「抜け目ないやり方」を主人にほめられたのだが,それが「賢さ」を意味するとすれば,「この世の子」らの賢さについても,イエスは評価をされていることになる.ではなぜ「この世の子」らの賢さをイエスは評価されているのか?

 「この世の子」らは当然のことながら,この世に生きている.彼らには真の信仰がなく,彼らの思考パターンは,基本的には経済学的(Give & Take)である.この世に生きる彼らの人生の目標は,この世における自己の利潤追求(この世の富)である.ここでは便宜上,「利潤」と言ったが,その中には財産だけではなく,「権力」「名誉」等も含まれている.したがって「利潤」を「快楽」と言い換えても良いだろう.この世の富(財産,地位,権力,名誉等)は快楽を生み出すがゆえに,それを追求するわけだ.当然彼らの関心は,この世に存在する自己の所有する富,あるいは自己所有の可能な他者の富である.他者所有の富は,基本的には,自己所有可能な富と考えていいだろう.

 「この世の子」らの利潤追求行為(経済行為)は,この世の他者との交流や戦いにおいて成り立っている.特に自分に利益をもたらす仲間(味方)に対して行為者は,うまく折り合いを付けて,共存を探りつつ,自己の利益を追求していかなければならない.「この世の子」らの知恵は,その利潤追求行為の一環として駆動されている.この利潤追求行為の経験によって得られ,蓄積された知識こそが,彼らの「賢さ」である.その賢さの中に,「不正(律法違反)」に関するテクニックが含まれるのは言うまでも無い.この世に生きる彼らにとって,律法遵守はさほど重要なことではない.イエスは,彼らの賢さの中でも,「自分の仲間に対する賢さ(折り合いと共存の知恵)」をほめ,評価したのだった.これに対して「光の子」らはどうか?

 「光の子(救われた者)」らの関心の対象は,この世に存在しない.彼らの関心は,終末と終末時の自己の「救い」にある.信仰によって究極の目標を得たと信じた彼らには,「この世の子」らのように,富を追求する意欲も無く,神とのネゴシエーション(取りなし)に悩んであれこれ知恵を絞る必要も無い.それゆえ彼らは経験を積み重ねることもないため,知識も増えてはいかない.つまり「光の子」らにおいて,「賢さ」はその進歩を停止している.それに対して「この世の子」らは,この世に対して貪欲であり,自己の利潤・快楽の追求を止めることはない.故に彼らのその賢さや知識は増すばかりである.

 さてそれではイエスがなぜ,終末論用語である「光の子」と言う表現を,わざわざここで用いられたのか?

 ご存じの通り,この聖句はファリサイ派や律法学者だけではなく,弟子達,すなわち信徒に向けられたものでもある.終末論用語をイエスが用いた理由は,おそらく,新約の他の部分も指摘しているとおり,信徒の中に,終末が明日にでもやってくると信じ,その時の「救い」以外に,関心を持つことのできない者がいたからだろう.

 「救い」をあまりにも重視しすぎた彼らは,入信によりそれを得て,心の底から安堵したことだろう.入信により,究極の目標を達成してしまった彼らの中には,「自分は救われ,明日には世界が滅ぶのだから,もう何もしなくてもいい.何をやっても無駄だ.」と考える者も出てきたのだろう.またそのような考えを持つ者の中には,「この世の子ら」に対して優越感・選民意識を持つと同時に,クムラン宗団がそうであったように,「この世の子」らの接近に対し排他的な態度に出ていた者,あるいはグループも存在していたのかもしれない.クムラン宗団が消滅したように,そのような考えを持ってしまった信徒達が,その後,転落していったことは想像に難くない.つまり「光の子」と言う表現は,信徒の中の堕落してしまった早期終末論者を批判するために,イエスが用いられたと考えられる.彼らは「救い」の心地よさに眠ってしまったのである.それゆえ神の呼びかけを聞くことができない.

 「この世の子」らは,限りなく「闇の子」らに近い.しかし,彼らには「光の子(救われた者)」となる可能性が残されている.そして彼らが回心し,信仰により救われた後,「救い」のみに満足することのない彼らの持つ底なしの欲望の鉾先が,「この世の富」から神へと,「天の富」へと方向転換するのであれば,彼らは神のみこころを貪欲に求め,神の呼びかけに応答し,活発な活動を精力的に行うであろう.その時,彼らが「この世の子」らとして生きていた時に得た,「不正」をも含む知識や経験,すなわち「賢さ」は大いに生かされることになる.

 管理人が「不正」によって友と生活を得たように,彼らも友と生活を得るであろう.こうして「放蕩息子」のたとえと同様,後の者は先になり,彼らは「光の子」らではなく,キリスト者となる.

2013年10月26日土曜日

解放(on twitter @rahumj)

 自己の無力を見出した者は,「力」の呪いから解き放たれるであろう.彼にはもはや,作用点がない.

2013年10月21日月曜日

すばらしい「不正」(ルカ16.8,主日礼拝)

主人は,この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた(ルカ16・8)
本日の説教は「不正な管理人」のたとえであった.先生のおっしゃるとおり,このたとえの第一印象は,「なぜこのような悪い人間が賞賛されるのか?」という一種の拒絶感のようなものだろう.もちろん,イエスはその拒絶感が起こることを,むしろ期待して,このたとえ話をされたに違いない.その「拒絶感・違和感」が,実は自分の認識の限界を示していることに気づいたとき,人は成長できるのだろう.

 特にこのたとえは,イエスの弟子達のためにも語られた(ルカ16・1).すなわち未信者や信仰の初心者ではなく,ファリサイ派や律法学者などをも含む,ユダヤ教・キリスト教信仰のレベルの高い者に対するたとえ話となっている.したがって,一般大衆的常識では歯が立たないが,信仰の深い者には理解できるように作られている.そういう意味で,これは禅の公案にも似ていると言えるだろう.

 管理人は確かに文書偽造を行った.これは一般常識からいっても,当時の律法においても犯罪であろう.ところが二重の被害者とも言える「ある金持ち」は,彼の「抜け目ないやり方」に対して,腹を立てるどころか彼をほめた.なぜ,二重に被害を受けた者が,その加害者(のやり方)をほめ,何よりも先にその罪に対して怒りを発しないのか?

 ここで管理人の罪について,明らかにしておこう.まず「主人の財産の無駄遣い(ルカ16・1)」がそもそもの発端であった.ただし注意したいのは,これが告げ口であったことだ.主人自身が,直接無駄遣いを確認したわけではなく,間接的にその密告(証言)を聞いただけである.それだけで管理人を即,解雇するのはなかなか考えにくい.証言ならばやはり,二人以上の証言が欲しいところである.

 にもかかわらず主人が,解雇を決定したと言うことは,その証言を裏付ける証拠が,同時に提出されている可能性を考えておく必要があるだろう.主人は会計報告を管理人に要求しているが,これは職務引き継ぎのためであり,彼の無駄遣いの証拠を追求するためではないとするのが一般的な解釈のようだ.とするとやはり主人は,管理人の無駄遣いを確信するに至る確かな情報なり,証拠なりを持っていたことになるだろう.また管理人は,主人の解雇通告に対して,何ら反論・抗議をしていないようなので,「無駄遣い」をしていた事実を主人の前で認めたのかもしれない.しかしその無駄遣いの内容は,いったいどのようなものだったのだろうか?

 少なくともその「無駄遣い」によって,彼が私腹を肥やしたと思わせるような表現は,ここにはない.彼が長年にわたって私腹を肥やしていたのなら,仮に首になってもその金で主人のマネをして,商売を始めることはできたことだろう.しかしおもしろいことに, 彼は解雇されたとたんに,乞食か,肉体労働か,といった誰にでもできる仕事でなければ食べていくことができないと考えている.

 つまり彼には全く私財がない上に,自活能力もないと自認していると考えられるのだ.賢い管理人には,私腹を密かに肥やすチャンスはいくらでもあったはずだ.しかし彼はそれをしなかった.彼がしたのは「無駄遣い」である.

 管理者としての自信が以前の彼にはあったのかもしれないが,今回の無駄遣い騒動でその自信も失われたのだろう.資産も自活能力もない彼に残されたものは,生存に対する絶望と,わずかばかりのプライド,すなわち「物乞いは恥ずかしい(ルカ16・3)」だった.

 こうして考えてみると,無駄遣いが実は,彼の過失もしくは管理者能力不足のためであり,彼は彼なりに,まじめに管理業務をしていた可能性も否定できないのである.もし仮に管理者能力不足の問題であれば,それは任命責任が主人にある.つまり主人が管理者能力の査定を誤ったと言うことになるため,彼の罪は問われないだろう.

 ただしこの管理人が後に,物乞いや肉体労働者にならないために,文書偽造を思いつきそれを実行したことから,彼の倫理観において,律法遵守の精神に欠けていたことはほぼ明らかであり,彼の無駄遣いが,彼の職務怠慢によるものである可能性もある.律法に対する罪人とは,律法を越えて行動する者のことである.

 ではここで,無駄遣いの原因の仮説をまとめておこう.
  1. 管理人の能力不足説
  2. 管理人の職務怠慢説
  3. 管理人の過失説
まず能力不足説についてだが,後に考察する証文偽造の巧妙なやり方から見て,彼は相当に賢い人間だったに違いない.そしてその賢さ・能力を主人は見抜いていた.ゆえに主人は,彼に全財産を管理させたのだろう.したがって,この説には説得力がない.

 職務怠慢説については,前述の通り,彼は律法遵守よりも,自分が物乞いや肉体労働者にならないことを選択したこと,すなわち自己の利益を律法よりも重視したことから,この説が事実であった可能性はある.ただ彼がそれだけの資産を運用しながら,私腹を肥やしていなかった事実は,当時の収税人やローマ兵に比べて,かなり高い倫理観を示しているように思える.それだけの誘惑に打ち勝てる者が,職務怠慢であったとは考えにくい.

 となると過失説は,かなり有力になってくる.すなわち管理職を忠実に行っていたのだが,見落としか何かがあり,無駄遣いとなってしまった.仮にこの説をとるとすると,この賢い管理人の見落としとは何だったのだろうか?

 一つだけ言えることは,この管理人の管理には,確かに問題点があった.それは告げ口をされた事実からはっきりしている. おそらく彼は管理職に忠実すぎたために,雇い人や債務者を苦しめていたのだ.彼には多くの敵がいたにちがいない.そして隙あらば,彼を失脚させようと機会を狙っていた者も多かったと思われる.もし彼が職務に忠実ではなく,私腹を肥やすために,賄賂を受け取って証文の書き換えを行ったり,借金の取り立てを面倒に思い,厳しい取り立てを雇い人にさせたりしなかったら,敵は少なかっただろう.彼の倫理観の高さは,彼が解雇されるまで,文書偽造のような犯罪を思いつかなかったことでも証明される.

 彼の職務に対する忠実さが多くの敵を作ることになり,結果,彼は「刺された」のだった.主人が告げ口を聞いただけで,彼の解雇を決定し,彼に弁解の余地を与えなかったのは,無駄遣いの確たる証拠や証言が,密告者からもたらされたためだと考えられる.したがって密告者は内部の人間であり,管理人の元で働いていた雇い人の一人であることが有力である.

 またこの無駄遣いが,実は密告者によって密かに行われた可能性も否定できない.それによって管理者を失脚させるためである.後にわかるとおり,これだけ能力があり,職務に忠実な管理人が,無駄遣いを見落とすことがあるだろうか?つまり管理人は,敵の罠にはまったのだ.

 ここで仮説をまとめると
  1. 管理人は職務に忠実であり,まじめにそれを実行していた
  2. 管理人は職務遂行のため,債務者や雇い人を虐げており,敵がたくさんいた.
  3. 管理人は指摘された「無駄遣い」があったことに気づかなかった 
  4. 無駄遣いは管理人自身か,密告者(雇い人)によって行われた
彼が主人に対して必死に弁明しなかったのは,おそらく,彼が気づくことのできなかった無駄遣いの存在を,彼がその場で認めたからだろう.仮にその無駄遣いが,悪意のある不忠実が密告者によって行われたとしても,それを見抜けなかったことは彼の管理人としての落ち度とも言える.彼がその場でその陰謀を感じ取ったとしても,彼は主人に対して弁解をせず,己の過失を認めたことだろう.彼には管理人としてのプライド(プロ意識)があり,自分の犯したミスを赦すことができなかったのである.

 前述の通り,彼は解雇後に,自分には乞食か肉体労働者という職業しかない,言い換えれば,自分には管理人以外の能力はないと決めつけていた.すなわち管理人という職業は,彼のアイデンティティの大部分を占めていた.さらに「乞食になるのは恥ずかしい」というプライドも,職業に対する彼の意識を物語っているように思える.

 彼のそのような心情を思うとき,主人から無駄遣いを指摘され,解雇を通告されたとき,彼のプライドはズタズタに引き裂かれたことだろう.彼が反論・抗弁をしなかったのは,無駄遣いに気づかなかったという管理上の過失(罪)を認め,「自分は管理人に値しない」と自らを裁いたためだ.彼は彼を有罪に処し,懲戒免職処分という罰を無条件で受け入れたのである.たとえそれが自分に対するワナであったとしても.
 
 次に物語の後半,文書偽造の罪についてを考えてみる.解雇された彼は生きることに絶望したであろうが,その苦悩の中で,生きていくためいくつかの選択肢にたどり着いた.それは次の3つであった.
  1. 土を掘る:自分だけの力で生きていく.他者には与えない.
  2. 物乞いになる:他者に頼って生きていく.他者には与えない.
  3. 文書偽造で寄食:他者に頼って生きていく.他者には与える.罪を犯す.
 彼は結局,律法を破り,文書を偽造し,他者の中に生きていくことを選択する.彼の文書偽造の目的は,「自分を家に迎え入れてくれるような者(ルカ16・4)」を複数作ることだった.彼はそのために,未だ残っていた管理人の職権を「悪用」し,債務者に対して文書偽造をそそのかして,実行させたのであった.

  確かに彼は証文を書き換えさせたのだが,おもしろいことに証文の破棄はしていない.証文の破棄の方が,書き換えよりも証拠が残らない分だけ,完全犯罪となる可能性が高いはずである.むろん債務者も,目の前で証文を破棄すれば,証文書き換えよりも喜ぶはずである.しかし彼はそれをせず,当時の負債の利子に当たる分,借用量を減らしている.

 当時,オリーブと小麦等の農作物は,収穫の多い年と少ない年があり,そのリスクを含めて貸し借りの利子が決められており,小麦25%,油100%であった.それが正しければ,油は100バトスから50バトスに書き換えたので,返済は100バトスということになる.小麦は100コロスから80コロスに書き換えたので,返済は100コロスになる.すなわち債務者にとっては,無利子で借りた形となる.しかし
同胞には利子をつけて貸してはならない.銀の利子も,食物の利子も,その他利子が付くいかなるものの利子も付けてはならない(申命23・20)
 つまりもともと利子を取ることは禁止されていた.もし主人が同胞の債務者から利子を取っていたとするならば,主人も実は犯罪者なのである.

 このたとえにおいて,利子は具体的に出てこないため,確かなことは言えないが,もしこの仮定が正しければ,管理者は自分が生きていくためにやったことではあるが,むしろ彼のやったことは,債務者を主人の不正から守ったことになる.主人が,二重に不正な管理人を法廷に訴えることができなかったのは,主人に彼以上に大きな罪があったからなのかもしれない.

 いずれにしても,管理人は彼の持つ倫理観や計算の中で,この無利子で貸したことにすることが,証文破棄よりも良いだろうと考えた.これが彼の知恵であり,賢さであり,まじめさであり,信仰であった.

 もう一つここで考えておきたいのは,証文書き換えのときに,管理人がどのようにして,債務者に対して書き換えを説得したのかである.債務者は確かに証文を書き換えたであろう.しかし,もしそれが主人の許可を得ておらず,管理者の独断であり,その見返りとして彼を家に迎えてもらうためであったと知れば,文書の書き換えが犯罪であることは明白であり,それなりに躊躇があるだろう.しかも債務者が管理者によって虐げられていたとすれば,この証文書き換えによって,新たな災難が自分に降りかかってくるかもしれないと債務者達が想像した可能性もある.

 おそらく管理人は,債務者たちの友となるべく,柔和な微笑みと共に,次のように債務者達を言いくるめたのだろう.
 自分は君たち(債務者)が経済的に極めて苦しい状況である事を知った.私の友である君たちの苦しみは,私の苦しみでもある.そこで私は君たちのために主人に対して、貸付利子の帳消しを願い出ることにした.

 私は主人に全面的に信頼されているから,私の言うことなら聞いてくれる.その上,主人は気前のいい,物わかりの良い人なので,私の申し出を快く受け入れてくださった.主人もあなた方を,憐れに思ってくださったのだ.

 だから書き換えには何の問題も無いし,犯罪でもない.友よ,どうか安心して書き換えてください.そして私の主人に感謝してください.
  かつての冷酷な振る舞いなど想像することもできない,様変わりした管理人の優しい心遣いと,主人の気前の良さに債務者は感謝し,躊躇することなく証文を書き換えたことだろう.だとすると,書き換えについて,債務者には全く罪はないことになる.債務者は管理人の「言葉」を信じたのである.この証文書き換え,いわば再契約(!)についての罪・責任は,あくまでも管理人のみにある.管理者は,仲介者(とりなしをする者)として機能した.彼は仲介を行いながら,主人の評判を上げ,自分の生活の術を確保し,債務者の重荷を軽するという,極めて難しい業を成し遂げたのだ.

 彼の取った行動(証文偽造)の結果をまとめてみよう.
  1. 主人:
    主人には利子分の損害を与えたが,この利子分は本来とってはいけないものであった.したがって主人に損はない.また管理人によって,当時多くの人が破っていた律法を主人が遵守したことになった.それによって主人の評判が良くなり,また債務者から感謝された.
  2. 債務者:
    債務が減り,経済的に助かった.主人と仲介してくれた管理人に感謝している.
  3. 管理人:
    自分が解雇された後に,家に招いてくれる友をたくさん作ることができ,人々の中で生きていくことになった.
つまり管理人のとった証文偽造という律法違反は,おどろくべきことに,関係した三者にとって,喜ばしいこととなった.律法違反にもかかわらず,損をした者も不幸になった者もいなかったのである.主人はこのように,すべての人に対して喜びをもたらすことのできた「不正(律法を破った)な管理人 」のその「抜け目なさ」「賢さ」をほめた.それは彼の律法違反の罪を越えた,すばらしい出来事だったからである.よって彼は敵を作るどころか,敵を味方に変えて,誰からも証文偽造の罪で訴えられることもなかったのだ.

 律法に乗っとり,職務に忠実であったときに,人々に憎まれ,その過失罪を問われた管理人は,その職務から放免され,意図的な罪を犯したときに,その罪を問われることはなく,むしろ皆に賞賛された.ある意味では皮肉な結果であるが,我々はここにイエスのストーリーを重ね合わせてみることができるだろう.解雇されるまでの管理人を「人々に厳しく臨むファリサイ派の僧」,解雇された後の管理人を「人々に柔和な笑顔で臨む破戒僧的仲介者」と見れば…

 神の律法は人間には計り知ることができない.神は常に正しい.そしてイエスは律法を破った者として,ファリサイ派に唾棄されたが,イエスご自身は律法を完全にするために来たと言われた.神の真の律法は,人間に知ることはできない.神のみぞ知る.それはイエスのみが知っていることである.管理人のやったことは,ファリサイ派から見れば立派な犯罪であり罪であろう.しかし神から見たときには,それは犯罪ではなく,むしろ律法を完全にするための行為であり,人々を幸せにする善い行いだった.彼は主人の見込んだとおりの人間であったのだ.

 主イエスは,御父の財産をすべて任された管理人である事は言うまでも無い.彼はその御父と,罪の負債を抱えている人々との間の,仲介者として働いた.その働きは時に,ファリサイ派にとっては,律法違反であり,罪深く許しがたい神に対する冒涜行為だった.しかしそれが実際には,仲介者イエス(管理人)と罪人(債務者)と御父(主人)の三者に大いなる喜びをもたらした.そこには御父に対する罪はない.そして管理人イエスは,人々の中に入り,友として生き続けられるのである.

 この「不正な管理人」のたとえにおいて,イエスが弟子達に対して,意図的にしこんだワナは,「律法違反者=悪者」という公式に弟子が囚われている限り,抜け出すことができない.イエスがこのようなワナで弟子達を試そうとしたのは,それほどまでに,ファリサイ派や律法学者はもちろんのこと,弟子達の間にも,この公式が根強く残っていたからだろう.

 不正な管理人のたとえを聞いて,まず最初に管理者の不正の糾弾に走る者は,「裁く者」の立場に居座る者である.彼は神の座に座る不遜者である.まず裁かずに,心をむなしくして,よく聞き,よく見ることである.「裁き」は,「目の中のある梁」である事を忘れてはならない. 

2013年10月14日月曜日

2013年10月13日日曜日

美(on twitter @rahumj)

 美によって酔いしらされた彼は,その酔いの中で彼女に命を差し出した.彼女はその命を喜んで食し,それにより酔いは彼女に戻され,彼女もまた酔いしれた.

 こうして酔いしれた二人は,やがて眠り込み,二度と目覚めることはなかった.故に,美は生命に従属すべきである.

つまずき(on twitter @rahumj)

 道を歩んでいると大きな石が前方に見えた.彼がその石の脇を通り,さらに前に進むと,平らな道が目的地までまっすぐ続いているのが見えた.

 彼は歩みを速めた.しかしこの旅人はその後の道中で,つまずき,倒れ,打ち所が悪く,そのまま死んでしまった.

 その道の地下にうずくまっていた大岩が,小石にも満たないわずかな頭を地表に突き出し,何万年もの間,彼を待っていたことを,彼は知らなかった.

2013年10月8日火曜日

真理(on twitter @rahumj)

 人にとって真理が,砂浜の一握の砂に過ぎないのであれば,人は握ったその手を開いて,その砂を吟味し,手に残すものとそうでないものを,選別すべきである.

死者について(on twitter @rahumj)

 目の前の死者の中に,命を見出した者は,それを賛美するであろう.その生命を永遠のものとするために,彼は彼に命を与えた.故に彼は消え,彼は現れる.

 自分は生きていると信じている死者は多い.

 死者には死が見えない.故に命も見いだせない.

 死者が命を求めて死者をむさぼる時,死は彼を支配するであろう.死者が命を求めて生者をむさぼる時,命は彼を支配するであろう.そして生者は,彼によって生き続けるであろう.

「実」(on twitter @rahumj)

 「実」はやはり30倍が最低ラインなのか.

「頑張れ」について(on twitter @rahumj)

 「頑張れ」が禁句である理由は,「頑張ったから,このような状態になったのに…」という思いだけで無く,「頑張れ」が「自分の努力で何とかしろ.私は協力しない.」という,突き放し宣言にも聞こえるからなのか?

2013年10月6日日曜日

放蕩息子の帰路(ルカ15:13,主日聖餐礼拝,世界聖餐日)

何日もたたないうちに,下の息子は全部を金に換えて,遠い国に旅立ち,そこで放蕩の限りを尽くして,財産を無駄遣いしてしまった.(ルカ15:13)
本日は世界聖餐日であったが,いわゆる「放蕩息子」のたとえが,説教のテーマであった.このたとえは大変有名なので,多くのノンクリスチャンも知っている上に,解説の類いも多い.それゆえ「今更,このたとえに関して,より深いものが見いだせるだろうか」と思われる方も多いかもしれない.

 自分は間違いなく,この放蕩息子に他ならない.だからこのたとえには,特別の思いがある.だからより深く読み込もうとする.そこで気がつくのは,あまり解説されたことのない,このたとえのいくつかの疑問だ.

 その第1は放蕩息子の動機.「彼は父から自由になりたかった」「思いっきり遊んでみたかった」等はよく聞く理由である.しかしただそれだけの理由で,果たして,家族から独立するかのようにして,一人で遊びたいと思うものだろうか?そのくらいの動機であったのなら,数週間分の小遣いをせびって,遊びに行き,自由を満喫して,また家に帰ってくるという手もあったのではないか?あるいは父の財産をこっそり盗んで,遊びに行くという手もあったかもしれない.いずれにしても,自分の家,帰ることのできる唯一の場所を,遊びや一時的自由のために捨てようとは,なかなか思わないだろう.

 考えられることは,彼はその家そのもの,すなわち父と兄に対して,がまんのならない不快感を感じていたということだ.それはおそらく,自分が2番目の息子(弟)であり,長子の権利を持たない事に対する,コンプレックスにあると自分には思われる.弟は,自分が長子でないことに絶望していたのである.そして弟であるが故に,自分は父に愛されていないと,常々感じていたのであろう.

 「兄は父の愛を一身に受けて,まじめに一生懸命働いている.それはその働きの報いが約束されているからだ.兄は長子として家を継ぎ,父の財産もほとんど(3分の2)は彼のものとなる.そして父の家は兄によってこれからも安泰だろう.自分はこの家族において,できの悪い僕のようなもので,父と兄の奴隷のような存在.愛も報いも結局与えられないのだ.弟なんて,あの父の息子だなんて,名ばかりだ!」と弟は考えていたのかもしれない.

 弟はそのストレスを,放蕩することで発散しようとしていた.おそらく家にいた時から,不真面目で父や兄の言うことを聞かず,怠け者で遊び好きだったことだろう.特に兄からは怠け者・できの悪い弟として,さげすまれていたかもしれない.つまり弟が家を出る前から,既に兄弟仲は悪かったはずだ.彼には家の中に居場所がなかった.だからこそ,家を捨てる気になったのである.

 「財産の分け前を下さい」などと親に言うことは,尋常なことではない.父親も息子のただならぬ様子に気づいたはずである.父はここで弟を説得して,この時点での財産分与をあきらめさせることも可能だったのはずである.また彼の心情を問いただすこともできたはずだ.奇妙なことに,父はそのようなことは全くしていない.それはなぜか?

 父はすべてを知っていた.弟が自分や兄に対し不満を持っており,なおかつ,家出をしようと企んでいたことを,彼の言動から既に予測していたのである.そしておそらく,彼は聞く耳を持っておらず,いかなる説得も,今の彼には通用しないと思っていたのだろう.だから弟が「財産の分け前を下さい」と言った時,父はついにその時が来たのだと思ったに違いない.

 父は弟の言うとおりに財産分与を行った.財産の使用権は,依然として父にあったようだが,父はこのような申し出があった以上,彼がその財産を持って,ある意味,律法に基づき正当性を持って,家を出て行くことは覚悟しただろう.何を言っても息子は聞かないだろうし,仮に財産を分け与えなくても,おそらく彼の決心は変わらず,むしろ財産を分けなかったことに腹を立てて,家を出て行くだろう.彼を引き留めることはもうできなかった.

 父は悲しかった.そして彼の将来をたいへん心配したが,それでも引き留めもせず,彼の好きにさせた.彼に与えた財産が,せめて彼の生活をある程度支えてくれるであろう事を願って.

 そして弟は何日もしないうちに出て行った(ルカ15:13).その「何日」は,家出の準備に当てられていたのだろう.仮に父が鈍感で,弟の家出計画に気づいていないとしても,この「何日」の間には,彼の行動から家出計画に気づき,それを阻止する実力行使も可能だっただろう.しかしおそらく前述の理由により,父は干渉しなかった.そして息子は家から姿を消した.

 このたとえの前に提示された2つのたとえ「見失った羊」「無くした銀貨」においては,羊飼いや女は執拗に失せ物を探索する.しかしこの「父」は,全くそのようなアクションは起こさない.最初から最後まで,出て行った息子を放置するのである.なぜ彼は探索しないのか?

 それはおそらく,息子が戻ってくることを固く信じていたからだろう.弟は根っからの悪人ではない.彼はちゃんと筋を通して,律法に基づいて財産分与を要求し,父や兄から財産を盗むことはしなかった.やろうと思えば,父や兄に復習する意味においても,それはできたはずであるし,それ以上のことも可能だったかもしれない.しかし彼は家を破壊し家の支配者になることなく,正当なやり方で辞去していったことは,彼の中の信仰のともし火が,まだ消えていないことを示しているように思える.彼には回心の可能性が残されており,父はそれに賭けたのである.

 父は家出が発覚した後,すぐにでも息子を探しに行きたかったに違いない.しかし家出直後にもし父が息子を探しに行き,息子がそのことを察知したならば,息子は再び自由が侵害されると思い,彼から逃げ出す可能性があった.

 息子が放蕩の限りを尽くした後,おそらく風の噂に,父はそれを知ったであろう.しかしそれでもその場所に,息子を探しには行かなかった.放蕩の後,息子には,父が働いて稼いだ財産を放蕩したことに対して,強い罪の意識が残った.故に息子には父に合わせる顔がなかった.彼が家に帰れなくなった理由の一つであるが,これは彼の信仰心を表すと同時に,最終的に彼に死をもたらすものであった.父はそれをも見抜いていた.もし父が探しに行けば,息子は罪の意識ゆえに,父に助けを求めるどころか,彼から逃げ出してしまうに違いない.だから父は探さず,息子の回心に賭けたのだ.

 見失った羊は,羊飼いを求めて鳴き声を上げた.無くしたドラクメ銀貨は,ともし火に呼応して光を反射した.しかしこの息子は,食べるにも困っているのに,父に対して助けを求めず,全くの他人であり異邦人でもある「ある人のもとに身を寄せた(ルカ15:15)」.

 この異邦人は彼に食べ物を与えなかった(ルカ15:16).異邦人は,彼が家に帰れない立場(罪)にあることを利用し,彼を奴隷として扱った.それ故に,彼は満足な食事すら与えられなかったのである.つまりこの異邦人は「悪魔」である.しかし彼が身売りをしていたとすると,彼が父の家に帰るのは難しい事から,まだ身売りはしていなかったのだろう.信仰は守られていた.しかしこのままでは,もはや身売りは時間の問題だろう.

 そして息子はついに回心の時を迎える.なぜ自分がこのような境遇に陥ったのか,彼は苦しみの中で内省を続け,その結果,自分の高慢,独りよがりの考え,父に対する誤解が,その原因であったことに気づいた.彼は彼の非を認めたのである.この回心において,彼の信仰が保たれていたことが明らかになる.彼は放蕩生活を楽しんでいたわけではない.むしろ苦しんでいたのだ.愛されぬ苦しみ,生きる場所のない苦しみ,その苦しみから逃れるために,放蕩により気を紛らわせていたに過ぎない.それゆえに無計画に金を使い,破産した.もし彼が父から独立したいと願っていたのなら,目標を持って,計画的に適切に金を使っていたことだろう.

 彼の信仰が保たれていたことは,彼の言葉からわかる.

お父さん,わたしは天に対しても,またお父さんに対しても罪を犯しました.もう息子と呼ばれる資格はありません.雇い人の一人にしてください.(ルカ15:18-19)
もし息子が単純に腹を満たしたいだけであったのならば,まず父に対して必死に謝罪し,許しを請うだろう.しかし彼が最初に謝罪したのは「天」,つまり神である.彼はまず神に対しての罪を認めたのだ.信仰は彼の中に保たれていた.ある意味ではその信仰心が罪の意識を生み,愛されぬ苦しみに加えて,彼をさらに苦しめていたのだ.しかし彼はこの回心において,自分の罪を認め,それを神や父に告白すると同時に,自分に対する処罰案を提示することにより,和解を目指すことにしたのだ.

 それは神や父が,自分の犯した罪ゆえに,自分を殺すことがないと,放蕩息子が確信したからこその希望であった.彼は自分の犯した罪に対する罰として,1)「息子の資格喪失」と共に,2)「父の僕として苦役に従事する」事を想定した.いわば彼は,彼を,彼の律法において裁いたのだ.しかしその裁きにおいて,自分は死刑に相当しないと判断することができた.これは彼の理性的な判断であり,その根拠はおそらく「律法(聖書)」であったのだろう.彼の手元にそれがあったのか,それとも彼の記憶によるものかは定かではないが,聖書は彼に生きる希望をもたらした.

 こうして彼は帰路につくことになった.しかしそれは単純な道のりではない.彼は一文無しであり,食料もろくに持っていない,奴隷のような状況である.しかも彼は「遠い国(ルカ15:13)」におり,帰りの旅路は恐ろしく長い.したがって,この「我が家」への帰還は極めて危険と困難に満ちており,彼に旅立ちを躊躇させたことだろう.ここにとどまれば,やせこけて飢えた餓鬼のような奴隷ではあるが,生き続けることはできるかもしれない.父の家を目指して旅立てば,旅路の途中で飢え死にするかもしれない…

 彼をそれでも,家への旅路につかせたもの.死の恐怖に打ち勝たせたもの.それこそが神を信じる信仰の力であり,「家に必ず戻れる」という希望の力,あの懐かしい父を求める愛の力である.この家までの旅は,とうてい彼一人の力では不可能である.必ず何者かの助けがなければ,とうてい家にはたどり着けない.彼は神が共にいてくださる事を信じ,一種の乞食・托鉢修道者のようになって,家を目指したのかもしれない.彼は自分を低くして,旅路で出会った人々に恵みを乞い,その人々の情けや憐れみによって,生かされた.それこそがまさに神の憐れみであった.

 父は息子の帰還を信じていた.そして父は,息子が帰ってきたその時のために,服や指輪や履物を準備しておいた.毎日,父は息子が消えていった道の先に立っては,息子の姿をその遙か彼方に追い求めていたに違いない.だからこそ,息子が本当に帰ってきたその時,「まだ遠く離れていたのに(ルカ15:20)」父は帰ってきた息子の姿をみとめる事ができたのだ.

  そして父は,その変わり果てボロボロになった息子の姿を見て,深く深く憐れんだ.もう彼の息子には,何も残っていなかった.この地上において,彼に残されていたのは「父の家に帰ること」への思い,ただそれだけであった.それ故に,息子が父に再会した時に発した言葉の中には「雇い人の一人にしてください」が含まれていない.

 帰りの旅路で彼は,様々なことを学んだことだろう.そして彼の信仰は深まったに違いない.その深まりとともに,自分の犯した罪の重さが,当初想定した時点とは比べものにならない程,重いものであったことにも気づいていった.そして次第に,自分が父の雇い人の一人になって,この世に生き続けることなど,どうでもよくなっていったのだろう.彼はただただ父に会って,和解がしたかったのである.そしてその和解の後,この世を去ってもよかったのである.

 しかし父の彼への愛は,そのまま彼を死なせはしなかった.父は彼の命のためにできることを,緊急に「急いで(ルカ15:22)」行った.まず「良い服」に着替えさせた.これは礼服,晴れ着,イエスの服であり,それまでの汚れた服・罪を捨てさせた.次に指輪をはめ,彼が自分の息子(相続者)であることを公にあかしした.そして履物を履かせ,奴隷の身分から彼を解放するとともに,この「地」に密着していた足を地面から分離した.さらに子牛を屠り,彼のやせ細った身体に滋養を送り込んだ.こうして彼は罪が許され,父の息子として生き返り,そして兄を越えた(「いちばん良い服(ルカ15:22)」).それは放蕩息子が全く想像だにしなかった結末であった.彼は必ずや与えられると思っていた罰,すなわち「永遠の死」の代わりに,「永遠の命」を得たのである.


 弟が帰還した時,兄は兄で相変わらずまじめにやっていた.この兄が「残された(まじめな)99匹の羊」や「(手の中に残された)9枚のドラクメ銀貨」と同様に,ファリサイ派を表象しているのは間違いない.兄は,弟の帰還に喜びを感じるどころか,怒りと不快を露わにした.

 おそらく兄は,ろくでなしの弟を自分の恥のように思っていたのだろう.彼は彼の実弟を「あなたのあの息子(ルカ15:30)」と呼び,「弟」と呼ぶことをはばかっている.だから弟は勝手に家を出て行った時は,さぞ清々していたことだろう.しかし今や,再び彼が帰ってきて,自分がもらったこともない子牛が屠られ,皆は彼の帰還を喜び,パーティーで浮かれている.「あのろくでなしのために!赦せない!」,兄は拳を握りしめたことだろう.兄は赦さない人であり,裁く人であり,怒る人である.嫉妬する人であり,呪う人である.

 彼は父を責める.彼は自分が父に何年も仕えたことに対して,何の報酬もなかったと言って,「報酬」の不公平を,弟に対する嫉妬と怒りを交えながら,父に向かって訴えた.兄は,自分の勤勉な行為に対する報酬として,父から十分な物を受けていないと主張する.彼にとって,弟に与えられた様々な物は,弟の行動の「報い」であった.なぜ放蕩者の報いが,何年も仕えた自分のそれよりも良いのか,彼には理解できなかったのである.彼は自分の考え(行動とその報い)が,絶対に正しいと思い込んでいる.しかし父の思いは,全く兄とは異なっていた.

 父にとって勤勉など,極論すればどうでもよかったのである.父と息子の関係は,雇用主と労働者の関係ではない.つまり経済関係ではない.勤勉な労働を行って,報いを稼ぎ出すのは,経済行為であり,その関係は極めて冷たいものである.父と息子の関係は,愛と信頼であり,それはあらゆる経済的原則を越えている.弟は,父に対していかなる労働もしていない.しかし彼は罪を認め,信仰に生きるようになり,父を信じて帰ってきた.そこに父は義を認めたのである.そして父は彼から何ものも要求せず,彼に「恵み」を与えた.

 しかし父は,このような兄に対しても怒ることはなかった.「子よ(ルカ15:31)」と呼びかけ,父に対する不遜と,自分の考えを絶対視する高慢を赦し,優しくその理由を説いた. それに対して,兄が納得したかどうかは記されていない.

 放蕩息子は我々の姿である.それまでの己の罪を認め,回心を経験し,洗礼を受け,神に向かって帰路を歩いている.それは実は,危険と困難に満ちた道でもあり,信仰・希望・愛を唯一の財産として,主イエスと共に歩いて行く神への道でもある.本日の説教において先生は,放蕩息子のこのたとえと,日々の悔い改めの重要性をリンクさせながら語ってくださった.その通りである.放蕩息子の帰路は,毎日が悔い改めであった.それによって,信仰はますます深まって,ついに神にたどり着くのである.日々の悔い改めは,苦痛を伴う部分があるのは事実だろう.しかし,我らの日々の罪もまた事実である.主イエスになった者は一人としていない.故に我らは皆,罪人なのであるから.

2013年10月1日火曜日

水車(on twitter @rahumj)

 村はずれの水車は,生ける水の流れを受けて,喧騒の昼も,沈黙の夜も,人知れずゆったり,回り続けていた.ある真夜中に,彼はその水車小屋に忍び入り,臼の中を確かめる.杵がついていたのは,「自己」だった.

死刑弁護人(on twitter @rahumj)

NHKBSプレミアム「死刑弁護人」:

 「人を裁くな」それが大量殺人者であっても例外では無い.麻原の弁護人であった死刑弁護のプロ安田氏は,この世から呪われただけではない.その後逮捕され10ヶ月もの間,拘留された.なぜ逮捕されたのか.その理由を皆が知るべきである.

祈りと糧(on twitter @rahumj)

 賛美と感謝の祈りの他に何もできないとしても,彼が祈るならば,彼は働いている.そしてその働きの故に,彼にその日の糧は与えられる.

へりくだり(on twitter @rahumj)

 先の者が後の者にへりくだり,また彼から拝領しなければ,後の者は先になる.

ピグマリオンの死(on twitter @rahumj)

 永遠の命を求めて,ピグマリオンは像を造った.彼は像の静止に永遠を見,それを礼拝する.しかしその祈りの中における像との近親相姦は,彼を死に至らしめた.永遠の死は永遠の死をもたらし,永遠の命は永遠の命をもたらす.