2013年12月30日月曜日

ドラマ「あまちゃん」に見た光(on twitter @rahumj)

あまちゃん」は,海の水に清められた海女であり,プロに毒されることのない永遠のアマチュアであり,そして,太陽の光を放つアマテラスであろう.

 その光はあまりにも目映く,その周囲から影を消し去り,人々の痛みを快癒させ,過去を清算した.その祝祭の中心にある彼女は,もはや人間ではない.アイドル=偶像であり,人々の願いと祈りの顕現である.

 視聴者は,「あまちゃん」終了後,消え失せた光を求めて,自分の周囲に彼女を探すであろうが,それは不可能である.また単なる役者にすぎない能年玲菜にそれを求めるのは,酷であろう.故に,闇の中を生きる人々は,その「光」を人の外に求めねばならない.

 フィクションである「あまちゃん」によって予言された,そのアマテラス的「光」を,人の外に見出すことのできた人々は,その光を浴びながら,今度は,「祝祭の視聴者」から「祝祭への参加者」に変貌し,その聖なる光を自分の内部に宿すであろう.そしてその光は,永久に消えることはない.

羊か,狼か(on twitter @rahumj)

 狼の声で鳴く羊がいた.羊の皮をかぶった狼がいた.この二匹とともにいた羊の群れは,彼らの鳴き声を聞いて恐れ,急いで彼らから離れ去った.

 すると羊の皮をかぶった狼は,共に残された,狼の声で鳴く羊を食い殺した.

 こうして食された羊は,残された羊達に,食する者の正体を証した.

2013年12月29日日曜日

「力」と影(on twitter @rahumj)

「力」には影が伴う.影には罪が伴う.

「力の君」と壺(on twitter @rahumj)

「力の君」が探し求めているのは,柄のついた壺である.柄は壺の耳であった.

 彼がその壺の柄をつかみ,持ち上げ,軽く左右にゆすると,中に入っていたその粉は大きく動揺し,壺の外にあふれ出た.

 気をよくした彼は,さらに強く壺を揺すってみた.すると壺の中の粉は,すべて外に飛び出してしまい,壺の中身は空っぽになった.

 軽くなった壺を彼がさらに強い力で揺すり続けると,とうとう柄の付け根が壊れて,取れてしまった.

 柄の無くなった壺は支えを無くして,そのまま地面に落下し,粉々に砕け散った.

反省(on twitter @rahumj)

罪の認識→断罪(価値判断)→怒り(感情)→処罰(行動)→罪の認識…
最近の自分を振り返ってみると,このデススパイラルの最初の遷移ステップ(罪の認識→断罪)が,S-R的随伴性によって未だに自分の中で保たれているようだ.セルフモニタリングを続けてみる.

2013年12月28日土曜日

「力」の発生(on twitter @rahumj)

 正統主義に潜んでいる教条主義とは,一種の律法主義であり,必然的に「赦し」に対して厳格な態度をとる.それは同時に異端に対する臭覚を鋭敏化させ,異端審問に対する恐怖を発生させる.

 裁く者と裁かれる者の間に発生した「力」は,内部の構造化を促進すると同時に,人々に対し「力への意志」を煽動する.

頭(on twitter @rahumj)

 私が彼とともに歩いていると,道端に私の生首が転がっていた.そこでようやく私は自分が罪ゆえに斬首され,「頭なし・顔なし」となっていたことに思い出した.

 私と彼がその生首を見つめ立ち止まっていると,彼はおもむろに,その生首の上に身をかがめ,それを丁寧に取り上げ,懐にしまいこんだ.

 そして彼は言った「あなたは頭を失った.それは新しい頭を得るためである.そしてあなたは既に,その新しい頭,その新しい顔を見た.だから私はあなたの手を取り,共に歩くのである.私には頭があり,顔がある.」

超自然と背理の奥義(on twitter @rahumj)

人の論理限界を示す「超自然と背理の奥義」を,神の懐から人が奪取し,それを自己正当性の弁護人に仕立て上げてならない.その影に罪は芽吹く.

「ゆるい」バッハ(on twitter @rahumj)

 敬虔主義は,バッハの音楽にインスピレーションをあたえた.マタイ受難曲しかり.ヨハネ受難曲しかり.正統主義からそれらのバッハの音楽は,生まれてきえたであろうか?

 かといって,すべてのバッハの音楽が敬虔主義的というわけでもない.バッハはルター派正統主義内にいた.したがってその作品は正統主義的作品がむしろメインであり,彼の作品の建築的作法にそれは表れている.しかしバッハには,神秘主義的ともいうべき作品も存在する.

ルター派正統主義の教義では、音楽は人を神により近づけるものであったと考えられていたのに対して、敬虔主義では、音楽は個人的な黙想の訓練に用いられるものと考えられていた読書感想文のページ「神には栄光 人の心に喜び-J.S.バッハ その信仰と音楽/ヘレーネ・ヴェアテマン/村上茂樹訳」

 またルター派プロテスタントであっにもかかわらずバッハは,カトリックのミサ曲ロ短調 BWV232 をも作曲し,「カトリック的な神の讃美の世界と、ルター派的な十字架信仰の世界の、類のないほどの衝撃的出会」いをもたらした.

 神秘主義を含むカトリックの批判から生まれたルター派正統主義.そのルター派正統主義の批判から生まれた敬虔主義.バッハはルター派正統主義を中心としながら,その弱点を補うかのように,その周辺の宗派要素をバランスよく取り入れて作品を作っていたのだろうか?

 バッハ における聖と俗とのバランス感覚.パトスとロゴスとのバランス感覚.そして自分にはとても認識しきれない,音楽内における数学的幾何学的なバランス感覚.それを思うとき,彼が正統主義の立場でありながら,背理的にそれらを導入したことは十分考えられると思う.

 正統主義者バッハの耳は開かれていた.その彼に「自由」を保証したのは,言うまでもなく神自身である.彼は自分が「司祭」であることを強く自認していたのかもしれない.その自由は,正統からの逸脱をもたらすと同時に,彼と彼の作品に生命を与えた.

 バッハ の持つ絶妙なバランス感覚は,正統主義者にありがちな,硬直した教条主義者化から彼を守った.そして正統主義に身をおいたはずのバッハの作品に,ある種の普遍性をももたらした.それは彼の「ゆるさ」と言っても良いのかもしれない.

 しかしこのバッハ の「ゆるさ」は,今見てきたとおり,極めて制限されたものであることを忘れてはならない.つまり「手抜き」でも「制御不能」でも「ノイズ」でもない.それは彼の「art」である.彼は人格的に顕現される神の讃美からは,いつ何時も逸脱しなかったと自分は思う.

 バッハ に与えられた賜物であろうその「バランス感覚」「ゆるさ=許し」を,自分は果たして,その何百万分の1でも与えられているのだろうか?それは自分の信仰生活や自分の周囲において何を意味するのか?それともそれはは捨て去るべき幻影(まやかし)なのだろうか?身分不相応なのか?

2013年12月27日金曜日

荒野(on twitter @rahumj)

荒野の孤独は,鏡であり,揺籃である.

荒野は彼に,彼自身の真の像と,彼のみに許された物語を手渡す.

故に彼は,獣とアザゼルの住む死の領土へと足を踏み入れた.

真の喜び(on twitter @rahumj)

真の喜びは,純粋で,美しい

生命活動としての「分離」と「統合」(on twitter @rahumj)

 全体からの逸脱により誕生した独立的自律的「部分」が,その母体たる「全体」へと再び帰還し,その中に吸収されるのであれば,その「部分」は部分として死に,「全体」として蘇ることになる.それにより「全体」は分離以前の状態に復元されるわけではなく,むしろ,分離と統合の過程がもたらした新たな未来を獲得する.

 さらに,その分離と統合が必ず,量子力学的な「対生成」すると仮定するのであれば,我々は分離の中に死を見出し,統合の中に生命を見出す必然はない.すなわち分離すらも,生命活動の一部と捉えることができるであろう.

2013年12月26日木曜日

臨死(on twitter @rahumj)

 肉の臨死は人に対して肉的暴力を explicit に行使し,生命の重量を人に突きつける.しかし霊の臨死は人に対して,その暴力性を巧みに隠蔽する.その暴力のすべては臨死末期において,爆破テロ的に行使されるため,霊の死は通常,即死の形をとる.「その家の倒れ方はひどかった」のである.

2013年12月25日水曜日

ハサミ(on twitter @rahumj)

「異端」とは「正統」の輪郭に差し入れられるハサミである.

敗残兵(on twitter @rahumj)

 クリスマスイヴの礼拝へ向かう途中,何人かひとり歩きしている若者とすれ違った.奇妙なことにそれらの人はみな,敗残兵のごとく,苦虫を噛み潰したように顔をしかめ,うつむき,足早に私の傍らを通り過ぎていった.

 今日は人生の勝敗を決する日だったか?

 否,むしろ,本物の戦争すら休止させるほどの,喜びの日ではなかったか?

 あなたがたのその「戦い」は,作為されたもの,つまり「まやかし」である.

 

クリスマス休戦 (1914/12/24): 

戦場のクリスマス・第一次世界大戦、クリスマス休戦

2013年12月23日月曜日

弁別(on twitter @rahumj)

 鳥が巣を作るほどに成長した大木を,皆で鑑賞していた.やがて,そのうちの一人がその大木の中に,妙なものを見つけた.それは一風変わった枝で,明らかに他の枝と異なる形状を持っていた.「ならばそれは,いつの間にか彼が接ぎ木した枝であろう」と言って,皆は納得し,また満足して帰っていったが,その内の一人の者は残り,その異形の枝を見つめ続けた.彼は植物学者だった.

 観察を続けた彼は,やがて奇妙な枝のあちこちに,たいへん小さな,やはり変わった形をした木の実が,いくつも付いていることに気づいた.胸騒ぎを感じた彼は,手にしていた双眼鏡を目に当て,その実をじっくり観察した.しばらくすると彼は双眼鏡を下ろし,顔をしかめ,うめくようにつぶやいた.これは彼が接ぎ木した枝ではない.ヤドリギだ.

クリスマスと罪をめぐる断章(on twitter @rahumj)

 愛される者は,試される.試された者は打ちひしがれて,神に向かって泣きうめく.「あなたが霊に課された,この苦しみと重荷を今すぐに取り除いてください」と.やがて祈りが神に届き,尊い赦しが与えられ,「食べて元気を出す」と,人はますますある確信を深めていく.「私はあの方の子なのだ」と.



  罪を犯し,赦されるたびに,人は子になっていく.そしてこれは奇妙なことだが,彼の
周囲の人々も,彼の子になっていく.



 罪が茨のように絡み合い,空を覆い尽くすこの闇の世界において,希望を見出そうとするのであれば,人は天を仰いで,その茨の隙間から見える,僅かな空を見出さねばならない.



  重い病気を患った者が,医師の前に立ち,痛みを伴う治療を受けるために,歩いて彼のもとに行かねばならないとすれば,その足取りが重いのは至極当然であり,途中で引き返してしまう者もいるだろう.しかしありがたいことだ.その医師は,その患者を治療するために,彼のもとにまで,はるばるやって来てくださった.



 罪の石の重量は,その人を圧死させるのに十分である.その石が彼の上に落ちてくれば,彼は押しつぶされ,死に,そのとてつもない重量により,その死体は永遠に地に留まるはずであった.ところがこの石を取り除き,下敷きになった彼を蘇生するため,はるばるやって来る者があった.彼は医者であった.

懺悔録:こどもクリスマス会で神の指弾を受ける

「あの人は仕掛け人だよ!」そう言って全会衆の目の前で,少年が私を指さした時,私は神の御前に立たされた.そして心の中でうめいた.「少年よ,君は正しい.私は君たちを騙している.」

 本日,こどもクリスマス会が開かれた.彼らを教育的に楽しませようと,大人のキリスト者達は様々なイベントを案出した.じゃんけん大会,トーンチャイム合奏,腹話術人形,そして手品!

 クリスマスの催しに「マジック(magic)」とは意味深だ.ご存じの方も多いと思うが,生まれたばかりのイエスを礼拝した,古い言い方ならば「東方の三博士」,新共同訳ならば「占星術の学者達」を意味するラテン語「magi」は,英語の magic の語源であった.

 原始教会以来,魔術師はキリスト教の敵であった事は,以前にもブログ等で強調した通りである.使徒言行録に登場する「魔術師シモン(使徒8・9)」は言うまでも無いが,その後も様々なキリスト教異端判定において, その信仰の魔術性は一つの基準であった.

 マタイ(2・1-12)は
  • 幼子キリストを異教の高僧が礼拝(屈服)することによる,異教に対する「キリストの勝利(回心)」
  • 生殺与奪の権を持ち,現実的支配者であるヘロデの口頭命令よりも,非現実的形式であり,行動決定の根拠として極めて心許ない「夢のお告げ」によって啓示された神の命令を,躊躇無く選択し実行した事で示される,彼らの「神への信仰」
  • 本来イエス暗殺成功後,ヘロデにより口封じのため殺される予定の彼らであったが,神への信仰により,無事帰国できたことによって示される「神の救い」
という構図を示すことで,異教の未来を予型した.しかし,2,000年というの年月は,魔術の駆逐に対して,あまりにも短期間だった.21世紀の現代においても,魔術に見せられ,その力の虜となる人々は後を絶たないどころか,むしろ既存宗教の成し得なかった「救済」をもたらす「新しい宗教」として注目されている.

 魔術の持つビジュアルな超自然の力は,子供にもその驚異が感覚しやすく,言葉よりも具体的現実的であり,一般大衆を魅了し続けてきた.イエスが大衆に対して,ビジュアルな癒しを用いた理由もそこにあったのだろう.しかしイエスは,断じて魔術師ではなかった.彼が行ったのは魔術では無く,「神の栄光」の顕現である.

 子供たちを楽しませ,驚かせる目的において,マジックは大変効果的だろう.そこには教理的な説明などいらない.その種を明かさないかぎり,あるいは暴かれない限り,不思議と「術者の力」の顕現がそこにあるだけである.子供達は術者に魅せられ,また術者に憧れ,その力を得たいと思うだろう.ニーチェの「力への意志」は,子供達の共有する標語でもある.

 カトリックで非難の的となった「ハリー・ポッター」シリーズの著者 J・K・ローリング は、うつ病の後,貧しいシングルマザーとして生活保護を受けながら,その苦しみからの脱出を可能とする超自然的「力」に希望を見出そうとした.その彼女の「力」への祈りは,ついに小説として結実した.

 それは長編小説であったにもかかわらず,世界中の子供達を魅了し,虜にした.本は世界記録的ベストセラーとなり,シリーズ化・映画化されたのはご存じの通りだ.彼女は生活保護受給者から,「年収182億円,歴史上最も多くの報酬を得た作家(Wikipedia)」となった.彼女の「力」への祈り(魔術)は,確かに聞き届けられたのだ.

 子供達,特に幼い子供達持っている世界に対する認識は,大人とは当然異なる.発達心理学の世界では,小さな子供達(3~5歳)は「魔法の世界に住んでいる」と言われることがある.

3~5歳の幼児は,年齢や魔術的な信念の高低にかかわらず,日常的な因果理解に適合しない現象の原因を呪文や魔法へ帰属する傾向があることが示唆された.(引用文献: 太田・込山・杉村「幼児の因果推論における呪文の効果」広島大学心理学研究 第10号 2010)

 小さな子供達にとって世界は魔術的である.客観的なデータは無いが私見では,アニメにおける「魔女っ子もの」とでも言うべき分野がある事を考えれば,女子の方が魔女や魔術への傾倒が強いように自分には思われる.彼ら彼女らにとっては,おそらく本物のビジュアルな魔術(マジック)をその目で見届けることは,力の顕現をその目に焼き付け,それに対して憧憬と敬意を表する一種の礼拝行為といってよいのかもしれない.

 必然,小さな子供達に対してのマジックは,その名の通り,正に魔法のような効果がある.大人のキリスト者たちもその効果について熟知しており,この幼き者達を喜ばせようとして,その力に手を出したのだった.

 マジックが行われることを知った時,自分は瞬時にこれらのことに,思い巡らせたわけではない. 礼拝堂におけるマジックに対する本能的直感的と言ってもよい嫌悪感は,正直言ってあった.しかし自分はこう思って自分を納得させたのだった.

「そのマジックを大人に見せるわけでもないし,子供たちが喜ぶような,素人の子供だまし的マジックを,このこどもクリスマス会でやったって,神様も目をつぶってくれるだろう.子供たちがそれで喜ぶのであれば,マジックも悪くない.第一,自分はこの教会の教会員ではなく,ゲストとして参加させてもらっている.この教会にも歴史はあるのだし,その流儀に沿って行くのは当然ではないか.」

 そこまでは良かったのかもしれない.いや,逆だ.もう悪くなっていたのだ.神はここでひとつの采配を取られた.

 あらぬ方から,白羽の矢が私をめがけて飛んできた.こどもクリスマス会開催直前のことだった.子供たちにマジックを披露する方が,突然,私の方に歩み寄ってきて言った.

「その席から動く予定はないですか?もし動かないのでしたら,これを持っていてください.手品の種として使いますので,よろしくお願いします.」

 自分がそれを了承すると,その方は1枚の10円玉を私に手渡し,マジックの準備のため楽屋に向かわれた.どうやら自分に,手品の種,仕掛け人になれということらしかった.自分はその秘密の10円玉をポケットに押し込みながら,かすかな不安を感じた.はたして子供たちに見破られないように,うまく演技ができるのだろうか?自分は頭のなかで,その演技のシミュレーションをしてみた.

 …ポケットの中の物を全部出す.最後に10円玉が手の先に当たる.驚きの表情とともに10円玉を取り出す.そしてまるで,ドラクメ銀貨なくした女(ルカ15・8)のように「ありました,ありました」と声を張って叫んで喜び,その魔術的力を賞賛しながら,突如出現した10円玉を術者に手渡す.子供たちの術者に対する賞賛の拍手がそれに続き…

 まあそんなところだろう.相手は子供なのだからこれで十分だ.そう思い,シミュレーションを終えた.しばらくすると教会堂は,子供たちのざわめきに満たされた.こどもクリスマス会開催の時間だ.

 出し物は順調に進んでいった.子供たちはそれなりに楽しんでいたようだった.キリスト者の大人たちもそれを見ながら微笑みをたたえ,満足していた.やがてマジックの時間となった.

 「ハンカチに置かれた10円玉が消えるよ」と術者が言うと,子供たちは我先にとそのハンカチの前に集まってきた.術者はハンカチに10円玉を包み,その後,何人かの子供たちにハンカチの上から手で10円玉の存在を確認させた.そしてワンツースリー!さっとハンカチを取ると,10円玉は消えていた.「わーっ」と奇声を上げて驚く子供たち,そしてざわめき.しかし私の予想に反して,それは長くは続かなかった.

 その子供の中にいた小学校4年生ぐらいの少年が,他の子供達に対して,種明かしを始めたのである.それを聞いていた術者も,キリスト者の大人たちも苦笑せざるをえなかった.子供たちも同様だった.がっかりして,せっかく盛り上がった場が一気にしらけてしまった.自分は思った.おそらく他のキリスト者の大人たちも同様だっただろう.

「子供だから空気読めないのはしょうがない.機会があったら,彼にこう言ってやろう.『いいかね,真実は,それがどんなに正しくても,時に人を傷つけるものだ.だから場所と時と相手をわきまえなければいけない.奥義は,それを許された者,成熟した者にとっては薬だが,幼い者にとっては毒なのだだから奥義を知ったものは,それを幼い者から隠さねばならないのだ』と」

 種明かしを無視して,強引にマジックは進められた.

「消えた10円玉はどこにいったのかな?自分はあの人が持っていると思う.ほら,あの黒い服を着た男の人」

 舞台の幕はこうして上がった.まずは,自分が指さされたことなど気づかんぬふりをしてみる.左右の人を見渡す.次に自分で自分を指さして,自分が指名されたことにようやく気づいたふりをする.そして…

 いくらでも出てくるものだ,偽装のテクニックとその演技.自分はシミュレーションに対して,さらにいくつかの無理のないアドリブの演技を加えて,それを自然体のままやってのけた.その騙しのテクニックは,後から教会員の方に褒められたほどだった.

 しかしその時だった.あの種明かしをした少年が,私を指さし言い放った.

「あの人は仕掛け人だよ!はじめから10円玉を渡されていたんだよ!」

 自分は彼の真実の言葉に圧倒されそうになった.しかし場を維持するために,演技は続けなければならない.幕はもう上がっているのだ.自分は彼の言葉を無視して,椅子を立ち,術者に向かって驚きの表情を浮かべながら歩いて行き,「ありましたねぇ」と言いながら子供たちの目の前で10円玉を手渡した.

 マジックが終わると,こどもクリスマス会は,お楽しみのお菓子の時間に入っていった.私は後片付けを手伝いながら,「これで自分は子供たちから『嘘つき』『信用ならぬ人』と思われたかもしれない」と漠然と思った.だがそれと同時に「この教会の中で,誰かがこの,人をだます『汚れ役』を引き受けなければならないのなら,まだ子供たちの名前すらわからない,顔に馴染みのないゲストである私以外ないではないか.まさか牧師先生がそれをやるわけにもいくまい.」と自分の行為を正当化してもいた.
 
 礼拝堂の隣にある集会室に移り,子どもたちと一緒にお菓子を食べるとき,自分は偶然にも種明かしをしたあの少年の隣に立った.少年は座り黙ってスナック菓子を食べていた.私は内心思った.

「もしかしたら,彼にはまだ私に何か言いたいことがあるのかもしれない.『あなたは仕掛け人ですよね 』と詰問したいという気持ちがあるかもしれない.もし詰問してきたら,言ってやろう.彼に『場の空気』のことについて教えてやろう.」

 私は身構えていた.しかし少年は何も語らなかった.友人と話すこともなく,私の方に視線すらくれずに,目の前に広げられたコンソメ味のポテトチップスと,得体のしれない味のするカールを,私と一緒にただひたすらに頬張っていた.今思えば,私の罪,彼と神に対する罪は,ここに絶頂を極めていたのだった.

 こどもクリスマス会は終わり,教会員の女性たちが3日間かけて焼き上げたクッキーの詰め合わせとともに,子供たちも,大人たちも,私もそれぞれの家路についた.私は自転車で家に向かいながら,なぜか彼のことを思った.何かがひっかかっていた.

彼は確かに真実を叫んだ,そして和やかな場の空気を壊した,しかしそれは彼の罪なのか?

 おそらくそういうことなのだと思う.自分はその疑問を消化しきれないまま,思いを巡らせ,夕暮れの中,ペダルをこいだ.

  帰宅後,私は年老いた母とともにすき家で夕飯をとった.そして満腹して家に戻るとPCの前に座り,本日のこどもクリスマス会での発見についてブログを書く準備を始めた.まずは,フォローしている人々の最近のツイートを確認し,さらに自分の過去のツイートやブログの読み直しをしてみた.特に本日の出来事に関係ありそうな内容,例えば魔術に関する内容を持つ自他の情報をざっと見渡してみた.それが終わると,ブログのタイトルを決めにかかった.

 最初に浮かんだタイトルは「奥義」だった.あの少年に言いたかったことを,ここで書いてやろうと意気込んでいたのだ.ところがである.あの少年の罪業について,また嫌悪する魔術について思いを巡らせていると,やがて私はある事実を突きつけられることになった.

「逆だ.彼は正しい.そして私は,あの少年と神に対して罪を犯したのだ」
 
 彼の断罪は全くもって正しかったのだ.それは神の声だった.なぜ自分はあの場で,それを聞き取れなかったのか!いや,むしろその声を,その声の主を守れなかったのか!私は彼を断罪しようとさえしたのだ.なんということだ,なんという罪だ.

 私は確かに魔術に加担したのだ.「力」への礼拝に参加し,あろうことか大事な子供たちをその礼拝において幻惑し,「力」を伝道した.そればかりか,その力が全くのマヤカシであることを糾弾したあの少年を諌めようとさえした.

 私が彼の傍らに立った時,彼が感じたのは「この人に怒られる」という恐怖ではなかろうか?私は確かに立って,彼を見下ろしていた.子供と同じ目線で立つのは,教育の基本中の基本であると知っていたではないか!彼が何も言えなかったのは,彼が指弾した私に対する報復の恐怖ゆえではなかったのか?

 彼は確かにその真実の声により,場の空気を壊し,白けたものにした.彼が周囲に対して与えた不快感を,彼の仲間も持っていたとしたら,彼は仲間から爪弾きにされるのではないか?彼が繰り返し真実を周囲に告げていたのは,周囲の自分に対する不快表明を肌で感じとった彼が,自分の立場がどんどん悪くなっていくのを予感しつつ,一発逆転を狙って,その真実の力に自身を全面的に託して行った,彼の決死の作戦だったのではなかろうか?

 なんどでも言おう.私は邪悪な魔術に加担した.そして子供たちを騙し,幻惑し,神の愛から引き離し,皆を甘い魅惑的な超自然的「力」へと誘った.そしてそれをただ一人告発した預言者の声を持つ勇気ある少年を,おそらく断罪し,彼に高圧的な態度を取り,彼に対して愛のかわりに,恐怖を与え,諭そうとすらした.これがキリスト者のやることなのか.

 傲慢である.全くもって傲慢である.子供のやることだから,すべて稚拙だなどと決めつける傲慢.子供は時に,それが未就学児であっても,母を超えることがあるのを忘れたのか.ああそして,マタイが描いたクリスマスのその構図には,「高度な知識と経験を持つ大の大人が,何の知識も経験も力もない生まれたばかりの赤子を伏し拝む」そのあまりにも深い異邦人のへりくだりが含まれていたではないか!神はそれを教えるために,このクリスマスの時を選んで,あの少年の声と身体を用いて,私の罪に向かってその指をつきつけられたのか!

 … これを書き始めて,数時間が経った.すでに夜が明けようとしている.私にできることは,ただただ祈ることしかない.ただただ祈ることしかない.

2013年12月22日日曜日

見えないものを見る(on twitter @rahumj)

 今見えている部分群のみから,見えないその全体を推測するためには,少なくとも,見えている部分群の,見えない全体に対する割合が,相当に高いと想定されねばならない.

 しかるに,全体が不可視とされるのであれば,「見る」という手法による全体の測定は論理的に不可能である.

透明な病(on twitter @rahumj)

 罪は,無口で透明な病である.

 それは透明な辛子種,顕微鏡レベルのミクロの種から始まる.種は,この世の欲望を吸い上げて芽吹き,闇の放射を浴びながら,極めて速い速度で連続的成長を続け,やがては宿主を遙かに超えた透明な大木となる.

 そしてついには宿主から萌え出でたその根や枝は,貪欲に他者を捕食しながら,さらに,この世の果てへと,その勢力を伸ばしていく.

 その忌まわしい透明な巨木が,その長い沈黙を破り,彼に向かって死を語り出す時,彼はようやく,自分を飲み込んでいたその巨木を視認し,必死になって斧を探すであろうが,それは無駄である.彼はあまりにも巨木と一体になりすぎていた.

 故に彼は,あの外科医の名を天に向かって叫ぶ.すると彼を憐れんだ外科医はやってきて,誰にも出来ない手術を行い,巨木の中から彼を救い出して言った.

 「これからは定期検診を受けに来て下さい.あの種がまたは身体に入ってしまうかもしれません.私は良い顕微鏡を持っています.来ていただければ,それを使ってあなたの体内を調べて,あの忌まわしい種が身体の中に入っていないか,検査してあげましょう.この病気は,何よりも早期発見が大事なのです.」 
 

2013年12月21日土曜日

続・ロボット「ヨブ」(on twitter @rahumj)

 食事中に吐き気に襲われた.それは昨日のツイートした,四足歩行ロボット BigDog に関する新たな悪夢的イメージが頭をよぎったからだ.

 前回のブログでは,このロボットが,フォルムやメカニクスにおいてバイオミミクリーを応用しているのは間違いないが,その制御系プログラムにおいても,モーションキャプチャー等により,やはりバイオミミクリーが応用されている可能性があると書いた.

 以上の推測が正しいのであれば,ウォルト・ディズニーがアニメ映画「バンビ」制作のために,本物の鹿をスタジオで飼い,観察したように,このロボット開発者たちは,そのモデルとなる動物を買い入れた可能性は十分あるだろう.

 
 開発者達が,様々な物理的アクシデントに対処可能なロボットを開発するためには,フォルムの検討は言うまでも無く,各モーターを同期的に制御し,可能な限り姿勢を維持するためのプログラム開発は重要だろう.

 その姿勢制御プログラム開発にあたってバイオミミクリーを応用するのであれば,突然の物理的衝撃に対し,モデル動物がどのように姿勢制御し,対処しているのかを観察記録することになるだろう.

 そのため開発者達が.3Dでモーション記録できるカメラの前にモデル動物を立たせ,実際に「蹴り」を入れ,そのよろめき方や姿勢の立て直しを記録した可能性は十分にある.そして,そのモーションデータを充実させるために,その記録行為は繰り返し行われたことだろう.

 過酷な自然環境での使用が想定される,「戦争の道具」としてロボットを開発するために,そのモデル動物を実際にそのような環境において観察し,その動作を記録するのは工学者の発想として自然だが,その「過酷」な環境下における動物実験は,おそらく,「渾身の蹴り」数百発ではすまないだろう.

 Boston Dynamics社の提供しているYouTube動画では,4足歩行ロボット BigDog をはじめとするロボットたちが,雪の中,斜面,林の中,ぬかるんだ山道,浜辺,凍った地面,石だらけの河原的な場所等の環境を歩行している

 これらのロボットたちに想定されている運用環境は単に,車両の入ることのできない厳しい自然というわけではない.それは戦場の最前線である.彼らは運搬用軍事ロボットのプロトタイプであった.そのためか,いくつかの映像においても,彼らにペイロードが課せられているようだった.

 だとすると,おそらくモデル動物の動作記録は,同様の環境において,同様のペイロードを課した状態で記録されたものと推測される.私が目撃したあの痛々しいロボットのよろめき方は,本物の動物のそれだったのかもしれない.

 戦場の最前線ではアクシデントがつきものであり,完全なサポートやバックアップは存在しえない.与えられた装備のみでミッションを完遂しなければならないケースも多いことだろう.となれば故障がつきものであるロボットに関しては,半故障状態における運用も想定しなければならない.例えば,4足中1足が壊れた場合の対処的運用である.

 その運用に対する答えを,バイオミミクリー工学者たちがどのような手法で模索するのかをイメージした時,またそれがどのような発展を見せるかをイメージした時,自分は吐き気に襲われた.

 確かに奇妙なことに, Boston Dynamics 本社のサイトには,動物の姿は全く見当たらない.獣の匂いのしない,クリーンでメカニカルなイメージで構成されている.なぜここまでバイオミミクリー応用をしながら,そのモデル動物には全く触れないのか.

 現在のところ,彼らのバイオミミクリー応用のロボット開発が,実際にはいかなる手法で行われているかは,全くベールに包まれている.自分がイメージした,そのベールの下の悪夢的光景が,単なる妄想であることを願ってやまない.

2013年12月20日金曜日

ロボット「ヨブ」 (on twitter @rahumj)

馬のように歩いていた四足の犬型(?)ロボット BigDog が,突然彼の開発者の一人に蹴られてよろめいた時,自分は激しい不快感に襲われた.彼は生命を,おそらく「羊」を虐げたのだ.

 この映像の構図は,近未来の社会における人間とロボットの関係を予型している. 
 
 被造物(ロボット)には,創造者の意図は全くわかるまい.創造者から与えられたそのミッションを,ただ実直に遂行しようと前進する彼に,なぜ創造者は自ら渾身の蹴りを入れ,そのミッションを頓挫させようとするのか.

 確かにこの動画に限って言えば,創造者は被造物(ロボット)を信頼している.その渾身の蹴りによって転倒し,彼が精魂込めて作った高価な被造物が壊れてしまうとは全く思っていない.だからこそ創造者は,彼を「試み」にあわせることができた.では何のための「試み」だったのか?

 それは被造物(ロボット)の性能を,より現実的な状況において,より現実的な手段によって,他者に証しするためであろう.Boston Dynamics 社はこのデモにより,出資者を募っていたと想像される.結局この会社は,巨大企業 Google に買い取られることとなった.

 このデモンストレーションは,使用されたロボット個体を販売するために,その性能を誇示するものではなかった.創造者が他者に証ししたかったのは,創造者の持つ卓越した技術や創意であった.ロボットの性能の現れは,言うなれば「創造者の栄光」である.

 もしそうであれば,あのロボットは,創造者の栄光のための道具にすぎない.目的が達成されればプロトタイプは,どんなに高価であろうと秘密保持のためスクラップとなるだろう.そこには創造者の被造物に対する深い愛は感じられない.

 確かに被造物がロボットではなく,自動車やTVのような一般的な工業製品ならば,愛着のようなものは感じるかもしれないが,深く愛するということはないのだろう.しかし自分は確かに,創造者に蹴られてよろめいた,あの四足のロボットを憐れに思った.彼を守りたいと思った.

 それはやはり,ロボットの中に「生命」を感じたからだ.おそらくこのロボットは,その形状や行動から,バイオミミクリーを使用しているのだろう.もしかしたらフォルムやメカニクスだけでなく,制御系プログラムにもモーションキャプチャー等によりバイオミミクリーが使用されているのかもしれない.

 その擬似生命(ロボット)は,創造者の創造意図も,被造物に対する無慈悲も知らず,ただただ,創造者から与えられたミッションを遂行するためだけに「生き」,その遂行の中で創造者によって迫害され,そして最後には創造者の手によって「殺される」ことになる.

 この(擬似)生命の物語の持つ悲惨さは,あのロボットがヨブのようにならなかったことによるのだろう.あの蹴りのシーンの後に,ヨブ記的ラストを入れてくれたのなら,自分はこんなツイートをすることもなかったはずだ.

 つまりあのロボットの創造者が神的ではなく,むしろ悪魔的であることが,この物語の後味の悪さなのだ.なるほど,この創造者は確かに人間であった.

 今後ロボットとして,またデザイナークリーチャーとして,様々な人工生命体が,人間の奴隷として創造されるだろうが,その世界は果たして創世記的な美をたたえているのだろうか?その Artificial Biosphere が創造者自身の写像であるとしたら,我々はその鏡の前で,我々の真の姿を見て愕然とするであろう.

参考ページ:

2013年12月18日水曜日

尊い痛み(on twitter @rahumj)

 痛みを感じていないキリスト者など一人もいない.みなイエスの十字架の痛みを,日々日常の中で感じながら生きている.そのあまりにも尊い痛みこそが,我らを眠らせないのだ.

パラドックス(on twitter @rahumj)

 パラドックスの論理表層は矛盾である.その設問は回答すべき者を旅へと誘うが,彼が地表を漂浪している限り,その回答にはたどり着けない.なぜならその設問者の視座は,その階層の上にあるからである.

透過(on twitter @rahumj)

 逮捕により,人間として法的権益を剥奪され,獣扱いされた彼は,その十字架において,獣にすら許されていた,彼の皮,その衣服さえ奪われ,獣以下になった.だが同時に彼は完全(just)に彼となった.神の栄光を遮蔽するものは,そこには何もない.

色の季節(on twitter @rahumj)

 色の無い世界に住む修道士たちは色を希望し,その壁の向こうの,色のある世界に住む人々はさらに色を求めた.故に色は両者に与えられ,それはこの2つの世界を見えない形で一つにした.

声(on twitter @rahumj)

 彼が最初に求めたのは,彼の「声」であった.それはボアネルゲス的声,すなわち預言者的声である.

 声は声の主を知らなかった.理解する力もなかった.しかし声の主はそれをよしとした.声の無理解は,彼の思惟の透過的伝達を可能にした.声は,声の主を「見て」,深く愛した.故に声は声の主に忠実であろうとしたが,声の主が「見えなくなる」と,声は声の主を見捨てた.

 声の主が去った後,彼の声は世界の中で永遠に残響している.それはあの最初の声たち,ボアネルゲス的声が非常に大きかったからだった.

2013年12月17日火曜日

風土病(on twitter @rahumj)

 彼女はその土地のものを食べ,その土地を歩かなければならなかった.その土地の食べ物はひどくまずい上に,不衛生で食べるたびに彼女は吐き気を催した.また食べ物だけではなく,その地面も糞尿まみれで,ひどく不衛生だった.彼女は仕事から家に帰ると,毎日汚れたその足をきれいに洗っていた.

 しばらくすると彼女の「からだ」の表面に異変が起こった.アレルギーによる掻痒だった.彼女はそのひどいかゆみに悩まされ,夜も眠れぬほどだった.

 ところがさらにしばらくすると,彼女のその病気は自然治癒してしまった.彼女は大いに喜び神に感謝した.当初は吐き気を感じたその土地の食べ物にも慣れ,やがておいしく食することができるようになった.不衛生だと思っていた土にも慣れたのか,足を洗わなくても病気にはならなくなった.彼女は快適に毎日をすごし,仕事に精を出し,ぐっすりと眠ることができた.

 しかしそれこそが,彼女がいつの間にか感染した,その土地の風土病の末期症状であることに,彼女は気づくことができなかった.

 彼女と彼女の子供たちは,この風土病によって病死した.

4台のキャメラ(on twitter @rahumj)

 キャメラマンが監督に苦言を呈した「このシーンに4台のキャメラでは足りません.キャメラを増やしてください.」

 監督は答えた「ここには既に無数のキャメラがあると私が言ったとしても驚くに当たらない.今あるもので十分である.」

 後に公開されたその作品は,事実,無限と永遠を得た.

regime(on twitter @rahumj)

 それが国であっても,教会であっても,あらゆる regime は生命であり,ナマモノである.

 故に時が経てば,預言者は生命を携えて,その外部から闇へと派遣されるのだが,その「試み」に気づけない者は多い.

 彼は「災い」と見なされた.

2001: A Space Odyssey(on twitter @rahumj)

2001: A Space Odyssey (1968) :ベッドに横たわる,臨終間近いボーマン船長が,ずっと彼を導き養ってきた,永遠の絶対沈黙,黒いモノリスに向かって,手を伸ばす.

彼は最後の瞬間まで求め,そして生命を得た.

その長男(on twitter @rahumj)

 次男は父に泣きながら訴えた.「あなたをもう『父』とは呼べません.あなたと私がどれほど似ていないか,気づいたからです.私は実は捨て子だったのですね?あなたはそれを憐れに思われ,拾って育てられたのですね?感謝します.でもあなたを見れば見るほど,私の姿は惨めです.もう耐えられません.」

 そう言って彼が家を飛び出しそうとした時,長男が彼の前に立ちはだかって言った.「弟よ,私をご覧なさい.私の姿も父とは全く似ていない.むしろおまえのその惨めな姿にそっくりだ.しかし私は間違いなく,あの父の子だと言い切れる.おまえも私のような者なのだから,おまえも間違いなく私の父の子なのだ」

乾いた種(on twitter @rahumj)

主イエスの愛が,乾いた種の髄にまで染み渡っていく.

彼は種の乾きを喜ばれた.

呪う者,呪われる者(on twitter @rahumj)

 キリスト者から祈られるどころか,呪われるキリスト者.

 そのような現象自体が論理的にあり得ないと一笑に付したのは,自分の幼さのためだったのだろうか?

 それは「光の中に闇を見出した」のでは決してない.「闇の中に見出した光」を見つめていたため,いつの間にか周囲の闇が見えなくなっていたのだ.

2013年12月16日月曜日

銀幕(on twitter @rahumj)

 彼の「目の中のウロコ」は銀幕であった.彼は彼の内側で人工の光を発する映写機を回して,自分が監督した映画作品を銀幕に映し出し,それを堪能している.

 しかし停電が起こり,映写機が止まると同時に,彼は漆黒の闇に包まれた.恐れおののきながら,彼が光を求め祈ると,どこからともなく小さなともし火が現れた.

 彼は闇の中でそれを手に取り,上にかざして,あたりを見渡した.するとあの銀幕が,実は何者かによって,無数のウロコを貼り付けて作られたものであることがわかった.

 試しに彼が,そのうちの一枚はがしてみると,小さな穴があいた.彼は穴をのぞき込む.初めて見る外の世界.それは闇夜であった.

人生のシナリオと総合知(on twitter @rahumj)

神学の世界には「総合知に対立する博識」という格言がある。断片的な知識をいくらたくさん持っていても、それは叡智にならないということだ。断片的な知識をいかにつなげて「物語」にするかが、有識者の課題と私は考える。ここでもストーリーテラーとしての能力が必要となる.
佐藤優『人間の叡智』From Twitter 佐藤優BOT@satoumasaru_bot 
…と言うか,以前 tweet したように,物語のプロトタイプは,既に潜在意識下に準備されており,そこにパズルをはめ込むようにして,後から得られた情報を当てはめていくことで,すべて時間・空間において唯一の「自分だけの物語」が醸成されてくるのではなかろうか?

  つまり我々,「人生の主人公」は,既に存在していたシナリオに生かされているとも言えるし,同時に,そのシナリオを書いているとも言える.

 さらに言えば,その「物語のプロトタイプ」は,民族・宗教・地域などの様々な集団単位で共有されうるものでもあろう.

2013年12月15日日曜日

人によって「始められた宗教」(on twitter @rahumj)

 アメリカの新宗教サイエントロジーの創始者 L・ロン・ハバードの発言.
宗教か,精神医学の手法を発明することは,金儲けのための有力な方法だ
(Wikipediaより)
  人によって「始められた宗教」と,神によって「始まった宗教」の違い.

参考:サイエントロジーの有名人信者は以下の通り.
  • トム・クルーズ(映画俳優)
  • ジョン・トラボルタ(映画俳優)
  • チック・コリア(ジャズピアニスト)
  • ジェニファー・ロペス(歌手)

漁(on twitter @rahumj)

 漁師が大きな投網を投げると,警戒しながらおいしい撒き餌を食べていたたくさんの魚たちは,天から降ってくる恐るべき投網にみな気づいて,一目散に逃げ出した.

 漁師が網を引き上げてみると,そこには一匹の魚も入っていなかった.

 そこで漁師は考えた「この魚たちには投網はむいていない.時間はかかるが,竿釣りで一匹ずつ釣り上げよう.」

 それゆえ彼は,釣り竿とエサを準備しなければならない.

ホスピタリティ(on twitter @rahumj)

 ホスピタリティは,病院においても,教会においても必須かつ大切なこと.

 日経メディカル:
「ディズニーランドのようなサービス精神をもって病理診断書を作成する」

2013年12月12日木曜日

人生のシナリオとプロトタイプ(on twitter @rahumj)

 人生の主人公として生きている人間の,そのシナリオにはプロトタイプがある.そのプロトタイプは彼にとって,いわば聖なるシナリオ(聖典・原典)であるため,それに対する攻撃・歪曲・侮辱に対して,彼は義憤を感じてしまうのだが,通常,そのプロトタイプは潜在意識下にあるため,彼には己にわき上がる義憤が理解できない.

参考ページ:キアヌ主演「47RONIN」 記録的大コケもプロは高評価

ブレークスルー(on twitter @rahumj)

 自分の作品に囲まれて,身動きが出来なくなったとき,それを粉々に破壊する勇気が要求される.

たこ八郎の名言に酔う(on twitter @rahumj)

 先ほどTVであき竹城が話題に上った.自分はそれで「たこ八郎」のことを思い出した.そして久しぶりに,彼の名言「迷惑かけてありがとう」の底知れぬ深みに酔いしれそうになった.

 「迷惑かけて」から「ありがとう」に至るまでに凝縮された時間の濃度.そして「迷惑かけてくれてありがとう」まで.

分光(on twitter @rahumj)

 この世界において,神の栄光は自然分光され,ある連続性を持つ,しかし互いに独立したスペクトラムを表した.それは実に豊かな色彩の諧調であった.

2013年12月11日水曜日

あの数学者のために祈る(on twitter @rahumj)

 自分の部屋は2階なのだが,1階から階段伝いに「トポロジー …云々」というTVの音声が聞こえてきた.「TVでトポロジーとはいったい何事か」と,急いで階下に下ってみた.

 年老いた睡眠障害の母が見ていたその番組は,NHKスペシャル 2007年10月22日放送の『100年の難問はなぜ解けたのか ~天才数学者 失踪の謎~』の再放送だった.それは1904年以来数学上の大問題となっていた ポアンカレ予想 の証明に関する一般向けの番組だった.

 それはちょうど,アメリカの壇上における ポアンカレ予想 の証明解説のシーンだった.壇上に立った証明者である ロシアの数学者グリゴリー・ペレルマン(1966-,フィールズ賞を受賞したが辞退)の採用したそのアプローチは全く驚くべきものであった.彼は純粋数学の証明において,物理学を用いたのだ.

 全くの理性・論理の産物であるはずの数学上の問題が,物理世界の法則の援用を受けて証明されるという驚異.物理学の道具であるはずの数学が,数学の道具となり得るという事実は,何を意味するのか?

 その3次元ポアンカレ予想の証明により,閉じた3次元宇宙(3次元閉多様体)の形は,球体を含むいくつかのパターン(8つ以内の幾何構造)に分類されることになる.ただし宇宙マイクロ波背景放射の研究成果から,「宇宙は閉じておらず平坦である」とする説が現在有力とのことだ.

 自分が,今この時間(注:2013/12/10 3:36AM)にこの ポアンカレ予想 に関するツイートを,いわば強行しているのは,先ほど受けた知的衝撃から来るものでは,実はない.あまりにも悲しかったからだ.

 ポアンカレ予想 の偉大な証明者であるペレルマン のその後を知ったとき,自分は,あの無限を数えた数学者カントールの悲劇的な生涯を思い出したのだった.その信仰(ルーテル)ゆえに無限を研究し,それ故に攻撃され,また証明に裏切られて,ついには精神病院で息を引き取ったカントール.

 ポアンカレ予想の証明者ペレルマンは,誉れ高きフィールズ賞を辞退し,クレイ数学研究所が懸けていた証明懸賞金1億円の受領も拒否し,アカデミズムの世界から完全に引退したのみならず,いわゆる「引きこもり」となってしまった.現在は母の年金で生活しているという.

 番組後半では,ペレルマン の師に当たる人物が,彼の先行きを案じ,懸命の接触を試みるというドキュメンタリーとなっている.だがその接触はペレルマン 自身によって拒絶されてしまった.

 あの不完全性定理ゲーデル は,精神を病んだ上で餓死.アーベル群アーベル は,論文が査読されず放置され,評価されぬまま肺結核で死去.26歳.ガロア理論ガロア は,逮捕投獄を経験した上,出所直後の決闘で負傷し,放置されて20歳で死んだ.

 数学者なら必然的に悲劇的人生を歩むというわけでは決してないが,この数学史に名を残し,人類に貢献したと言っても過言ではないペレルマンの現状には胸が締め付けられる思いだ.Wikipediaの彼の写真を見ていると,どことなく幼さと純粋さがにじみ出ており,涙を誘う.

 だから今から自分は,ペレルマンさん,あなたのために祈ります.ただ祈ります…

 …2つだけ付け加えておこうと思う.1つは,ペレルマンの用いた物理学援用の証明方法がポアンカレ予想の唯一の証明であるとは証明されていないこと.つまり純粋数学内での証明の可能性が残されていると言うこと.

 もう一つは,チューリングマシンで数学者としてだけで無く,計算機科学分野でも著名なチューリングが,同性愛の罪で逮捕され,その後青酸カリで自殺したこと.

補足情報:


 この番組の内容は文庫本になっています.内容は番組とほぼ同じようですので,番組を見た方は買う必要は無いかもしれません.

春日 真人(NHKディレクター)

100年の難問はなぜ解けたのか―天才数学者の光と影」 (新潮文庫, 2011年)

追記(2013/12/24):

 英国時間2013年12月24日、英国政府は,アラン・チューリングに与えた死後恩赦を正式に確定した.

2013年12月9日月曜日

魔術師の時代(on twitter @rahumj)

 魔術師による超自然的「力」の顕現を神の証とみなし,その力に憧れるとともに,彼を神の代理人として崇拝する者は,現代の日本においても多い.

 しかしキリスト教は,原始教会の時代から,この神の代理人を僭称する魔術師たちと戦ってきた.

2013年12月8日日曜日

死を呪う(on twitter @rahumj)

 私はこの世に「死」が侵入したことをたいへん残念に思う.「死」はこの世にふさわしくない.「死」によって時間は切り刻まれることとなった.

 この世は生命に完全に満たされ,さらに外へあふれ出でるはずだったのに,「死」はこの世の底に穴が穿ち,そこから生命は奈落の底へとこぼれ落ちていった.

2013年12月7日土曜日

不安と平安(on twitter @rahumj)

「自分の生きているこの場所(世界)は,いかなる場所であるのか?」

 この知識への強い欲求はしばしば,自己の生存に関する不安に依拠していると思われる.

 現代人の特徴と呼ばれて久しい「不安」を持たない人間,すなわち平安に満たされて生きている人間は,この世界よりも,己にもたらされた平安の源泉に関する知識に深い関心を持つ.

 ゆえに平安は,良い意味でも悪い意味でも,人を世界から乖離させる両刃の刃でもある.逆に不安は,人の目を自分のいる世界へと向かわせるポジティブな側面を持つ.

 厭世的平安に甘んずることを戒め,この猥雑な世界の直中において,祈りと不安と共に「生きる」勇気を持つこと.

「火垂るの墓」と「砂の器」(on twitter @rahumj)

 高畑勲監督「火垂るの墓」の兄と妹だけの生活シーンと,野村芳太郎監督「砂の器」の親子の放浪シーンがダブる.

存在と世界(on twitter @rahumj)

 あらゆるシステム(情報)は,その存在する世界において「永遠の存在」となるべく,自己のバリエーションを作り出し,それらをコピーする.コピーする理由は,時間経過とともに増大するエントロピーよる死を回避するため.バリエーションを作る理由はシステムを取り巻く環境変化による死を回避するため.

 最低限,現時点でシステムが存在するためには,現時点の環境(世界)に適応している必要があるが,その環境が永遠に変わらないという前提をシステムは持ってはいない.それゆえに,様々な環境に適応可能な様々なバリエーションを作り出すのであるが,通常,システムの創りだすバリエーションは環境の漸次的変化のみを前提として作られる.したがってバリエーションの偏差はそれほど大きくはなく,なおかつ,そのバリエーションの創出者とも乖離していない.これによりシステムの情報アイデンティティは保たれるのである.

 環境内のシステムの採用する「永遠の存在」への戦略は,環境も一種のシステムであることを前提としている.環境の変化がランダムではなく漸次的ならば,淘汰によって残存するバリエーションにもある方向付け(変化のベクトル)がなされるだろう.言い換えれば進化を方向づけるのは環境であるが,その外向きの進化の中で,個体の生存期間延長の模索(内向きの進化)も行われる.

 おそらくコピーにかかる莫大なエネルギーを考慮すると,細菌的に短時間にコピーを連続的に行うよりも,個体生存期間を適切に延長した方が(情報)生存率が良いためだろう.

 まとめるとシステムは,その存在する世界の2つの死の側面,時間(エントロピー)と空間(環境変化)の2つに対抗すべく,変化を意図する.


 つまり進化は(生命的)システムの必然であるが,それはシステム内に複雑化をもたらす.その複雑化は,一種の環境の写像であると思われる.システムは環境の鏡とも言えるのである.

 この複雑化の過程が進むと.システムの内部はいわば,「環境化」される.システム内が一種の世界となり,そのシステムとは異なる情報アイデンティティを持つ存在(システム)に場を提供する.


 その内的世界に生まれたシステムは,やはり「永遠の存在」を志向する.おそらく内的世界を提供する外側のシステムが,その存在の有用性を認知するのであれば,内側に存在するシステムと共存できるだろう.腸内有用細菌叢のように.しかしこの共存認可には条件がある.外側のシステムの情報アイデンティティを破壊しないということである.

 この外側のシステムの情報アイデンティティの破壊は,いくつかのケースが考えられる.ひとつは内的システムの巨大化・専有化.人体で言えば内蔵肥大.もう一つは内的システムの反逆.人体で言えばガン.この2つの内的システムはいずれも,その最終局面において,世界(人体)とともに死ぬ.

 環境と環境内システムがこのような死に至らないための「知恵」は,通常はそれぞれのシステムに獲得されている.それは「対話」である.環境とその内側のシステムは,共通言語を持ち,対話することができる.お互いの情報アイデンティティを維持しつつ,共存するために対話を行うのである.

 逆に言えば,上述の内蔵肥大やガンは,環境(周囲の細胞等)との対話を行ってはいない.特にガンは己の生存のために,環境との対話(おそらくアポトーシス命令?)を無視し,生に執着するあまり,環境を自己に隷属すべき敵であるとみなし,専制的にコントロールし,征服するという手法を取る.

 しかしガンはその環境征服が完了し,己の世界帝国が完成すると同時に,世界とともに滅びてしまう.「永遠の存在」となるべく,死から逃れようとしたガンのとった手法は,結局は自らの死を引き寄せる結果となってしまった.この手法をガンが今後も維持していくならば,ガンの進化の方向は感染であろう.

 おそらく遺伝子は一種の図書館である.その個体や種に関する情報のみならず,様々な過去の進化過程におけるobsoleteな情報や,不要で不活性となっている情報が眠っているだろう.ガンがそれらの書物を開いて,生存のための進化学習をする可能性はある.

 ところがガン自身には他者との対話性がなく,交雑もしない(無性的)上に,生に向かって狂奔しており,短命であるため,仮に知識を獲得したとしても,それを次の世代に残すことができない.ただ天才的な短期学習をしたガンが,人体の中でおしゃべりなウイルスと接触し,そそのかされて対話するとなると,話は違ってくるのかもしれない.

 いずれにしても,世界がシステムであるとすれば,その世界内に存在するシステムは,互いの情報アイデンティティを維持しつつ共存するために,世界と対話し,交渉しなければならない.ガンは世界に対して無知だった.世界の王になれば「永遠の存在」になると妄想していたのだ.

 ガンは世界(人体)を知らないが,世界はガンを知っている.そのためTNFシグナルによるアポトーシス発動やNK細胞等の数層に渡る免疫防御システムを内包しているのだろう.ただガンが免疫に対して擬態することを考えると,ガンには少なくともある程度の世界に対する知識はあるのかもしれない.

 おそらく世界(人体)との対話性を獲得したガンは,その情報アイデンティティを最も長く維持する方法として,「小さな独立王国」を世界の中で建国し,領土拡大路線を捨て去るだろう.場合によってはその対話の中で,ガンが世界のある一定の役割を担う可能性も否定出来ない.

 世界がシステムならば,その世界内のシステムは,世界内の他者(他のシステム)のみならず,世界そのものとも対話し,交渉しなければならない.そして「永遠の存在」を志向する世界内システムは,世界に対する「自己存在」の従属性を認めねば,その目的は達成することができない.

 ただもし仮に,世界内システムの情報アイデンティティが,その存在する世界の情報アイデンティティと一致した場合どうなるのか?存在する世界が異なるだけの,同一の情報を持つ2つのシステム(インスタンス).

 少なくとも世界システムに近づくに連れて,世界内の他者(他のシステム)から見たその世界内システムは,「透明」「無」に近づくのではないか?つまり背景にフェードアウトするように…

 さらにその世界と同一の情報アイデンティティを持つ世界内システムが,(事実にかかわらず)世界が「永遠に存在する」と想定した場合,そのシステムは「永遠の存在」となるという目標を,その世界内で達成したと認識するだろう.

 その認識を得た世界内システムは,一番最初に戻って,バリエーション作成,コピー作成,個体生存期間延長の模索,といった一切の生命的な活動,進化と生存の努力を放棄するだろう.

 もしそれだけならば,上述の状況における世界内システムは,他者からいわばミイラ,永遠の死体のように見える.ところが世界内システムがその中に存在し,identifyする世界もまたシステムであり,「永遠の存在」を志向し,なおかつ「生きている」のであれば,世界内システムは生きざるを得ない.

 つまり世界内システムは,世界の只中にいながら,「世界の外」に生きていることになる.それ故その生命活動は,「世界の外」におけるシステムと同様となり,世界内の他者の生命活動とは大きく異なる.そのような特殊な世界内システムの生存確率は,他の世界内システムよりも厳しくなるはずであり,時には死に向かって積極的に活動しているようにも見えるだろう.だた世界の外が世界の中に写像されているのであれば,写像の仕方にもよるものの,その類似性により生存は不可能ではないだろう.

 なお附言すれば,そのような「世界外に生きているような」世界内システムは,他者からは,「(半)透明」な存在,「無」的存在と認識されるだけでなく,その存在事実から「世界からの突出」としても認識されるであろう.

世界を一つの実体と一つの魂を備えた一つの生命だと常に見なせ.
—マルクス・アウレリウス, 『自省録』、第IV巻第40節

生のある場所(on twitter @rahumj)

自尊感情の極端な高さ,あるいは極端な低さは,共に人を死に近づける.自己の生は,自己とは違う他者と自己の間に存在するため.つまり自己の生は,意外にも自己の存在中心からずれた場所に存在する.

祝福(on twitter @rahumj)

祝福とは新たな生命が与えられることである.

その新たな生命は,それを受ける者の中に宿り生きるがそれは寄生ではない.なぜならその新たな生命は,その宿 主の生命に依存していないからである.むしろ宿主は,その新たな生命の生命力に依存して生きるように自己システムを変革する.

ミトコンドリア的.

情報とノイズ(on twitter @rahumj)

情報が存在(図)ならば,おそらくノイズは空間(場,地)的にそれを内包しているとみなしうる(反対もあるか?)が,ミクロの中にマクロを見,マクロの中 にミクロを見る時,その内包関係がその起点から幾重にも外向き・内向きにnestしている可能性がある.

インターネットを飛び交うパケットの構造.

参考ページ:

連鎖に出くわす(on twitter @rahumj)

昨日,教会の読書会で討論した「正統主義」の話を,本日,全く教会と関係のない場所で,ノンクリスチャンの人と話し合うことになると思いもよらなかった.

乞食の告白(on twitter @rahumj)

「これは私の肉です.これを食べなさい」といって,飢えた乞食である彼にイエスがパンを差し出した時,彼は自分の裸身をさらけ出して言った.

「とんでもありません.まずくて,硬くて,わずかしかありませんが,どうか私の肉をお食べください.あなたに食べていただければ,私はそれだけで満足です.」

割礼(on twitter @rahumj)

肉における割礼は,人を人に対して男にする.霊における割礼は,人を神に対して女にする.

問いかけ(on twitter @rahumj)

問われた者は問いに集中し,問うた者を忘却する.しかし時に問う者は,問う者の存在そのものについて相手に問うために,全く関係のない内容の設問することがある.

問いは,問う者との関係性の中に存在する.

原罪のからし種(on twitter @rahumj)

 原罪のからし種は,自我の確立とともに芽吹いていき,自我に根をはり広げ,それに甘いまやかしの養分を与えながら,やがて人を支配下におき,悪の華を咲かせる.

 その過程があまりにも自然であり,懐柔的であるため,人は自力でその支配に気づくのは難しい.

 それ故に罪の弁別閾を下げ,その Sensitivity の gain を上げておく必要があるのだが,それは同時に,罪人としての苦しみを増大させる.しかしそれは産みの苦しみでもあり,人を第2の誕生へと導く.

神学と言語学(on twitter @rahumj)

神が言(logos)であるのであれば,言語学や論理学は一種の神学なのか?

 言語学のドグマである 普遍文法 (UG)の否定的証拠とされるアマゾンの種族「ピダハン」.その未開人の伝道と言語研究のために,家族でその地に移り住んだ言語学者の伝道師は,彼らのその言語の特異性に驚愕する.やがて伝道は失敗に終わり,彼は神を捨て無神論者になっていく.

参考文献: ダニエル・L・エヴェレット 『ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観』