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2014年1月27日月曜日

テレビ朝日55周年記念ドラマ「黒い福音」に見る「個の信仰」(on twitter @rahumj)

テレビ朝日「黒い福音」視聴完了.TBS制作の1984年版TVドラマよりもマイルドに仕上がっており,藤沢刑事(ビートたけし)の物語として作られているためか,後味も1984年版よりも良かったと思う.

 このドラマは,実際に起こった事件(BOACスチュワーデス殺人事件)に関して松本清張が推理を展開し,それを小説化したものが原作となっている.「黒い福音」というタイトルからもわかるとおり,この小説におけるカトリック教会組織は犯罪に手を染めており,その神父は上司の命令により自分の愛人を殺害してしまう.しかし「教会」という壁ゆえに警察は彼らを逮捕することが出来ず,神父は帰国してしまい,遂にこの事件は未解決となってしまう,というのが物語の大筋だ.

 1984年版では,カトリック教会の神父たちがマフィアのような悪党として描かれており,そのシーンも長かったが,2014年版ではそのような描写はほとんど見られず,その代わりに藤沢刑事の人間性を描写する時間が長くなった.

 ただし2014年版においても,教会の信徒たちがカルト教団的な不気味な笑みを浮かべて,報道陣と対峙するシーンもあるにはあった.しかし,おおむね一般視聴者は視聴中,1984年版のように教会組織や神父に対する激しい憤りを,持続的に覚える事もなかったのではないかと想像する.ただ逆に,二人の男に犯された後に殺された被害者の悲惨さや,愛人の殺人にまで及んだ神父の激しい葛藤や,「落としの八兵衛」藤沢刑事(モデルは名刑事平塚八兵衛)の無念さという点については薄いと言わざるを得ない.

 2014年版「黒い福音」において,特におもしろかったところは,藤沢刑事がはっきりと「神を信じている」と告白している点だ.脚本では,なぜ藤沢刑事が神を信じるようになったかを視聴者に納得させるために,戦場で死にかけた時のエピソードを彼に語らせている.

 「黒い福音」における藤沢刑事は,組織の人間ではない.彼は彼自身の信念(信仰)に基づいて,組織の圧力をものともせず,物語の最初から組織のルールを破り続ける.それに対して組織は,彼の存在を煙たがったのは当然であるが,彼の卓越した能力は認めており,故に警視庁捜査一課から彼を外すことはなかった.

 このドラマの冒頭で,藤沢刑事の犬がリースを付けたまま逃げ出し,被害者の遺留品へと彼を導くが,この犬こそは,組織にとらわれない藤沢刑事の表象である.脚本家はこの物語の予型をイントロに配置したのだろう.

 2014年版「黒い福音」において,藤沢刑事は神を信じていると公言した.それでは彼の信じていた「神」は,いかなるものであったあろうか?彼の発言からそれを推測してみよう.

 彼の信じる神は,彼が子供の頃,溺れかけた時や,戦場で死にかけた時に,彼の生命を救ってくれた「命を救う」神である.

 次に藤沢刑事は,被害者と巡りあわせてくれたのは,神であったとしている.彼の弁から推測すると,神は彼の最後の大仕事として,彼にしか解決できない事件を彼に担当させてくださったと考えているようだ.おそらく彼は,自分の仕事を神によって与えられた天職だと思っているのだろう.つまり職業召命観を持っていたと言うことだ.

 またルノーの中でトルベック神父と藤沢刑事が対決した時,自分の胸を指しながら藤沢の言ったセリフ

「俺の神様はここにいるから,嘘はつけない.あんたの神様はどこにいるんだ」

から藤沢刑事が「神は,通常,個々の胸中に宿っている」「神はすべてを知っている」の2つを仮定していることが推測される.

 胸中の神の存在によって,藤沢刑事が嘘をつけない理由とはなにか?ここでこの「嘘」についてより細かく考察しなければならない.なぜならこのドラマにおいて藤沢刑事は,「嘘」をついて捜査をしているからだ.

 この捜査上の嘘は,彼の神に許されている嘘ということになる.それが許されているのは,犯人逮捕という目的が「嘘」という手段を正当化したからに他ならない.そして犯人逮捕こそが,彼が彼の神から授かったミッションである.

 したがって藤沢刑事が「嘘はつけない」と言ったその「嘘」とは,自己欺瞞,特に神から授かった担当事件に関しての自己欺瞞のことだろう.こう見てみると藤沢刑事の恐るべき執念が,実は彼の,神への個人的信仰心の故であったことが読めてくる.

 藤沢刑事が規律の厳しい警察組織の中で,あれほど身勝手に動きまわることができたのは,彼に実績があったからである.したがって彼は勝ち続けなければ,組織には残れなかった.その孤独な戦いを支えたのが,彼の信仰ではなかったかと思う.

 トルベック神父のアリバイを崩す証拠写真を市村刑事に渡すときに,藤沢刑事は「神様はいたよ」と言った.藤沢は「内なる神」の存在を固く信じているため,この言葉は,「彼の神」の発見ではない.写真を渡してくれた関田ハナ(市川悦子)の胸中,もしくはその周辺に神は臨在していたということだろう.

 藤沢刑事は,カトリック教会の信徒である関田ハナ(市川悦子)に,刑事であることを隠した.彼は,同じく信徒であった江原ヤス子(竹内結子)の知り合いとして彼女に接触し,その証拠写真を得ている.もし関田が彼を刑事だと知っていたら,写真を渡したかどうかは微妙である.つまり写真を刑事に渡すことにおいて,「関田の神」は試されておらず,現れていない.

 信徒である関田が「教会がごぶさたになった」理由は,劇中明らかにされていない.しかし彼女に信仰が残っていたのは,明らかである.それは彼女の肌身離さぬ胸の十字架だけではない.咳き込みうずくまる藤沢刑事に自分の水筒の水を差し出す思いやり,淀みない聖句暗唱,それに続く十字架のしるし…

 関田ハナが「教会がごぶさたになった」理由として,教会の中の犯罪的行為や,警察の聴取に対する口裏合わせなどに嫌気が差したというのも考えられる.そうであれば,関田ハナの中には「神がいた」ということになるのであろうが,藤沢刑事がそれを知っていたとは思えない.

 藤沢刑事が「神がいた」と言ったのは,おそらく神が摂理的に,関田ハナを教会から遠ざけるようにされ,また彼女に写真が届くようにされたことで,間接的に決定的証拠を彼に手渡したのだということではなかろうか?そこに藤沢は神を見,そして彼の外にも「神がいた」ことを知ったのではないか?

 とすると,藤沢刑事の神は「人の間に臨在する」神でもあるといえるだろう.さらに
「人を生かし,人を救うのが神様ならば,きっと赦してくれる」
という江原ヤス子に対する藤沢のセリフから,彼の神は「赦す神」でもあることもわかる.彼はこの台詞によって江原ヤス子に自白(告解)を迫った.

 藤沢の神の特徴をまとめると
  • 命を救う神
  • 人を生かす神
  • 人を赦す神
  • すべてを知っている神
  • 「人の間に臨在する」神
  • 聴罪する神
  • 天職を与え,それを助ける神(職業召命観)
  • 個々の中に宿る「内なる神」(個人主義)
ということになるだろう.このような特徴がキリスト教の神の特徴に類似するのみならず,後半の2項目に着目するとき,プロテスタンティズム的神概念を思わせるのは気のせいだろうか?

 このドラマにおいて,藤沢がカトリックの神父に掴みかかり,あるいはもみ合いになるシーンが2度ほどあるが,それは単に彼らが犯人であるからではない.彼ら神父の不信仰が赦せないのだ.藤沢は,その信仰故に自分の「内なる神」に忠実であり続け,組織のルールを破ってまで神に従ってきた.ところが彼ら聖職者は,藤沢以上に神に忠実であるべき身分にありながら,彼らの「内なる神」に全く従っていない.その不信仰に対する,激しい怒りが暴力となって現れたのだと思う.

 しかし実のところ,これは藤沢の素朴な彼の神概念による誤解である.神父らは,神に従っていたのだ.神父らの神は藤沢の神に類似しており,故に藤沢は神父の中に「内なる神」を仮定し,神父らがその「内なる神」に従っていないことに怒りを感じた.しかし神父らの神は,彼らの内には元々いなかった.彼らの神は「個人の外」にいた.「教会」の中にいたのだ.

 さらに言えば,この神父たちにとって,神から与えられた聖なるミッション(伝道)は,何よりも優先されるべきことであり, そのために彼らは国内法的合法非合法を問わず,その手段を選ばなかったのだ.かつて有能なカトリックのパードレたちが,密航という形でキリシタン禁制の日本に上陸し,「聖なる偽り」を用いたように.そこには「野蛮人の国日本」に対するある種の傲慢さが見え隠れする.

 この構図,「神から与えられた聖なるミッションという目的のためには,手段を選ばない」という考え方は,実は藤沢も全く同じである.神父はそれ故に殺人まで犯したが,藤沢も事情聴取などにおいて暴力沙汰などを起こしてもおかしくはなく,それによって冤罪が生まれる可能性は否定出来ない.ドラマは,藤沢の持つそのような危うさをもしっかり描写している.

 ただ二人の神父が戒律を破り,愛人を作っていた事実は,彼らの信仰が狂信的であることに疑いを挟む.戒律を破るということは,彼らの神学において,神に逆らったことと同じであろう.そう考えてみると神父らはむしろ,聖なるミッションの遂行というよりは,サラリーマン的に伝道という職務上のノルマを達成するために,闇取引という非合法で安易な方法を選び,それによって得たゆとりを愛人との「甘い生活」に当てていたのかもしれない.そうなると彼ら神父は狂信者ではなく,俗物ということになるが,このドラマの内容からはその真偽は判定できない.


 さて,藤沢のその信仰について,もう少し考察してみよう.藤沢刑事のモデルである平塚八兵衛の有名な言として,次のものがある.
「人間には根っからの悪党はいねえよ」
平塚は退職後、自分が逮捕した犯人で死刑となった者たちの墓参りにも行っている.さらに彼には,
吉展ちゃん誘拐殺人事件の犯人小原保の墓参りに行った際,彼が先祖代々の墓に入れてもらえず,横に小さな盛り土がされただけの所に葬られていた事に愕然とし,盛り土に触れた後に泣き崩れた
というエピソードもある.

 藤沢刑事は平塚八兵衛と同じように,犯罪者の中にも善なる者(神)は宿っていると信じていた.彼は犯罪者の中に隠されているその善なる者に対して訴えかけ,その犯罪者の中の神がその呼びかけに応え,それが犯罪者の表に現れることにより,これまで犯人を落とし,事件を解決してきたのだろう.

 つまり藤沢刑事の取り調べとは,犯罪者に内在する神への祈りであり,そして犯人が落ちた時,彼は神の顕現を目撃するのである.

 トルベック神父が記念写真の件について「自分が撮った」と嘘をついた時,藤沢から語られるあのセリフ「あんたの神様は今消えたよ」の「神」はカトリックの神ではない.それはこれまでの取り調べ経験において,藤沢刑事がその顕現を目撃してきた犯罪者の中の「善なる者」「内なる神」である.藤沢はその時トルベックから,藤沢が祈るべき「内なる神」が消え去ったのを感じ取った.故に藤沢流の取り調べは,もはや成立しえない.彼にとってトルベックは「死んだ」のであろう.

 藤沢刑事は,結局神から与えられた最後の大仕事であったトルベック神父を落とすことはできず,そのミッションに失敗した.その出来事を信仰の人藤沢がどのように消化したのかは不明である.彼はその後すぐに亡くなってしまった.彼は無念に打ちのめされて,失意のうちに死んだのだろうか?

 …しかし彼の失敗は全く無駄ではなかった.すべて若い市村刑事の糧とエネルギーになったからである.警視総監も今回の失敗から「国は強くなければならない」という教訓を得た.この結論はもちろん,現在の我々への問いかけである.特に沖縄のアメリカ軍基地問題を意識しているのだろう.

 ただ自分はこの言葉を単純に取りたくはない.警視総監のこの言葉の前後をよく聞けばわかるが,この「国」とは,たくさんの国がひしめく世界の中の一つの独立国という意味である.つまり組織や集団の中で「個」が生きていくために,「個の強さ」が必要ということなのだ.

 言うまでもなく,その「強い個」の代表者がこのドラマでは藤沢となっている.その個を支えていたのは彼の信仰であった.このドラマにおいてそのような「個」を持っていた人物は,教会人では,教会から距離をおいていた関田ハナ,命令に逆らって殺された被害者生田世津子しかいない.また警察組織では藤沢の他には市村だけだ.

 もちろん市村刑事の「個」は,藤沢刑事の「個」によって徐々に育まれたものだ.それが花開くのは,藤沢の死後,市村が警視庁捜査一課に入ってからだろうから,藤沢はそれを見届けることはできなかったわけだ.

 警察組織もカトリックも軍隊も,同じヒエラルキー的権力構造,絶対服従,厳しい戒律を持つ.トルベックも藤沢もそのような環境で生きてきたのだが,その生き方は対極にある.それは信仰の座が,集団にあるのか,「個」にあるのかという違いによるのだろう.

 トルベックは絶対服従ゆえに愛する女を殺すに至った.藤沢刑事は個の信仰に突き動かされて,事件の真相に至った.一見この構図は藤沢刑事的個の礼賛のように見えるが,実際はそうではない.刑事が全員藤沢刑事的だったらもはや捜査は成立しないだろう.要は「所属集団と個の間でいかにバランスをとるか」なのだ.

 ただ所属集団(権力)は個に対して圧倒的であるため,通常は個が押し流されてしまう傾向にある.集団に所属する者が,所属集団と個の間でバランスをとるためには,個の強さが必須なのだ.その個の強さをもたらしたものが,藤沢刑事の場合,彼の「個の信仰」だった.

 そして本日1月27日の主日礼拝の説教テーマがこれだった.
 ところが,徴税人は遠くに立って,目を天に上げようともせず,胸を打ちながら言った.『神様,罪人のわたしを憐れんでください.』(ルカ18・13)
徴税人は,隣のファリサイ派の人に目もくれず,ただひたすらに神に懇願し,祈った.それは,「神の前にただ一人立つ」キルケゴール的な切実な個人的祈りであった. また我々は知っている.
だから,あなた方が祈るときは,奥まった自分の部屋に入って戸を閉め,隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい.そうすれば,隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる.(マタイ6・6)
  それゆえ我々は,教会における合同の礼拝や交わりを守りつつ,日々,自己の内なるドアを開けその礼拝室に入り,世界に通ずる唯一のそのドアを後ろ手に閉めて,ただ一人,神の御前にひざまずき,祈りを捧げるのである.

2013年11月5日火曜日

伝道者の「永遠の住まい」(主日聖餐礼拝,ルカ16・9)

そこで,わたしは言っておくが,不正にまみれた富で友達を作りなさい.そうしておけば,金がなくなったとき,あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる(ルカ16・9)
私の最近通い始めた教会は,長老派であるためか,説教は聖書の特定の場所を頭から順番にやっていく連続講解説教のパターンが多い. そのため本日は,先週・先々週と2回に分けて行われた「不正な管理人」のたとえに続いて,「律法と神の国」について説教が行われた.ただ自分自身,「不正な管理人」のたとえについて,まだ消化し切れていないので,先週に引き続き,「不正な管理人」の上記の聖句を取り上げてみた.

  上記の聖句も,おそらく一般の人には,受け入れがたい話なのかもしれない.特に「不正にまみれた富」にひっかかってしまうだろう.ちなみに上記は新共同訳だが,新改訳では,「不正の富」と訳されており,不正と富とが分かちがたく表現されている.「不正の富」とは,例えば「盗んだ金」のようなものなのだろうか?もしそうだとすれば,イエスは「盗んだ金は,仲間を作るために有効利用しろ」と言われているのだろうか?

 もともとルカ8・14やマタイ13・22にもあるように,新約聖書において「この世の富」は,人を惑わし,「実」の熟成を阻害するもの(茨)とされている.またルカ18・18の「金持ちの議員」においても,財産が神の国への入国の障害として語られている.つまり「この世の富」は,一般的な意味での 「不正(法律違反)」によって得られた富であろうと,正当な経済活動による富であろうと,信仰生活の妨げるものとみなされている.神の意向に逆らうことが「不正」であるならば,この世の富はすべて「不正の富」ということになる.ではなぜこの聖句において,「この世の富」という言葉ではなく,わざわざ「不正の富」という言葉が使われたのか?

 この「不正」,NSRV英語訳では dishonest ,ギリシア語 adikos (人物に使われ、「正しいことに違反する」)について,先週のブログ「『光の子』らの先へ」 では「律法違反」と仮定した.しかし一般的なこの「不正」の聖書解釈では,「道徳的な不正の意味ではなく,終末前の現世を表す術語で『この世』を意味する」とされている.「光の子」が終末論用語であると考えれば,この「不正=終末前の現世」と考えるのは,つじつまがあっている.ただ残念ながら,その根拠となっている文献を自分は知らない.

 おそらくイエスが「不正の富」という一種の終末論用語を用いたのは,前回のブログでも書いたとおり,弟子達,特に「光の子」らに対する警告のためだろう.前回のブログの中では,「光の子」らを,弟子達の中で,特に終末が明日にでも来ると想定しているグループとした.彼らは,すでにイエスへの信仰によって,自分たちは終末から完全に救われ,永遠の命を得て,神の国に入ることが出来ると考えた.そのため,現世の動向や非信徒に対して何の関心も持たず,排他的で内向きな選民思想の者達となった.彼らにとって,この世は嫌悪すべき「不正」そのものであったが,明日にでも訪れるであろう終末によって,それが神によって正しく裁かれることを期待していた.それゆえこの世のこと,現在のことは彼らにしてみれば,些末な小事であった.明日になれば,終末が来てすべてが終わってしまうのだから,今更何をしても無駄以外の何物でも無かったのだ.行為は救いとは関係が無く,信仰こそが救いをもたらすと彼らが信じていたことも,この世に対する関与の消極性を誘導したのだろう.そのような思想は,彼らの霊的成長を阻害することになるだけでなく,一種のカルト宗教の持つムードを漂わせていたに違いない.

 当然のことながら,彼らは「この世の富=不正の富」にも関心は無かった.彼らがその時,所持金を持っていたのか,すでにイエスの宗団にすべて喜捨していたのかはわからないが,その資金運用については関心は薄かったと考えられる.現在ある金で,その日の生活ができればそれでよいといった程度に考えていたのかもしれない.それゆえ 「この世の富=不正の富」をうまく利用するといった経済活動や,ましてやそれで「友」を作ることなど,考えても見なかったであろう.

 「不正な管理人」のたとえにおいて,イエスは「この世の子」らの,仲間に対する抜け目ないふるまいをほめられた.すなわち「この世の富=不正の富」に強い関心を持ち,自分の仲間の利益についても配慮しつつ,自分の利益を追求する抜け目なさ,その知恵・賢さを賞賛された.それは,この「この世の富=不正の富」への強い関心と忠実が,彼らに様々な人間関係における経験をさせ賢くし,彼らを仲間とうまく結びつけていたからだ(折り合いと共存の知恵).「この世の子」らは活発に活動し,自己の利益の追求のため,他者と積極的に関わっていく.これらの経済的活動は,「光の子」らからしてみれば,無駄であり,罪と不正にまみれた活動であり,嫌悪すべき俗事であると感じたであろう.しかしイエスは,その考えを叱責されたのだった.

 「光の子」らのクムラン宗団的内向性・排他性・厭世観は,イエスの望まれるところではなかった.イエスは,できるだけ多くの「この世の子」らを救おうとされたにもかかわらず,弟子(の一部)であった「光の子」らは,「この世の子」らと関わりを持とうとしなかった.つまり自分たちの「友(仲間)」を作るための伝道への意欲を持っていなかった.

 そこでイエスはまず,「この世の富=不正の富」が神から貸し与えられた富,つまり「他人の富」であると示された.「不正な管理人」のたとえでわかるとおり,その富の管理人は,主人(神)の意向にしたがって,富を賢く運用する義務が管理人(弟子)にある.

 次にイエスは,その神から貸し与えられた「この世の富=不正の富」の賢い運用方法として,自分のために「友」を作る活動,すなわち伝道をせよと命じられた.つまりイエスは「光の子」らに対して,自分たちの救いばかりではなく,宗団の外にいる非信徒の救いにも関心を持ち,彼らが嫌悪していた「この世の富=不正の富」を積極的に運用して伝道を行うように促した.しかもイエスはそれが,彼ら自身の利益となると説明された.

  イエスはそのようにして伝道をする理由として,「金がなくなったときに,永遠の住まいにむかい入れてもらえる」からだと彼らに教えられた.ここで注目しなければならないのは,「永遠の住まい」という言葉である.この言葉とほぼ同じ言葉「永遠の住みか」は,コリントII5・1に
人の手で造られたものではない天にある永遠の住みか
として登場する.

 通常,この世の友は「永遠の住まい」など与えはしない.この世の住まいである限り,一時的な仮の宿であり,それが永遠である事はあり得ない.とすると「永遠の住まい」が意味するのは,「神の国」ということになる.

 もしこの「神の国」が地上のものではなく,天上の世界にあるならば,「金がなくなったとき」とは,金銭を含めたこの世の所有物の一切から離脱する「死んだとき」ということになる.しかし「光の子」らはイエスへの信仰によって,自分たちはすでに救われていると考えていた.つまり終末の後に,彼らは神の国に必ず入れると信じていた.とすると仮に「永遠の住まいにむかい入れてもらえる」事が,死後の「神の国に入ること」を意味するならば,それは彼らに対する伝道の動機づけとはなり得ない.また伝道という行為が義認されて,神の国に入るとするのであれば,そもそも「信仰による義認」と言う考えに反する.となると伝道行為に対する報いとして,「(天上の)神の国にむかい入れてもらえる」ということになるが,自分にはその「むかい入れる」がイメージできない.

 仮に「金がなくなったとき」が,比喩ではなく,実際に所持金が底をついたときとするならば,「永遠の住まい」は,「地上における神の国」を意味するものと思われる.「地上における神の国」とは,神の国の前味であり,人間の社会の一部である.これは具体的には「目に見える教会」と「目に見えない教会」の2つに分かれる.前者は具体的な組織であり,教会政治機構を持つ団体である.後者は具体的な組織を持たず,キリスト者同志の友愛的関係(交わり)を意味する.

 ここである仮定の話をしてみたい.「光の子」らが,イエスのグループを離れて,異教徒の地へ伝道旅行に旅立ったとする.彼らは出発時に,伝道費用として「この世の富=不正の富」である金銭が与えられた.彼らはその金銭を効率よく,賢く用いる必要があった.そうしなければ伝道旅行は,たちまち頓挫してしまうだろう.

 しかし旅行を続ける内に与えられた伝道資金は,いつかは底をつく.そうなってしまえば,もはや彼らには伝道を続ける手段はなくなる.それどころか彼ら自身の死活問題にすら関わってくる.しかしその時までに,彼らの伝道がある程度成功していれば,彼らが伝道した者達である「友」は,窮地に陥った伝道者たちを喜んで迎え入れ,衣食住を与え,彼らの伝道継続を支援してくれるだろう.「光の子」らは,「友」の間,すなわち地上における永遠の住まいである「目に見えない教会」に生きていくことが出来るわけである.また彼らがその「友」の間に定住することができれば,そこに教会(会堂ではなく組織)を作り,その群れと暮らすことになるのかもしれない.その場合,「永遠の住まい」とは,「地上の神の国」としての「目に見える教会」を意味することになるだろう.

 では,もし伝道資金がなくなったにもかかわらず,伝道に失敗し,「友」を作ることが出来なかった場合はどうなるのか?

 その答えこそが,この「不正な管理人」のたとえの直前に配置された「放蕩息子」のたとえである.放蕩息子は,父から財産を分けてもらったが,遠い国で放蕩して使い果たしてしまったのであった.彼には「賢さ」がなかったのだ.その結果,彼は食うことすら出来なくなってしまったのに,父の家には帰ろうとはしなかった.それは伝道資金を渡され開拓伝道へと旅立ったものの,異邦人の地で伝道に失敗し,資金を使い果たして無一文となり,途方に暮れ,打ちのめされている伝道者の気持ちに等しい.その伝道者は,もはや「神を父と呼ぶ資格はない」とまで考え,自分を追い詰めていたかもしれない.そんな絶望の直中にいる彼には一つの危険な選択肢があった.この異教の地で棄教し,異邦人となって生きていくことだ.たしかにここで棄教すれば,自分を神の教えに反する異邦人の生活スタイルに合わせることにより,そこで生物学的に生きていけるかもしれない.

 しかしご存じの通り,放蕩息子は異邦人となって,父を捨てて,そこで生きていくことよりも,故郷に帰り,そこで父の僕として生きていくことを選んだ.そして長く過酷な帰省の旅へと出たのである.そうなのだ.失敗した伝道者も故郷に,父のもとに帰るべきなのだ.戻った彼を故郷がどのように出迎えるべきかを,この「放蕩息子」のたとえは教えてくれてもいる.
 
 ただし「永遠の住まい」や「放蕩息子」を伝道と関係づけた解釈には一つ問題がある.それは,イエスが基本的に金銭(財布)を含め,何も持たずに伝道せよと言われている(ルカ10・4等)ことと矛盾するからだ.それは金銭に頼ることなく,ただ神のみを信頼して伝道せよと言うことなのだろうが,これは仏教の托鉢僧と同様に,伝道というよりも,一種の厳しい修練であろう.もしそうであれば,通常の伝道目的の旅行であれば,ある程度の資金がイエスの宗団(教会)から提供されていた可能性は十分あるだろう.パウロは伝道旅行中に資金を稼ぐために働いていたようだが,おそらくある程度の旅行資金はもらっていたと想像する.

 最後に一つ疑問が残る.金がなくならなければ,伝道者は「永遠の住まい」に入ることはできないのだろうか? 確かに伝道者に金がある限り,それはある種の(茨の)壁を,周囲の人々や「友」との間に築いてしまうだろう.それは,伝道者にとって「永遠の住まい」の前に立ちはだかる壁である.なぜなら伝道者が資金を所有していた場合,「彼らは神よりも自分たちの金に頼って生きており,神のみに頼った生き方をしていない」と周囲の人々に思わせてしまうからだ.だからこそイエスは,72人の修練的伝道に際し,財布無しで出発させたのであった.伝道者が金を蓄えている限り,周囲の非信徒のみならず,伝道した「友」すらも,伝道者を見習い,神よりも金をあてにすることになるだろう.さらに伝道者と伝道された「友」との間には,どこかよそよそしい風が吹くことになるだろう.伝道者の経済的サポートに関しても,渋る「友」がいても不思議ではない.ゆえに,伝道者が「永遠の住まいに迎え入れられる」ためには,彼に何の資金も所有物もなくなること,逆に言えば,隣人の愛によって衣食住や伝道生活がまかなわれることが必要となるのである.

2013年10月28日月曜日

「光の子」らの先へ(ルカ16・8,主日礼拝)

この世の子らは,自分の仲間に対して,光の子らよりも賢く振る舞っている(ルカ16・8)
本日の主日礼拝の説教は,先週に引き続いて「不正な管理人」のたとえについてであった.本日の説教では,このたとえの最後の部分「神と富とに仕えることはできない」を扱ったのだが,このたとえについては,その一節一節についてじっくり考えてみたいので,今回は前回の続きを書こうと思う.

 前回のブログ『すばらしい「不正」』では,不正な管理人が,債務者・主人・管理人のすべてに喜びを与えた「不正(律法違反)」について考えてみた.その時に,上記の聖句については触れなかったので,ここで触れてみたいと思う.

 この聖句で気になるのは,まず「光の子」という特殊な表現だ.「光の子」という表現は,新約において,このルカ16・8,テサロニケI 5:5,エペソ5・8,ヨハネ12・36だけに出てくる.知っている方も多いと思うが,「光の子」は死海文書の「戦いの巻物」中に出てくる表現であり,最終戦争において勝利する者達のことである.おそらく,クムラン宗団やエッセネ派の影響を受けていた原始教会において用いられていた終末論用語と推測される.死海文書によれば,この「光の子」らの敵は「闇の子」であり,最終戦争において「闇の子」は滅ぼされることになっている.しかしおもしろいことに,ここで「光の子」らに対比される者達は,「闇の子」ではなく「この世の子」である.

 最終戦争の後に,「光の子」らが「信仰により救われた者達」,「闇の子」らが「信仰を拒否して滅ぼされた者達」となるのであれば,その最終戦争が起こっていない時点での「この世の子」らは,「現在救われてはいないが,救われる可能性が残されている者達」,すなわち「(完全な)闇の子でも光の子でもない者達」を言い表していると考えられる.

 さて聖句では,その「この世の子」らが,ある種の賢さ,すなわち自分の仲間に対する賢さにおいて,「光の子」らを上回っていると主張している.「不正な管理人」のたとえでは,管理人の不正な「抜け目ないやり方」を主人にほめられたのだが,それが「賢さ」を意味するとすれば,「この世の子」らの賢さについても,イエスは評価をされていることになる.ではなぜ「この世の子」らの賢さをイエスは評価されているのか?

 「この世の子」らは当然のことながら,この世に生きている.彼らには真の信仰がなく,彼らの思考パターンは,基本的には経済学的(Give & Take)である.この世に生きる彼らの人生の目標は,この世における自己の利潤追求(この世の富)である.ここでは便宜上,「利潤」と言ったが,その中には財産だけではなく,「権力」「名誉」等も含まれている.したがって「利潤」を「快楽」と言い換えても良いだろう.この世の富(財産,地位,権力,名誉等)は快楽を生み出すがゆえに,それを追求するわけだ.当然彼らの関心は,この世に存在する自己の所有する富,あるいは自己所有の可能な他者の富である.他者所有の富は,基本的には,自己所有可能な富と考えていいだろう.

 「この世の子」らの利潤追求行為(経済行為)は,この世の他者との交流や戦いにおいて成り立っている.特に自分に利益をもたらす仲間(味方)に対して行為者は,うまく折り合いを付けて,共存を探りつつ,自己の利益を追求していかなければならない.「この世の子」らの知恵は,その利潤追求行為の一環として駆動されている.この利潤追求行為の経験によって得られ,蓄積された知識こそが,彼らの「賢さ」である.その賢さの中に,「不正(律法違反)」に関するテクニックが含まれるのは言うまでも無い.この世に生きる彼らにとって,律法遵守はさほど重要なことではない.イエスは,彼らの賢さの中でも,「自分の仲間に対する賢さ(折り合いと共存の知恵)」をほめ,評価したのだった.これに対して「光の子」らはどうか?

 「光の子(救われた者)」らの関心の対象は,この世に存在しない.彼らの関心は,終末と終末時の自己の「救い」にある.信仰によって究極の目標を得たと信じた彼らには,「この世の子」らのように,富を追求する意欲も無く,神とのネゴシエーション(取りなし)に悩んであれこれ知恵を絞る必要も無い.それゆえ彼らは経験を積み重ねることもないため,知識も増えてはいかない.つまり「光の子」らにおいて,「賢さ」はその進歩を停止している.それに対して「この世の子」らは,この世に対して貪欲であり,自己の利潤・快楽の追求を止めることはない.故に彼らのその賢さや知識は増すばかりである.

 さてそれではイエスがなぜ,終末論用語である「光の子」と言う表現を,わざわざここで用いられたのか?

 ご存じの通り,この聖句はファリサイ派や律法学者だけではなく,弟子達,すなわち信徒に向けられたものでもある.終末論用語をイエスが用いた理由は,おそらく,新約の他の部分も指摘しているとおり,信徒の中に,終末が明日にでもやってくると信じ,その時の「救い」以外に,関心を持つことのできない者がいたからだろう.

 「救い」をあまりにも重視しすぎた彼らは,入信によりそれを得て,心の底から安堵したことだろう.入信により,究極の目標を達成してしまった彼らの中には,「自分は救われ,明日には世界が滅ぶのだから,もう何もしなくてもいい.何をやっても無駄だ.」と考える者も出てきたのだろう.またそのような考えを持つ者の中には,「この世の子ら」に対して優越感・選民意識を持つと同時に,クムラン宗団がそうであったように,「この世の子」らの接近に対し排他的な態度に出ていた者,あるいはグループも存在していたのかもしれない.クムラン宗団が消滅したように,そのような考えを持ってしまった信徒達が,その後,転落していったことは想像に難くない.つまり「光の子」と言う表現は,信徒の中の堕落してしまった早期終末論者を批判するために,イエスが用いられたと考えられる.彼らは「救い」の心地よさに眠ってしまったのである.それゆえ神の呼びかけを聞くことができない.

 「この世の子」らは,限りなく「闇の子」らに近い.しかし,彼らには「光の子(救われた者)」となる可能性が残されている.そして彼らが回心し,信仰により救われた後,「救い」のみに満足することのない彼らの持つ底なしの欲望の鉾先が,「この世の富」から神へと,「天の富」へと方向転換するのであれば,彼らは神のみこころを貪欲に求め,神の呼びかけに応答し,活発な活動を精力的に行うであろう.その時,彼らが「この世の子」らとして生きていた時に得た,「不正」をも含む知識や経験,すなわち「賢さ」は大いに生かされることになる.

 管理人が「不正」によって友と生活を得たように,彼らも友と生活を得るであろう.こうして「放蕩息子」のたとえと同様,後の者は先になり,彼らは「光の子」らではなく,キリスト者となる.

2013年10月21日月曜日

すばらしい「不正」(ルカ16.8,主日礼拝)

主人は,この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた(ルカ16・8)
本日の説教は「不正な管理人」のたとえであった.先生のおっしゃるとおり,このたとえの第一印象は,「なぜこのような悪い人間が賞賛されるのか?」という一種の拒絶感のようなものだろう.もちろん,イエスはその拒絶感が起こることを,むしろ期待して,このたとえ話をされたに違いない.その「拒絶感・違和感」が,実は自分の認識の限界を示していることに気づいたとき,人は成長できるのだろう.

 特にこのたとえは,イエスの弟子達のためにも語られた(ルカ16・1).すなわち未信者や信仰の初心者ではなく,ファリサイ派や律法学者などをも含む,ユダヤ教・キリスト教信仰のレベルの高い者に対するたとえ話となっている.したがって,一般大衆的常識では歯が立たないが,信仰の深い者には理解できるように作られている.そういう意味で,これは禅の公案にも似ていると言えるだろう.

 管理人は確かに文書偽造を行った.これは一般常識からいっても,当時の律法においても犯罪であろう.ところが二重の被害者とも言える「ある金持ち」は,彼の「抜け目ないやり方」に対して,腹を立てるどころか彼をほめた.なぜ,二重に被害を受けた者が,その加害者(のやり方)をほめ,何よりも先にその罪に対して怒りを発しないのか?

 ここで管理人の罪について,明らかにしておこう.まず「主人の財産の無駄遣い(ルカ16・1)」がそもそもの発端であった.ただし注意したいのは,これが告げ口であったことだ.主人自身が,直接無駄遣いを確認したわけではなく,間接的にその密告(証言)を聞いただけである.それだけで管理人を即,解雇するのはなかなか考えにくい.証言ならばやはり,二人以上の証言が欲しいところである.

 にもかかわらず主人が,解雇を決定したと言うことは,その証言を裏付ける証拠が,同時に提出されている可能性を考えておく必要があるだろう.主人は会計報告を管理人に要求しているが,これは職務引き継ぎのためであり,彼の無駄遣いの証拠を追求するためではないとするのが一般的な解釈のようだ.とするとやはり主人は,管理人の無駄遣いを確信するに至る確かな情報なり,証拠なりを持っていたことになるだろう.また管理人は,主人の解雇通告に対して,何ら反論・抗議をしていないようなので,「無駄遣い」をしていた事実を主人の前で認めたのかもしれない.しかしその無駄遣いの内容は,いったいどのようなものだったのだろうか?

 少なくともその「無駄遣い」によって,彼が私腹を肥やしたと思わせるような表現は,ここにはない.彼が長年にわたって私腹を肥やしていたのなら,仮に首になってもその金で主人のマネをして,商売を始めることはできたことだろう.しかしおもしろいことに, 彼は解雇されたとたんに,乞食か,肉体労働か,といった誰にでもできる仕事でなければ食べていくことができないと考えている.

 つまり彼には全く私財がない上に,自活能力もないと自認していると考えられるのだ.賢い管理人には,私腹を密かに肥やすチャンスはいくらでもあったはずだ.しかし彼はそれをしなかった.彼がしたのは「無駄遣い」である.

 管理者としての自信が以前の彼にはあったのかもしれないが,今回の無駄遣い騒動でその自信も失われたのだろう.資産も自活能力もない彼に残されたものは,生存に対する絶望と,わずかばかりのプライド,すなわち「物乞いは恥ずかしい(ルカ16・3)」だった.

 こうして考えてみると,無駄遣いが実は,彼の過失もしくは管理者能力不足のためであり,彼は彼なりに,まじめに管理業務をしていた可能性も否定できないのである.もし仮に管理者能力不足の問題であれば,それは任命責任が主人にある.つまり主人が管理者能力の査定を誤ったと言うことになるため,彼の罪は問われないだろう.

 ただしこの管理人が後に,物乞いや肉体労働者にならないために,文書偽造を思いつきそれを実行したことから,彼の倫理観において,律法遵守の精神に欠けていたことはほぼ明らかであり,彼の無駄遣いが,彼の職務怠慢によるものである可能性もある.律法に対する罪人とは,律法を越えて行動する者のことである.

 ではここで,無駄遣いの原因の仮説をまとめておこう.
  1. 管理人の能力不足説
  2. 管理人の職務怠慢説
  3. 管理人の過失説
まず能力不足説についてだが,後に考察する証文偽造の巧妙なやり方から見て,彼は相当に賢い人間だったに違いない.そしてその賢さ・能力を主人は見抜いていた.ゆえに主人は,彼に全財産を管理させたのだろう.したがって,この説には説得力がない.

 職務怠慢説については,前述の通り,彼は律法遵守よりも,自分が物乞いや肉体労働者にならないことを選択したこと,すなわち自己の利益を律法よりも重視したことから,この説が事実であった可能性はある.ただ彼がそれだけの資産を運用しながら,私腹を肥やしていなかった事実は,当時の収税人やローマ兵に比べて,かなり高い倫理観を示しているように思える.それだけの誘惑に打ち勝てる者が,職務怠慢であったとは考えにくい.

 となると過失説は,かなり有力になってくる.すなわち管理職を忠実に行っていたのだが,見落としか何かがあり,無駄遣いとなってしまった.仮にこの説をとるとすると,この賢い管理人の見落としとは何だったのだろうか?

 一つだけ言えることは,この管理人の管理には,確かに問題点があった.それは告げ口をされた事実からはっきりしている. おそらく彼は管理職に忠実すぎたために,雇い人や債務者を苦しめていたのだ.彼には多くの敵がいたにちがいない.そして隙あらば,彼を失脚させようと機会を狙っていた者も多かったと思われる.もし彼が職務に忠実ではなく,私腹を肥やすために,賄賂を受け取って証文の書き換えを行ったり,借金の取り立てを面倒に思い,厳しい取り立てを雇い人にさせたりしなかったら,敵は少なかっただろう.彼の倫理観の高さは,彼が解雇されるまで,文書偽造のような犯罪を思いつかなかったことでも証明される.

 彼の職務に対する忠実さが多くの敵を作ることになり,結果,彼は「刺された」のだった.主人が告げ口を聞いただけで,彼の解雇を決定し,彼に弁解の余地を与えなかったのは,無駄遣いの確たる証拠や証言が,密告者からもたらされたためだと考えられる.したがって密告者は内部の人間であり,管理人の元で働いていた雇い人の一人であることが有力である.

 またこの無駄遣いが,実は密告者によって密かに行われた可能性も否定できない.それによって管理者を失脚させるためである.後にわかるとおり,これだけ能力があり,職務に忠実な管理人が,無駄遣いを見落とすことがあるだろうか?つまり管理人は,敵の罠にはまったのだ.

 ここで仮説をまとめると
  1. 管理人は職務に忠実であり,まじめにそれを実行していた
  2. 管理人は職務遂行のため,債務者や雇い人を虐げており,敵がたくさんいた.
  3. 管理人は指摘された「無駄遣い」があったことに気づかなかった 
  4. 無駄遣いは管理人自身か,密告者(雇い人)によって行われた
彼が主人に対して必死に弁明しなかったのは,おそらく,彼が気づくことのできなかった無駄遣いの存在を,彼がその場で認めたからだろう.仮にその無駄遣いが,悪意のある不忠実が密告者によって行われたとしても,それを見抜けなかったことは彼の管理人としての落ち度とも言える.彼がその場でその陰謀を感じ取ったとしても,彼は主人に対して弁解をせず,己の過失を認めたことだろう.彼には管理人としてのプライド(プロ意識)があり,自分の犯したミスを赦すことができなかったのである.

 前述の通り,彼は解雇後に,自分には乞食か肉体労働者という職業しかない,言い換えれば,自分には管理人以外の能力はないと決めつけていた.すなわち管理人という職業は,彼のアイデンティティの大部分を占めていた.さらに「乞食になるのは恥ずかしい」というプライドも,職業に対する彼の意識を物語っているように思える.

 彼のそのような心情を思うとき,主人から無駄遣いを指摘され,解雇を通告されたとき,彼のプライドはズタズタに引き裂かれたことだろう.彼が反論・抗弁をしなかったのは,無駄遣いに気づかなかったという管理上の過失(罪)を認め,「自分は管理人に値しない」と自らを裁いたためだ.彼は彼を有罪に処し,懲戒免職処分という罰を無条件で受け入れたのである.たとえそれが自分に対するワナであったとしても.
 
 次に物語の後半,文書偽造の罪についてを考えてみる.解雇された彼は生きることに絶望したであろうが,その苦悩の中で,生きていくためいくつかの選択肢にたどり着いた.それは次の3つであった.
  1. 土を掘る:自分だけの力で生きていく.他者には与えない.
  2. 物乞いになる:他者に頼って生きていく.他者には与えない.
  3. 文書偽造で寄食:他者に頼って生きていく.他者には与える.罪を犯す.
 彼は結局,律法を破り,文書を偽造し,他者の中に生きていくことを選択する.彼の文書偽造の目的は,「自分を家に迎え入れてくれるような者(ルカ16・4)」を複数作ることだった.彼はそのために,未だ残っていた管理人の職権を「悪用」し,債務者に対して文書偽造をそそのかして,実行させたのであった.

  確かに彼は証文を書き換えさせたのだが,おもしろいことに証文の破棄はしていない.証文の破棄の方が,書き換えよりも証拠が残らない分だけ,完全犯罪となる可能性が高いはずである.むろん債務者も,目の前で証文を破棄すれば,証文書き換えよりも喜ぶはずである.しかし彼はそれをせず,当時の負債の利子に当たる分,借用量を減らしている.

 当時,オリーブと小麦等の農作物は,収穫の多い年と少ない年があり,そのリスクを含めて貸し借りの利子が決められており,小麦25%,油100%であった.それが正しければ,油は100バトスから50バトスに書き換えたので,返済は100バトスということになる.小麦は100コロスから80コロスに書き換えたので,返済は100コロスになる.すなわち債務者にとっては,無利子で借りた形となる.しかし
同胞には利子をつけて貸してはならない.銀の利子も,食物の利子も,その他利子が付くいかなるものの利子も付けてはならない(申命23・20)
 つまりもともと利子を取ることは禁止されていた.もし主人が同胞の債務者から利子を取っていたとするならば,主人も実は犯罪者なのである.

 このたとえにおいて,利子は具体的に出てこないため,確かなことは言えないが,もしこの仮定が正しければ,管理者は自分が生きていくためにやったことではあるが,むしろ彼のやったことは,債務者を主人の不正から守ったことになる.主人が,二重に不正な管理人を法廷に訴えることができなかったのは,主人に彼以上に大きな罪があったからなのかもしれない.

 いずれにしても,管理人は彼の持つ倫理観や計算の中で,この無利子で貸したことにすることが,証文破棄よりも良いだろうと考えた.これが彼の知恵であり,賢さであり,まじめさであり,信仰であった.

 もう一つここで考えておきたいのは,証文書き換えのときに,管理人がどのようにして,債務者に対して書き換えを説得したのかである.債務者は確かに証文を書き換えたであろう.しかし,もしそれが主人の許可を得ておらず,管理者の独断であり,その見返りとして彼を家に迎えてもらうためであったと知れば,文書の書き換えが犯罪であることは明白であり,それなりに躊躇があるだろう.しかも債務者が管理者によって虐げられていたとすれば,この証文書き換えによって,新たな災難が自分に降りかかってくるかもしれないと債務者達が想像した可能性もある.

 おそらく管理人は,債務者たちの友となるべく,柔和な微笑みと共に,次のように債務者達を言いくるめたのだろう.
 自分は君たち(債務者)が経済的に極めて苦しい状況である事を知った.私の友である君たちの苦しみは,私の苦しみでもある.そこで私は君たちのために主人に対して、貸付利子の帳消しを願い出ることにした.

 私は主人に全面的に信頼されているから,私の言うことなら聞いてくれる.その上,主人は気前のいい,物わかりの良い人なので,私の申し出を快く受け入れてくださった.主人もあなた方を,憐れに思ってくださったのだ.

 だから書き換えには何の問題も無いし,犯罪でもない.友よ,どうか安心して書き換えてください.そして私の主人に感謝してください.
  かつての冷酷な振る舞いなど想像することもできない,様変わりした管理人の優しい心遣いと,主人の気前の良さに債務者は感謝し,躊躇することなく証文を書き換えたことだろう.だとすると,書き換えについて,債務者には全く罪はないことになる.債務者は管理人の「言葉」を信じたのである.この証文書き換え,いわば再契約(!)についての罪・責任は,あくまでも管理人のみにある.管理者は,仲介者(とりなしをする者)として機能した.彼は仲介を行いながら,主人の評判を上げ,自分の生活の術を確保し,債務者の重荷を軽するという,極めて難しい業を成し遂げたのだ.

 彼の取った行動(証文偽造)の結果をまとめてみよう.
  1. 主人:
    主人には利子分の損害を与えたが,この利子分は本来とってはいけないものであった.したがって主人に損はない.また管理人によって,当時多くの人が破っていた律法を主人が遵守したことになった.それによって主人の評判が良くなり,また債務者から感謝された.
  2. 債務者:
    債務が減り,経済的に助かった.主人と仲介してくれた管理人に感謝している.
  3. 管理人:
    自分が解雇された後に,家に招いてくれる友をたくさん作ることができ,人々の中で生きていくことになった.
つまり管理人のとった証文偽造という律法違反は,おどろくべきことに,関係した三者にとって,喜ばしいこととなった.律法違反にもかかわらず,損をした者も不幸になった者もいなかったのである.主人はこのように,すべての人に対して喜びをもたらすことのできた「不正(律法を破った)な管理人 」のその「抜け目なさ」「賢さ」をほめた.それは彼の律法違反の罪を越えた,すばらしい出来事だったからである.よって彼は敵を作るどころか,敵を味方に変えて,誰からも証文偽造の罪で訴えられることもなかったのだ.

 律法に乗っとり,職務に忠実であったときに,人々に憎まれ,その過失罪を問われた管理人は,その職務から放免され,意図的な罪を犯したときに,その罪を問われることはなく,むしろ皆に賞賛された.ある意味では皮肉な結果であるが,我々はここにイエスのストーリーを重ね合わせてみることができるだろう.解雇されるまでの管理人を「人々に厳しく臨むファリサイ派の僧」,解雇された後の管理人を「人々に柔和な笑顔で臨む破戒僧的仲介者」と見れば…

 神の律法は人間には計り知ることができない.神は常に正しい.そしてイエスは律法を破った者として,ファリサイ派に唾棄されたが,イエスご自身は律法を完全にするために来たと言われた.神の真の律法は,人間に知ることはできない.神のみぞ知る.それはイエスのみが知っていることである.管理人のやったことは,ファリサイ派から見れば立派な犯罪であり罪であろう.しかし神から見たときには,それは犯罪ではなく,むしろ律法を完全にするための行為であり,人々を幸せにする善い行いだった.彼は主人の見込んだとおりの人間であったのだ.

 主イエスは,御父の財産をすべて任された管理人である事は言うまでも無い.彼はその御父と,罪の負債を抱えている人々との間の,仲介者として働いた.その働きは時に,ファリサイ派にとっては,律法違反であり,罪深く許しがたい神に対する冒涜行為だった.しかしそれが実際には,仲介者イエス(管理人)と罪人(債務者)と御父(主人)の三者に大いなる喜びをもたらした.そこには御父に対する罪はない.そして管理人イエスは,人々の中に入り,友として生き続けられるのである.

 この「不正な管理人」のたとえにおいて,イエスが弟子達に対して,意図的にしこんだワナは,「律法違反者=悪者」という公式に弟子が囚われている限り,抜け出すことができない.イエスがこのようなワナで弟子達を試そうとしたのは,それほどまでに,ファリサイ派や律法学者はもちろんのこと,弟子達の間にも,この公式が根強く残っていたからだろう.

 不正な管理人のたとえを聞いて,まず最初に管理者の不正の糾弾に走る者は,「裁く者」の立場に居座る者である.彼は神の座に座る不遜者である.まず裁かずに,心をむなしくして,よく聞き,よく見ることである.「裁き」は,「目の中のある梁」である事を忘れてはならない. 

2013年10月6日日曜日

放蕩息子の帰路(ルカ15:13,主日聖餐礼拝,世界聖餐日)

何日もたたないうちに,下の息子は全部を金に換えて,遠い国に旅立ち,そこで放蕩の限りを尽くして,財産を無駄遣いしてしまった.(ルカ15:13)
本日は世界聖餐日であったが,いわゆる「放蕩息子」のたとえが,説教のテーマであった.このたとえは大変有名なので,多くのノンクリスチャンも知っている上に,解説の類いも多い.それゆえ「今更,このたとえに関して,より深いものが見いだせるだろうか」と思われる方も多いかもしれない.

 自分は間違いなく,この放蕩息子に他ならない.だからこのたとえには,特別の思いがある.だからより深く読み込もうとする.そこで気がつくのは,あまり解説されたことのない,このたとえのいくつかの疑問だ.

 その第1は放蕩息子の動機.「彼は父から自由になりたかった」「思いっきり遊んでみたかった」等はよく聞く理由である.しかしただそれだけの理由で,果たして,家族から独立するかのようにして,一人で遊びたいと思うものだろうか?そのくらいの動機であったのなら,数週間分の小遣いをせびって,遊びに行き,自由を満喫して,また家に帰ってくるという手もあったのではないか?あるいは父の財産をこっそり盗んで,遊びに行くという手もあったかもしれない.いずれにしても,自分の家,帰ることのできる唯一の場所を,遊びや一時的自由のために捨てようとは,なかなか思わないだろう.

 考えられることは,彼はその家そのもの,すなわち父と兄に対して,がまんのならない不快感を感じていたということだ.それはおそらく,自分が2番目の息子(弟)であり,長子の権利を持たない事に対する,コンプレックスにあると自分には思われる.弟は,自分が長子でないことに絶望していたのである.そして弟であるが故に,自分は父に愛されていないと,常々感じていたのであろう.

 「兄は父の愛を一身に受けて,まじめに一生懸命働いている.それはその働きの報いが約束されているからだ.兄は長子として家を継ぎ,父の財産もほとんど(3分の2)は彼のものとなる.そして父の家は兄によってこれからも安泰だろう.自分はこの家族において,できの悪い僕のようなもので,父と兄の奴隷のような存在.愛も報いも結局与えられないのだ.弟なんて,あの父の息子だなんて,名ばかりだ!」と弟は考えていたのかもしれない.

 弟はそのストレスを,放蕩することで発散しようとしていた.おそらく家にいた時から,不真面目で父や兄の言うことを聞かず,怠け者で遊び好きだったことだろう.特に兄からは怠け者・できの悪い弟として,さげすまれていたかもしれない.つまり弟が家を出る前から,既に兄弟仲は悪かったはずだ.彼には家の中に居場所がなかった.だからこそ,家を捨てる気になったのである.

 「財産の分け前を下さい」などと親に言うことは,尋常なことではない.父親も息子のただならぬ様子に気づいたはずである.父はここで弟を説得して,この時点での財産分与をあきらめさせることも可能だったのはずである.また彼の心情を問いただすこともできたはずだ.奇妙なことに,父はそのようなことは全くしていない.それはなぜか?

 父はすべてを知っていた.弟が自分や兄に対し不満を持っており,なおかつ,家出をしようと企んでいたことを,彼の言動から既に予測していたのである.そしておそらく,彼は聞く耳を持っておらず,いかなる説得も,今の彼には通用しないと思っていたのだろう.だから弟が「財産の分け前を下さい」と言った時,父はついにその時が来たのだと思ったに違いない.

 父は弟の言うとおりに財産分与を行った.財産の使用権は,依然として父にあったようだが,父はこのような申し出があった以上,彼がその財産を持って,ある意味,律法に基づき正当性を持って,家を出て行くことは覚悟しただろう.何を言っても息子は聞かないだろうし,仮に財産を分け与えなくても,おそらく彼の決心は変わらず,むしろ財産を分けなかったことに腹を立てて,家を出て行くだろう.彼を引き留めることはもうできなかった.

 父は悲しかった.そして彼の将来をたいへん心配したが,それでも引き留めもせず,彼の好きにさせた.彼に与えた財産が,せめて彼の生活をある程度支えてくれるであろう事を願って.

 そして弟は何日もしないうちに出て行った(ルカ15:13).その「何日」は,家出の準備に当てられていたのだろう.仮に父が鈍感で,弟の家出計画に気づいていないとしても,この「何日」の間には,彼の行動から家出計画に気づき,それを阻止する実力行使も可能だっただろう.しかしおそらく前述の理由により,父は干渉しなかった.そして息子は家から姿を消した.

 このたとえの前に提示された2つのたとえ「見失った羊」「無くした銀貨」においては,羊飼いや女は執拗に失せ物を探索する.しかしこの「父」は,全くそのようなアクションは起こさない.最初から最後まで,出て行った息子を放置するのである.なぜ彼は探索しないのか?

 それはおそらく,息子が戻ってくることを固く信じていたからだろう.弟は根っからの悪人ではない.彼はちゃんと筋を通して,律法に基づいて財産分与を要求し,父や兄から財産を盗むことはしなかった.やろうと思えば,父や兄に復習する意味においても,それはできたはずであるし,それ以上のことも可能だったかもしれない.しかし彼は家を破壊し家の支配者になることなく,正当なやり方で辞去していったことは,彼の中の信仰のともし火が,まだ消えていないことを示しているように思える.彼には回心の可能性が残されており,父はそれに賭けたのである.

 父は家出が発覚した後,すぐにでも息子を探しに行きたかったに違いない.しかし家出直後にもし父が息子を探しに行き,息子がそのことを察知したならば,息子は再び自由が侵害されると思い,彼から逃げ出す可能性があった.

 息子が放蕩の限りを尽くした後,おそらく風の噂に,父はそれを知ったであろう.しかしそれでもその場所に,息子を探しには行かなかった.放蕩の後,息子には,父が働いて稼いだ財産を放蕩したことに対して,強い罪の意識が残った.故に息子には父に合わせる顔がなかった.彼が家に帰れなくなった理由の一つであるが,これは彼の信仰心を表すと同時に,最終的に彼に死をもたらすものであった.父はそれをも見抜いていた.もし父が探しに行けば,息子は罪の意識ゆえに,父に助けを求めるどころか,彼から逃げ出してしまうに違いない.だから父は探さず,息子の回心に賭けたのだ.

 見失った羊は,羊飼いを求めて鳴き声を上げた.無くしたドラクメ銀貨は,ともし火に呼応して光を反射した.しかしこの息子は,食べるにも困っているのに,父に対して助けを求めず,全くの他人であり異邦人でもある「ある人のもとに身を寄せた(ルカ15:15)」.

 この異邦人は彼に食べ物を与えなかった(ルカ15:16).異邦人は,彼が家に帰れない立場(罪)にあることを利用し,彼を奴隷として扱った.それ故に,彼は満足な食事すら与えられなかったのである.つまりこの異邦人は「悪魔」である.しかし彼が身売りをしていたとすると,彼が父の家に帰るのは難しい事から,まだ身売りはしていなかったのだろう.信仰は守られていた.しかしこのままでは,もはや身売りは時間の問題だろう.

 そして息子はついに回心の時を迎える.なぜ自分がこのような境遇に陥ったのか,彼は苦しみの中で内省を続け,その結果,自分の高慢,独りよがりの考え,父に対する誤解が,その原因であったことに気づいた.彼は彼の非を認めたのである.この回心において,彼の信仰が保たれていたことが明らかになる.彼は放蕩生活を楽しんでいたわけではない.むしろ苦しんでいたのだ.愛されぬ苦しみ,生きる場所のない苦しみ,その苦しみから逃れるために,放蕩により気を紛らわせていたに過ぎない.それゆえに無計画に金を使い,破産した.もし彼が父から独立したいと願っていたのなら,目標を持って,計画的に適切に金を使っていたことだろう.

 彼の信仰が保たれていたことは,彼の言葉からわかる.

お父さん,わたしは天に対しても,またお父さんに対しても罪を犯しました.もう息子と呼ばれる資格はありません.雇い人の一人にしてください.(ルカ15:18-19)
もし息子が単純に腹を満たしたいだけであったのならば,まず父に対して必死に謝罪し,許しを請うだろう.しかし彼が最初に謝罪したのは「天」,つまり神である.彼はまず神に対しての罪を認めたのだ.信仰は彼の中に保たれていた.ある意味ではその信仰心が罪の意識を生み,愛されぬ苦しみに加えて,彼をさらに苦しめていたのだ.しかし彼はこの回心において,自分の罪を認め,それを神や父に告白すると同時に,自分に対する処罰案を提示することにより,和解を目指すことにしたのだ.

 それは神や父が,自分の犯した罪ゆえに,自分を殺すことがないと,放蕩息子が確信したからこその希望であった.彼は自分の犯した罪に対する罰として,1)「息子の資格喪失」と共に,2)「父の僕として苦役に従事する」事を想定した.いわば彼は,彼を,彼の律法において裁いたのだ.しかしその裁きにおいて,自分は死刑に相当しないと判断することができた.これは彼の理性的な判断であり,その根拠はおそらく「律法(聖書)」であったのだろう.彼の手元にそれがあったのか,それとも彼の記憶によるものかは定かではないが,聖書は彼に生きる希望をもたらした.

 こうして彼は帰路につくことになった.しかしそれは単純な道のりではない.彼は一文無しであり,食料もろくに持っていない,奴隷のような状況である.しかも彼は「遠い国(ルカ15:13)」におり,帰りの旅路は恐ろしく長い.したがって,この「我が家」への帰還は極めて危険と困難に満ちており,彼に旅立ちを躊躇させたことだろう.ここにとどまれば,やせこけて飢えた餓鬼のような奴隷ではあるが,生き続けることはできるかもしれない.父の家を目指して旅立てば,旅路の途中で飢え死にするかもしれない…

 彼をそれでも,家への旅路につかせたもの.死の恐怖に打ち勝たせたもの.それこそが神を信じる信仰の力であり,「家に必ず戻れる」という希望の力,あの懐かしい父を求める愛の力である.この家までの旅は,とうてい彼一人の力では不可能である.必ず何者かの助けがなければ,とうてい家にはたどり着けない.彼は神が共にいてくださる事を信じ,一種の乞食・托鉢修道者のようになって,家を目指したのかもしれない.彼は自分を低くして,旅路で出会った人々に恵みを乞い,その人々の情けや憐れみによって,生かされた.それこそがまさに神の憐れみであった.

 父は息子の帰還を信じていた.そして父は,息子が帰ってきたその時のために,服や指輪や履物を準備しておいた.毎日,父は息子が消えていった道の先に立っては,息子の姿をその遙か彼方に追い求めていたに違いない.だからこそ,息子が本当に帰ってきたその時,「まだ遠く離れていたのに(ルカ15:20)」父は帰ってきた息子の姿をみとめる事ができたのだ.

  そして父は,その変わり果てボロボロになった息子の姿を見て,深く深く憐れんだ.もう彼の息子には,何も残っていなかった.この地上において,彼に残されていたのは「父の家に帰ること」への思い,ただそれだけであった.それ故に,息子が父に再会した時に発した言葉の中には「雇い人の一人にしてください」が含まれていない.

 帰りの旅路で彼は,様々なことを学んだことだろう.そして彼の信仰は深まったに違いない.その深まりとともに,自分の犯した罪の重さが,当初想定した時点とは比べものにならない程,重いものであったことにも気づいていった.そして次第に,自分が父の雇い人の一人になって,この世に生き続けることなど,どうでもよくなっていったのだろう.彼はただただ父に会って,和解がしたかったのである.そしてその和解の後,この世を去ってもよかったのである.

 しかし父の彼への愛は,そのまま彼を死なせはしなかった.父は彼の命のためにできることを,緊急に「急いで(ルカ15:22)」行った.まず「良い服」に着替えさせた.これは礼服,晴れ着,イエスの服であり,それまでの汚れた服・罪を捨てさせた.次に指輪をはめ,彼が自分の息子(相続者)であることを公にあかしした.そして履物を履かせ,奴隷の身分から彼を解放するとともに,この「地」に密着していた足を地面から分離した.さらに子牛を屠り,彼のやせ細った身体に滋養を送り込んだ.こうして彼は罪が許され,父の息子として生き返り,そして兄を越えた(「いちばん良い服(ルカ15:22)」).それは放蕩息子が全く想像だにしなかった結末であった.彼は必ずや与えられると思っていた罰,すなわち「永遠の死」の代わりに,「永遠の命」を得たのである.


 弟が帰還した時,兄は兄で相変わらずまじめにやっていた.この兄が「残された(まじめな)99匹の羊」や「(手の中に残された)9枚のドラクメ銀貨」と同様に,ファリサイ派を表象しているのは間違いない.兄は,弟の帰還に喜びを感じるどころか,怒りと不快を露わにした.

 おそらく兄は,ろくでなしの弟を自分の恥のように思っていたのだろう.彼は彼の実弟を「あなたのあの息子(ルカ15:30)」と呼び,「弟」と呼ぶことをはばかっている.だから弟は勝手に家を出て行った時は,さぞ清々していたことだろう.しかし今や,再び彼が帰ってきて,自分がもらったこともない子牛が屠られ,皆は彼の帰還を喜び,パーティーで浮かれている.「あのろくでなしのために!赦せない!」,兄は拳を握りしめたことだろう.兄は赦さない人であり,裁く人であり,怒る人である.嫉妬する人であり,呪う人である.

 彼は父を責める.彼は自分が父に何年も仕えたことに対して,何の報酬もなかったと言って,「報酬」の不公平を,弟に対する嫉妬と怒りを交えながら,父に向かって訴えた.兄は,自分の勤勉な行為に対する報酬として,父から十分な物を受けていないと主張する.彼にとって,弟に与えられた様々な物は,弟の行動の「報い」であった.なぜ放蕩者の報いが,何年も仕えた自分のそれよりも良いのか,彼には理解できなかったのである.彼は自分の考え(行動とその報い)が,絶対に正しいと思い込んでいる.しかし父の思いは,全く兄とは異なっていた.

 父にとって勤勉など,極論すればどうでもよかったのである.父と息子の関係は,雇用主と労働者の関係ではない.つまり経済関係ではない.勤勉な労働を行って,報いを稼ぎ出すのは,経済行為であり,その関係は極めて冷たいものである.父と息子の関係は,愛と信頼であり,それはあらゆる経済的原則を越えている.弟は,父に対していかなる労働もしていない.しかし彼は罪を認め,信仰に生きるようになり,父を信じて帰ってきた.そこに父は義を認めたのである.そして父は彼から何ものも要求せず,彼に「恵み」を与えた.

 しかし父は,このような兄に対しても怒ることはなかった.「子よ(ルカ15:31)」と呼びかけ,父に対する不遜と,自分の考えを絶対視する高慢を赦し,優しくその理由を説いた. それに対して,兄が納得したかどうかは記されていない.

 放蕩息子は我々の姿である.それまでの己の罪を認め,回心を経験し,洗礼を受け,神に向かって帰路を歩いている.それは実は,危険と困難に満ちた道でもあり,信仰・希望・愛を唯一の財産として,主イエスと共に歩いて行く神への道でもある.本日の説教において先生は,放蕩息子のこのたとえと,日々の悔い改めの重要性をリンクさせながら語ってくださった.その通りである.放蕩息子の帰路は,毎日が悔い改めであった.それによって,信仰はますます深まって,ついに神にたどり着くのである.日々の悔い改めは,苦痛を伴う部分があるのは事実だろう.しかし,我らの日々の罪もまた事実である.主イエスになった者は一人としていない.故に我らは皆,罪人なのであるから.

2013年9月2日月曜日

ルカ14:16-18 神の招きへのつまずき(主日聖餐礼拝)

そこで、イエスは言われた.「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう準備ができましたから、おいでください』と言わせた.すると皆、次々に断った.(ルカ14:16-18)

 本日の主日聖餐礼拝の説教は、ルカ第14章15~27節についてだった.この宴会のホストである主なる神と共に食事をすることは、すなわち神の友として、神と親しく交わることである.言い換えれば、神の国の中に入ることである.それはユダヤ教徒にとって、極めて光栄なことであり、何にも変えがたい喜びであったはずだ.従って信徒であれば,その招きは、いかなる個人的な事情があろうと、最優先にすべきイベントとなる.

 しかしその招待に対し、ユダヤ人達の反応は極めて冷ややかだった.結局、彼らはその招きを拒否したのである(ルカ14:18).先生によれば、当時のユダヤの風習では、まずあらかじめ宴会の招待者には、宴会開催予定が通知されるのだそうだ.従って、招待客は事前に自分のスケジュールにその宴会予定を組み込み、他のイベントとバッティングしないように配慮することは可能だった.つまりこの神の招きは、決して唐突な出来事ではなく、その招きに応じるために招待客は,礼服の準備やスケジュール調整等のための時間的余裕を十分与えられていたはずである.

 にもかかわらず、彼等は招待を拒否した.拒否の理由は、畑と牛と妻である.それらの用事は,いわゆるこの世的な事情,この世における資産管理であるが,それだけではない.それらの用事は宴会の後に行っても,それほど不都合がない緊急性のないものばかりであった.彼らは招待を拒否することが,招待者のメンツをつぶすことになり,招待者との関係を悪化させることはわかっていたはずだ.だとしたら,資産管理は後回しにして,とりあえず,形だけも宴会に出席し,招待者のメンツを保ち,なおかつ,招待者と自分たちの関係を維持するという配慮は当然できたはずである.招待者は明らかに,招待された者の上に立つ者である.ましてやそれが神であるのならば,なおさら出席は死守しなければならない.

 にもかかわらず彼らは,出席を拒否した.そこには出席拒否の強い意志が感じられる.つまり彼等は,資産管理を神との宴会より優先させたと言うよりも,宴会にどうしても行きたくなかったため,その口実を後付けしたと思われる.ではなぜそこまで,かたくなに出席を拒否したのか?

 一つ考えられるのは,彼らがその宴会において,自分の服を脱いで,礼服に着替えたくなかったというケースだ.
王が客を見ようと入って来ると,婚礼の礼服を着ていない者が一人いた(マタイ22:12)
 招待された宴会が,婚宴であるかどうかは,このエピソードからはわからない.ただこのエピソードの前(ルカ14:7)には婚宴における話があり,さらにその話の最後の方(ルカ14:12)では,婚宴ではなく一般的な宴会の話になっている.仮にこのエピソードが婚宴に近いフォーマルなものであったとしたら,やはり礼服着用義務はあっただろう.

 自分の服を脱ぎ,礼服を着ることが,偽りの自分自身,世間向けの自分自身を脱ぎ捨てて,イエスを着ることであり,イエスと一体となることであるならば,彼らはイエス故に,神の宴会出席を拒絶したことになる. つまり正確には,彼らは彼らの神の招きを拒絶したくはなかったが,そこにイエスという存在が介在するために,その招きをかたくなに断ったのだ.イエスの門を通ることを拒否したのである.しかし自分たちの信じる神の恩寵やその関係性は失いたくなかった.そのため,僕に対して欠席の言い訳をしたのである.

 彼らにしてみれば神に対して,今回の欠席がやむを得ないことの言い訳をうまくしたつもりだったのだろう.彼らのその時の社会的常識では,畑・牛・妻に関する用事は,神の宴会を欠席する理由として,十分であったのかもしれない.しかしそれは,宴会の招待者である神を,激怒させることになった.神は裏切られたのだ.そして彼らのために用意された席は,この世から見捨てられた貧しい人や身体の不自由な人,さらにはユダヤ教すら視野に入っていない異邦人(通りや小道にいる人々,ルカ14:23)のための席へと変えられていく.

 ユダヤ人達に対して事前に招待を通知した者達が、洗礼ヨハネを最後とするイエス以前の預言者達であれば,招待者を直接呼びに行った僕はイエスであろう.もし宴会のホストであり招待者である神が,直接彼らを呼びに行ったのであればどうだったであろうか?おそらくさすがに頑固な彼らも,その招待に応じざるをえなかったであろう.そして実際,神は直接彼らを呼びに行ったのである.つまり彼らは,彼らを呼びに来た貧しい身なりをした僕イエスを,神の子としてと認められなかったがゆえに,出席を拒否したのであった.盲目であるが故に,彼らはイエスにつまずいたのだ.

 神に呼び出されることは,あまりにも尊い光栄なことである.そしてそれに応答することは,深い喜びである. なぜならそれによって,一方通行ではない「交わり」ができるからである.そしてその呼び出しに応答するということは,自分の服を脱ぐことであろう.そこには真の自由がある.しかしこんなことを書いている私自身は,果たしてその呼び出しに応え,自分の服を脱いで,神の御前に出ているのだろうか? 祈り…

2013年8月25日日曜日

ルカ14:10 輝ける末席(主日礼拝)

招待を受けたら,むしろ末席に行って座りなさい(ルカ14:10)
本日の主日礼拝の説教は,主イエスのへりくだりに関してだった.イエスは,わざわざ天上からこの地上に救いのために下ってきてくださった.それは,とてつもない出来事である.なぜなら,明らかにあらゆる存在の中で最も美しく尊い方であるイエスが,この汚れ穢れた地上にまで,わざわざ下りてきてくださったからである.それだけではない.彼はその汚れ穢れた地上に暮らしている人々の中でも,最も惨めな人間として生きることを,自ら選ばれたのだ.そしてあの十字架において,彼は我々のために死んでくださった.それは,一般の日本人の持つ「神」のイメージ,生死を超越した存在,超自然的な能力により何でも自分の思うようになる能力者,偉大なる「力」といった,「神」のイメージとは,全くかけ離れている.

 彼の想像を絶するへりくだりは,十字架の死において頂点を極めるが,そのイメージは信徒でないとわからないかもしれない.しかし「弟子の足を洗う(ヨハネ13:1-20)」エピソードは,イエスを信じない者,すなわち,イエスが人間であり,ユダヤ教の先生であったと考える者であっても,彼の徹底したへりくだりに驚愕するであろう.

 彼は,十字架の死が近くなった頃,自ら弟子達一人一人の足を洗われた.当時,家を来訪した客人の足を洗ったのは,その家の奴隷だったという.イエスは,弟子達に対して,人間の中でも最も低い立場である奴隷(仕える者) にまでなって,へりくだった姿を弟子達に見せたのだ.手の届かないような高いところにいる尊敬する先生が,自分たちの奴隷となった姿に,弟子達も驚愕したであろう.そこには,「偉大なる力」としての神の姿は全くない.

 イエスは,「人に仕える神」という,にわかには信じがたい神概念を持っていた.その考えはこのルカのエピソードにも現れている.しかし先生は,このエピソードの表層上の教訓は,極めて一般的道徳のレベルにとどまっているとした.たしかに,わざわざ聖書に書かれなくても,「宴会においては末席に座れ」という教訓自体は,何かのマナーの本,あるいは道徳的な本に書かれていてもおかしくはない.ではこの聖書に書かれたルカのエピソードには,どのような深い意義があるのか?

 先生は,このエピソードが,真の謙遜とはどのようなものかを示しているとした.それは人の賞賛を期待して行われる,偽物の謙遜ではない.真の謙遜は,その謙遜に対して何の見返りも期待しないはずである.真に尊敬する対象に対して自分を低める者は,それによって自分がどうなるかなどと考えることがない.彼は,己の尊敬する対象を前にしたとき,自分の現状や立場や損得などを考慮することもなく,その対象に対し,なすべきことをなす.それは敬意を表すことであり,対象の前に自分を低めることである.それが見せかけのものではないことは,彼がその時に捨てたものが証をする.彼は自分を捨てるであろう.

 「自分を無にすること」これが真の謙遜の正体である.そしてそのような真の謙遜を示したものに,主は寄り添われる.
わたしは,高く,聖なるところに住み/打ち砕かれて,へりくだる霊の人と共にあり/へりくだる霊の人に命を得させ/打ち砕かれた心の人に命を得させる(イザヤ57:15)
  イエスは真の謙遜者の模範を自ら我々に示された.またこの末席のエピソードにおいて,謙遜こそがイエスに至る道であることを語られたのである.

 自分は自分の意志とは関係なく,神によって打ち砕かれた者である.それは誤解を恐れずに言えば,「神のふるわれた暴力」である.しかし同時に神の愛であり,神の救いの1プロセスであった.その暴力があったからこそ,私は受洗し,救われたのだ.それがなかったら,自分は一生,受洗しなかっただろう.もし受洗しなかったら…,自分は生きていたかどうかもわからない…

 私がこのエピソードを読むとき,もう一つのことを思う.この宴会への「招待」が,イエスからのものであったらと想像するのである.しかもその宴会は,私の心の中で開かれている.イエスが私の心の中にその様な宴会の準備をされたのである.想像の中で私が宴会の開かれる部屋に行くと,イエスはおろか誰もまだ来ておらず,たくさんの空席が並んでいる.イエスは,いついらっしゃるのかと待っている内に,自分は席に座らなければならない.その時に,キリスト者としての自分は,最初,末席を選ぶのだろう.しかし,イエスをずっと待っている内に,だんだん考えが変わってくる.「これだけ待っても誰も来ないのならば,末席でなくても良いのではないか」という思いが頭をもたげてくる.

 そしてついに,末席から席を上座に向かって,一つずつ移動し始める.そしてついに一番の上席にたどり着き,そこに座ってしまう.それは宴会ホストの席であるだけではない.王の席,イエスの席である.その席に座ってしまった時に,自分は招待客の立場から,宴会ホストの立場に変わり,自分の思うとおりの宴会を開こうと画策を始めるのだ.イエスのいない

 心の中で王の席に座ること.それはすなわち,自分が神の所有物ではなくなり, 自分のものとなることである.それは自分をイエスよりも上のものとする不遜で尊大な行為である.同時にそれは神からの逃亡であり,神の憐れみ・神の救いの放棄でもある.自分のような者がイエスの宴会に招待される事,それだけでも,ありえない奇跡であることを忘れてはならない.その宴会の末席が,どれほどまでに自分にとって,身分不相応な,いわば,「もったいない」席であるか,その末席の輝かしい価値を知るべきである.

2013年8月18日日曜日

ルカ14:2 呪いからの解放(主日礼拝)


そのとき、イエスの前に水腫を患っている人がいた。
(ルカ14:2)

 受洗後、母教会とは違う教会の主日礼拝に初めて参加した。ちょっと緊張したが、それでも私は平安に満たされ、神への感謝の気持ちが溢れた。今回の説教は、ルカ14の「安息日に水腫の人をいやす」についてだった。その説教は私にとっては、私の人生そのものであり、改めて主の御恵みに感謝した次第であった。

 このエピソードは、安息日に律法学者やファリサイ派の人々の前で、イエスが病をいやすというパターンの逸話のひとつだが、ルカ14においては
  • 場所:ファリサイ派のあるサンヘドリン議員の家
  • 発端:イエス議員の宴会に招かれ、それを受諾したこと
  • 病気:水腫(体内のリンパ液がたまって、特に腹がむくむ病気)
という点が特徴的である。

 当時、ラビたちは、この水腫という病を、不品行の結果、罪により神に呪われて患う性病と考えていた。民数5:21-22によれば、不倫をした疑いのある女性に対して、祭司は「苦い水」を彼女に飲ませることにより、不倫が実際に行われたかどうかを検証することが可能であった。もし不倫をしていれば、苦い水を飲んだ女性は、水腫的な症状を起こすとされている。おそらく水腫は、腹が大きくなるにも関わらず、子を孕んでいないことから、不倫という行為にふさわしい結果ということなのだろう。それゆえルカ14における水腫を患った人は、おそらく女性であったと思われる。つまりこのエピソードは、不倫により呪われてしまった女性を、イエスが救うというものである。

 本日の説教において、先生は詩編109:18-19を引用された。
呪いを衣として身にまとうがよい。呪いが水のように彼のはらわたに、油のように彼の骨に染み通るように。呪いが彼のまとう衣となり、常に締める帯となるように。(詩篇109:18-19)
この詩編においては呪われた人は、男性のようであるが、「呪いが水のようにはらわたに染み通る」のであるから、やはり水腫のイメージがある。私はこの聖句から、呪いの恐るべき浸透力、あるいは粘着力を感じとった。このような体の芯にまで染み通った呪いは、まるで末期ガンのように身体と一体化しており、どんな優秀な霊的外科医の手によっても、呪いのみを取り除くことはできないであろう。それは人間にできることではない。しかし神には不可能なことはない。

 呪いが衣になってしまうとは、なんという不幸なことだろう。アダムは、罪を犯した後、皮の衣を与えられ、神の似姿からかけ離れた、動物的な姿に表面上なってしまったが、それでも呪いの衣を神からいただくことはなかったのである。呪いの衣は動物的な生存、そこには動物的な喜びもあるだろうが、それすらも許さない間断の無い苦しみを、生存の根本においてもたらすものなのだから。

 私はある事情から、現実的に人から、この世の呪いを受けている。そしてつい最近、その呪いが永遠に消えることがないことを知ることとなった。私はいつか時間がその呪いを消し去り、自分を呪いから解放してくれるにちがいないという、甘い考えを抱いたので、唖然とせざるを得なかった。本物の呪いはそんな甘いものではなかったのだ。本物の呪いは永遠である。

 その呪いは、私の骨の髄にまで染みわたっている。もし私に信仰がなかったら、その呪いは私を完全に絶望させ、心と魂を徹底的に蝕み、生物学的に、そして霊的に私を抹殺していただろう。私が生物学的に生きており、こうしてブログを書いていられるのは、信仰があるからであり、神が私を生かしてくださっているからに他ならない。神に感謝します。そういう意味では、呪いあるいは罪は、私と主イエスをタイアップさせている、捕縛の縄のようなものと言えるのかもしれない。祈り…

 イエスはこのエピソードにおいて、罠にはめられつつあった。水腫を患った人は、ファリサイ派の人々がしこんだエサだった。その人がイエスの歩まれる進行方向(前)にいたのは、あらかじめ彼らがイエスの通る経路を知っており、そこに水腫の人を配置したからである(ルカ14:2)。従って彼らは、イエスが水腫の人と必ず出くわすことを知っていた。それが「イエスの様子をうかがっていた」理由である(ルカ14:1)。

 おそらくイエスは水腫の人が目の前に現れたとき、これが彼らの罠であることに気づかれたであろう。だからこそまず水腫の人をいやす前に、彼らに対して「安息日に病気を治すことは律法で許されているか」と、先に質問したのだ。彼らが隠していた悪意を暴露したのである。ファリサイ派の人々の計画とは、安息日にしてはいけないと考えられていることを、イエスが行行うように仕向けて、その現場を二人以上で同時に目視確認することであった。それによって、イエスを律法に反したとして告訴し、二人以上の証人を確保しておくことにより、法廷において勝訴を確実なものとするつもりだったのだ。

 イエスのこの質問に対して、ファリサイ派の人々は黙っていた。彼らの内心の答えはもちろん、「許されていない」である。彼らが黙っていたのは、「許されていない」と言ったときに、イエスがもしそれを聞いて思い直して、水腫の人を治されなかったら、彼らの計画が破綻してしまうからだろう。しかしイエスは躊躇することなく、沈黙を続ける彼らの返答を待たずに、水腫の人を癒し,呪いから解放された。水腫から癒されたその人は、宴会に招かれていなかったので、そのまま帰宅の途についた。

 ファリサイ派による罠は,結果的には,イエスと水腫に苦しむ人を巡り合わせ,イエスはその栄光を露わにし,水腫の人は癒され,切望していた呪縛からついに解放された.それは実に,安息日にふさわしいすばらしい出来事だった.

 私は水腫の人であった.私は今,イエスによって癒され,生かされている.それに深く深く感謝した.教会からの帰り道は,夏の日差しが強く,すべてが白く光り輝いていた.その白い世界の中を,自分はイエスを携えて,自転車に乗って家に帰って行った.

 

2013年8月14日水曜日

ルカ18:1 気を落とすことなく祈るために

イエスは気を落とさずに絶えず祈り続けなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。  

 イエスは、弟子たちにこの後の説教をたとえで話された。「たとえ」は聞く耳を持たない者のために、イエスが採った手法である(ルカ8:9)。つまりこれ以降の説教について、弟子たちは理解できないとイエスは見ていることになる。

 祈りには、トレーニング的な要素が存在する。従って、熟達者になれば、いかなる状況下においても、気を落とさずに祈り続けることは可能であろう。たとえ刃が首筋に突きつけられようとも.

 この時の弟子たちは、祈る者としてまだ未熟であり、そのようなレベルに達していなかった。彼らのレベルは、一般信徒とさしてかわりはなかった。それは当然である。イエスは12使徒を、宗教者からは全く選ばなかったからだ(例外はいるのかもしれない。それはイスカリオテのユダか?)。彼が選んだのは、幼子のような気持ちでイエスの教えを受け入れた人々だったからである。イエスは彼らの宗教者としての能力について、関心すら持っていない。

 同様に、働いて生計を立てている一般の信者には、そのような専門的トレーニングを行うゆとりはない。従って、そのような一般信徒の祈りの能力は弱く、弟子たちもおそらくゲツセマネに至るまでに、何度も信仰の危機に立たされたのではないかと想像する。 気を落とさずに絶えず祈り続けることは、一般信徒にとって、それほどまでに困難なことなのだ。

 信仰生活において、気を落とすことは、通常、誰の身にも必ず訪れる。その最も強い現れは、遠藤周作的な「神の沈黙」だろう。その沈黙に対して人は、どう応答するのか?そこには「信仰を棄て,棄教する」という、魂の危機が存在する。イエスはその危機に祈りで立ち向かうよう、導かれている。

 祈りは、生命の絶対的危機に対してもすらも、その絶大な力を発揮する。しかし弱い者である一般信徒には、祈ることのできないほどにまで、打ちのめされる時が確かに存在する。祈ることができなければ、神との交わりから断たれて、おそらく魂の死は近いだろう。その死を避けるためには、そのような危機にある一般信徒を、支えることのできる身近な兄弟が必要となる。そのような支え合いの中で、信徒は信仰生活の荒波を乗りきっていけるのだろう。荒海を航海する舟の乗組員は、たとえ真夜中の絶望的な嵐の中においても,希望のともしびを灯し続け、互いに支えあって、憧れの御国まで舟を進めていくのだ。

ルカ17:20 神の国の非空間的構造と不可視性

 ファリサイ派の人々が,神の国はいつ来るのかと尋ねたので,イエスは答えて言われた.神の国は,見える形では来ない.『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない.(ルカ17:20)
  ファリサイ派の人々の質問は,「神の国はいつ来るか」であるのに対して,イエスはその時期を答えてはいない.イエスは,神の国の1)可視性と2)非空間性について彼らに語っている.つまりファリサイ派の人々の質問が,彼らには神の国が見えておらず,またその国が,物体のごとく,あるまとまった空間を占拠し,王(神)がその領土を支配していると考えている事から発しているのだとイエスは見抜いたのである.

 神の国は,通常,目に見えない.また,まとまった領土としては存在しない.それはおそらくこの世に点在している.しかも極めて微細な点となって,この世を覆っている.

 そのために,それを一般の人々は,その微細な拡散した粒子の集合体,言い換えれば,この世界を覆う極めて薄い雲を,「国」とは考えないだろう.それはとても「国」のように,ある一定の連続的な領土空間を,システマチックに管理している状態には思えないであろう.

 その雲は限りなく,空気に近い.そのため,その雲があることさえも,一般の人は気がつけないであろう.

 しかしその薄雲が見える人もいる.そして見える人は,雲を構成するバラバラな各粒子が,実は別の次元で,すなわち霊的な次元でつながっており,一つの身体を構成していることを知っている.その霊的な次元から見れば,その雲は,一般の人々の想像するような空間占有的な「国」を構成していることがわかる.

 その薄雲が,実は国であることに,見えない人々にも気づけるチャンスはある.それは,神の国が本格的な交戦状態に入ったときであろう.