ラベル 不正な管理人 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 不正な管理人 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2013年11月5日火曜日

伝道者の「永遠の住まい」(主日聖餐礼拝,ルカ16・9)

そこで,わたしは言っておくが,不正にまみれた富で友達を作りなさい.そうしておけば,金がなくなったとき,あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる(ルカ16・9)
私の最近通い始めた教会は,長老派であるためか,説教は聖書の特定の場所を頭から順番にやっていく連続講解説教のパターンが多い. そのため本日は,先週・先々週と2回に分けて行われた「不正な管理人」のたとえに続いて,「律法と神の国」について説教が行われた.ただ自分自身,「不正な管理人」のたとえについて,まだ消化し切れていないので,先週に引き続き,「不正な管理人」の上記の聖句を取り上げてみた.

  上記の聖句も,おそらく一般の人には,受け入れがたい話なのかもしれない.特に「不正にまみれた富」にひっかかってしまうだろう.ちなみに上記は新共同訳だが,新改訳では,「不正の富」と訳されており,不正と富とが分かちがたく表現されている.「不正の富」とは,例えば「盗んだ金」のようなものなのだろうか?もしそうだとすれば,イエスは「盗んだ金は,仲間を作るために有効利用しろ」と言われているのだろうか?

 もともとルカ8・14やマタイ13・22にもあるように,新約聖書において「この世の富」は,人を惑わし,「実」の熟成を阻害するもの(茨)とされている.またルカ18・18の「金持ちの議員」においても,財産が神の国への入国の障害として語られている.つまり「この世の富」は,一般的な意味での 「不正(法律違反)」によって得られた富であろうと,正当な経済活動による富であろうと,信仰生活の妨げるものとみなされている.神の意向に逆らうことが「不正」であるならば,この世の富はすべて「不正の富」ということになる.ではなぜこの聖句において,「この世の富」という言葉ではなく,わざわざ「不正の富」という言葉が使われたのか?

 この「不正」,NSRV英語訳では dishonest ,ギリシア語 adikos (人物に使われ、「正しいことに違反する」)について,先週のブログ「『光の子』らの先へ」 では「律法違反」と仮定した.しかし一般的なこの「不正」の聖書解釈では,「道徳的な不正の意味ではなく,終末前の現世を表す術語で『この世』を意味する」とされている.「光の子」が終末論用語であると考えれば,この「不正=終末前の現世」と考えるのは,つじつまがあっている.ただ残念ながら,その根拠となっている文献を自分は知らない.

 おそらくイエスが「不正の富」という一種の終末論用語を用いたのは,前回のブログでも書いたとおり,弟子達,特に「光の子」らに対する警告のためだろう.前回のブログの中では,「光の子」らを,弟子達の中で,特に終末が明日にでも来ると想定しているグループとした.彼らは,すでにイエスへの信仰によって,自分たちは終末から完全に救われ,永遠の命を得て,神の国に入ることが出来ると考えた.そのため,現世の動向や非信徒に対して何の関心も持たず,排他的で内向きな選民思想の者達となった.彼らにとって,この世は嫌悪すべき「不正」そのものであったが,明日にでも訪れるであろう終末によって,それが神によって正しく裁かれることを期待していた.それゆえこの世のこと,現在のことは彼らにしてみれば,些末な小事であった.明日になれば,終末が来てすべてが終わってしまうのだから,今更何をしても無駄以外の何物でも無かったのだ.行為は救いとは関係が無く,信仰こそが救いをもたらすと彼らが信じていたことも,この世に対する関与の消極性を誘導したのだろう.そのような思想は,彼らの霊的成長を阻害することになるだけでなく,一種のカルト宗教の持つムードを漂わせていたに違いない.

 当然のことながら,彼らは「この世の富=不正の富」にも関心は無かった.彼らがその時,所持金を持っていたのか,すでにイエスの宗団にすべて喜捨していたのかはわからないが,その資金運用については関心は薄かったと考えられる.現在ある金で,その日の生活ができればそれでよいといった程度に考えていたのかもしれない.それゆえ 「この世の富=不正の富」をうまく利用するといった経済活動や,ましてやそれで「友」を作ることなど,考えても見なかったであろう.

 「不正な管理人」のたとえにおいて,イエスは「この世の子」らの,仲間に対する抜け目ないふるまいをほめられた.すなわち「この世の富=不正の富」に強い関心を持ち,自分の仲間の利益についても配慮しつつ,自分の利益を追求する抜け目なさ,その知恵・賢さを賞賛された.それは,この「この世の富=不正の富」への強い関心と忠実が,彼らに様々な人間関係における経験をさせ賢くし,彼らを仲間とうまく結びつけていたからだ(折り合いと共存の知恵).「この世の子」らは活発に活動し,自己の利益の追求のため,他者と積極的に関わっていく.これらの経済的活動は,「光の子」らからしてみれば,無駄であり,罪と不正にまみれた活動であり,嫌悪すべき俗事であると感じたであろう.しかしイエスは,その考えを叱責されたのだった.

 「光の子」らのクムラン宗団的内向性・排他性・厭世観は,イエスの望まれるところではなかった.イエスは,できるだけ多くの「この世の子」らを救おうとされたにもかかわらず,弟子(の一部)であった「光の子」らは,「この世の子」らと関わりを持とうとしなかった.つまり自分たちの「友(仲間)」を作るための伝道への意欲を持っていなかった.

 そこでイエスはまず,「この世の富=不正の富」が神から貸し与えられた富,つまり「他人の富」であると示された.「不正な管理人」のたとえでわかるとおり,その富の管理人は,主人(神)の意向にしたがって,富を賢く運用する義務が管理人(弟子)にある.

 次にイエスは,その神から貸し与えられた「この世の富=不正の富」の賢い運用方法として,自分のために「友」を作る活動,すなわち伝道をせよと命じられた.つまりイエスは「光の子」らに対して,自分たちの救いばかりではなく,宗団の外にいる非信徒の救いにも関心を持ち,彼らが嫌悪していた「この世の富=不正の富」を積極的に運用して伝道を行うように促した.しかもイエスはそれが,彼ら自身の利益となると説明された.

  イエスはそのようにして伝道をする理由として,「金がなくなったときに,永遠の住まいにむかい入れてもらえる」からだと彼らに教えられた.ここで注目しなければならないのは,「永遠の住まい」という言葉である.この言葉とほぼ同じ言葉「永遠の住みか」は,コリントII5・1に
人の手で造られたものではない天にある永遠の住みか
として登場する.

 通常,この世の友は「永遠の住まい」など与えはしない.この世の住まいである限り,一時的な仮の宿であり,それが永遠である事はあり得ない.とすると「永遠の住まい」が意味するのは,「神の国」ということになる.

 もしこの「神の国」が地上のものではなく,天上の世界にあるならば,「金がなくなったとき」とは,金銭を含めたこの世の所有物の一切から離脱する「死んだとき」ということになる.しかし「光の子」らはイエスへの信仰によって,自分たちはすでに救われていると考えていた.つまり終末の後に,彼らは神の国に必ず入れると信じていた.とすると仮に「永遠の住まいにむかい入れてもらえる」事が,死後の「神の国に入ること」を意味するならば,それは彼らに対する伝道の動機づけとはなり得ない.また伝道という行為が義認されて,神の国に入るとするのであれば,そもそも「信仰による義認」と言う考えに反する.となると伝道行為に対する報いとして,「(天上の)神の国にむかい入れてもらえる」ということになるが,自分にはその「むかい入れる」がイメージできない.

 仮に「金がなくなったとき」が,比喩ではなく,実際に所持金が底をついたときとするならば,「永遠の住まい」は,「地上における神の国」を意味するものと思われる.「地上における神の国」とは,神の国の前味であり,人間の社会の一部である.これは具体的には「目に見える教会」と「目に見えない教会」の2つに分かれる.前者は具体的な組織であり,教会政治機構を持つ団体である.後者は具体的な組織を持たず,キリスト者同志の友愛的関係(交わり)を意味する.

 ここである仮定の話をしてみたい.「光の子」らが,イエスのグループを離れて,異教徒の地へ伝道旅行に旅立ったとする.彼らは出発時に,伝道費用として「この世の富=不正の富」である金銭が与えられた.彼らはその金銭を効率よく,賢く用いる必要があった.そうしなければ伝道旅行は,たちまち頓挫してしまうだろう.

 しかし旅行を続ける内に与えられた伝道資金は,いつかは底をつく.そうなってしまえば,もはや彼らには伝道を続ける手段はなくなる.それどころか彼ら自身の死活問題にすら関わってくる.しかしその時までに,彼らの伝道がある程度成功していれば,彼らが伝道した者達である「友」は,窮地に陥った伝道者たちを喜んで迎え入れ,衣食住を与え,彼らの伝道継続を支援してくれるだろう.「光の子」らは,「友」の間,すなわち地上における永遠の住まいである「目に見えない教会」に生きていくことが出来るわけである.また彼らがその「友」の間に定住することができれば,そこに教会(会堂ではなく組織)を作り,その群れと暮らすことになるのかもしれない.その場合,「永遠の住まい」とは,「地上の神の国」としての「目に見える教会」を意味することになるだろう.

 では,もし伝道資金がなくなったにもかかわらず,伝道に失敗し,「友」を作ることが出来なかった場合はどうなるのか?

 その答えこそが,この「不正な管理人」のたとえの直前に配置された「放蕩息子」のたとえである.放蕩息子は,父から財産を分けてもらったが,遠い国で放蕩して使い果たしてしまったのであった.彼には「賢さ」がなかったのだ.その結果,彼は食うことすら出来なくなってしまったのに,父の家には帰ろうとはしなかった.それは伝道資金を渡され開拓伝道へと旅立ったものの,異邦人の地で伝道に失敗し,資金を使い果たして無一文となり,途方に暮れ,打ちのめされている伝道者の気持ちに等しい.その伝道者は,もはや「神を父と呼ぶ資格はない」とまで考え,自分を追い詰めていたかもしれない.そんな絶望の直中にいる彼には一つの危険な選択肢があった.この異教の地で棄教し,異邦人となって生きていくことだ.たしかにここで棄教すれば,自分を神の教えに反する異邦人の生活スタイルに合わせることにより,そこで生物学的に生きていけるかもしれない.

 しかしご存じの通り,放蕩息子は異邦人となって,父を捨てて,そこで生きていくことよりも,故郷に帰り,そこで父の僕として生きていくことを選んだ.そして長く過酷な帰省の旅へと出たのである.そうなのだ.失敗した伝道者も故郷に,父のもとに帰るべきなのだ.戻った彼を故郷がどのように出迎えるべきかを,この「放蕩息子」のたとえは教えてくれてもいる.
 
 ただし「永遠の住まい」や「放蕩息子」を伝道と関係づけた解釈には一つ問題がある.それは,イエスが基本的に金銭(財布)を含め,何も持たずに伝道せよと言われている(ルカ10・4等)ことと矛盾するからだ.それは金銭に頼ることなく,ただ神のみを信頼して伝道せよと言うことなのだろうが,これは仏教の托鉢僧と同様に,伝道というよりも,一種の厳しい修練であろう.もしそうであれば,通常の伝道目的の旅行であれば,ある程度の資金がイエスの宗団(教会)から提供されていた可能性は十分あるだろう.パウロは伝道旅行中に資金を稼ぐために働いていたようだが,おそらくある程度の旅行資金はもらっていたと想像する.

 最後に一つ疑問が残る.金がなくならなければ,伝道者は「永遠の住まい」に入ることはできないのだろうか? 確かに伝道者に金がある限り,それはある種の(茨の)壁を,周囲の人々や「友」との間に築いてしまうだろう.それは,伝道者にとって「永遠の住まい」の前に立ちはだかる壁である.なぜなら伝道者が資金を所有していた場合,「彼らは神よりも自分たちの金に頼って生きており,神のみに頼った生き方をしていない」と周囲の人々に思わせてしまうからだ.だからこそイエスは,72人の修練的伝道に際し,財布無しで出発させたのであった.伝道者が金を蓄えている限り,周囲の非信徒のみならず,伝道した「友」すらも,伝道者を見習い,神よりも金をあてにすることになるだろう.さらに伝道者と伝道された「友」との間には,どこかよそよそしい風が吹くことになるだろう.伝道者の経済的サポートに関しても,渋る「友」がいても不思議ではない.ゆえに,伝道者が「永遠の住まいに迎え入れられる」ためには,彼に何の資金も所有物もなくなること,逆に言えば,隣人の愛によって衣食住や伝道生活がまかなわれることが必要となるのである.

2013年10月28日月曜日

「光の子」らの先へ(ルカ16・8,主日礼拝)

この世の子らは,自分の仲間に対して,光の子らよりも賢く振る舞っている(ルカ16・8)
本日の主日礼拝の説教は,先週に引き続いて「不正な管理人」のたとえについてであった.本日の説教では,このたとえの最後の部分「神と富とに仕えることはできない」を扱ったのだが,このたとえについては,その一節一節についてじっくり考えてみたいので,今回は前回の続きを書こうと思う.

 前回のブログ『すばらしい「不正」』では,不正な管理人が,債務者・主人・管理人のすべてに喜びを与えた「不正(律法違反)」について考えてみた.その時に,上記の聖句については触れなかったので,ここで触れてみたいと思う.

 この聖句で気になるのは,まず「光の子」という特殊な表現だ.「光の子」という表現は,新約において,このルカ16・8,テサロニケI 5:5,エペソ5・8,ヨハネ12・36だけに出てくる.知っている方も多いと思うが,「光の子」は死海文書の「戦いの巻物」中に出てくる表現であり,最終戦争において勝利する者達のことである.おそらく,クムラン宗団やエッセネ派の影響を受けていた原始教会において用いられていた終末論用語と推測される.死海文書によれば,この「光の子」らの敵は「闇の子」であり,最終戦争において「闇の子」は滅ぼされることになっている.しかしおもしろいことに,ここで「光の子」らに対比される者達は,「闇の子」ではなく「この世の子」である.

 最終戦争の後に,「光の子」らが「信仰により救われた者達」,「闇の子」らが「信仰を拒否して滅ぼされた者達」となるのであれば,その最終戦争が起こっていない時点での「この世の子」らは,「現在救われてはいないが,救われる可能性が残されている者達」,すなわち「(完全な)闇の子でも光の子でもない者達」を言い表していると考えられる.

 さて聖句では,その「この世の子」らが,ある種の賢さ,すなわち自分の仲間に対する賢さにおいて,「光の子」らを上回っていると主張している.「不正な管理人」のたとえでは,管理人の不正な「抜け目ないやり方」を主人にほめられたのだが,それが「賢さ」を意味するとすれば,「この世の子」らの賢さについても,イエスは評価をされていることになる.ではなぜ「この世の子」らの賢さをイエスは評価されているのか?

 「この世の子」らは当然のことながら,この世に生きている.彼らには真の信仰がなく,彼らの思考パターンは,基本的には経済学的(Give & Take)である.この世に生きる彼らの人生の目標は,この世における自己の利潤追求(この世の富)である.ここでは便宜上,「利潤」と言ったが,その中には財産だけではなく,「権力」「名誉」等も含まれている.したがって「利潤」を「快楽」と言い換えても良いだろう.この世の富(財産,地位,権力,名誉等)は快楽を生み出すがゆえに,それを追求するわけだ.当然彼らの関心は,この世に存在する自己の所有する富,あるいは自己所有の可能な他者の富である.他者所有の富は,基本的には,自己所有可能な富と考えていいだろう.

 「この世の子」らの利潤追求行為(経済行為)は,この世の他者との交流や戦いにおいて成り立っている.特に自分に利益をもたらす仲間(味方)に対して行為者は,うまく折り合いを付けて,共存を探りつつ,自己の利益を追求していかなければならない.「この世の子」らの知恵は,その利潤追求行為の一環として駆動されている.この利潤追求行為の経験によって得られ,蓄積された知識こそが,彼らの「賢さ」である.その賢さの中に,「不正(律法違反)」に関するテクニックが含まれるのは言うまでも無い.この世に生きる彼らにとって,律法遵守はさほど重要なことではない.イエスは,彼らの賢さの中でも,「自分の仲間に対する賢さ(折り合いと共存の知恵)」をほめ,評価したのだった.これに対して「光の子」らはどうか?

 「光の子(救われた者)」らの関心の対象は,この世に存在しない.彼らの関心は,終末と終末時の自己の「救い」にある.信仰によって究極の目標を得たと信じた彼らには,「この世の子」らのように,富を追求する意欲も無く,神とのネゴシエーション(取りなし)に悩んであれこれ知恵を絞る必要も無い.それゆえ彼らは経験を積み重ねることもないため,知識も増えてはいかない.つまり「光の子」らにおいて,「賢さ」はその進歩を停止している.それに対して「この世の子」らは,この世に対して貪欲であり,自己の利潤・快楽の追求を止めることはない.故に彼らのその賢さや知識は増すばかりである.

 さてそれではイエスがなぜ,終末論用語である「光の子」と言う表現を,わざわざここで用いられたのか?

 ご存じの通り,この聖句はファリサイ派や律法学者だけではなく,弟子達,すなわち信徒に向けられたものでもある.終末論用語をイエスが用いた理由は,おそらく,新約の他の部分も指摘しているとおり,信徒の中に,終末が明日にでもやってくると信じ,その時の「救い」以外に,関心を持つことのできない者がいたからだろう.

 「救い」をあまりにも重視しすぎた彼らは,入信によりそれを得て,心の底から安堵したことだろう.入信により,究極の目標を達成してしまった彼らの中には,「自分は救われ,明日には世界が滅ぶのだから,もう何もしなくてもいい.何をやっても無駄だ.」と考える者も出てきたのだろう.またそのような考えを持つ者の中には,「この世の子ら」に対して優越感・選民意識を持つと同時に,クムラン宗団がそうであったように,「この世の子」らの接近に対し排他的な態度に出ていた者,あるいはグループも存在していたのかもしれない.クムラン宗団が消滅したように,そのような考えを持ってしまった信徒達が,その後,転落していったことは想像に難くない.つまり「光の子」と言う表現は,信徒の中の堕落してしまった早期終末論者を批判するために,イエスが用いられたと考えられる.彼らは「救い」の心地よさに眠ってしまったのである.それゆえ神の呼びかけを聞くことができない.

 「この世の子」らは,限りなく「闇の子」らに近い.しかし,彼らには「光の子(救われた者)」となる可能性が残されている.そして彼らが回心し,信仰により救われた後,「救い」のみに満足することのない彼らの持つ底なしの欲望の鉾先が,「この世の富」から神へと,「天の富」へと方向転換するのであれば,彼らは神のみこころを貪欲に求め,神の呼びかけに応答し,活発な活動を精力的に行うであろう.その時,彼らが「この世の子」らとして生きていた時に得た,「不正」をも含む知識や経験,すなわち「賢さ」は大いに生かされることになる.

 管理人が「不正」によって友と生活を得たように,彼らも友と生活を得るであろう.こうして「放蕩息子」のたとえと同様,後の者は先になり,彼らは「光の子」らではなく,キリスト者となる.

2013年10月21日月曜日

すばらしい「不正」(ルカ16.8,主日礼拝)

主人は,この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた(ルカ16・8)
本日の説教は「不正な管理人」のたとえであった.先生のおっしゃるとおり,このたとえの第一印象は,「なぜこのような悪い人間が賞賛されるのか?」という一種の拒絶感のようなものだろう.もちろん,イエスはその拒絶感が起こることを,むしろ期待して,このたとえ話をされたに違いない.その「拒絶感・違和感」が,実は自分の認識の限界を示していることに気づいたとき,人は成長できるのだろう.

 特にこのたとえは,イエスの弟子達のためにも語られた(ルカ16・1).すなわち未信者や信仰の初心者ではなく,ファリサイ派や律法学者などをも含む,ユダヤ教・キリスト教信仰のレベルの高い者に対するたとえ話となっている.したがって,一般大衆的常識では歯が立たないが,信仰の深い者には理解できるように作られている.そういう意味で,これは禅の公案にも似ていると言えるだろう.

 管理人は確かに文書偽造を行った.これは一般常識からいっても,当時の律法においても犯罪であろう.ところが二重の被害者とも言える「ある金持ち」は,彼の「抜け目ないやり方」に対して,腹を立てるどころか彼をほめた.なぜ,二重に被害を受けた者が,その加害者(のやり方)をほめ,何よりも先にその罪に対して怒りを発しないのか?

 ここで管理人の罪について,明らかにしておこう.まず「主人の財産の無駄遣い(ルカ16・1)」がそもそもの発端であった.ただし注意したいのは,これが告げ口であったことだ.主人自身が,直接無駄遣いを確認したわけではなく,間接的にその密告(証言)を聞いただけである.それだけで管理人を即,解雇するのはなかなか考えにくい.証言ならばやはり,二人以上の証言が欲しいところである.

 にもかかわらず主人が,解雇を決定したと言うことは,その証言を裏付ける証拠が,同時に提出されている可能性を考えておく必要があるだろう.主人は会計報告を管理人に要求しているが,これは職務引き継ぎのためであり,彼の無駄遣いの証拠を追求するためではないとするのが一般的な解釈のようだ.とするとやはり主人は,管理人の無駄遣いを確信するに至る確かな情報なり,証拠なりを持っていたことになるだろう.また管理人は,主人の解雇通告に対して,何ら反論・抗議をしていないようなので,「無駄遣い」をしていた事実を主人の前で認めたのかもしれない.しかしその無駄遣いの内容は,いったいどのようなものだったのだろうか?

 少なくともその「無駄遣い」によって,彼が私腹を肥やしたと思わせるような表現は,ここにはない.彼が長年にわたって私腹を肥やしていたのなら,仮に首になってもその金で主人のマネをして,商売を始めることはできたことだろう.しかしおもしろいことに, 彼は解雇されたとたんに,乞食か,肉体労働か,といった誰にでもできる仕事でなければ食べていくことができないと考えている.

 つまり彼には全く私財がない上に,自活能力もないと自認していると考えられるのだ.賢い管理人には,私腹を密かに肥やすチャンスはいくらでもあったはずだ.しかし彼はそれをしなかった.彼がしたのは「無駄遣い」である.

 管理者としての自信が以前の彼にはあったのかもしれないが,今回の無駄遣い騒動でその自信も失われたのだろう.資産も自活能力もない彼に残されたものは,生存に対する絶望と,わずかばかりのプライド,すなわち「物乞いは恥ずかしい(ルカ16・3)」だった.

 こうして考えてみると,無駄遣いが実は,彼の過失もしくは管理者能力不足のためであり,彼は彼なりに,まじめに管理業務をしていた可能性も否定できないのである.もし仮に管理者能力不足の問題であれば,それは任命責任が主人にある.つまり主人が管理者能力の査定を誤ったと言うことになるため,彼の罪は問われないだろう.

 ただしこの管理人が後に,物乞いや肉体労働者にならないために,文書偽造を思いつきそれを実行したことから,彼の倫理観において,律法遵守の精神に欠けていたことはほぼ明らかであり,彼の無駄遣いが,彼の職務怠慢によるものである可能性もある.律法に対する罪人とは,律法を越えて行動する者のことである.

 ではここで,無駄遣いの原因の仮説をまとめておこう.
  1. 管理人の能力不足説
  2. 管理人の職務怠慢説
  3. 管理人の過失説
まず能力不足説についてだが,後に考察する証文偽造の巧妙なやり方から見て,彼は相当に賢い人間だったに違いない.そしてその賢さ・能力を主人は見抜いていた.ゆえに主人は,彼に全財産を管理させたのだろう.したがって,この説には説得力がない.

 職務怠慢説については,前述の通り,彼は律法遵守よりも,自分が物乞いや肉体労働者にならないことを選択したこと,すなわち自己の利益を律法よりも重視したことから,この説が事実であった可能性はある.ただ彼がそれだけの資産を運用しながら,私腹を肥やしていなかった事実は,当時の収税人やローマ兵に比べて,かなり高い倫理観を示しているように思える.それだけの誘惑に打ち勝てる者が,職務怠慢であったとは考えにくい.

 となると過失説は,かなり有力になってくる.すなわち管理職を忠実に行っていたのだが,見落としか何かがあり,無駄遣いとなってしまった.仮にこの説をとるとすると,この賢い管理人の見落としとは何だったのだろうか?

 一つだけ言えることは,この管理人の管理には,確かに問題点があった.それは告げ口をされた事実からはっきりしている. おそらく彼は管理職に忠実すぎたために,雇い人や債務者を苦しめていたのだ.彼には多くの敵がいたにちがいない.そして隙あらば,彼を失脚させようと機会を狙っていた者も多かったと思われる.もし彼が職務に忠実ではなく,私腹を肥やすために,賄賂を受け取って証文の書き換えを行ったり,借金の取り立てを面倒に思い,厳しい取り立てを雇い人にさせたりしなかったら,敵は少なかっただろう.彼の倫理観の高さは,彼が解雇されるまで,文書偽造のような犯罪を思いつかなかったことでも証明される.

 彼の職務に対する忠実さが多くの敵を作ることになり,結果,彼は「刺された」のだった.主人が告げ口を聞いただけで,彼の解雇を決定し,彼に弁解の余地を与えなかったのは,無駄遣いの確たる証拠や証言が,密告者からもたらされたためだと考えられる.したがって密告者は内部の人間であり,管理人の元で働いていた雇い人の一人であることが有力である.

 またこの無駄遣いが,実は密告者によって密かに行われた可能性も否定できない.それによって管理者を失脚させるためである.後にわかるとおり,これだけ能力があり,職務に忠実な管理人が,無駄遣いを見落とすことがあるだろうか?つまり管理人は,敵の罠にはまったのだ.

 ここで仮説をまとめると
  1. 管理人は職務に忠実であり,まじめにそれを実行していた
  2. 管理人は職務遂行のため,債務者や雇い人を虐げており,敵がたくさんいた.
  3. 管理人は指摘された「無駄遣い」があったことに気づかなかった 
  4. 無駄遣いは管理人自身か,密告者(雇い人)によって行われた
彼が主人に対して必死に弁明しなかったのは,おそらく,彼が気づくことのできなかった無駄遣いの存在を,彼がその場で認めたからだろう.仮にその無駄遣いが,悪意のある不忠実が密告者によって行われたとしても,それを見抜けなかったことは彼の管理人としての落ち度とも言える.彼がその場でその陰謀を感じ取ったとしても,彼は主人に対して弁解をせず,己の過失を認めたことだろう.彼には管理人としてのプライド(プロ意識)があり,自分の犯したミスを赦すことができなかったのである.

 前述の通り,彼は解雇後に,自分には乞食か肉体労働者という職業しかない,言い換えれば,自分には管理人以外の能力はないと決めつけていた.すなわち管理人という職業は,彼のアイデンティティの大部分を占めていた.さらに「乞食になるのは恥ずかしい」というプライドも,職業に対する彼の意識を物語っているように思える.

 彼のそのような心情を思うとき,主人から無駄遣いを指摘され,解雇を通告されたとき,彼のプライドはズタズタに引き裂かれたことだろう.彼が反論・抗弁をしなかったのは,無駄遣いに気づかなかったという管理上の過失(罪)を認め,「自分は管理人に値しない」と自らを裁いたためだ.彼は彼を有罪に処し,懲戒免職処分という罰を無条件で受け入れたのである.たとえそれが自分に対するワナであったとしても.
 
 次に物語の後半,文書偽造の罪についてを考えてみる.解雇された彼は生きることに絶望したであろうが,その苦悩の中で,生きていくためいくつかの選択肢にたどり着いた.それは次の3つであった.
  1. 土を掘る:自分だけの力で生きていく.他者には与えない.
  2. 物乞いになる:他者に頼って生きていく.他者には与えない.
  3. 文書偽造で寄食:他者に頼って生きていく.他者には与える.罪を犯す.
 彼は結局,律法を破り,文書を偽造し,他者の中に生きていくことを選択する.彼の文書偽造の目的は,「自分を家に迎え入れてくれるような者(ルカ16・4)」を複数作ることだった.彼はそのために,未だ残っていた管理人の職権を「悪用」し,債務者に対して文書偽造をそそのかして,実行させたのであった.

  確かに彼は証文を書き換えさせたのだが,おもしろいことに証文の破棄はしていない.証文の破棄の方が,書き換えよりも証拠が残らない分だけ,完全犯罪となる可能性が高いはずである.むろん債務者も,目の前で証文を破棄すれば,証文書き換えよりも喜ぶはずである.しかし彼はそれをせず,当時の負債の利子に当たる分,借用量を減らしている.

 当時,オリーブと小麦等の農作物は,収穫の多い年と少ない年があり,そのリスクを含めて貸し借りの利子が決められており,小麦25%,油100%であった.それが正しければ,油は100バトスから50バトスに書き換えたので,返済は100バトスということになる.小麦は100コロスから80コロスに書き換えたので,返済は100コロスになる.すなわち債務者にとっては,無利子で借りた形となる.しかし
同胞には利子をつけて貸してはならない.銀の利子も,食物の利子も,その他利子が付くいかなるものの利子も付けてはならない(申命23・20)
 つまりもともと利子を取ることは禁止されていた.もし主人が同胞の債務者から利子を取っていたとするならば,主人も実は犯罪者なのである.

 このたとえにおいて,利子は具体的に出てこないため,確かなことは言えないが,もしこの仮定が正しければ,管理者は自分が生きていくためにやったことではあるが,むしろ彼のやったことは,債務者を主人の不正から守ったことになる.主人が,二重に不正な管理人を法廷に訴えることができなかったのは,主人に彼以上に大きな罪があったからなのかもしれない.

 いずれにしても,管理人は彼の持つ倫理観や計算の中で,この無利子で貸したことにすることが,証文破棄よりも良いだろうと考えた.これが彼の知恵であり,賢さであり,まじめさであり,信仰であった.

 もう一つここで考えておきたいのは,証文書き換えのときに,管理人がどのようにして,債務者に対して書き換えを説得したのかである.債務者は確かに証文を書き換えたであろう.しかし,もしそれが主人の許可を得ておらず,管理者の独断であり,その見返りとして彼を家に迎えてもらうためであったと知れば,文書の書き換えが犯罪であることは明白であり,それなりに躊躇があるだろう.しかも債務者が管理者によって虐げられていたとすれば,この証文書き換えによって,新たな災難が自分に降りかかってくるかもしれないと債務者達が想像した可能性もある.

 おそらく管理人は,債務者たちの友となるべく,柔和な微笑みと共に,次のように債務者達を言いくるめたのだろう.
 自分は君たち(債務者)が経済的に極めて苦しい状況である事を知った.私の友である君たちの苦しみは,私の苦しみでもある.そこで私は君たちのために主人に対して、貸付利子の帳消しを願い出ることにした.

 私は主人に全面的に信頼されているから,私の言うことなら聞いてくれる.その上,主人は気前のいい,物わかりの良い人なので,私の申し出を快く受け入れてくださった.主人もあなた方を,憐れに思ってくださったのだ.

 だから書き換えには何の問題も無いし,犯罪でもない.友よ,どうか安心して書き換えてください.そして私の主人に感謝してください.
  かつての冷酷な振る舞いなど想像することもできない,様変わりした管理人の優しい心遣いと,主人の気前の良さに債務者は感謝し,躊躇することなく証文を書き換えたことだろう.だとすると,書き換えについて,債務者には全く罪はないことになる.債務者は管理人の「言葉」を信じたのである.この証文書き換え,いわば再契約(!)についての罪・責任は,あくまでも管理人のみにある.管理者は,仲介者(とりなしをする者)として機能した.彼は仲介を行いながら,主人の評判を上げ,自分の生活の術を確保し,債務者の重荷を軽するという,極めて難しい業を成し遂げたのだ.

 彼の取った行動(証文偽造)の結果をまとめてみよう.
  1. 主人:
    主人には利子分の損害を与えたが,この利子分は本来とってはいけないものであった.したがって主人に損はない.また管理人によって,当時多くの人が破っていた律法を主人が遵守したことになった.それによって主人の評判が良くなり,また債務者から感謝された.
  2. 債務者:
    債務が減り,経済的に助かった.主人と仲介してくれた管理人に感謝している.
  3. 管理人:
    自分が解雇された後に,家に招いてくれる友をたくさん作ることができ,人々の中で生きていくことになった.
つまり管理人のとった証文偽造という律法違反は,おどろくべきことに,関係した三者にとって,喜ばしいこととなった.律法違反にもかかわらず,損をした者も不幸になった者もいなかったのである.主人はこのように,すべての人に対して喜びをもたらすことのできた「不正(律法を破った)な管理人 」のその「抜け目なさ」「賢さ」をほめた.それは彼の律法違反の罪を越えた,すばらしい出来事だったからである.よって彼は敵を作るどころか,敵を味方に変えて,誰からも証文偽造の罪で訴えられることもなかったのだ.

 律法に乗っとり,職務に忠実であったときに,人々に憎まれ,その過失罪を問われた管理人は,その職務から放免され,意図的な罪を犯したときに,その罪を問われることはなく,むしろ皆に賞賛された.ある意味では皮肉な結果であるが,我々はここにイエスのストーリーを重ね合わせてみることができるだろう.解雇されるまでの管理人を「人々に厳しく臨むファリサイ派の僧」,解雇された後の管理人を「人々に柔和な笑顔で臨む破戒僧的仲介者」と見れば…

 神の律法は人間には計り知ることができない.神は常に正しい.そしてイエスは律法を破った者として,ファリサイ派に唾棄されたが,イエスご自身は律法を完全にするために来たと言われた.神の真の律法は,人間に知ることはできない.神のみぞ知る.それはイエスのみが知っていることである.管理人のやったことは,ファリサイ派から見れば立派な犯罪であり罪であろう.しかし神から見たときには,それは犯罪ではなく,むしろ律法を完全にするための行為であり,人々を幸せにする善い行いだった.彼は主人の見込んだとおりの人間であったのだ.

 主イエスは,御父の財産をすべて任された管理人である事は言うまでも無い.彼はその御父と,罪の負債を抱えている人々との間の,仲介者として働いた.その働きは時に,ファリサイ派にとっては,律法違反であり,罪深く許しがたい神に対する冒涜行為だった.しかしそれが実際には,仲介者イエス(管理人)と罪人(債務者)と御父(主人)の三者に大いなる喜びをもたらした.そこには御父に対する罪はない.そして管理人イエスは,人々の中に入り,友として生き続けられるのである.

 この「不正な管理人」のたとえにおいて,イエスが弟子達に対して,意図的にしこんだワナは,「律法違反者=悪者」という公式に弟子が囚われている限り,抜け出すことができない.イエスがこのようなワナで弟子達を試そうとしたのは,それほどまでに,ファリサイ派や律法学者はもちろんのこと,弟子達の間にも,この公式が根強く残っていたからだろう.

 不正な管理人のたとえを聞いて,まず最初に管理者の不正の糾弾に走る者は,「裁く者」の立場に居座る者である.彼は神の座に座る不遜者である.まず裁かずに,心をむなしくして,よく聞き,よく見ることである.「裁き」は,「目の中のある梁」である事を忘れてはならない.