2014年1月9日木曜日
安全装置(on twitter @rahumj)
神の暴力が許され,その神と同等の権威を教会が持つとするのならば,教会の暴力は許されることになってしまう.各宗派間に見られる相互監視的な意識,他宗派に対する批評家的な視線は,その暴力発動に対する安全装置となっているのか?
2013年9月23日月曜日
ルカ15:5 迷える羊と神の暴力(主日礼拝)
そして見つけたら,喜んでその羊を担いで(ルカ15:5)「見失った羊」の例えにおける一匹の迷い出た羊は,求道者を象徴するだけでなく,すでに洗礼を受けた者が群れを離れた状態をも意味する,と先生は説かれた.確かに群れの残りの99匹が「悔い改める必要のない正しい人(ルカ15:7) 」の集団であるということは,洗礼を受けた者の集団,すなわち教会に所属する者達であることは間違いないだろう.その集団から迷い出たと言うことは,その羊が求道者,すなわち未だ洗礼を受けていない者とするよりも,洗礼を既に受けた者,教会に所属していた者と考えた方が,妥当性が高いように思える.
ただ自分は,教会から迷い出てしまった者が,このような形で,すなわち見えざる神の御手により,ある意味では強引に暴力的に,再び教会に連れ戻されるというシーンを見聞した経験が無い.実際にそのようなことはあるのかもしれないが,極めてレアなケースと言えるのかもしれない.
ただ実際,教会から出てしまった人が,すべて棄教者となるわけでもない.無教会主義的に信仰を一人で保つことのできる方もいる.おそらく彼もしくは彼女は,神と直結しているのであろう.この枝は幹につながっているのである.
無教会主義には,ある種の,いくつかの危険が常に伴う.教会という砦,すなわち「羊の囲い」の外における危険を伴う生活を送る内に,本人も気がつかないまま,いつのまにか異端化してしまい,キリスト教徒は言えなくなってしまう例は,過去にいくらでもある.つまり教会は,信仰のアイデンティティを維持するための安全装置でもある.
ただ繰り返しになるが,教会を離れたすべての人が,異端化するわけでも,棄教するわけでもない.無教会主義にある危険や戦いを乗り越えて,信仰を保つ事のできる人は,むしろ極めて優れた信仰者である.多くの優れた宗教者は孤独を求め,厳しい荒野的環境に自分の身を置いた.それは神との一対一の関係に入るためである.そこでの「生存の試練」に耐え抜いた者は,もはや環境には左右されずに,己の信仰を保つことができるのだろう.それは極めて少数ではあるが,中世のみ成らず,現代にも存在する.神の導きは時として,人智を越えているのである.
さらに付け加えれば,教会を出た棄教者が,教会やキリスト教の攻撃者となるケースもある.「逆パウロ化現象」とでも言えばいいのだろうか.彼は教会を出た後,キリスト教に騙され続けた詐欺の被害者として,加害者である教会・キリスト教,果てはイエス・キリストまで呪う.それはもはや「迷える羊」というよりも,羊を食い荒らす狼である.彼らは羊をよく理解しており,その弱点をも熟知しているため,その攻撃は極めて効率的である.狼は羊を食い殺すのだが,狼自体はそれを悪として行っているわけではない.狼は自己の生き残りのために,その食欲に従っているのであり,彼にとってそれは自然な正当な行動である.のみならず,狼は羊を悪霊に取り憑かれ,自己を見失った病人,あるいは信仰の囚人,自己責任や判断の放棄者と見なしている.故に狼は正義の名の下に迫害を行う.狼にとってそれは救済行為でもあるのだ.この狼をも,神は「迷える羊」と見なされて,狼を羊に変えて,99匹の羊の群れに戻してくださるのであろうか?自分はまだ,その実際のケースを寡聞にして知らない.
いずれにしても「迷える羊」は,神によって探索される.その探索は執拗を極め,その発見まで継続される(ルカ15:4).そしてついに,神は死の谷の陰の中に,その羊を見出す.その時に神にあふれた喜びはいかほどであろうか.神は羊に駆け寄り,羊を抱きしめたであろう.
それは美しい再会のシーンに思えるが,このエピソードはそれほど甘くはないと自分は思う.イエスが羊を見出した時,羊はどのような状態であっただろうか?
比較的よく言われる解釈としては,迷った羊は帰り道がわからなくなり,群れに,羊飼いの元に戻ろうとして鳴き声を上げ,羊飼いを呼んでいたとするものである.その鳴き声,すなわち祈りは,探索する羊飼いに手がかりを与え,その手がかりにより羊飼いは羊を発見し,歩き疲れた羊を肩に担いで,ついに群れに帰すというものである.
この解釈においては,迷える羊は,群れに戻りたいという意志を持っており,しかもそれを神に嘆願し祈っている.そのため神は比較的容易に(?),羊を群れに返すことができた.しかし先ほども書いたとおり,教会から迷い出た羊は,すでに「野生の羊」もしくは「狼」に変わっている可能性がある.彼らにはそのような祈りも嘆願も,群れに戻ろうとする意志のかけらすらもない.ではそのような祈り無き者達が,神の見えざる力によって群れに戻される事があるのだろうか?
自分はそれがあると信じる.羊の群れを憎み,あるいはそれを捕食せんとする者が,人によるのではなく,見えざる神の御力のみによって,この弱き者の群れに再び加わることが実際にあるのだと言うことを信じる.そのようなにわかには信じがたいことが起こる時,それは迷える羊にとっても信じがたき,想定外の出来事となる.
羊が迷い出た理由は,周囲に目もくれず,地に生えているおいしい牧草を追っている内に,いつのまにか群れから迷い出たとするのが一般的な解釈だろう.すなわち,この地上に存在する様々な誘惑や,それらに対する欲望にそそのかされて,群れを出てしまったということになる.その場合,ふと我に返った羊が鳴き声を上げるのは,理にかなっている.しかしそのような理由で群れを離脱した羊が,我に返ることなく,ずっと草に夢中であったのなら,その羊が鳴き声を上げることは期待できない.彼は羊飼いの呼び声をうっとうしく感じるであろう.あるいは群れに引き戻されることに恐怖を感じたかもしれない.この草(地上のもの)を,また自己の欲求の充足,その味わいを失いたくないからである.
また先ほども書いたように,教会離脱の原因は地上の誘惑だけではない.群れの他の羊を嫌って,あるいは羊飼いそのものを嫌悪し,決意を持って群れを後にした者もいるからだ.以上を考え合わせるとすべての迷える羊が鳴き声を上げ,羊飼いを求めるわけではないことがわかる.それどころかむしろ,探しに来た羊飼いに気づいて逃げ出したり,あるいは羊飼いに反抗し,かみつこうとする者すらいるであろう.羊飼いが羊を見つけて喜んだことは間違いない.しかし迷える羊は,必ずしも羊飼いによる自分の発見を喜んでいるとは限らないのである.
もし迷える羊が羊飼いとの再会を心から喜び,そして羊飼いと共に群れに戻ることを臨んでいたとするのであれば,羊は精神的な元気を取り戻し,羊飼いの後について歩いて行くこともできたであろう.しかし羊飼いは羊を背負ったのである.それは羊を背負う必要があったからと解釈されるのが一般的であろう.
その必然的な理由とは,一般的な解釈では,羊を地上から引き離し,地上から「上げる」ことにより,羊の視野から地上の誘惑(草)を消し去り,本来的自己を内省させるためとされる.羊は神によりすでに地上から脚を離し,天に近づいている.この時点で迷える羊は,他の99匹の地上に足をつけている羊を越えて,天に近づいていたのである.
また羊飼いは羊を肩に担がれた.ここにおいて羊飼いと迷える羊は一体となっている.担がれた羊は既にすべての足を羊飼いに捕まれており,自らの意志を封殺されている.羊を担いだ羊飼いを見た者は,羊が彼の服の一部のように見えたであろう.迷える羊は,他の99匹よりも先に,神との一体化を果たしたのである.こうして「後の者が先になる」のである.
しかし,鳴き声を上げなかった羊,すなわち羊飼いも待ち望むどころか,羊と羊飼いを嫌悪し,執拗に探索を続ける神のその御手から逃れようと,知恵を巡らし,脚を速めていたその羊が,ついに羊飼いの手にかかったその時,羊は大いに抵抗したであろう.大暴れに暴れ,悲鳴を上げ,その強靱な脚力で羊飼いを蹴飛ばし,自由を得んと,その脚に満身の力を込め,イエスを蹴りつけたであろう.それは羊の傲慢であるのだが,羊には羊飼いの方が傲慢に見えているため,罪の意識など微塵もない.羊にとって,それは暴力以外の何物でも無いのである.
神は「宮清め」の時のような暴力を使ってでも,この迷える羊を救済されようとなさる.それはその羊のために,命をも惜しまない「善き羊飼い」の強靱な意志の現れである.そのような神の強靱な意志の前に,羊の抵抗などはものの数ではない.羊は神の肩に担がれるしかないのである.
それでも羊は肩の上で抵抗し続けたであろう.すでに自由を奪われ,神に捕らわれ,地上を離れたのにもかかわらず.しかしその抵抗は蓄積する疲労と共に,やがては収まっていく.そして諦念が彼をおおうと同時に,彼の中で自己の現状に対する考察と内省が開始される.自分は結局何者であったのか,群れや羊飼いから離れて,自分がやっていたことは何だったのか.その価値とは何だったのか.彼は「計算」をも始めるかもしれない.群れに戻された後,再び脱走を試みるべきなのか.もしそうした場合,羊飼いはどのように動くのか.その結果はどうなるのか.それは自分にとってトクなことなのか,損なことなのか.
地上を離れ,羊飼いの肩の上で,自由を奪われた一匹の羊には,考える時間が与えられる.やがてその時間は,自分の行いや羊飼いへの無礼に対する悔い改めを経て,祈りの時へと変わるであろう.こうして迷える羊,あるいは「野生の羊」「狼」は,再び「以前より善い羊」,「上げられた羊」として,群れに帰ってくる.それは周囲から見ればあり得るはずのない奇跡であり,神の栄光そのものである.
教会を離脱し,「逆パウロ化」した棄教者,すなわち迫害者が,このような形で神の栄光を表した例を自分はまだ知らない.「迷える羊」のたとえは,自分にとってまだ預言であり,予告にとどまっている.しかし私を含めて,神の突然の「暴力」によってこの道に「投げ込まれてしまった者」は,この預言が成就されるであろうことを身体で知っている.私の耳は,そのあかしを欲している.そして求める者は与えられるであろう.
追記:
このエピソードにはまだ語りたいことが多くある.十字架と背負った羊,100匹という数のスケーラビリティ,羊飼いのいない99匹の群れの動向等であるが,またの機会にしておく.
2013年9月8日日曜日
ルカ14:25-35 「この道」を歩く者が立ち止まる時(主日礼拝)
塔を建てようとするとき,造り上げるのに十分な費用があるかどうか,まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか(ルカ14:28)キリスト者ならば,一度ぐらいは非キリスト者から,「キリスト教は邪教である」と罵声を浴びせかけられ,糾弾されたことがあるかもしれない.自分にはその経験がある.その時に彼らは,新約聖書のあるヵ所を指弾したと記憶している.それが今回の説教で取り上げられた部分である.すなわち
父,母,妻,子供,兄弟,姉妹を,さらに自分の命であろうとも,これを憎まないなら,わたしの弟子ではあり得ない(ルカ14:26)である.「家族を否定するとは何事か!」「父母を憎むとは不遜も甚だしい」「命を軽んじている」といった非キリスト者からの非難は,同時に彼らの持っている血縁者中心的倫理観という常識を,高らかに賞揚するものでもある.
聖書はおそらくこのような誤解や無理解を招くことを承知で,またおそらくは,それを意図的に引き起こすために書かれていると自分は推測する.この部分は確かに,ナイーヴな一般の善良な市民に,ある種の強烈な怒りを引き起こすインパクトを持っている.彼らは良きヒューマニストなのである.しかし誤解を恐れずに言えば,キリスト者はヒューマニストではない.キリスト者はだれよりも主イエスを,神を愛している.そしてその主イエスをあらゆる人の中に見いだし,その人の中の主イエスを信じ,愛し,また敬い,仕えるのである.ヒューマニストと見なされることの多いマザーテレサの言葉などは,それを端的に表現している.
この聖句の持つ,自分の命(自我)を含めて,この世のものを徹底的に捨離していくという精神は,極めて仏教的でもある.おそらく仏教者ならば,この聖句の意味を容易に理解してくださるであろう.この捨離によって人は,イエスの囚われ人となる.すなわち罪から解放され,真の自由を得ることになるのである.そして自分の十字架を背負い,イエスの後を追って,イエスが先に歩いていかれた十字架への道を歩いて行く.
しかし「この道」に入り,「この道」を歩きだした者達が,その歩みを全うする事は至難の技である.特に在家でこの世との関わりを保ちつつ,信仰生活を続けていかなければならない信徒にとっては,信仰とはこの世の誘惑・迫害・悪との熾烈な戦いを意味する. その戦いに疲れ切って弱ったところに,石につまずき,よろけ,ころんで,ついには棄教する者は,原始教会においても相当数いたことだろう.そのような経過をたどった棄教者は,「この道」を歩いている内に,自分が知らず知らずのうちに疲れ,弱くなっていたことに気づけなかったのかもしれない.
それは自己への配慮を,神への愛ゆえに,怠った結果であろう.キリスト者は,肉体のみならず,魂すらも神の所有物である.キリスト者は.その神の所有物である自己の管理責任者でもあるのだ.したがって自己への配慮は信仰生活の一部であり,義務ですらある.自己への配慮を怠って「この道」を邁進するものは,いずれ信仰生活に破綻をきたす危険性をはらんでいる.
自己への配慮のために,「腰をすえて計算」することは,「この道」を歩ききるためには必須であろう.その時,人は歩みを止め,道の途中で座り込み,計算をしなければならない.現在の自己の状態を,理性を用いて客観的に判断し,残りの道程を算定し,この自分の現在の状態で,道を歩ききれるかどうかを,計算するのである.そこで現状の自分の状態に不安を覚えるのであれば,人は歩みを止め,自己の状態を回復させるための時間を持たなければならないだろう.またいつの間にか自分が棄教寸前の危険な状態に陥っていたことに気づいたのならば,棄教することと,道を歩き続けることのどちらが自分にとってトクになるかを計算することになるだろう.
その時に,自分が捨離し失ったものすべての価値と,信仰に入って得たすべての価値とを比較することになる.それは自分の洗礼式の時の感動を,思い出させることになるのかもしれない.両者の価値を理性的に客観的に数量化して算出し,比較した時に答えは得られるだろう.それは,通常,一時的な価値と永続的な価値との比較となる.そのため比較の結果は比較的明瞭である.
その結果を目の当たりにした時,すなわち入信によって自分が得た途方もない価値を再発見した時,人は再び立ち上がるために,主の差し出してくださった御手を,目の前に見出し, 喜びと感謝に満たされながら,その命の御手を取るであろう.
二万の兵を率いて進軍してくる敵を,自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか,まず腰をすえて考えてみないだろうか(ルカ14:31)「この道」の途中で信徒が死にかけた時,父なる神は子を救うために,強制的な,誤解を恐れずに言えば,暴力的な力を発動するケースがある.それは私が経験したことだ.その時子は,怒りと不快と悲しみを父なる神に投げつけ,手足をばたつかせ,あらゆる方法を用いて徹底的に反逆しようとする.神を呪う瞬間である.ここでの彼には,計算をするゆとりなど全く存在しない.彼の理性は死んでいて,感情が彼を支配しているのである.
イエスはそのような神の暴力が自分に臨んだ時に,計算をしなさいと言われる.はたして進撃してくる神の力に徹底抗戦して,勝利することができるか,冷静に客観的に判断せよと言われるのである.ヨナはある程度計算したのだろう.だから勝てないと思い,逃亡を選択した.しかし彼の計算は甘かった.計算すれば,神から逃げ切れるわけがないと悟っていたであろう.
確かに計算すれば,神に勝てるはずはないのである.したがって計算することのできた反逆者は,戦いが始まる前に抗戦を放棄を決断し,神に和睦を申し出ることになる.神は受諾の条件として,またその証として,敗北者に貢ぎ物を要求するであろう.それは人間関係や自己を含めた,敗北者のこの世の持ち物一切である(ルカ14:33).敗北者はこの世のすべてを失い,神の国に捕囚され,神の僕として生きていくことになる.そして気づくのである.自分がゲヘナに投げ込まれずにすんだことを.これから神の国の中で,永遠に生きていくことができることを.彼は神の暴力に感謝し,祈るであろう.「あなたこそは私の父である」と.
計算とは,理性と客観性,すなわち科学である.つまりキリスト教は科学を否定していない.むしろ科学を,信仰生活の道具として積極的に利用せよと,イエスはこのエピソードにおいて奨励しているのである.「この道」を歩みきるために科学を杖(道具)とし,また自己への配慮のため,歩みを止め腰をすえ計算する必要がある.これらは長い信仰生活において極めて有益なことである.言い換えれば,信徒は信仰生活において惰性に流されてはならないのである.
2013年8月25日日曜日
ルカ14:10 輝ける末席(主日礼拝)
招待を受けたら,むしろ末席に行って座りなさい(ルカ14:10)本日の主日礼拝の説教は,主イエスのへりくだりに関してだった.イエスは,わざわざ天上からこの地上に救いのために下ってきてくださった.それは,とてつもない出来事である.なぜなら,明らかにあらゆる存在の中で最も美しく尊い方であるイエスが,この汚れ穢れた地上にまで,わざわざ下りてきてくださったからである.それだけではない.彼はその汚れ穢れた地上に暮らしている人々の中でも,最も惨めな人間として生きることを,自ら選ばれたのだ.そしてあの十字架において,彼は我々のために死んでくださった.それは,一般の日本人の持つ「神」のイメージ,生死を超越した存在,超自然的な能力により何でも自分の思うようになる能力者,偉大なる「力」といった,「神」のイメージとは,全くかけ離れている.
彼の想像を絶するへりくだりは,十字架の死において頂点を極めるが,そのイメージは信徒でないとわからないかもしれない.しかし「弟子の足を洗う(ヨハネ13:1-20)」エピソードは,イエスを信じない者,すなわち,イエスが人間であり,ユダヤ教の先生であったと考える者であっても,彼の徹底したへりくだりに驚愕するであろう.
彼は,十字架の死が近くなった頃,自ら弟子達一人一人の足を洗われた.当時,家を来訪した客人の足を洗ったのは,その家の奴隷だったという.イエスは,弟子達に対して,人間の中でも最も低い立場である奴隷(仕える者) にまでなって,へりくだった姿を弟子達に見せたのだ.手の届かないような高いところにいる尊敬する先生が,自分たちの奴隷となった姿に,弟子達も驚愕したであろう.そこには,「偉大なる力」としての神の姿は全くない.
イエスは,「人に仕える神」という,にわかには信じがたい神概念を持っていた.その考えはこのルカのエピソードにも現れている.しかし先生は,このエピソードの表層上の教訓は,極めて一般的道徳のレベルにとどまっているとした.たしかに,わざわざ聖書に書かれなくても,「宴会においては末席に座れ」という教訓自体は,何かのマナーの本,あるいは道徳的な本に書かれていてもおかしくはない.ではこの聖書に書かれたルカのエピソードには,どのような深い意義があるのか?
先生は,このエピソードが,真の謙遜とはどのようなものかを示しているとした.それは人の賞賛を期待して行われる,偽物の謙遜ではない.真の謙遜は,その謙遜に対して何の見返りも期待しないはずである.真に尊敬する対象に対して自分を低める者は,それによって自分がどうなるかなどと考えることがない.彼は,己の尊敬する対象を前にしたとき,自分の現状や立場や損得などを考慮することもなく,その対象に対し,なすべきことをなす.それは敬意を表すことであり,対象の前に自分を低めることである.それが見せかけのものではないことは,彼がその時に捨てたものが証をする.彼は自分を捨てるであろう.
「自分を無にすること」これが真の謙遜の正体である.そしてそのような真の謙遜を示したものに,主は寄り添われる.
わたしは,高く,聖なるところに住み/打ち砕かれて,へりくだる霊の人と共にあり/へりくだる霊の人に命を得させ/打ち砕かれた心の人に命を得させる(イザヤ57:15)イエスは真の謙遜者の模範を自ら我々に示された.またこの末席のエピソードにおいて,謙遜こそがイエスに至る道であることを語られたのである.
自分は自分の意志とは関係なく,神によって打ち砕かれた者である.それは誤解を恐れずに言えば,「神のふるわれた暴力」である.しかし同時に神の愛であり,神の救いの1プロセスであった.その暴力があったからこそ,私は受洗し,救われたのだ.それがなかったら,自分は一生,受洗しなかっただろう.もし受洗しなかったら…,自分は生きていたかどうかもわからない…
私がこのエピソードを読むとき,もう一つのことを思う.この宴会への「招待」が,イエスからのものであったらと想像するのである.しかもその宴会は,私の心の中で開かれている.イエスが私の心の中にその様な宴会の準備をされたのである.想像の中で私が宴会の開かれる部屋に行くと,イエスはおろか誰もまだ来ておらず,たくさんの空席が並んでいる.イエスは,いついらっしゃるのかと待っている内に,自分は席に座らなければならない.その時に,キリスト者としての自分は,最初,末席を選ぶのだろう.しかし,イエスをずっと待っている内に,だんだん考えが変わってくる.「これだけ待っても誰も来ないのならば,末席でなくても良いのではないか」という思いが頭をもたげてくる.
そしてついに,末席から席を上座に向かって,一つずつ移動し始める.そしてついに一番の上席にたどり着き,そこに座ってしまう.それは宴会ホストの席であるだけではない.王の席,イエスの席である.その席に座ってしまった時に,自分は招待客の立場から,宴会ホストの立場に変わり,自分の思うとおりの宴会を開こうと画策を始めるのだ.イエスのいない
心の中で王の席に座ること.それはすなわち,自分が神の所有物ではなくなり, 自分のものとなることである.それは自分をイエスよりも上のものとする不遜で尊大な行為である.同時にそれは神からの逃亡であり,神の憐れみ・神の救いの放棄でもある.自分のような者がイエスの宴会に招待される事,それだけでも,ありえない奇跡であることを忘れてはならない.その宴会の末席が,どれほどまでに自分にとって,身分不相応な,いわば,「もったいない」席であるか,その末席の輝かしい価値を知るべきである.
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