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2014年1月27日月曜日

テレビ朝日55周年記念ドラマ「黒い福音」に見る「個の信仰」(on twitter @rahumj)

テレビ朝日「黒い福音」視聴完了.TBS制作の1984年版TVドラマよりもマイルドに仕上がっており,藤沢刑事(ビートたけし)の物語として作られているためか,後味も1984年版よりも良かったと思う.

 このドラマは,実際に起こった事件(BOACスチュワーデス殺人事件)に関して松本清張が推理を展開し,それを小説化したものが原作となっている.「黒い福音」というタイトルからもわかるとおり,この小説におけるカトリック教会組織は犯罪に手を染めており,その神父は上司の命令により自分の愛人を殺害してしまう.しかし「教会」という壁ゆえに警察は彼らを逮捕することが出来ず,神父は帰国してしまい,遂にこの事件は未解決となってしまう,というのが物語の大筋だ.

 1984年版では,カトリック教会の神父たちがマフィアのような悪党として描かれており,そのシーンも長かったが,2014年版ではそのような描写はほとんど見られず,その代わりに藤沢刑事の人間性を描写する時間が長くなった.

 ただし2014年版においても,教会の信徒たちがカルト教団的な不気味な笑みを浮かべて,報道陣と対峙するシーンもあるにはあった.しかし,おおむね一般視聴者は視聴中,1984年版のように教会組織や神父に対する激しい憤りを,持続的に覚える事もなかったのではないかと想像する.ただ逆に,二人の男に犯された後に殺された被害者の悲惨さや,愛人の殺人にまで及んだ神父の激しい葛藤や,「落としの八兵衛」藤沢刑事(モデルは名刑事平塚八兵衛)の無念さという点については薄いと言わざるを得ない.

 2014年版「黒い福音」において,特におもしろかったところは,藤沢刑事がはっきりと「神を信じている」と告白している点だ.脚本では,なぜ藤沢刑事が神を信じるようになったかを視聴者に納得させるために,戦場で死にかけた時のエピソードを彼に語らせている.

 「黒い福音」における藤沢刑事は,組織の人間ではない.彼は彼自身の信念(信仰)に基づいて,組織の圧力をものともせず,物語の最初から組織のルールを破り続ける.それに対して組織は,彼の存在を煙たがったのは当然であるが,彼の卓越した能力は認めており,故に警視庁捜査一課から彼を外すことはなかった.

 このドラマの冒頭で,藤沢刑事の犬がリースを付けたまま逃げ出し,被害者の遺留品へと彼を導くが,この犬こそは,組織にとらわれない藤沢刑事の表象である.脚本家はこの物語の予型をイントロに配置したのだろう.

 2014年版「黒い福音」において,藤沢刑事は神を信じていると公言した.それでは彼の信じていた「神」は,いかなるものであったあろうか?彼の発言からそれを推測してみよう.

 彼の信じる神は,彼が子供の頃,溺れかけた時や,戦場で死にかけた時に,彼の生命を救ってくれた「命を救う」神である.

 次に藤沢刑事は,被害者と巡りあわせてくれたのは,神であったとしている.彼の弁から推測すると,神は彼の最後の大仕事として,彼にしか解決できない事件を彼に担当させてくださったと考えているようだ.おそらく彼は,自分の仕事を神によって与えられた天職だと思っているのだろう.つまり職業召命観を持っていたと言うことだ.

 またルノーの中でトルベック神父と藤沢刑事が対決した時,自分の胸を指しながら藤沢の言ったセリフ

「俺の神様はここにいるから,嘘はつけない.あんたの神様はどこにいるんだ」

から藤沢刑事が「神は,通常,個々の胸中に宿っている」「神はすべてを知っている」の2つを仮定していることが推測される.

 胸中の神の存在によって,藤沢刑事が嘘をつけない理由とはなにか?ここでこの「嘘」についてより細かく考察しなければならない.なぜならこのドラマにおいて藤沢刑事は,「嘘」をついて捜査をしているからだ.

 この捜査上の嘘は,彼の神に許されている嘘ということになる.それが許されているのは,犯人逮捕という目的が「嘘」という手段を正当化したからに他ならない.そして犯人逮捕こそが,彼が彼の神から授かったミッションである.

 したがって藤沢刑事が「嘘はつけない」と言ったその「嘘」とは,自己欺瞞,特に神から授かった担当事件に関しての自己欺瞞のことだろう.こう見てみると藤沢刑事の恐るべき執念が,実は彼の,神への個人的信仰心の故であったことが読めてくる.

 藤沢刑事が規律の厳しい警察組織の中で,あれほど身勝手に動きまわることができたのは,彼に実績があったからである.したがって彼は勝ち続けなければ,組織には残れなかった.その孤独な戦いを支えたのが,彼の信仰ではなかったかと思う.

 トルベック神父のアリバイを崩す証拠写真を市村刑事に渡すときに,藤沢刑事は「神様はいたよ」と言った.藤沢は「内なる神」の存在を固く信じているため,この言葉は,「彼の神」の発見ではない.写真を渡してくれた関田ハナ(市川悦子)の胸中,もしくはその周辺に神は臨在していたということだろう.

 藤沢刑事は,カトリック教会の信徒である関田ハナ(市川悦子)に,刑事であることを隠した.彼は,同じく信徒であった江原ヤス子(竹内結子)の知り合いとして彼女に接触し,その証拠写真を得ている.もし関田が彼を刑事だと知っていたら,写真を渡したかどうかは微妙である.つまり写真を刑事に渡すことにおいて,「関田の神」は試されておらず,現れていない.

 信徒である関田が「教会がごぶさたになった」理由は,劇中明らかにされていない.しかし彼女に信仰が残っていたのは,明らかである.それは彼女の肌身離さぬ胸の十字架だけではない.咳き込みうずくまる藤沢刑事に自分の水筒の水を差し出す思いやり,淀みない聖句暗唱,それに続く十字架のしるし…

 関田ハナが「教会がごぶさたになった」理由として,教会の中の犯罪的行為や,警察の聴取に対する口裏合わせなどに嫌気が差したというのも考えられる.そうであれば,関田ハナの中には「神がいた」ということになるのであろうが,藤沢刑事がそれを知っていたとは思えない.

 藤沢刑事が「神がいた」と言ったのは,おそらく神が摂理的に,関田ハナを教会から遠ざけるようにされ,また彼女に写真が届くようにされたことで,間接的に決定的証拠を彼に手渡したのだということではなかろうか?そこに藤沢は神を見,そして彼の外にも「神がいた」ことを知ったのではないか?

 とすると,藤沢刑事の神は「人の間に臨在する」神でもあるといえるだろう.さらに
「人を生かし,人を救うのが神様ならば,きっと赦してくれる」
という江原ヤス子に対する藤沢のセリフから,彼の神は「赦す神」でもあることもわかる.彼はこの台詞によって江原ヤス子に自白(告解)を迫った.

 藤沢の神の特徴をまとめると
  • 命を救う神
  • 人を生かす神
  • 人を赦す神
  • すべてを知っている神
  • 「人の間に臨在する」神
  • 聴罪する神
  • 天職を与え,それを助ける神(職業召命観)
  • 個々の中に宿る「内なる神」(個人主義)
ということになるだろう.このような特徴がキリスト教の神の特徴に類似するのみならず,後半の2項目に着目するとき,プロテスタンティズム的神概念を思わせるのは気のせいだろうか?

 このドラマにおいて,藤沢がカトリックの神父に掴みかかり,あるいはもみ合いになるシーンが2度ほどあるが,それは単に彼らが犯人であるからではない.彼ら神父の不信仰が赦せないのだ.藤沢は,その信仰故に自分の「内なる神」に忠実であり続け,組織のルールを破ってまで神に従ってきた.ところが彼ら聖職者は,藤沢以上に神に忠実であるべき身分にありながら,彼らの「内なる神」に全く従っていない.その不信仰に対する,激しい怒りが暴力となって現れたのだと思う.

 しかし実のところ,これは藤沢の素朴な彼の神概念による誤解である.神父らは,神に従っていたのだ.神父らの神は藤沢の神に類似しており,故に藤沢は神父の中に「内なる神」を仮定し,神父らがその「内なる神」に従っていないことに怒りを感じた.しかし神父らの神は,彼らの内には元々いなかった.彼らの神は「個人の外」にいた.「教会」の中にいたのだ.

 さらに言えば,この神父たちにとって,神から与えられた聖なるミッション(伝道)は,何よりも優先されるべきことであり, そのために彼らは国内法的合法非合法を問わず,その手段を選ばなかったのだ.かつて有能なカトリックのパードレたちが,密航という形でキリシタン禁制の日本に上陸し,「聖なる偽り」を用いたように.そこには「野蛮人の国日本」に対するある種の傲慢さが見え隠れする.

 この構図,「神から与えられた聖なるミッションという目的のためには,手段を選ばない」という考え方は,実は藤沢も全く同じである.神父はそれ故に殺人まで犯したが,藤沢も事情聴取などにおいて暴力沙汰などを起こしてもおかしくはなく,それによって冤罪が生まれる可能性は否定出来ない.ドラマは,藤沢の持つそのような危うさをもしっかり描写している.

 ただ二人の神父が戒律を破り,愛人を作っていた事実は,彼らの信仰が狂信的であることに疑いを挟む.戒律を破るということは,彼らの神学において,神に逆らったことと同じであろう.そう考えてみると神父らはむしろ,聖なるミッションの遂行というよりは,サラリーマン的に伝道という職務上のノルマを達成するために,闇取引という非合法で安易な方法を選び,それによって得たゆとりを愛人との「甘い生活」に当てていたのかもしれない.そうなると彼ら神父は狂信者ではなく,俗物ということになるが,このドラマの内容からはその真偽は判定できない.


 さて,藤沢のその信仰について,もう少し考察してみよう.藤沢刑事のモデルである平塚八兵衛の有名な言として,次のものがある.
「人間には根っからの悪党はいねえよ」
平塚は退職後、自分が逮捕した犯人で死刑となった者たちの墓参りにも行っている.さらに彼には,
吉展ちゃん誘拐殺人事件の犯人小原保の墓参りに行った際,彼が先祖代々の墓に入れてもらえず,横に小さな盛り土がされただけの所に葬られていた事に愕然とし,盛り土に触れた後に泣き崩れた
というエピソードもある.

 藤沢刑事は平塚八兵衛と同じように,犯罪者の中にも善なる者(神)は宿っていると信じていた.彼は犯罪者の中に隠されているその善なる者に対して訴えかけ,その犯罪者の中の神がその呼びかけに応え,それが犯罪者の表に現れることにより,これまで犯人を落とし,事件を解決してきたのだろう.

 つまり藤沢刑事の取り調べとは,犯罪者に内在する神への祈りであり,そして犯人が落ちた時,彼は神の顕現を目撃するのである.

 トルベック神父が記念写真の件について「自分が撮った」と嘘をついた時,藤沢から語られるあのセリフ「あんたの神様は今消えたよ」の「神」はカトリックの神ではない.それはこれまでの取り調べ経験において,藤沢刑事がその顕現を目撃してきた犯罪者の中の「善なる者」「内なる神」である.藤沢はその時トルベックから,藤沢が祈るべき「内なる神」が消え去ったのを感じ取った.故に藤沢流の取り調べは,もはや成立しえない.彼にとってトルベックは「死んだ」のであろう.

 藤沢刑事は,結局神から与えられた最後の大仕事であったトルベック神父を落とすことはできず,そのミッションに失敗した.その出来事を信仰の人藤沢がどのように消化したのかは不明である.彼はその後すぐに亡くなってしまった.彼は無念に打ちのめされて,失意のうちに死んだのだろうか?

 …しかし彼の失敗は全く無駄ではなかった.すべて若い市村刑事の糧とエネルギーになったからである.警視総監も今回の失敗から「国は強くなければならない」という教訓を得た.この結論はもちろん,現在の我々への問いかけである.特に沖縄のアメリカ軍基地問題を意識しているのだろう.

 ただ自分はこの言葉を単純に取りたくはない.警視総監のこの言葉の前後をよく聞けばわかるが,この「国」とは,たくさんの国がひしめく世界の中の一つの独立国という意味である.つまり組織や集団の中で「個」が生きていくために,「個の強さ」が必要ということなのだ.

 言うまでもなく,その「強い個」の代表者がこのドラマでは藤沢となっている.その個を支えていたのは彼の信仰であった.このドラマにおいてそのような「個」を持っていた人物は,教会人では,教会から距離をおいていた関田ハナ,命令に逆らって殺された被害者生田世津子しかいない.また警察組織では藤沢の他には市村だけだ.

 もちろん市村刑事の「個」は,藤沢刑事の「個」によって徐々に育まれたものだ.それが花開くのは,藤沢の死後,市村が警視庁捜査一課に入ってからだろうから,藤沢はそれを見届けることはできなかったわけだ.

 警察組織もカトリックも軍隊も,同じヒエラルキー的権力構造,絶対服従,厳しい戒律を持つ.トルベックも藤沢もそのような環境で生きてきたのだが,その生き方は対極にある.それは信仰の座が,集団にあるのか,「個」にあるのかという違いによるのだろう.

 トルベックは絶対服従ゆえに愛する女を殺すに至った.藤沢刑事は個の信仰に突き動かされて,事件の真相に至った.一見この構図は藤沢刑事的個の礼賛のように見えるが,実際はそうではない.刑事が全員藤沢刑事的だったらもはや捜査は成立しないだろう.要は「所属集団と個の間でいかにバランスをとるか」なのだ.

 ただ所属集団(権力)は個に対して圧倒的であるため,通常は個が押し流されてしまう傾向にある.集団に所属する者が,所属集団と個の間でバランスをとるためには,個の強さが必須なのだ.その個の強さをもたらしたものが,藤沢刑事の場合,彼の「個の信仰」だった.

 そして本日1月27日の主日礼拝の説教テーマがこれだった.
 ところが,徴税人は遠くに立って,目を天に上げようともせず,胸を打ちながら言った.『神様,罪人のわたしを憐れんでください.』(ルカ18・13)
徴税人は,隣のファリサイ派の人に目もくれず,ただひたすらに神に懇願し,祈った.それは,「神の前にただ一人立つ」キルケゴール的な切実な個人的祈りであった. また我々は知っている.
だから,あなた方が祈るときは,奥まった自分の部屋に入って戸を閉め,隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい.そうすれば,隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる.(マタイ6・6)
  それゆえ我々は,教会における合同の礼拝や交わりを守りつつ,日々,自己の内なるドアを開けその礼拝室に入り,世界に通ずる唯一のそのドアを後ろ手に閉めて,ただ一人,神の御前にひざまずき,祈りを捧げるのである.

2014年1月7日火曜日

続「TRICK 劇場版2」とカトリック,あるいは,そのトリックの深層(on twitter @rahumj)


 「TRICK 劇場版2」に仕込まれた真のトリックは,実は,その視聴者を対象としている.そのトリックの目的とは,気取られること無く視聴者に対し,ある種の「マジック」をかけることにあった.このマジックのタネは,映画でよく見られる脚本の多層構造にある.

 この作品は表層上は,老若男女に理解できる単純極まりない科学的トリックを用いた勧善懲悪的娯楽作品,気楽に見て気楽に忘れ去ることの出来るチープなコメディーを装っている.しかしそれはいわば「甘いオブラート」であった.この物語の深層は悲劇と絶望である.そしてそれをプロットした制作者側の意図とは,その悲劇と絶望をもたらした宗教と「超自然」に対するワクチンを,密かに,万人の深層心理に投与することだった.

 「密かに」と書いた.それは本作品がその物語の表層において,特定可能な宗教や超自然を扱っておらず,架空の犯罪的カルト宗教を扱っているように装いながら,その深層においては明らかにカトリックをターゲットとしている点にある.

 「科学の福音」の伝道師たち,あるいは宗教や超自然に対するワクチンを予防的に,特に低年齢層を対象に投与する医師たち,すなわちテレビ朝日のプロデューサである早河洋氏(株式会社テレビ朝日代表取締役社長)や本作脚本家の蒔田光治氏(京大法学部出身)が,涙を流すマリア像等の超自然現象を奇跡として認否するための委員会(奇跡認定委員会)を有するカトリックを,そのターゲットと定めたとしても何の不思議もない.

 カトリックの列福や列聖の条件としての奇蹟をも考え合わせれば,彼らがカトリックを「超自然=オカルトの擁護者」と見るのは,むしろ自然だろう.そして絶対的な因果律,すなわち科学的法則によって,罪人がその罪によって地獄に落ち滅びるという,この物語のプロットも,極めて自然であったろう.

 しかしキリスト者とは,因果律の破れ,すなわち罪(原因)→処罰的死(結果)の破れを知る者である.カトリックにおける超自然は,オカルトや魔術,すなわち人々を幻惑し魅惑する力の現われなどでは決してない.むしろその反対である.その現場とは神の栄光の現われであり,愛と救いと癒やしの現場なのである.

 超自然を認めない者にとって,すべては自然な物理現象である.彼らは,科学によって解明し得なかったその超自然的現象を「科学の未明領域」とみなし,現象解明のためにさらなる研究へと邁進するだろう.一方の超自然を認める者達にとっては,超自然と自然の弁別は極めて重要な意味を持つ.

 それゆえ超自然を認める者は,現在の科学の説明領域を知り尽くすだけでなく,将来の科学の説明領域すらもある程度予測し,超自然現象を弁別しなければならない.それは科学の最先端に立ち続ける事を意味するが,それは一般人に出来ることではない.

 そのためか現在の奇跡認定委員会は,その科学的検証を第三者機関に依頼しているという.また一般的な裁判と同様に,「悪魔の弁護人」とも称される奇跡に否定的な立場の神父を交えて,その判定を行っているようだ(注:ただしその「悪魔の弁護人」の人数,及び科学者であるか否か,またどれほどの科学的知識と判断能力があるのかについて,自分は知らない).

 藤木稟のミステリー小説「バチカン奇跡調査官」 シリーズの主人公平賀神父のセリフに,次のようなフレーズがあるという.
「科学者として客観的であることと,敬虔なカトリックであることを矛盾なく受け入れている」
否,むしろ超自然の存在を標榜する者は,科学的でなければならないのである.

 故に自分は「TRICK劇場版2」の脚本における,超自然を認めるカトリックと科学の対立構造よりも,カトリックと科学の協力による問題解決が,あの物語には似つかわしかったのではないかと思っている.そうすればあの後味の悪い悲劇的で絶望的な結末を,エンドロールを被せることでさらに薄められた,科学者とマジシャンの小コントで紛らわす必要も無かったのでは無いか?

 甘いオブラートに包まれ,幼い子らの口にも合うように調味された,カトリックに対する苦いワクチンの投与は,地上波初登場の2007年時,視聴率19.6%であることから,その当初の目標を達成したと言ってもいいのかもしれない.映画の興行収入も21億円であるから余裕でペイもしたことだろう.

 確かにカトリックが地動説を認めたのは,ガリレオの死後359年経った1992年であった.また果たして,現在の奇跡認定委員会が,科学の最先端に立っているかどうかは自分にもわからない.さらには修道院の中からも,人間的なゴタゴタやいじめの叫び声が遠雷のように耳に届いてもくる.

 金について言えば,バチカン銀行元総裁 ポール・マルチンクス大司教の大スキャンダルや,最近新聞を賑わせたパオロ・ガブリエル教皇執事の逮捕,実刑判決,恩赦,そして暴露による歴史的痛手,いわゆるバチリークス・スキャンダルに,巨額の金がからんでいたのも事実である.

 しかしそれだけでカトリックを「超自然で信者を集める拝金主義的カルト宗教」と同列に扱うことはおそらく誰にもできないだろう.誤解されやすい「教皇の不可謬性」についても,実際には制限が課されており,教皇の一般的発言に間違いが含まれる可能性をカトリックが全否定しているわけでもない.

 あらゆる教会は完全ではない.すなわち歩みの途上にある.歩みを止め,うずくまり,地上の快楽をむさぼるようになれば,教会は因果律にとらわれ滅んでしまう.つまずくこともあるが,それを悔い改めにより乗り越え,成長し,歩みを続けることのできる生命を教会が与えられているのであれば,人はそこに光を見出すだろう.

 「TRICK劇場版2」にその光,人を生かす光があっただろうか?またその光を,教祖の筐神佐和子,その娘の西田美沙子,幹部聖職者の佐伯周平,導き手の伊佐野銀造らに,科学者とマジシャンは与えられただろうか?

 おそらく製作者側もそれに気づいていたのだろう.教団幹部佐伯周平が逮捕直後に科学者とマジシャンに対して言い放ったあの言葉,
「これがおまえらのやったことだ!!」

に対して,二人を苦々しい沈黙の中に置き続けた製作者たちは,この物語の悲劇的結末への引き金を引いた,科学の限界を,誠実に表現したのだと自分は思う.
 
 断罪は常にたやすいが,その赦しは難しい.故にその赦しは尊く,死すべき命を「今,ここ」につないでいく.冷たい科学と律法主義的断罪のこの時代において,自分はその,「尊い生命の物語」の到来を願ってやまない.それは「希望」の物語である.

2014年1月6日月曜日

「TRICK 劇場版2」とカトリック(on twitter @rahumj)

 「TRICK 劇場版2」をTVで見た.昨年末再放送された「TRICK 新作スペシャル2:村祭りに響く死を呼ぶ子守唄!!」を偶然見て,その映像表現や脚本の中に,昭和の怪奇・ミステリー映像に対するオマージュやパロディが散見されたからだった.

  「TRICK 劇場版2」の監督は,その再放送の演出と同じ堤幸彦だったので,同様の映像表現に期待したのだが,見始めてしばらくすると,今回の作品はそのような昭和の怪奇・ミステリー映像のパロディやオマージュが,狙いではないと感じられた.そこで視聴をやめようかとも思ったのだが,気になることがあったので見続けることにした.

 その理由の一つは,この映画の舞台が,閉鎖的な新興宗教団体の自給自足的コミューンであったからだ.設定では,このコミューンは孤島に作られているため,現実に存在する「ヤマギシズム社会実顕地」等のコミューンよりも,一般社会から隔絶された状況にある.しかしそれ以上の理由が自分にはあった.

 それは映画開始20分頃に初登場したキャラクターで,主人公たちの「導き手」として紹介される伊佐野銀造のためだった.

 実は私は元日に,エキュメニカルな礼拝に参加したのだが,その時,私の隣に座った方がカトリックの聖職者だった.おそらく若い助祭か司祭で,黒い背広に白いローマンカラーのYシャツを着用していらした.

 自分は初めて生で,男性のカトリック聖職者を見たので,色々と観察させていただいた.「テゼの集い」にお招きしてくださった時のしゃべり方,その物腰,コートの持ち方,黒のアタッシュケース,礼拝中の態度等々.それはやはりプロテスタントの聖職者とは異なり,ある種の洗練された作法のようなものを感じさせた.

 伊佐野銀造が登場した時,自分は妙な親近感のようなものを感じた.そしてその風貌,しゃべり方,物腰が,あの時見たカトリックの若い聖職者とそっくりなことに気がついた.それで彼の服装を,静止画像にしてよく観察してみた.彼は灰色の背広に,白いローマンカラーのYシャツを着ていた.そのYシャツの襟には十字架らしい刺繍(模様?)が施されていた.

 さらに物語が進むと,伊佐野銀造は,科学者とマジシャンの目の前で,自分が当初この新興宗教を迫害していたが,教祖の起こした奇跡を見て,回心し,帰依したと涙ながらに告白した.その告白の語調は,あのカトリック聖職者のみならず,私自身のかつての懺悔をも彷彿とさせるものだった.

 伊佐野銀造は,その懺悔やその前の主人公との会話において,「目からうろこ」「証」という言葉も使っている.製作者が伊佐野銀造というキャラを作るにあたって「カトリックの若い聖職者」をモデルにしたことは,ほぼ間違いなかった.しかし話はそれだけでは終わらない.その後,信仰宗教の女教祖が信者たちの前に登場する.

 その信者の宗団の中に白いベールを頭にかけ,指を組んで祈る女性グループが登場する.それはあきらかに修道女のイメージであった.また修道女だけではなく,その他の男性信者等の祈り方も,手を合わせるものは一人もなく,みな指を組んだり,手を手で覆っていた.これは明らかに演出者が指示しているものと思われた.

 ここまで来ると,今回の舞台となっている新宗教団体が.実はカトリックと修道院をモデルにしていると思えて来たのだが,まだその確信には至らなかった.ところが映画スタートから30分経過した時点で,決定的証拠とも言えるシーンが登場した.

 それは教祖が自分の霊能力を証明するための儀式として,自ら棺桶に入り,泣き叫ぶ信者の前で火を付けられ,焼死し,その後何事もなかったかのように復活するというものだった.復活したその教祖を見た信者たちは,主人公たちを除いて,一斉に彼女の前にひれ伏し,その教団の聖職者(学生服姿)は,服従を表わす騎士のようなポーズをとった.

  決定的だった.なるほど,それでなぜ教祖の部下たちが,黒い詰め襟の学生服を着ているのかも理解できた.あれはカトリック司祭が通常着として着ている,黒のスータン(キャソック)のイメージなのだと.

 「導き手としての若いカトリック聖職者,修道女グループ,教祖の自死と復活,それを見た信者たちの平伏」直後のシーンでは,伊佐野銀造が信者になるにあたって,自分の子供の貯金を含めて,全財産を教団に喜捨したと告白した部分が修道院を思わせた.

  「お金で得られる幸せなど幻想にすぎない」という銀造のセリフも,それらしく聞こえる.ただそれ以降のシーンではカトリックを思わせるものは,なかなか出てこなかった.

 科学者とマジシャンがコミューンに潜入した目的は,教団内に囚われているある女性の救出にあった.その対象者であった西田美沙子は,「肩幅しかない」と表現される箱部屋から発見された.彼女は10年前(小学生の頃)に,ある山村からコミューンに拉致されていた.当然,彼女はその後ずっと世間から隔絶され,修道女的生活を続けていたことになるが,それは彼女の意思ではなく,何度も脱出を図って,それに失敗していた.

  科学者とマジシャンは,西田美沙子を伴い,「滑車の原理」を応用してコミューン脱出に成功する.このドラマの基本的なプロットは,科学的説明による超自然の否定と,科学応用による「救い」にあるようだ.滑車の応用は,映画のラスト辺りにも出てきて, 科学者とマジシャンの命を救っている.

  こうして科学の力は,箱(修道院)の中に囚われていた若い修道女を,その箱から解放し,許婚者のいる「外の世界」に連れ戻した.その過程において彼女は,科学者を当初「素敵な殿方」と呼ぶのだが,ついには「お父さん」と呼んでしまう.父なる神を信じていた者が,科学(者)を父と呼んだのだ.

  おそらく製作者側は,宗教に囚われていた者が,科学による救いを経験し,神から科学へ「回心=棄教」する姿を表現したかったのだろう.彼女が「素敵な殿方」と科学者を呼ぶたびに,彼に向かって目から放出される星々が,何のシンボルなのかはよくわからないが…

 物語の舞台が村に移った後,ついに,捨て子であった西田美沙子が,実は女教祖の娘であることが明らかになる.つまり西田美沙子は,憧れであった父親のイメージ(父なる神)だけではなく,母親(マリア)の愛にも囚われていたことになる.

 そこで初めて西田美沙子は,女教祖を「おかあさん」と呼ぶ.しかし女教祖は,自分の犯した罪とその汚れを告白するが,西田美沙子の母であることは否認する.それは自分の娘を「犯罪者の娘」としないための親心であった.

 女教祖が娘に母であることをずっと告白せず,箱入り娘としてコミューンに監禁したのは,娘を手元に置き,また自分の後継者として彼女を養育する事がその第一の目的であったのだろう.だが他にも理由があるように思えた.

 女教祖は己の罪深さを強く自認していた.それは,この女教祖がマジシャンに対して3度ほど行う,罪の告白内容から明白である.彼女は罪人である自分を嫌悪していたことだろう.彼女が常に白い服装に固執していたことも,彼女の罪の意識の裏返し,反動形成なのだろう.そして自分の罪はもちろんのこと,いかなるこの世の汚れや罪からも,娘を守りたいという願いが,娘を監禁し箱入りにすることの動機になっている.つまり母の願望を娘に投射していたのだ.

  結果,女教祖は娘を監禁したのだが,その姿こそは,まさに彼女自身の姿でもあった.女教祖は無意識のうちに,自分自身を,「女教祖」という箱の中に閉じ込めていたのだ.女教祖が時折,堰を切ったように自分の罪をマジシャンに告解するのは,その息苦しさゆえではなかったのか?

  そして彼女の「箱」の持つ「頑なさ」は,彼女を地獄のような泥沼(富毛沼)への投身自殺へと誘う.それは,彼女が西田美沙子の母ではないことを証明するため,すなわち娘を罪から守るための犠牲的行為であった.彼女はおそらく,逮捕されれば二人の親子関係が証明されてしまうと思ったのだろう.母の愛はその自死によって証しされた.

 西田美沙子は母のすべての罪を知った.そしてその母が,頑なに自分との親子関係を認めようとしないことを知った.にもかかわらず,彼女は母を「おかあさん」と呼びつづけた.西田美沙子にとって,自分に対して母が行ってきたひどい仕打ちや,犯罪行為はもはやどうでもよかったのだ.

 彼女にとって「母の発見」は,そのような否定的感情を遙かに超えるものだった.どんなに罪に汚れていても,その娘への愛がどんなにねじれたものであったとしても,西田美沙子にとって筐神佐和子(女教祖)は母であり,大切な人だったのだ.母が地獄の沼に落ちる直前,音はしないが女教祖の口の動きが確認でき,それは娘の名(美沙子)を呼んだように見える.

 最後の最後に女教祖は,自分の作り出した箱の扉をわずかに開けて,娘に対して母の顔を見せたのだ.それは娘である西田美沙子にとって,どれほど待ち焦がれていた瞬間だったであろうか.ここに自分は本作の頂点を見る.しかし残酷な罪の重力は母親を地獄の沼へと突き落とす.

  娘である西田美沙子が絶叫する「おかあさん」がこだまする中,地獄へと落下する母 筐神佐和子.その愛する娘の切なる叫びを,母はどのような思いで聞いたのであろうか.

 娘を罪から守るためとはいえ,やっと巡り会えた大切な母が,娘の目の前で自死することの残酷さ,そして因果応報的に罪によって地獄に落ちて滅んでしまった罪人.この構図が自分にはたまらなく,絶望的に思えてしまう.あまりにも後味が悪いのだ.ただこの作品については,後2つ語らねばならない.

 まずは,女教祖の死後,村で教団聖職者(学生服)が全員逮捕され連行されるときに,教団の最高幹部であった佐伯周平が言った下記のセリフ(注:適当に要約しました)だ.

「コミューンの仲間には,箱を作り続け,教祖の復活を待てと伝えておいた.彼らは何十年でも教祖の復活を待ち続け,箱を開け閉めするだろうが(注),教祖は永遠にやってこない.これがお前らのやったことだ!!」(注:教祖は箱の中に復活するとされていた)
信者は女教祖によって予言された教祖の再臨を待つのだが,しかしそれは永遠にやってはこない.女教祖は,「神」は,確かに死んだのだった.これがキリスト教の再臨を暗喩しているのは言うまでもないだろう.ただおもしろいのは,この幹部の怒りの糾弾に対して,科学者もマジシャンも何の反論もせず黙っていたことだ.

  確かに科学者とマジシャンは,女教祖が詐欺師であることを証明した.しかし結果的に女詐欺師は逮捕されることなく絶命し,娘は母を目の前で失った.女教祖がこの映画の中での,唯一の死者であることは注目に値する.そしてコミューンは何も変わらず,信者は箱を作り続け,教祖の再臨を待つという.果たして彼らの活躍によって,みなは幸せになったのだろうか?科学者とマジシャンが採った手法以外に,この女詐欺師を回心させ,母と娘の関係を回復し,コミューンの囚われ人たちを解放する方法はなかったのか?

 ここに自分は科学的手法の暴力性を見るのである.科学者とマジシャンは私益のために活動しただけであった.そこに罪人に対する愛はあっただろうか?

 最後になった.それはこの映画が確信犯的にカトリックをターゲットにしていた事の証でもあり,製作者側からの声明でもあろう.

 それはエンディングテーマ曲である Joelle の「ラッキー・マリア」にある.この曲は,ピエトロ・マスカーニ(イタリア人,1863~1945)作曲の「アヴェ・マリア」に,阿木燿子が歌詞をつけなおしたものである.歌詞はこちらのリンクを参照のこと.

 ちなみに余談だがWikipediaによれば,マスカーニは
ファシスト政権が誕生すると、スカラ座監督の座を狙ってムッソリーニに接近。このため、第二次世界大戦でイタリアが降伏した後、全財産を没収され、ローマのホテルで寂しく生涯を閉じた
とのこと.

2013年12月28日土曜日

「ゆるい」バッハ(on twitter @rahumj)

 敬虔主義は,バッハの音楽にインスピレーションをあたえた.マタイ受難曲しかり.ヨハネ受難曲しかり.正統主義からそれらのバッハの音楽は,生まれてきえたであろうか?

 かといって,すべてのバッハの音楽が敬虔主義的というわけでもない.バッハはルター派正統主義内にいた.したがってその作品は正統主義的作品がむしろメインであり,彼の作品の建築的作法にそれは表れている.しかしバッハには,神秘主義的ともいうべき作品も存在する.

ルター派正統主義の教義では、音楽は人を神により近づけるものであったと考えられていたのに対して、敬虔主義では、音楽は個人的な黙想の訓練に用いられるものと考えられていた(読書感想文のページ「神には栄光 人の心に喜び-J.S.バッハ その信仰と音楽/ヘレーネ・ヴェアテマン/村上茂樹訳」)

 またルター派プロテスタントであっにもかかわらずバッハは,カトリックのミサ曲ロ短調 BWV232 をも作曲し,「カトリック的な神の讃美の世界と、ルター派的な十字架信仰の世界の、類のないほどの衝撃的出会」いをもたらした.

 神秘主義を含むカトリックの批判から生まれたルター派正統主義.そのルター派正統主義の批判から生まれた敬虔主義.バッハはルター派正統主義を中心としながら,その弱点を補うかのように,その周辺の宗派要素をバランスよく取り入れて作品を作っていたのだろうか?

 バッハ における聖と俗とのバランス感覚.パトスとロゴスとのバランス感覚.そして自分にはとても認識しきれない,音楽内における数学的幾何学的なバランス感覚.それを思うとき,彼が正統主義の立場でありながら,背理的にそれらを導入したことは十分考えられると思う.

 正統主義者バッハの耳は開かれていた.その彼に「自由」を保証したのは,言うまでもなく神自身である.彼は自分が「司祭」であることを強く自認していたのかもしれない.その自由は,正統からの逸脱をもたらすと同時に,彼と彼の作品に生命を与えた.

 バッハ の持つ絶妙なバランス感覚は,正統主義者にありがちな,硬直した教条主義者化から彼を守った.そして正統主義に身をおいたはずのバッハの作品に,ある種の普遍性をももたらした.それは彼の「ゆるさ」と言っても良いのかもしれない.

 しかしこのバッハ の「ゆるさ」は,今見てきたとおり,極めて制限されたものであることを忘れてはならない.つまり「手抜き」でも「制御不能」でも「ノイズ」でもない.それは彼の「art」である.彼は人格的に顕現される神の讃美からは,いつ何時も逸脱しなかったと自分は思う.

 バッハ に与えられた賜物であろうその「バランス感覚」「ゆるさ=許し」を,自分は果たして,その何百万分の1でも与えられているのだろうか?それは自分の信仰生活や自分の周囲において何を意味するのか?それともそれはは捨て去るべき幻影(まやかし)なのだろうか?身分不相応なのか?