2014年4月6日日曜日

神学とナショナリズム(on twitter @rahumj, 2014/2/2)

「シュライエルマッハーによって神の場所は各人の心の中となり,人間の自己絶対化を規制する基準がなくなり,各人の内なる声と神の声の差をなくし,民族という考えが入り込んだ。やがて,ナショナリズムの台頭を背景に,心の中の絶対者の位置にネイション(民族)が入り,国家・民族という大義の前に人が身を投げ出す構えができあがってしまったのである.
 以上のことからシュライエルマッハーがしかけた「神の場の転換」こそ,近代ナショナリズムへの途を拓いたといえる.」
人間科学大事典より
自己の内部における聖霊の声と心の声との弁別が,困難である事は誰にもは否定できないだろう.完全に自己を葬り去った者ならば,聖霊の声だけを常に聞くことが出来るのかもしれないが,それには長い修練期間が必要と思われ,万人にできることではない.

 一般的に考えれば,プロテスタントならば,両者を弁別するための外的基準は「聖書」ということになるだろう.ただし,悪魔も自己正当化の為に聖書を引用する事を考え合わせれば,ことは簡単ではない.

  この件について特に自分が気になるのは,自己の所属する「民族」が,いかにして聖霊に代わって自己の首座についたのか,その過程だ.それとも首座は代わらず「聖霊」が民族を語るのだろうか?

 この問題では,個人のアイデンティティの中に,所属民族への強い帰属意識が潜在していたと仮定すれば理解はしやすい.かつてのドイツのように,各自の潜在意識の中にあった民族への帰属意識が敗戦等によって傷つけられ,たまらず外へ飛び出してきたと考えるのだ.

 しかしその顕在化した民族意識は,「神の国の民」としてのキリスト者アイデンティティに矛盾する部分がある.その自己矛盾を合理化するために,「民族=神の国の民」の公式が同じ意識を持つ神学者によって声高に強弁される.この神学的なバックボーンが得られれば,その神学と神学者の権威が「聖霊の民族主張」を「神の声」であると保証してくれる.

 はたして我々内部の奥底にある潜在意識における民族への帰属意識は,神への信仰よりもはるかに強力なものなのだろうか?それとも所属民族と宗教の一致は,人間が無意識に追い求めている理想の信仰の形なのだろうか?しかし我らは,「この世の寄留者」であり,その国籍は天にあったのではなかったか?

 ちなみに,ナチス支持者のドイツ的キリスト者たちが主流を占めたドイツ福音主義教会(DEK)は,聖霊派ではなく,福音主義のルター派,福音主義の改革派,および合同派の領邦教会群によって構成されていた.これはその教会群の権威主義的構造により,当時,教会の権力トップ(帝国教会監督等)がナチス信奉者だったことで,トップダウン的にファシズムが教会に浸透していったためであろう.さらに著名な神学者らがその後押しをしたことも,少なからぬ影響があったものと想像する.

 それに対抗して告白教会カール・バルトらは,「バルメン宣言」においてそれを偶像崇拝として神学的に批判したのであった.基本的にこの偶像崇拝者においては,その偶像の語る思想の内容によって,その崇拝が左右されない.彼らはその偶像の語る言葉を信じているのではなく,偶像そのものを信じているためだ.このようにしてその「清々しさを与える心地よい思想」の内容は,一部のキリスト者を除いて,精査されなかったのだろう.現在のドイツ福音主義教会(EKD)の教憲の中には,このバルメン宣言が基本信条として含まれている

 こうしてみると, 神の座が各自の中にあっても,あるいは外にあっても,それが偶像崇拝であるならば,容易にナショナリズムと結びつくことができると想像される.神の座が主に外にあるからといって,ナショナリズムと無縁というわけではないと,肝に銘じておくべきだろう.

 参考ページ:

参考PDF:


2014年3月24日月曜日

アニメ「エルフェンリート」の救い(on twitter @rahumj)


★全く驚いた.


 確か日本アニメ史上初だったと思うが,聖書や讃美歌を引用し,すべてラテン語によって書かれた歌詞を持つ,アニメ「エルフェンリート」のオープニングテーマ「Lilium歌手:野間久美子,作詞・作曲・編曲:小西香葉/近藤由紀夫」.

 YouTubeで確認したところ,世界の教会で歌われるようになっていた.

 おそらく唱者たちは,これがアニメのオープニング曲である事はもちろんのこと,そのアニメがいかなる内容を持っていたかについては,知らなかったのでは無いかと思う.

 このアニメの原作となった連載マンガが,青年誌に分類される「ヤングジャンプ」であることからわかるとおり,この作品は
  • 萌え系の美少女
  • 残酷なバイオレンスやスプラッターシーン(四肢切断等)
  • 児童虐待
  • ヌードなどのエロスシーン
  • SF的なストーリー
  • ナンセンスなギャグ
といった特徴を持っており,古い言葉で言えばいわゆる「エロ・グロ・ナンセンス」に分類される.もちろん全く子供向けでは無く,成年男子向けである.事実,CSで放映された時は,過激な暴力描写のため一部シーンの修正のほか、15歳未満視聴禁止のペアレンタルロックがなされた.

 そのような一見低俗で悪趣味な男性向け娯楽作品が,なぜに各国の教会で自然発生的に歌われるようになるほどの,讃美歌的な美しいオープニングテーマを持つに至ったかの謎は,この作品の監督である神戸守の,懺悔にも似た作品解説から了解される.
「一人の人間の中でこれらのことは複雑に絡みあっている。

平凡であることへの劣等感。他人との違いによる劣等感。同じ境遇の者への親近感。そして、救い。
この作品は表面的にはお色気、ラブコメ、バイオレンスだが、本質は差別と救いであろう。

社会問題にもなっている苛め、つまり差別はこの作品の中に詰まっている。誰しも救いは求めている。」
- 神部守(Wikipediaより)
宮崎駿監督作品「風の谷のナウシカ」において制作進行担当の経験もある神戸監督は,おそらくこの作品を好んで視聴するユーザー層の病的精神性について,十分理解していたのだと思う.またこの作品を世に送り出すことによって,彼らのその病的精神性を助長する危惧のある事も十分承知していたはずだ.推測の域を出ないが,神戸監督は,このような作品の制作に携わり,またそれによって自分が生計を立てていることに関して,ある種の罪を感じていたのではないだろうか?

 その罪の意識の中で神戸監督は,作中に一種の「ささやかな贖罪」を挿入しようと試みたのだと思う.それは売上を含むアニメ制作現場の様々な制限の中において,この病的作品のユーザー層をむしろ,この作品世界の中から抜け出させ,「救い」へと 導くためのある種の「仕掛け」であった.彼の選んだその「仕掛け」とはオープニングテーマであり,またその「救い」とは,キリスト教(カトリック)であった.

 極論すれば,この作品はオープニングテーマ曲がすべてであり,その讃美歌を罪深き病者らに聞かせ,洗い清め,「救い」へと導く為に作られたのだ. 果たしてその「救い」は,彼らに届いたのだろうか?そして神戸監督自身は,救われたのだろうか?

 なおこの作品の秀逸な批評については,下記のページがあるので,そちらを参考にされたい.

★Lilium ラテン語歌詞:

Os iusti meditabitur sapientiam,
Et lingua eius loquetur indicium.
Beatus vir qui suffert tentationem,
Quoniqm cum probatus fuerit accipiet coronam vitae.
Kyrie, ignis divine, eleison
O quam sancta, quam serena,
quam benigma , quam amoena
O castitatis lilium
Os iusti meditabitur sapientiam,

★Lilium 歌詞日本語訳:

正しき者の唇は、叡智を陳べ
其の舌は 正義を物語る
幸いなるかな 試練に耐え得る者よ
之を善しとせらるる時は 命の冠を受くべければなり
主よ 聖なる炎よ、憐れみ給え
おお、何と聖なる哉 何と静かなる哉
何と慈悲深き哉 何と情愛厚き哉
おお、清廉なる白百合よ

★聖書・讃美歌引用:

  • 1~2行目:旧約聖書「詩篇」37-30
  • 3~4行目:新約聖書「ヤコブ書」1-12
  • 5行目:グレゴリオ聖歌「キリエ・エレイソン」
  • 6~8行目:賛美歌「めでたし世の希望なるマリアよ」

★歌詞日本語訳引用ページ:

2014年3月23日日曜日

ルターと聖霊(on twitter @rahumj)

公会議主義(Conciliarism)カトリック教会の歴史において公会議にこそ教会内の至上決定権があると唱える思想.公会議の権威が教皇権を超えるものとする.教会の非常時に適用される考え方とされる.アヴィニョン捕囚による教皇並列を解消する手段として期待された.
教皇首位説ローマ・カトリック教会の教理のひとつで,教会の規律と統治に関する問題および信仰と道徳に関する教義の問題の裁治権は,教皇の持つ使徒座の権威に首位があるという説。特に公会議よりも首位があるという説を意味し,公会議主義を否定する。
修道士になっても不安が続いていたルターが,真の平安に辿り着いたのは信仰義認(sola fide)の考え方を持った時(塔の体験)だった.それは同時に修道士の生活や,それを義とする教会を否定することでもあった.彼はその思想を新約聖書の「ローマの信徒への手紙」に見出していた.

 聖書記述と教会の実態に矛盾を感じたルターは,この二者のどちらがより上位の権威を持つのかについて,判定を迫られた.教会を通じてのみ「イエスの教え」が説かれえるのであれば,当然聖書そのものよりも教会に権威の座は存在することになる.

 カトリックにおいて継承される「神の言葉」,いわゆる「信仰の遺産(fidei depositum)」は,2つの伝送経路を持っていた.一つは(イエス・御霊→)聖書原典→ラテン語翻訳聖書→教会→信徒という聖書経路,もう一つは(イエス→)使徒→使徒伝承(「大伝承」*)→教会→信徒という伝承経路である.この「大伝承」からはさらに,「諸伝承」が導出されている.
*…主キリストと聖霊から使徒たちに託された神のことばを余すところなくその後継者に伝え、後継者たちは、真理の霊の導きのもとに、説教によってそれを忠実に保ち、説明し、普及するようにするもの(wikipediaより)
 
 本来ならば,これら2つの経路によってもたらされた「神の言葉」は,その情報発信源が同じであるため,両者は同時に成立し,矛盾しえない.そしてこの2つによって構成されている教会は,聖書的であると同時に使徒伝承的であるはずだった.となると聖書と教会実態の矛盾とは,すなわち「伝統(Tradition,伝承,聖伝)」と聖書の矛盾に他ならなぬとルターは考えたわけだ.結局彼はこの矛盾の原因を,伝統に混入した「人の言葉」に求め,最終的には伝統がすべて「人の言葉」であると判断し,それと決別することとなる.

 しかしこの問題において彼は,伝統が正しく,聖書が間違っていると仮定することも出来たはずだ.つまり聖書の中に「人の言葉」が混入しており,その部分が伝統内の「神の言葉」と矛盾したという想定である.実際ルターは,いわゆる逐語霊感説を否定しており,聖書原典の中に既に,「人の言葉」が混入する可能性を認めていた.

 伝統に「人の言葉」がどれほど入り交じっているかどうかを判定するために,彼は教会史をさかのぼりながら,その伝統の成立過程をつぶさに追っていかねばならない.もしこの史的研究の結果,「伝統」がすべて聖書に基づいていたと判明したのであれば,ルターの感じた聖書記述と教会の実態の矛盾は,彼の認識の問題であり,彼は謝罪したであろう.

 また大学において聖書注解者でもあった彼は,聖書においても「人の言葉」がどれほど入り交じっているかを判定するために,当時公式聖書とされていたヒエロニムスによるラテン語訳ウルガタ版聖書(404年ごろ初版)と,新約聖書の底本的存在であったエラスムスらによるギリシア語新約聖書(テクストゥス・レセプトゥス,1516年初版)の比較なども行ったことだろう.後にルターが完成させるドイツ語訳新約聖書は,このテクストゥス・レセプトゥスが底本としている.

 ただしこのテクストゥス・レセプトゥスは,古くても12世紀以前には遡らないとされ,また初版の一部(ヨハネの黙示録)は,ウルガタ版を参照して書かれたことは注意が必要である.現代においてテクストゥス・レセプトゥスは,新約聖書の原文書とはみなされていない.

 このような権威への理性による学術的アプローチ(哲学的アプローチ,「知の考古学的」教会史研究)は,ちょうど哲学者ミシェル・フーコーが探求した「知と権力の関係」「知に内在する権力の働き」というテーマに重なり,たいへん興味深い.

 これらの理性的学術的探究の結果として,彼は伝統のほとんどは「人の言葉」である判断したのだろうか?それでも疑問は残る.仮にたとえ一言であったも,伝統の中に「神の言葉」が含まれているとルターが判定した場合,彼は伝統を完全に捨てえただろうか?もし含まれていたならば,伝統の中から「神の言葉」を慎重に分離し,伝承していこうとしたのではないか?

 彼はルター聖書を書き表すことで,ウルガタ聖書に含まれていた「人の言葉」の排除にほぼ成功したと考えたかもしれない.しかし彼は伝統に対して,そのような改訂的作業はせず(未確認),ばっさりと切り捨てた.それはなぜなのか?

 一つには,伝統の伝承形式が口伝であったからだろう. 口伝において,「人の言葉」が入り込みやすいのは自明である.むしろ逆に,口伝という伝承形式は,その「人の言葉」が入り込むように意図された伝承形式と言っても良いだろう.宗教一般において,教祖自身が経典を書いた団体よりも,教祖が経典を書かず口伝で弟子に教えを伝えた団体の方が,歴史的に発展しやすいと言われる.

 文書化された聖書においても「人の言葉」が入り込むのであれば,口伝に基づく伝統においてはなおさらだとルターが考えるのも当然といえば当然である.しかし前述のように口伝と言う形式が採用されているのは,「人の言葉」がそれに入り込むことにより,ある種の柔軟性を得て,その宗団が生き残り,発展しやすくなるからだろう.さらに口伝に入り込むそれら「人の言葉」も,実は神の啓示と権威によるものであるという解釈が成り立つならば,それは「人の言葉」ではなく「神の言葉」となる.

 しかし口伝に入り込んだ「人の言葉」が「神の言葉」でなかった場合,その宗教は世俗化し,またアイデンティティを失い,最終的に瓦解してしまう可能性が高い.カトリックの場合,それを修正・破棄する権威が教皇にあった.だとすると,伝統がすべて「神の言葉」であることを保証する最終責任は,教皇にあるということになる.

 ルターが史的探究により確認したかもしれない伝統に入り込んだ「人の言葉」すらも,すべて「神の言葉」であると,教皇がその権威に基づいて保証するのであれば,ルターがそれを「人の言葉」であるとする権威はどこにあるのか?
 
 「それは聖書の権威である」と言いたいところなのだが,それはできない.そもそもこの論議は,ルターの感じた伝統と聖書の矛盾において,彼がいかにして聖書に権威を見出したのかを追求することにあった.伝統の権威は教皇による.ではルターの見出した「聖書の権威」の根拠とは?

 ここにおいてルターは,カルヴァンのような「アウトピストス(聖書の権威の自己証明性)」のような考え方は持っていなかっただろう.となると,その根拠はやはり,ルターの「塔の体験」を絶対的体験にならしめた,その権威に求められなければならない.

 ルターがその個人的宗教経験を,神の言葉と人の言葉の分離のために用いることができたのは,彼が神秘主義者でもあり,そこに教皇とは別の,そしてそれ以上の「権威の源泉(聖霊)」を持っていたからに他ならない.

 彼にとって「塔の体験」は一種の奇蹟であり,超自然であり,啓示であったに違いない.つまり「塔の体験」における聖霊の啓示は,ルターに対し元々聖書に内在していたその権威を照らしだした.それは教会とは無関係に,最上の権威を持つ聖霊によって,新約聖書の「ローマの信徒への手紙」が解き明かされ,「信仰義認」の奥義がルターに示されたことで明証された.彼は聖霊に最高の権威を認めていたからこそ,聖霊によって示された聖書の権威をも認めることが出来たのだ.聖書の権威が認められれば,後はその聖書の権威に基づいて行動するだけであり,教皇に反逆することが可能となる.
 
 またルターは新約聖書のドイツ語翻訳において,意図的に,行為の重要さを強調する「ヤコブの手紙」を翻訳から外そうとした.また旧約聖書の第二正典を,正典として認めなかった.彼はこの時点で,カトリック教会がその権威によって定めた聖書の正典性を疑っていることになる.ルターが一人で聖書の正典性が判定できたのは,「信仰義認」との整合性と言う理性的に判定可能な尺度を用いたからであり,聖霊の権威によるものではないように見える.ルターが聖霊の権威によっているのは,「ローマの信徒への手紙」の権威,言い換えれば「信仰義認」の正当性根拠に関する,限局されたただ一点のみなのかもしれない.

参考ページ
参考PDF

2014年2月16日日曜日

超流体(on twitter @rahumj)

超流動現象は超自然的に見えるが,超自然ではない.それは通常,ミクロの世界において現象する量子力学的効果の,マクロ的な現れである.こうして量子力学は,常に我らの理性を揺さぶってくる.

 己の四方を囲む小高い壁を,ものともせずに乗り越えゆき,この世の底,光すら届かぬ深淵の底を目指して,下降運動を続ける超流体の生命力 .

 完全なる気密室に開いていた,たった一つの原子大の穴すら見逃すことなく,中の闇にうずくまる者を救い出さんと突入を試みる超流体のその執拗さ.

 イエスの愛のように.

2014年1月30日木曜日

テゼ,あるいは「キリストのからだ」の誕生 (on twitter @rahumj)

1月23日「テゼ 黙想と祈りの集い」に参加.会場はカトリック教会の信徒会館ホール.参加者は40人ぐらいだろうか?参加者の80%がカトリックの方だった.他の教派の方は,改革派教会,聖公会,ルーテル教会,日本基督教団といった感じだった.

 初めてのテゼだったが実際に参加してみて,なぜテゼの歌が,エキュメニカルなのか,なぜそれによって,違う教派の者達が一体となることが出来るのか,それがよくわかった.

 テゼの歌は大変短く,その同じ歌が何度何度も繰り返し歌われていく.歌を知らない方も多いので,最初に先唱者(カントール,カントル)がその歌の手本を一人で歌い,その後,参加者がそれに合わせて合唱すると言う形式をとる.

 そのためテゼ参加者による合唱の歌い出しは,つぶやくように弱々しく,しかも音程を間違っている人やリズムが合わない人がいるため,かなりぎくしゃくした混沌とした状態にある.その音場では,先唱者の美しい歌声のみが立っていて,合唱隊の歌声はその地に低く広がる泥の海のようである.

 ところが先唱者の美しい歌声を聞きながら,短く単純なその歌を,何度も何度も繰り返し歌い続ける内に,バラバラだった参加者の歌声は次第に整えられていき,一つまた一つとその音場に立ち上がっていく.

 そしてついには参加者全員の歌声が,一つのグレゴリオ聖歌的単旋律の歌,まるで皆の中心に屹立する一本の大きな柱のようになって,輝きを放ち始める.これは今まで私が体験したことのない喜びだった.私は「誕生」に立ち会っていたのだ.

 興味深いのは,その一つのグレゴリオ聖歌的単旋律,いわばモノクロームの歌声が完成した後,それがさらに繰り返されていき,参加者の皆が,惰性的回転あるいは念仏的無に陥る寸前に,その旋律とは別の旋律を先唱者が歌い加える事で,ポリフォニックな色彩を帯びていく点だ.

 その先唱者の別旋律をトリガーとして,他の何人かの参加者も別の旋律を歌い出し,それによって歌のポリフォニックな色彩はさらに豊かさを増していく.

 それでいて参加者全員が別旋律を歌うような,いわば混沌としたフリージャズのような状態にはならず,大半の者は最初の旋律の繰り返しに従事し,別旋律者が歌う為のステージを維持し,曲の車輪を回し続ける.

 自分は言わば,テゼの祈りと歌という場において,「カオス(音の混濁)→組織化(モノフォニックな歌の誕生)→複雑化(ダイナミックなポリフォニック合唱)」という,生命の誕生からその進化や創発までの流れを,身を持って一気に体験したのだった.

 テゼの素朴な歌唱(合唱)の中に,「生命の発生とその進化」なるものは,なぜに現象し得たのか?その「生命の種」は,曲や歌唱形式の中に人為的に仕込まれていたのか?それとも意図せずその中に自然発生したのか?

 その答えは私にはわからないが,テゼが様式の平均化や正統性の抽象化によるのではなく,その素朴な歌詞,素朴な旋律,素朴な祈りによって立ち現れた「生命」への関与をもって,教派を越えた一体感を場にもたらしたとするのならば,我々は「生命」において一致できるという証しなのかもしれない.

 そうなのだ.先唱者は「イエス」であった.そして個々の合唱者は,(実際にそれぞれの教派の代表者であるが)教派そのものの表象である.歌い出し当初は,合唱隊の各自はバラバラに歌っており,調和にはほど遠く,合唱とも言いがたい.ところが「イエス」の美しい歌声に聞き耳を立てながら歌い続けていると,バラバラだった合唱隊の歌声は,次第に一つにまとまっていき,ついに「一つの声」となる.

 こうして誕生した「一つの声」,すなわち一つの生命とは,言うまでも無く「キリストのからだ」である.しかもその後恐るべきことに,「キリストのからだ」は機能分化を続け,より豊かで高次な生命へと進化を続けていく…

 本日のテゼの歌は14曲.内2曲は,日本基督教団出版局「讃美歌21」の中の第34番と第46番だった.6番目の歌において,歌と交互に挿入された詩編朗読は第36編.福音書朗読はマルコ9・33~37.共同祈願は「東日本大震災被災者のための祈り」.1時間半の集いであった.

 今回のテゼでは,歌だけでなく,照明を落とし,ろうそくのともし火だけにして,黙想する時間も与えられたのだが,1時間半という長さは全く感じられなかった.あっという間に終わってしまった感じで,普段の礼拝とは全く異なる時間の流れであった.もしかしたらあの黙想と祈りの場において,「時間」は「永遠」に置き換えられていたのだろうか?

 そしてこれはエキュメニカルな効果とは関係ないと思われるのだが,テゼの歌と祈りには極めて高い魂の浄化作用がある.まるで「魂を何度も何度も手で優しくもみ洗いされていた」ような感覚だ.そのためか,帰宅してからかなり時間が経っているのだが,未だにその余韻が残っている.

 そして今は,洗われたその魂が家の軒先につるされ,干されて,春の穏やかな日差しを浴びて,温まっている.

神的か,人間的か(on twitter @rahumj)

 より神的なのは,教会か,個人か?より人間的なのは,教会か,個人か?人が人の間に生き,神が人の間に臨在するのであれば.

鏡像(on twitter @rahumj)

 自己と似た他者が視界の中にあれば,人は安堵する.それは,その自己に似た他者の存在事実,一種の鏡が,自己がこの世界に存在することを強く肯定するからである.逆にそのような他者を見失った者,あるいは,すべての他者を見失った孤独者は不安である.自己の存在自体が,限りなく曖昧になるからである.

 それゆえ一人荒野をさまよう者は,その過酷な環境を生き抜く為,自己の内部に,その鏡を見出さねばならない.そしてその宝を見出したならば,それが絶対的他者性を持つに至るまで,磨かなければならない.

眠りと食(on twitter @rahumj)

 眠る為に生きているのではない.生きる為に眠るのだ.食べる為に生きているのではない.生きる為に食べるのだ.

 その純粋な「生きる」に人が立った時,そこに何をも見出さないのであれば,人はそこから引き返し,眠りと食を貪るであろう.

2014年1月27日月曜日

テレビ朝日55周年記念ドラマ「黒い福音」に見る「個の信仰」(on twitter @rahumj)

テレビ朝日「黒い福音」視聴完了.TBS制作の1984年版TVドラマよりもマイルドに仕上がっており,藤沢刑事(ビートたけし)の物語として作られているためか,後味も1984年版よりも良かったと思う.

 このドラマは,実際に起こった事件(BOACスチュワーデス殺人事件)に関して松本清張が推理を展開し,それを小説化したものが原作となっている.「黒い福音」というタイトルからもわかるとおり,この小説におけるカトリック教会組織は犯罪に手を染めており,その神父は上司の命令により自分の愛人を殺害してしまう.しかし「教会」という壁ゆえに警察は彼らを逮捕することが出来ず,神父は帰国してしまい,遂にこの事件は未解決となってしまう,というのが物語の大筋だ.

 1984年版では,カトリック教会の神父たちがマフィアのような悪党として描かれており,そのシーンも長かったが,2014年版ではそのような描写はほとんど見られず,その代わりに藤沢刑事の人間性を描写する時間が長くなった.

 ただし2014年版においても,教会の信徒たちがカルト教団的な不気味な笑みを浮かべて,報道陣と対峙するシーンもあるにはあった.しかし,おおむね一般視聴者は視聴中,1984年版のように教会組織や神父に対する激しい憤りを,持続的に覚える事もなかったのではないかと想像する.ただ逆に,二人の男に犯された後に殺された被害者の悲惨さや,愛人の殺人にまで及んだ神父の激しい葛藤や,「落としの八兵衛」藤沢刑事(モデルは名刑事平塚八兵衛)の無念さという点については薄いと言わざるを得ない.

 2014年版「黒い福音」において,特におもしろかったところは,藤沢刑事がはっきりと「神を信じている」と告白している点だ.脚本では,なぜ藤沢刑事が神を信じるようになったかを視聴者に納得させるために,戦場で死にかけた時のエピソードを彼に語らせている.

 「黒い福音」における藤沢刑事は,組織の人間ではない.彼は彼自身の信念(信仰)に基づいて,組織の圧力をものともせず,物語の最初から組織のルールを破り続ける.それに対して組織は,彼の存在を煙たがったのは当然であるが,彼の卓越した能力は認めており,故に警視庁捜査一課から彼を外すことはなかった.

 このドラマの冒頭で,藤沢刑事の犬がリースを付けたまま逃げ出し,被害者の遺留品へと彼を導くが,この犬こそは,組織にとらわれない藤沢刑事の表象である.脚本家はこの物語の予型をイントロに配置したのだろう.

 2014年版「黒い福音」において,藤沢刑事は神を信じていると公言した.それでは彼の信じていた「神」は,いかなるものであったあろうか?彼の発言からそれを推測してみよう.

 彼の信じる神は,彼が子供の頃,溺れかけた時や,戦場で死にかけた時に,彼の生命を救ってくれた「命を救う」神である.

 次に藤沢刑事は,被害者と巡りあわせてくれたのは,神であったとしている.彼の弁から推測すると,神は彼の最後の大仕事として,彼にしか解決できない事件を彼に担当させてくださったと考えているようだ.おそらく彼は,自分の仕事を神によって与えられた天職だと思っているのだろう.つまり職業召命観を持っていたと言うことだ.

 またルノーの中でトルベック神父と藤沢刑事が対決した時,自分の胸を指しながら藤沢の言ったセリフ

「俺の神様はここにいるから,嘘はつけない.あんたの神様はどこにいるんだ」

から藤沢刑事が「神は,通常,個々の胸中に宿っている」「神はすべてを知っている」の2つを仮定していることが推測される.

 胸中の神の存在によって,藤沢刑事が嘘をつけない理由とはなにか?ここでこの「嘘」についてより細かく考察しなければならない.なぜならこのドラマにおいて藤沢刑事は,「嘘」をついて捜査をしているからだ.

 この捜査上の嘘は,彼の神に許されている嘘ということになる.それが許されているのは,犯人逮捕という目的が「嘘」という手段を正当化したからに他ならない.そして犯人逮捕こそが,彼が彼の神から授かったミッションである.

 したがって藤沢刑事が「嘘はつけない」と言ったその「嘘」とは,自己欺瞞,特に神から授かった担当事件に関しての自己欺瞞のことだろう.こう見てみると藤沢刑事の恐るべき執念が,実は彼の,神への個人的信仰心の故であったことが読めてくる.

 藤沢刑事が規律の厳しい警察組織の中で,あれほど身勝手に動きまわることができたのは,彼に実績があったからである.したがって彼は勝ち続けなければ,組織には残れなかった.その孤独な戦いを支えたのが,彼の信仰ではなかったかと思う.

 トルベック神父のアリバイを崩す証拠写真を市村刑事に渡すときに,藤沢刑事は「神様はいたよ」と言った.藤沢は「内なる神」の存在を固く信じているため,この言葉は,「彼の神」の発見ではない.写真を渡してくれた関田ハナ(市川悦子)の胸中,もしくはその周辺に神は臨在していたということだろう.

 藤沢刑事は,カトリック教会の信徒である関田ハナ(市川悦子)に,刑事であることを隠した.彼は,同じく信徒であった江原ヤス子(竹内結子)の知り合いとして彼女に接触し,その証拠写真を得ている.もし関田が彼を刑事だと知っていたら,写真を渡したかどうかは微妙である.つまり写真を刑事に渡すことにおいて,「関田の神」は試されておらず,現れていない.

 信徒である関田が「教会がごぶさたになった」理由は,劇中明らかにされていない.しかし彼女に信仰が残っていたのは,明らかである.それは彼女の肌身離さぬ胸の十字架だけではない.咳き込みうずくまる藤沢刑事に自分の水筒の水を差し出す思いやり,淀みない聖句暗唱,それに続く十字架のしるし…

 関田ハナが「教会がごぶさたになった」理由として,教会の中の犯罪的行為や,警察の聴取に対する口裏合わせなどに嫌気が差したというのも考えられる.そうであれば,関田ハナの中には「神がいた」ということになるのであろうが,藤沢刑事がそれを知っていたとは思えない.

 藤沢刑事が「神がいた」と言ったのは,おそらく神が摂理的に,関田ハナを教会から遠ざけるようにされ,また彼女に写真が届くようにされたことで,間接的に決定的証拠を彼に手渡したのだということではなかろうか?そこに藤沢は神を見,そして彼の外にも「神がいた」ことを知ったのではないか?

 とすると,藤沢刑事の神は「人の間に臨在する」神でもあるといえるだろう.さらに
「人を生かし,人を救うのが神様ならば,きっと赦してくれる」
という江原ヤス子に対する藤沢のセリフから,彼の神は「赦す神」でもあることもわかる.彼はこの台詞によって江原ヤス子に自白(告解)を迫った.

 藤沢の神の特徴をまとめると
  • 命を救う神
  • 人を生かす神
  • 人を赦す神
  • すべてを知っている神
  • 「人の間に臨在する」神
  • 聴罪する神
  • 天職を与え,それを助ける神(職業召命観)
  • 個々の中に宿る「内なる神」(個人主義)
ということになるだろう.このような特徴がキリスト教の神の特徴に類似するのみならず,後半の2項目に着目するとき,プロテスタンティズム的神概念を思わせるのは気のせいだろうか?

 このドラマにおいて,藤沢がカトリックの神父に掴みかかり,あるいはもみ合いになるシーンが2度ほどあるが,それは単に彼らが犯人であるからではない.彼ら神父の不信仰が赦せないのだ.藤沢は,その信仰故に自分の「内なる神」に忠実であり続け,組織のルールを破ってまで神に従ってきた.ところが彼ら聖職者は,藤沢以上に神に忠実であるべき身分にありながら,彼らの「内なる神」に全く従っていない.その不信仰に対する,激しい怒りが暴力となって現れたのだと思う.

 しかし実のところ,これは藤沢の素朴な彼の神概念による誤解である.神父らは,神に従っていたのだ.神父らの神は藤沢の神に類似しており,故に藤沢は神父の中に「内なる神」を仮定し,神父らがその「内なる神」に従っていないことに怒りを感じた.しかし神父らの神は,彼らの内には元々いなかった.彼らの神は「個人の外」にいた.「教会」の中にいたのだ.

 さらに言えば,この神父たちにとって,神から与えられた聖なるミッション(伝道)は,何よりも優先されるべきことであり, そのために彼らは国内法的合法非合法を問わず,その手段を選ばなかったのだ.かつて有能なカトリックのパードレたちが,密航という形でキリシタン禁制の日本に上陸し,「聖なる偽り」を用いたように.そこには「野蛮人の国日本」に対するある種の傲慢さが見え隠れする.

 この構図,「神から与えられた聖なるミッションという目的のためには,手段を選ばない」という考え方は,実は藤沢も全く同じである.神父はそれ故に殺人まで犯したが,藤沢も事情聴取などにおいて暴力沙汰などを起こしてもおかしくはなく,それによって冤罪が生まれる可能性は否定出来ない.ドラマは,藤沢の持つそのような危うさをもしっかり描写している.

 ただ二人の神父が戒律を破り,愛人を作っていた事実は,彼らの信仰が狂信的であることに疑いを挟む.戒律を破るということは,彼らの神学において,神に逆らったことと同じであろう.そう考えてみると神父らはむしろ,聖なるミッションの遂行というよりは,サラリーマン的に伝道という職務上のノルマを達成するために,闇取引という非合法で安易な方法を選び,それによって得たゆとりを愛人との「甘い生活」に当てていたのかもしれない.そうなると彼ら神父は狂信者ではなく,俗物ということになるが,このドラマの内容からはその真偽は判定できない.


 さて,藤沢のその信仰について,もう少し考察してみよう.藤沢刑事のモデルである平塚八兵衛の有名な言として,次のものがある.
「人間には根っからの悪党はいねえよ」
平塚は退職後、自分が逮捕した犯人で死刑となった者たちの墓参りにも行っている.さらに彼には,
吉展ちゃん誘拐殺人事件の犯人小原保の墓参りに行った際,彼が先祖代々の墓に入れてもらえず,横に小さな盛り土がされただけの所に葬られていた事に愕然とし,盛り土に触れた後に泣き崩れた
というエピソードもある.

 藤沢刑事は平塚八兵衛と同じように,犯罪者の中にも善なる者(神)は宿っていると信じていた.彼は犯罪者の中に隠されているその善なる者に対して訴えかけ,その犯罪者の中の神がその呼びかけに応え,それが犯罪者の表に現れることにより,これまで犯人を落とし,事件を解決してきたのだろう.

 つまり藤沢刑事の取り調べとは,犯罪者に内在する神への祈りであり,そして犯人が落ちた時,彼は神の顕現を目撃するのである.

 トルベック神父が記念写真の件について「自分が撮った」と嘘をついた時,藤沢から語られるあのセリフ「あんたの神様は今消えたよ」の「神」はカトリックの神ではない.それはこれまでの取り調べ経験において,藤沢刑事がその顕現を目撃してきた犯罪者の中の「善なる者」「内なる神」である.藤沢はその時トルベックから,藤沢が祈るべき「内なる神」が消え去ったのを感じ取った.故に藤沢流の取り調べは,もはや成立しえない.彼にとってトルベックは「死んだ」のであろう.

 藤沢刑事は,結局神から与えられた最後の大仕事であったトルベック神父を落とすことはできず,そのミッションに失敗した.その出来事を信仰の人藤沢がどのように消化したのかは不明である.彼はその後すぐに亡くなってしまった.彼は無念に打ちのめされて,失意のうちに死んだのだろうか?

 …しかし彼の失敗は全く無駄ではなかった.すべて若い市村刑事の糧とエネルギーになったからである.警視総監も今回の失敗から「国は強くなければならない」という教訓を得た.この結論はもちろん,現在の我々への問いかけである.特に沖縄のアメリカ軍基地問題を意識しているのだろう.

 ただ自分はこの言葉を単純に取りたくはない.警視総監のこの言葉の前後をよく聞けばわかるが,この「国」とは,たくさんの国がひしめく世界の中の一つの独立国という意味である.つまり組織や集団の中で「個」が生きていくために,「個の強さ」が必要ということなのだ.

 言うまでもなく,その「強い個」の代表者がこのドラマでは藤沢となっている.その個を支えていたのは彼の信仰であった.このドラマにおいてそのような「個」を持っていた人物は,教会人では,教会から距離をおいていた関田ハナ,命令に逆らって殺された被害者生田世津子しかいない.また警察組織では藤沢の他には市村だけだ.

 もちろん市村刑事の「個」は,藤沢刑事の「個」によって徐々に育まれたものだ.それが花開くのは,藤沢の死後,市村が警視庁捜査一課に入ってからだろうから,藤沢はそれを見届けることはできなかったわけだ.

 警察組織もカトリックも軍隊も,同じヒエラルキー的権力構造,絶対服従,厳しい戒律を持つ.トルベックも藤沢もそのような環境で生きてきたのだが,その生き方は対極にある.それは信仰の座が,集団にあるのか,「個」にあるのかという違いによるのだろう.

 トルベックは絶対服従ゆえに愛する女を殺すに至った.藤沢刑事は個の信仰に突き動かされて,事件の真相に至った.一見この構図は藤沢刑事的個の礼賛のように見えるが,実際はそうではない.刑事が全員藤沢刑事的だったらもはや捜査は成立しないだろう.要は「所属集団と個の間でいかにバランスをとるか」なのだ.

 ただ所属集団(権力)は個に対して圧倒的であるため,通常は個が押し流されてしまう傾向にある.集団に所属する者が,所属集団と個の間でバランスをとるためには,個の強さが必須なのだ.その個の強さをもたらしたものが,藤沢刑事の場合,彼の「個の信仰」だった.

 そして本日1月27日の主日礼拝の説教テーマがこれだった.
 ところが,徴税人は遠くに立って,目を天に上げようともせず,胸を打ちながら言った.『神様,罪人のわたしを憐れんでください.』(ルカ18・13)
徴税人は,隣のファリサイ派の人に目もくれず,ただひたすらに神に懇願し,祈った.それは,「神の前にただ一人立つ」キルケゴール的な切実な個人的祈りであった. また我々は知っている.
だから,あなた方が祈るときは,奥まった自分の部屋に入って戸を閉め,隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい.そうすれば,隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる.(マタイ6・6)
  それゆえ我々は,教会における合同の礼拝や交わりを守りつつ,日々,自己の内なるドアを開けその礼拝室に入り,世界に通ずる唯一のそのドアを後ろ手に閉めて,ただ一人,神の御前にひざまずき,祈りを捧げるのである.

2014年1月26日日曜日

BSプレミアム「超常現象」:意識の自由と舞い込んだチラシ(on twitter @rahumj)

 1月18日のNHK BSプレミアム「超常現象」では超能力として,遠隔透視(RV),テレパシー,予知能力を主に取り上げた.この内,前者の2つは一種の情報通信とみなせるため,一つの科学理論によって説明できる可能性を持つ.番組では前回の「量子脳理論」と同様,これらの現象の量子論による説明が仮説として登場した.それが「量子もつれ」だ.

 「量子もつれ」を思いっきり意訳すれば,「量子もつれ関係にある2つの量子の状態は,どんなに空間的に離したとしても常に同じ」ということだと思う.おそらくこれを量子脳理論と合わせて,テレパシーで通信する2者の量子論的意識が「量子もつれ」状態にあったとすることで,テレパシーや「虫の知らせ」,さらには遠隔透視を説明したいところなのだろうが,そのグランドデザインすら見えてこないのが現状らしい.

 ただ今回放送された内容の中で,量子論(アイソトープ崩壊)を応用して作られたハードウェア乱数生成器の生成する完全な乱数が,人間の意識状態による影響を受けるという実験結果が報告された.

 もしそれが事実ならば,それは量子脳理論と整合性があるようにも思える.意識が量子論的特性(特に不確定性原理)を持ち,一種の量子とみなせるのであれば,意識の「身体による空間的拘束」は,意外にも限定的なのかもしれない.

 今回のBSプレミアム「超常現象」の中で,最も科学的説明が難しいのが予知能力だ.超心理学者による実験が紹介され,ランダムな画像を被験者に提示し,その身体的反応を測定する実験を行った結果,被検者は事前に提示される画像の種類を予測しているという結論に達していた.

 この結果は単純に「意識は空間的だけでなく,時間的にも拘束されない.故に未来を見ることができる」と言いたいところだが,それは量子脳理論をも超えてしまっている気もする.しかし「時間反転対称性の量子論」は,そもそも本来,過去も未来もない(「永遠の今」)と言っているようにも思える.

 時間対称化された量子力学 (TSQM)は,過去の状態のみならず(因果律),未来の状態も,現在の状態に影響を与えるとする.時間対称化された量子力学(TSQM)による解釈は,いわゆる「多世界解釈」に矛盾しない.

 量子力学の標準的解釈の問題:
  1. 測定前の物理量の非実在性(複数の状態の重合と確率的予測)
  2. 非局所相関(例:量子もつれ,光速度超え的現象)
  3. 非因果性(不確定性原理)

 エヴェレットの多世界解釈によれば,非局所相関と非因果性の問題は解決できるが,非実在性が解決できなかった.多世界解釈にTSQMを組み合わせた解釈では,この実在性問題を解決できるとされている.


 今,ポストを見てみたら偶然なのか,流行なのかわからないが,量子脳理論に基づくと思われる脳教育トレーニングのチラシが入っていた.「お金・健康・人間関係・幸せなど,思いが現実に引き寄せられる秘密」を明らかにし,それを応用・実践して人生を変えるというものらしい.

 チラシの表には,それを実践した体験者のドキュメンタリー映画「CHANGE」上映と,その実践セミナーについてに関する情報が掲載されていた.この映画の出演者の中に,驚くべき人物がいた.スチュアート・ハメロフ博士(アリゾナ大学・意識研究センター所長)である.彼こそは,量子脳理論の一つ,「ペンローズ・ハメロフ アプローチ(Orch-OR Theory)」の提唱者である.ちなみにチラシでは彼が「物理学博士」と紹介されていたが,彼は「医学博士」である.

 チラシの裏は,量子力学と量子脳理論(?)に基づくとするヨガ教室の広告が掲載されていた.その説明文の中で量子力学の観測問題に触れており,「観察者の意識が,望んだ結果をつくりだす」との大胆な記述がある.これは超心理学者ヘルムート・シュミット (Helmut Schmidt)の行ったハードウエア乱数生成器による念力実験結果にもとづいているのだろう.

 チラシを読んでいくと,どうやらヨガ瞑想の基礎理論として量子脳理論を取り入れたものらしい.現世的欲求の充足,癒やし(ヒーリング),「成功」を強調する点からは,自己啓発セミナー的なものを感じた.

 最近のカルト的グループの特徴は,(エセ)科学とスピリチュアリズムと宗教・倫理の混淆を基礎理論として,「成功者」「勝ち組」「癒やし」「お金持ち」等の言葉でナイーブな人々を誘惑することにあると思う.

 そして入会後はマインド・コントロールを施して見えない形で会員を拘束し,財産を巻き上げ,「社会貢献」「奉仕活動」と称して無給で伝道させ,マルチ商法的手法で会員を再生産する.

 ではどうやって,そのグループのカルト性を検出するかだが,その客観的指標としては
  • 基礎理論の依拠する「科学」の科学的妥当性
  • マインド・コントロールの有無
  • マルチ商法的伝道(入会者の人数に比例する報賞)
  • 訴訟・被害報告
等があげられるだろう.

 また教義の中やグループの活動内に,「聖なる目的のためには人をだましてもよい」「その人のためにポアすべし」といったような「聖なる目的による手段の正当化・合理化」傾向が見られることも特徴の一つだと思うが,それは一般的な倫理に反しているため,通常,それは上級会員に「奥義」として伝授される可能性が高い.

 とすると秘教的奥義の有無もカルトの特徴のようにも思われる.奥義の少人数による寡占状態が,カルト性を胚胎するのかもしれない.

 いずれにしても,量子脳理論は「魂=意識」の存在に関する科学的論拠を提供したことは間違いない.それはカントが哲学的に形而上学を擁護したように,現代において科学的に「超自然現象」や「霊」を擁護する.オカルティズムやカルト的集団が,この理論を放っておくはずはない.

 科学は一種の道具である.そこには善も悪もない.ゆえに,人を生かす道具にも人を殺す道具にもなり得る.純粋な科学の場には,倫理的判断など存在しないのである.またエセ科学の反駁は科学者なら出来ようが,量子脳理論のような「未熟科学」の反駁は科学者でも難しい.

 それは量子脳理論が,ペンローズによれば科学的に検証可能であるにもかかわらず,未だに検証されていないからである.量子脳理論の「悪用」を防ぎ,その被害者を出さない為にも,一刻も早い検証が求められる.

未熟科学が他の多くの研究者による厳密な検証を経て,正式な手順で理論化し,正統な科学として定立されるまでは,その「応用」なるものに手をだすべきではない.

これが私の意見である.

2014年1月22日水曜日

ドグマの影 - 偽遺伝子に想いを寄せて -(on twitter @rahumj)

偽遺伝子 (Pseudogene)
DNAの配列のうち、かつては遺伝子産物(特にタンパク質)をコードしていたと思われるが、現在はその機能を失っているもの .偽遺伝子は,今日,遺伝子発現の安定化等の重要な生物学的役割を果たしていることが知られている.

偽遺伝子は,機能遺伝子とは異なり進化上の淘汰を受けないため変異が蓄積しやすく,機能遺伝子に対する直接の変異に比べて表現型に与える影響は穏やかである.これは偽遺伝子が生物の進化や,ヒトにおける多因子疾患(糖尿病・高血圧、精神疾患)などの原因になっていることを示唆する.
かつて研究者によって,何の機能も果たしていないと考えられていた偽遺伝子は,「生物学的進化論的負の遺産」「役立たずのゴミ」と見なされていた.しかもそれは通常の機能遺伝子と似通っていた為に,遺伝子診断や研究等においては「邪魔者」であり,呪いの対象ですらあった.ところがその後,通常の機能遺伝子とは異なる,偽遺伝子の生物学的機能が偶然発見され,研究者達を驚愕させた.

 その主人から見捨てられ「役立たず」と蔑まれながら,人の驕り,ドグマの影の中で,僕であった「偽りの者」は,その主人の生存のために,黙って日々,働き続けていたのであった.

2014年1月15日水曜日

死角(on twitter @rahumj)

「自分は他者に対し謙虚であることの大切さを知っており,また,それを実際に実行しようと務めている」という意識は,内省においてすら気づきにくい,強い傲慢を生む可能性を秘めている.

 謙虚とは行動ではなく,姿勢である.意識することなく,またいかなる努力をも必要とせず,自然な姿として立ち現れてくる.

2014年1月14日火曜日

てんかん者・統合失調症者に見られる神秘主義的宗教者としての適性(木村敏「心の病理を考える」を読んで)

 先日,超自然的現象・体験の脳内幻覚説に触れた.そこで思い出されるのが,てんかん患者や統合失調症患者に見られる神秘主義的宗教者としての適性だ.最初に断っておくが,超自然的現象(客観的現象)と,超自然的体験及び神秘体験(主観的体験)は全く異なる.

 ここでは,病に苦しみ,「生きにくさ」を感じているてんかん患者や統合失調症患者が,なぜ超自然的体験や神秘体験を経験しやすいのかについての,科学的機序についてまとめておく.主な情報源は Wikipedia と引用・参考文献である.なお引用・参考文献の著者木村敏(精神医学者,精神病理学者)は,日本の精神病理学第2世代を代表する人物である.また引用は一部自分が修正・加筆している.正確な引用内容は引用・参考文献を直接当たられたい.

 まず統合失調症患者の世界認識(妄想)について.
 妄想とは,その人が現実に生きていく為の手段の一つである.従ってその妄想を取り除くと患者は生きていく術を無くしてしまう為,薬品で妄想を押さえ込んでしまうと自殺することもある.
統合失調症患者の世界認識(妄想)は
多くの統合失調症患者にとって,周囲の対人的世界とは,不自然であり何者かによって作られた作為的な世界である.多くの患者はその不自然の背後に,他者の策謀を想定する.
患者は常に,自分に押し寄せてくる世界に囲まれており,その世界と戦っている.

 これは
病前から「自我形成」が不十分で(*),自我の個別性が確立しておらず,自我境界が不鮮明であるためだ.
そのため自我の周囲の世界は,常に「押し寄せてくる」「浸潤してくる」ように感じられ,圧倒的に不利と思われる絶望的かつ孤独な「自我防衛戦争」に患者はかき立てられるのである.(*:これは統合失調症の直接的原因ではなく,症状を悪化させる因子と考えられる)

 自我形成が不十分となった理由は,多くのケースで,最初の人間関係である母子関係に原因が求められそうである.例えばダブルバインド機能不全家族アダルトチルドレン等である.これは次のように比喩されるだろう.
  • 「乳離れ」出来なかった
  • 「子宮」から出られなかった(母との一体感)
  • 「卵」を割ることが出来なかったヘッセデミアン」,ドラマ「TRICK」冒頭,アニメ「少女革命ウテナ」)

 その統合失調症患者の妄想には 

「電波」によって他者から常に先回りして命令(他者→自我)してきたり,「電波」によって自分の考えが他者に前もって筒抜け(自我→他者)になっているというものもある.
これも不鮮明な自我境界によるものだろう.

 統合失調症患者にとって生きる上での最大の困難とは,
他者と自己の間に横たわる深淵,すなわちこの絶望的な「すきま」を,「すきま」としてあるがままにあらしめながら,それに耐え抜き,その事実を担い通す事である.
多くの患者はその恐るべき「深淵」の存在を認められずに苦しむのである.

 また別の病前傾向として
  • 大人の世界のしきたりや常識に反抗し,経験の裏付けのない高い理想を追い求め,自分の存在のウエイトを未来においている
  • 直観に優れ,抽象的な思考を好む
  • 自分の可能性を大切にする
  • 全体を把握することが苦手
  • 言語の比喩的含意の理解を苦手(文字通り受け取る傾向)
がある.

 つまり統合失調症患者は病前から,未来に生を見出している.それは現状の生に著しい困難を感じており,未来に希望を見出し,それを先取りして生きることで,その困難を克服しようとするためだろう.

 おそらくその未来においては,あの恐るべき「深淵」は完全に解消されており,自我と世界は渾然一体となっている(神秘的合一).それでいながら,世界はかつてのように自我を抹殺する意志を持たず,むしろ逆に愛と平安と光に満ちあふれており,その中に自我を迎え入れてくれるはずなのだ.

  アメリカのTVドラマ「LOST」の登場人物ジョージ・ミンコウスキー(*)のモデルとなった思われるウジェーヌ・ミンコフスキー(精神医学者, 1885-1972 )は,
統合失調症の成因的障害として「現実との生命的接触の喪失」を挙げた.また精神疾患における時間のあり方を生命論的に論じた.つまり精神病を「時間の障害」として理解した.例えば鬱病者における生命的時間の停滞などがある
と考えた.(*:彼はドラマ中,自己意識が頻繁に過去や未来にタイムスリップし,意識を現時間に定位できなくなり,鼻血を出して死亡した)

 このような統合失調症患者の特徴は,明らかに,超自然的体験事例や神秘的体験事例との親和性がある.おそらく精神医学も抗精神病薬も存在しない時代においては,彼らを宗教へと導く決定的な体験だった可能性も十分にある.

 ちなみに
統合失調症患者と覚醒剤中毒患者の症状は似ているが,後者は周囲の世界との過剰なまでの密着を残している点で全く異なる.

 現在,統合失調症の発症確率は,100人に1人と言われており,比較的高確率であるが, 信仰を持つ者は実際には激減している.これはもちろん精神医学や精神薬理学の発達によって,統合失調症が重症化しにくくなったためだろうが,科学的知識の普及,社会構造や文化の変化も当然大きいと思われる.

 かつて統合失調症の主な受け皿は宗教だと思われるが,現代ではその近代的な代替が様々な形で存在する.つまり現代において,統合失調症は,単なる病気に「格下げ」されてしまい,その聖性を失ってしまったと言えるだろう.それは次に触れる「てんかん」も同様である.

 それではてんかん,特に「覚醒てんかん」について簡単にまとめてみる.

 ちなみにリドリー・スコットのSF映画「ブレードランナー」の原作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」やグノーシス主義的神秘主義とSFを融合させた作品「ヴァリスなどで有名なSF作家フィリップ・K・ディック,「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」の文豪フョードル・ドストエフスキーもてんかん患者であった.

 まず最初に述べておくことは,
ある種の精神病において,急性の精神症状が起こった後の安静時に,てんかんと同じ脳波が発生する.この現象を持つ人の性格行動は覚醒てんかん患者と同じ
 であることだ.覚醒てんかんとは,
内因性のてんかんであり,その患者の性格や行動は,周囲と一体化しようとする傾向や,自分の内面をそのまま外部に表出しようとする傾向が強く,現在置かれている状況以外のことは無頓着.個別的自己が宇宙全体の超個人的生命力に飲み込まれ,アクチュアリティがリアリティをまるごと飲み込んでしまう忘我的エクスタシーに入りやすい. 
というもの.

以下に引用文献に挙げられていた概念をまとめておく.
  • クリティカ
    所与の個別的対象に対して弁別的理性を働かせ,その真理性について判断を下す技術.
  • トピカ
    多くの所与を綜合的に概観し,それらのあいだに働いている意味関連を発見し,問題の所存=トポスがどこにあるか見抜く技術.妄想はトピカの異常.
  •  リアリティ
    事物的対象的現実. 私達が勝手に作り出したり,操作できない既成の現実.クリティカにより判断している現実.
  • アクチュアリティ
    対象的認識では捉えられず.関与している人のアクティブな行動によって対処する以外にないような現実.身を持って経験しトピカを働かせて,生命的意味を捉えている現実.科学はアクチュアリティが扱えない.
てんかんには,意識喪失する数秒前にアウラと呼ばれる前兆現象が,患者により感覚される.アウラには
現世的時間の断絶と,現在の刹那における永遠の体験がある.個人の主体の個別性を保証している「いま」の時間規定が,ここの個体の区別を超えた永遠の「時間」に押し流され,個人の自己と宇宙大の自然との合一が体験される.ここでは生の歓喜と死の恐怖は,完全に区別を失う.それはひとつの祝祭.
 という特徴がある.ここで体験されている「絶対者との合一=神秘的合一」こそは,マイスター・エックハルトに代表されるキリスト教神秘主義のみならず,様々な神秘主義が目指す目標の一つである.

 アウラに「祝祭」を見出した木村敏は,
祭りの日に,人々は日常を抜け出し,生命のほとばしる永遠の現在という非日常に入る.祝祭が死に近いのは,全体が個を吹き飛ばしてしまうため.停滞する日常の時間を破壊し,生命的時間を取り戻す儀式.
とも述べている.

 だとすると,てんかん患者は,一種の司祭とも言えるのだろう. さらに付け加えれば,側頭葉てんかん患者においては発症後,「哲学的になる」「愛情深くなる」という現象が見られ,臨死体験体脱体験を含む超自然的体験も増えるとされている.
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引用・参考文献:木村敏心の病理を考える」岩波新書, 1994

2014年1月13日月曜日

ザ・プレミアム「超常現象」におけるドラマ「TRICK」批判(on twitter @rahumj)

 NHK BS「ザ・プレミアム 超常現象」.その第1集「さまよえる魂の行方」を11日に見た. 始まる前は,ドラマ「TRICK」で主人公の科学者を演じていた阿部寛が出演することから,てっきり実際に起こった超自然的現象を,「TRICK」のように科学者が暴いていく番組かと思っていた.ところが最後まで見たところ,この番組が完全に,ドラマ「TRICK」の批判として作られていることに驚いた.

 ちなみにあつかった超常現象をあげてみると
  • 幽霊と火の玉現象
  • 臨死体験と体脱体験
  • 前世記憶
 といったところ.軽くその内容に触れてみよう.

 まず最初の「幽霊と火の玉」については,心霊現象研究協会(SPR=The Society for Psychical Research)の科学者チームが,幽霊や火の玉が出るという無人城に最新測定機器等を搬入し,調査を行うというものだった.まるで昔の映画「ヘルハウス」を思わせる展開だ.

 ちなみにこのSPRのチームには,映画「ヘルハウス」のように霊能力者は含まれていないが,超心理学者が含まれている.彼らの調査により,火の玉を見たという部屋において,異常な電磁波が検出された.測定された様々なデータから彼らの導き出した結論は,これらの超常現象と称されるものは,その電磁波によるプラズマ発生と脳の錯覚,および,恐怖心によって引き起こされたというものだった.

 この結論自体は,いまや「幽霊・火の玉」現象の標準理論と言っても良いものであり,驚くに値しない.SPRチームは電磁波の発生源が見当たらないことを問題としていたようだが,その標準理論ではその電磁波源を地中の活断層にあるとしている.

 標準理論では,活断層から発生する強力な電磁波は,火の玉やUFOに似たプラズマ火球を作り出すと同時に,脳に変調をもたらし,幻覚や神秘体験を引き起こし,場合によっては,凄惨な事件の原因ともなる.それゆえ活断層に沿って,宗教的施設が配置されることになる.

 次の臨死体験体脱体験についての科学的説明は,低酸素状態における脳の変調による幻覚という説明だった.これもやはり臨死体験や体脱体験の標準理論に近い説明だと思う.

 補足すると体脱体験において失神した本人が,知り得ない情報を見知っていることについては,「失神しても脳や視覚以外の感覚は生きており,それまでの記憶と共にその感覚入力はリアルタイムに情報処理され続け,それによって構築された脳内の仮想的視界において,自己の位置認識が実際とは異なる空間(空中)に定位した結果」と説明される.

 ただし遠く離れた場所の出来事や,視覚によってしか得られない情報を体脱体験者が語ることもあり,現在の標準理論ではその現象が説明ができていない.

 最後の前世記憶現象についての,最初の科学的説明はちょっと残念なものだった.番組に登場した発達心理学者は,それを「子供の捏造」としたからだ.前世記憶の研究は,大規模な調査がインドで行われたと記憶しているが,捏造では説明しきれないものが多々ある.例えば,前世の人間の親族しか知らない情報を記憶していたり,教えられたこともない前世の人間の母国語を話す(異言)等の事例が確認されている.

 今回の前世記憶を含む心霊的超常現象の科学的説明で,特におもしろかったのは,スティーヴン・ホーキングと共にブラックホール特異点定理を証明した,あの大物理学者ロジャー・ペンローズの提唱する意識の科学「量子脳理論」による説明だ.意訳してしまえば,肉体に憑依可能な「意識=霊」は実在し,それによって心霊的現象や前世記憶も存在するが,「霊」自体は物理学的存在であり,形而上学的存在ではないとするものだ.

 この理論は比較的有名らしく,カトリック信者である円谷英二が創業した特撮プロダクション円谷プロ制作による,セカイ系ハードSF特撮TVドラマ「ウルトラマンネクサス」(2004)においては,人間に憑依する「光量子情報体=霊」として表現されている.

 クオリア問題を扱う茂木健一郎の得意分野と思われるこの「意識の科学」は,文系理系を越え,あまりにも広大な学問領域にまたがっており,自分の能力ではとてもすべてを俯瞰することは出来ない.いわゆる「意識のハード・プロブレム」は天才たちに任せて,自分はこれ以上の言及を差し控えておこう.

 私が言いたかったのは「超常現象」というNHK著作・制作の番組が,たいへんバランス感覚の良い,丁寧な作りであった事である.学術的になりすぎず,かといってオカルト・エンタテイメントでもない.取材もしっかりやっており,要所を抑えている.つまり簡単にいえば「ジャーナリスティック」であり,臨死体験を徹底取材したジャーナリスト立花隆の姿勢を感じさせた.

 現象に対する謙虚さは,科学者として忘れてはならない基本姿勢である.先入見を捨てて,raw data を見据えることから,全ての科学は始まる.自分はこの番組にそれを感じ取って,うれしく思った.またその番組を海外の放送局ではなく,日本のNHKが独自に制作したことも賞賛したい.それはドラマとはいえ「TRICK」の科学者には全く見られなかった現象に対するエポケー的態度である.

 この番組「超常現象」においてNHKが,「TRICK」の主人公科学者上田次郎を演じている阿部寛をキャスティングし,その主人公のごとく演じるよう番組演出し,進行させた事には全く驚かされる.どのような経緯があったかは知らないが,その出演を承諾した阿部寛にも,その出演決断において相当の勇気が必要だったのではないか?しかもこの番組の放送日1月11日は,なんと最新作「TRICK劇場版 ラストステージ」公開初日に当たっている.

 NHKが「超常現象」という番組を制作し,このようなタイミングで放送したのは,彼らが「TRICK」というドラマの仕掛けた本当のトリック,視聴者に対するトリック(ずるさ)に気づき,それが彼らのジャーナリスト魂に火をつけたためなのかもしれない.

 NHKはこの番組「超常現象」において,テレビ朝日出身の科学者上田次郎の口から心理学者ユングの言葉を語らせることによって,科学者上田の傲慢を正し,悔悛を促した.彼はもはや断罪者ではない.現象の前にひざまづき,現象に教えを乞う者である.

2014年1月10日金曜日

棟方志功「御二河白道図」(on twitter @rahumj)

 70年代の日本において一大ブームを巻き起こし,映画化・ドラマ化もされた劇画「子連れ狼」.その劇中において「二河白道 (にせんびゃくどう)」という概念が紹介される.現在,子連れ狼は,パチスロ台にもなっており,「CR新・子連れ狼~二河白道、再び~」という機種も存在するため,この言葉をパチンコ屋で初めて知ったという方も多いかもしれない.

 「二河白道」とは,浄土教(浄土宗・浄土真宗)において,極楽往生を願う信心の比喩である「二河白道(にがびゃくどう)」のことである.炎の大河(怒り・憎しみを表象)と,水の大河(貪り・執着を表象)の間に,信徒が歩むべき極めて細い極楽浄土への白い道があるという,信心の「たとえ=イメージ」だ.

 二河白道の教えはおそらく,ビジュアルな説教を考慮して考えられたものだろう.掛け軸に描かれたそのインパクトのあるイメージは,文字をろくに読めぬであろう当時の一般門徒にもわかりやすく,また彼らの脳裏にしっかり焼き付けられたに違いない.

 その二河白道図をネットで検索し,いくつか見てみた.ほとんど図像において,その道は文字通り,白い幅30cmもありそうにない白い直線であったのだが,唯一,その道を黒く描いた図像があった.それは版画家として著名な棟方志功の「御二河白道図」だ.

棟方志功 「御二河白道図」

 この棟方志功の「御二河白道図」を初めて見た時,それが新聞掲載のスキャン画像であったにもかかわらず,自分は殴られたような衝撃を受けた.

 その色彩,そのドラマ,そのまなざし,その聖性,その激動,その危うさ,その生命.俯瞰図なのか横から見たのか,パースがあるのか断面図なのか,空なのか河なのか,炎なのか獣なのか,夜なのか昼なのか,それともそのすべてなのか.

 それだけではない.見る者を殴りつけてきた暴力的な男性的な手が,次の瞬間,その暴力によって倒れつつある者を優しく介抱し,平安に導く女性的な手に変わってしまうという驚異…

 棟方志功 がこのような表現で「御二河白道図」を描けたのは,彼が宗教人というよりは芸術家だったからだろうか?確かに唯一,棟方志功 の「御二河白道図」のみが,「白道」を黒く描いている.それは芸術的な要請によるものだったからだろうか?

 色を除いては,彼が黒く描いた「白道」は他の図像と同じく,右から左上がりの直線となっており,その伝統を踏襲している. おそらく宗教的正統性という観点からは,棟方志功の黒い「白道」の「御二河白道図」は正統であったのだろう.それゆえに現在,高岡市善興寺(浄土真宗)に蔵されている.つまり「道が白色」であること,言い換えれば,おそらく「白」が表象する聖性や視認性は,この教えにおいて,さほど重要ではなかったと思われる.

 事実,この図像において,細く黒い道を行くその信徒の視線は,極楽浄土に立つ阿弥陀如来その一点に注がれており,恐ろしい炎の河も大水の大河も,さらには自分の歩んでいる心許ない黒く細い道すらも眼中にない.自分の歩む黒い道が,闇の中に沈んでいようとも,それは全く問題ではないのである.

 とすると,阿弥陀如来をただ信じ,彼だけを見つめて歩んでいくのであれば,道は白色である必要は無いという,これは棟方志功の宗教的声明なのかもしれない.

 そしてキリスト者もまた,この「道」がどのような道なのかを知っている.

イエスが「来なさい」と言われたので,ペトロは舟から降りて水の上を歩き,イエスの方へ進んだ(マタイによる福音書第14章29節)

 ペトロは「白道」を歩き始めたが,「強い風」に気づいて怖くなり,「二河」に沈みかけた.阿弥陀如来をまっすぐに見つめ続けて歩く「御二河白道図」の信徒のように,イエスを注視し続けることが出来ずに,「死にかけた」のであった.

 しかし溺れかけたペトロがイエスに祈ると,イエスはすぐに手をさしのべて彼を救った.ペトロ一人の力では,決して歩き切ることの出来ない道だったのである.

 それは「御二河白道図」にもしっかりと表現されている. たった一人で危険な歩みを続ける門徒を,此岸の釈尊たちが,彼岸の阿弥陀如来たちが,愛のまなざしで見守り続け,まるで守護天使のように見える3人の仏(?)たちは,彼の危うげな歩みを支えるべく,彼の頭上に飛来する.

 つまりこの信徒は歩んでいるのではなく,歩ませていただいているのだ.その歩みはキリスト教においても,浄土教においても変わりはしない.それゆえ歩ませていただいていることは,畏れ多いことであり,また感謝し,喜ぶべきであろう.

 キリスト教において信徒は,救いの神に感謝と讃美の祈りを捧げる.同様に,浄土真宗において信徒は,入信により浄土往生が決定した後に念仏生活を開始するが,その目的は報恩感謝である.念仏という行為は,浄土往生の条件ではない.

 新正統主義神学の巨人カール・バルトが,浄土宗・浄土真宗とプロテスタンティズムとの驚くべき類似性について言及したことは有名であるが,それは信徒の歩みの観念においても見られる.

 多元主義包括主義排他主義の論議は一時カッコに入れて,ただ純粋に,この棟方志功の「御二河白道図」を,その物語を,その生命を,浄土真宗門徒のみならずキリスト者を含め,その道を歩むすべての人々に味わっていただきたい.

2014年1月9日木曜日

安全装置(on twitter @rahumj)

 神の暴力が許され,その神と同等の権威を教会が持つとするのならば,教会の暴力は許されることになってしまう.各宗派間に見られる相互監視的な意識,他宗派に対する批評家的な視線は,その暴力発動に対する安全装置となっているのか?

爆縮(on twitter @rahumj)

 迫害は教会の凝集力であった.

 神はその迫害の凝集力,すなわち爆縮(implosion)の手法を用いて,成員たちをただ一点に集結させることにより超臨界させ,成員の総和からは決して想像出来ない,巨大な光とエネルギーを解放し,その成員たちをこの世の果てにまで四散させた.

 主なる神は,集められ,散らされる.

2014年1月7日火曜日

続「TRICK 劇場版2」とカトリック,あるいは,そのトリックの深層(on twitter @rahumj)


 「TRICK 劇場版2」に仕込まれた真のトリックは,実は,その視聴者を対象としている.そのトリックの目的とは,気取られること無く視聴者に対し,ある種の「マジック」をかけることにあった.このマジックのタネは,映画でよく見られる脚本の多層構造にある.

 この作品は表層上は,老若男女に理解できる単純極まりない科学的トリックを用いた勧善懲悪的娯楽作品,気楽に見て気楽に忘れ去ることの出来るチープなコメディーを装っている.しかしそれはいわば「甘いオブラート」であった.この物語の深層は悲劇と絶望である.そしてそれをプロットした制作者側の意図とは,その悲劇と絶望をもたらした宗教と「超自然」に対するワクチンを,密かに,万人の深層心理に投与することだった.

 「密かに」と書いた.それは本作品がその物語の表層において,特定可能な宗教や超自然を扱っておらず,架空の犯罪的カルト宗教を扱っているように装いながら,その深層においては明らかにカトリックをターゲットとしている点にある.

 「科学の福音」の伝道師たち,あるいは宗教や超自然に対するワクチンを予防的に,特に低年齢層を対象に投与する医師たち,すなわちテレビ朝日のプロデューサである早河洋(株式会社テレビ朝日代表取締役社長)や本作脚本家の蒔田光治(京大法学部出身)が,涙を流すマリア像等の超自然現象を奇跡として認否するための委員会(奇跡認定委員会)を有するカトリックを,そのターゲットと定めたとしても何の不思議もない.

 カトリックの列福列聖の条件としての奇蹟をも考え合わせれば,彼らがカトリックを「超自然=オカルトの擁護者」と見るのは,むしろ自然だろう.そして絶対的な因果律,すなわち科学的法則によって,罪人がその罪によって地獄に落ち滅びるという,この物語のプロットも,極めて自然であったろう.

 しかしキリスト者とは,因果律の破れ,すなわち罪(原因)→処罰的死(結果)の破れを知る者である.カトリックにおける超自然は,オカルトや魔術,すなわち人々を幻惑し魅惑する力の現われなどでは決してない.むしろその反対である.その現場とは神の栄光の現われであり,愛と救いと癒やしの現場なのである.

 超自然を認めない者にとって,すべては自然な物理現象である.彼らは,科学によって解明し得なかったその超自然的現象を「科学の未明領域」とみなし,現象解明のためにさらなる研究へと邁進するだろう.一方の超自然を認める者達にとっては,超自然と自然の弁別は極めて重要な意味を持つ.

 それゆえ超自然を認める者は,現在の科学の説明領域を知り尽くすだけでなく,将来の科学の説明領域すらもある程度予測し,超自然現象を弁別しなければならない.それは科学の最先端に立ち続ける事を意味するが,それは一般人に出来ることではない.

 そのためか現在の奇跡認定委員会は,その科学的検証を第三者機関に依頼しているという.また一般的な裁判と同様に,「悪魔の弁護人」とも称される奇跡に否定的な立場の神父を交えて,その判定を行っているようだ(注:ただしその「悪魔の弁護人」の人数,及び科学者であるか否か,またどれほどの科学的知識と判断能力があるのかについて,自分は知らない)

 藤木稟のミステリー小説「バチカン奇跡調査官」 シリーズの主人公平賀神父のセリフに,次のようなフレーズがあるという.
「科学者として客観的であることと,敬虔なカトリックであることを矛盾なく受け入れている」
否,むしろ超自然の存在を標榜する者は,科学的でなければならないのである.

 故に自分は「TRICK劇場版2」の脚本における,超自然を認めるカトリックと科学の対立構造よりも,カトリックと科学の協力による問題解決が,あの物語には似つかわしかったのではないかと思っている.そうすればあの後味の悪い悲劇的で絶望的な結末を,エンドロールを被せることでさらに薄められた,科学者とマジシャンの小コントで紛らわす必要も無かったのでは無いか?

 甘いオブラートに包まれ,幼い子らの口にも合うように調味された,カトリックに対する苦いワクチンの投与は,地上波初登場の2007年時,視聴率19.6%であることから,その当初の目標を達成したと言ってもいいのかもしれない.映画の興行収入も21億円であるから余裕でペイもしたことだろう.

 確かにカトリックが地動説を認めたのは,ガリレオの死後359年経った1992年であった.また果たして,現在の奇跡認定委員会が,科学の最先端に立っているかどうかは自分にもわからない.さらには修道院の中からも,人間的なゴタゴタやいじめの叫び声が遠雷のように耳に届いてもくる.

 金について言えば,バチカン銀行元総裁 ポール・マルチンクス大司教の大スキャンダルや,最近新聞を賑わせたパオロ・ガブリエル教皇執事の逮捕,実刑判決,恩赦,そして暴露による歴史的痛手,いわゆるバチリークス・スキャンダルに,巨額の金がからんでいたのも事実である.

 しかしそれだけでカトリックを「超自然で信者を集める拝金主義的カルト宗教」と同列に扱うことはおそらく誰にもできないだろう.誤解されやすい「教皇の不可謬性」についても,実際には制限が課されており,教皇の一般的発言に間違いが含まれる可能性をカトリックが全否定しているわけでもない.

 あらゆる教会は完全ではない.すなわち歩みの途上にある.歩みを止め,うずくまり,地上の快楽をむさぼるようになれば,教会は因果律にとらわれ滅んでしまう.つまずくこともあるが,それを悔い改めにより乗り越え,成長し,歩みを続けることのできる生命を教会が与えられているのであれば,人はそこに光を見出すだろう.

 「TRICK劇場版2」にその光,人を生かす光があっただろうか?またその光を,教祖の筐神佐和子,その娘の西田美沙子,幹部聖職者の佐伯周平,導き手の伊佐野銀造らに,科学者とマジシャンは与えられただろうか?

 おそらく製作者側もそれに気づいていたのだろう.教団幹部佐伯周平が逮捕直後に科学者とマジシャンに対して言い放ったあの言葉,
「これがおまえらのやったことだ!!」

に対して,二人を苦々しい沈黙の中に置き続けた製作者たちは,この物語の悲劇的結末への引き金を引いた,科学の限界を,誠実に表現したのだと自分は思う.
 
 断罪は常にたやすいが,その赦しは難しい.故にその赦しは尊く,死すべき命を「今,ここ」につないでいく.冷たい科学と律法主義的断罪のこの時代において,自分はその,「尊い生命の物語」の到来を願ってやまない.それは「希望」の物語である.

2014年1月6日月曜日

「TRICK 劇場版2」とカトリック(on twitter @rahumj)

 「TRICK 劇場版2」をTVで見た.昨年末再放送された「TRICK 新作スペシャル2:村祭りに響く死を呼ぶ子守唄!!」を偶然見て,その映像表現や脚本の中に,昭和の怪奇・ミステリー映像に対するオマージュやパロディが散見されたからだった.

  「TRICK 劇場版2」の監督は,その再放送の演出と同じ堤幸彦だったので,同様の映像表現に期待したのだが,見始めてしばらくすると,今回の作品はそのような昭和の怪奇・ミステリー映像のパロディやオマージュが,狙いではないと感じられた.そこで視聴をやめようかとも思ったのだが,気になることがあったので見続けることにした.

 その理由の一つは,この映画の舞台が,閉鎖的な新興宗教団体の自給自足的コミューンであったからだ.設定では,このコミューンは孤島に作られているため,現実に存在する「ヤマギシズム社会実顕地」等のコミューンよりも,一般社会から隔絶された状況にある.しかしそれ以上の理由が自分にはあった.

 それは映画開始20分頃に初登場したキャラクターで,主人公たちの「導き手」として紹介される伊佐野銀造のためだった.

 実は私は元日に,エキュメニカルな礼拝に参加したのだが,その時,私の隣に座った方がカトリックの聖職者だった.おそらく若い助祭か司祭で,黒い背広に白いローマンカラーのYシャツを着用していらした.

 自分は初めて生で,男性のカトリック聖職者を見たので,色々と観察させていただいた.「テゼの集い」にお招きしてくださった時のしゃべり方,その物腰,コートの持ち方,黒のアタッシュケース,礼拝中の態度等々.それはやはりプロテスタントの聖職者とは異なり,ある種の洗練された作法のようなものを感じさせた.

 伊佐野銀造が登場した時,自分は妙な親近感のようなものを感じた.そしてその風貌,しゃべり方,物腰が,あの時見たカトリックの若い聖職者とそっくりなことに気がついた.それで彼の服装を,静止画像にしてよく観察してみた.彼は灰色の背広に,白いローマンカラーのYシャツを着ていた.そのYシャツの襟には十字架らしい刺繍(模様?)が施されていた.

 さらに物語が進むと,伊佐野銀造は,科学者とマジシャンの目の前で,自分が当初この新興宗教を迫害していたが,教祖の起こした奇跡を見て,回心し,帰依したと涙ながらに告白した.その告白の語調は,あのカトリック聖職者のみならず,私自身のかつての懺悔をも彷彿とさせるものだった.

 伊佐野銀造は,その懺悔やその前の主人公との会話において,「目からうろこ」「証」という言葉も使っている.製作者が伊佐野銀造というキャラを作るにあたって「カトリックの若い聖職者」をモデルにしたことは,ほぼ間違いなかった.しかし話はそれだけでは終わらない.その後,信仰宗教の女教祖が信者たちの前に登場する.

 その信者の宗団の中に白いベールを頭にかけ,指を組んで祈る女性グループが登場する.それはあきらかに修道女のイメージであった.また修道女だけではなく,その他の男性信者等の祈り方も,手を合わせるものは一人もなく,みな指を組んだり,手を手で覆っていた.これは明らかに演出者が指示しているものと思われた.

 ここまで来ると,今回の舞台となっている新宗教団体が.実はカトリックと修道院をモデルにしていると思えて来たのだが,まだその確信には至らなかった.ところが映画スタートから30分経過した時点で,決定的証拠とも言えるシーンが登場した.

 それは教祖が自分の霊能力を証明するための儀式として,自ら棺桶に入り,泣き叫ぶ信者の前で火を付けられ,焼死し,その後何事もなかったかのように復活するというものだった.復活したその教祖を見た信者たちは,主人公たちを除いて,一斉に彼女の前にひれ伏し,その教団の聖職者(学生服姿)は,服従を表わす騎士のようなポーズをとった.

  決定的だった.なるほど,それでなぜ教祖の部下たちが,黒い詰め襟の学生服を着ているのかも理解できた.あれはカトリック司祭が通常着として着ている,黒のスータン(キャソック)のイメージなのだと.

 「導き手としての若いカトリック聖職者,修道女グループ,教祖の自死と復活,それを見た信者たちの平伏」直後のシーンでは,伊佐野銀造が信者になるにあたって,自分の子供の貯金を含めて,全財産を教団に喜捨したと告白した部分が修道院を思わせた.

  「お金で得られる幸せなど幻想にすぎない」という銀造のセリフも,それらしく聞こえる.ただそれ以降のシーンではカトリックを思わせるものは,なかなか出てこなかった.

 科学者とマジシャンがコミューンに潜入した目的は,教団内に囚われているある女性の救出にあった.その対象者であった西田美沙子は,「肩幅しかない」と表現される箱部屋から発見された.彼女は10年前(小学生の頃)に,ある山村からコミューンに拉致されていた.当然,彼女はその後ずっと世間から隔絶され,修道女的生活を続けていたことになるが,それは彼女の意思ではなく,何度も脱出を図って,それに失敗していた.

  科学者とマジシャンは,西田美沙子を伴い,「滑車の原理」を応用してコミューン脱出に成功する.このドラマの基本的なプロットは,科学的説明による超自然の否定と,科学応用による「救い」にあるようだ.滑車の応用は,映画のラスト辺りにも出てきて, 科学者とマジシャンの命を救っている.

  こうして科学の力は,箱(修道院)の中に囚われていた若い修道女を,その箱から解放し,許婚者のいる「外の世界」に連れ戻した.その過程において彼女は,科学者を当初「素敵な殿方」と呼ぶのだが,ついには「お父さん」と呼んでしまう.父なる神を信じていた者が,科学(者)を父と呼んだのだ.

  おそらく製作者側は,宗教に囚われていた者が,科学による救いを経験し,神から科学へ「回心=棄教」する姿を表現したかったのだろう.彼女が「素敵な殿方」と科学者を呼ぶたびに,彼に向かって目から放出される星々が,何のシンボルなのかはよくわからないが…

 物語の舞台が村に移った後,ついに,捨て子であった西田美沙子が,実は女教祖の娘であることが明らかになる.つまり西田美沙子は,憧れであった父親のイメージ(父なる神)だけではなく,母親(マリア)の愛にも囚われていたことになる.

 そこで初めて西田美沙子は,女教祖を「おかあさん」と呼ぶ.しかし女教祖は,自分の犯した罪とその汚れを告白するが,西田美沙子の母であることは否認する.それは自分の娘を「犯罪者の娘」としないための親心であった.

 女教祖が娘に母であることをずっと告白せず,箱入り娘としてコミューンに監禁したのは,娘を手元に置き,また自分の後継者として彼女を養育する事がその第一の目的であったのだろう.だが他にも理由があるように思えた.

 女教祖は己の罪深さを強く自認していた.それは,この女教祖がマジシャンに対して3度ほど行う,罪の告白内容から明白である.彼女は罪人である自分を嫌悪していたことだろう.彼女が常に白い服装に固執していたことも,彼女の罪の意識の裏返し,反動形成なのだろう.そして自分の罪はもちろんのこと,いかなるこの世の汚れや罪からも,娘を守りたいという願いが,娘を監禁し箱入りにすることの動機になっている.つまり母の願望を娘に投射していたのだ.

  結果,女教祖は娘を監禁したのだが,その姿こそは,まさに彼女自身の姿でもあった.女教祖は無意識のうちに,自分自身を,「女教祖」という箱の中に閉じ込めていたのだ.女教祖が時折,堰を切ったように自分の罪をマジシャンに告解するのは,その息苦しさゆえではなかったのか?

  そして彼女の「箱」の持つ「頑なさ」は,彼女を地獄のような泥沼(富毛沼)への投身自殺へと誘う.それは,彼女が西田美沙子の母ではないことを証明するため,すなわち娘を罪から守るための犠牲的行為であった.彼女はおそらく,逮捕されれば二人の親子関係が証明されてしまうと思ったのだろう.母の愛はその自死によって証しされた.

 西田美沙子は母のすべての罪を知った.そしてその母が,頑なに自分との親子関係を認めようとしないことを知った.にもかかわらず,彼女は母を「おかあさん」と呼びつづけた.西田美沙子にとって,自分に対して母が行ってきたひどい仕打ちや,犯罪行為はもはやどうでもよかったのだ.

 彼女にとって「母の発見」は,そのような否定的感情を遙かに超えるものだった.どんなに罪に汚れていても,その娘への愛がどんなにねじれたものであったとしても,西田美沙子にとって筐神佐和子(女教祖)は母であり,大切な人だったのだ.母が地獄の沼に落ちる直前,音はしないが女教祖の口の動きが確認でき,それは娘の名(美沙子)を呼んだように見える.

 最後の最後に女教祖は,自分の作り出した箱の扉をわずかに開けて,娘に対して母の顔を見せたのだ.それは娘である西田美沙子にとって,どれほど待ち焦がれていた瞬間だったであろうか.ここに自分は本作の頂点を見る.しかし残酷な罪の重力は母親を地獄の沼へと突き落とす.

  娘である西田美沙子が絶叫する「おかあさん」がこだまする中,地獄へと落下する母 筐神佐和子.その愛する娘の切なる叫びを,母はどのような思いで聞いたのであろうか.

 娘を罪から守るためとはいえ,やっと巡り会えた大切な母が,娘の目の前で自死することの残酷さ,そして因果応報的に罪によって地獄に落ちて滅んでしまった罪人.この構図が自分にはたまらなく,絶望的に思えてしまう.あまりにも後味が悪いのだ.ただこの作品については,後2つ語らねばならない.

 まずは,女教祖の死後,村で教団聖職者(学生服)が全員逮捕され連行されるときに,教団の最高幹部であった佐伯周平が言った下記のセリフ(注:適当に要約しました)だ.

「コミューンの仲間には,箱を作り続け,教祖の復活を待てと伝えておいた.彼らは何十年でも教祖の復活を待ち続け,箱を開け閉めするだろうが(注),教祖は永遠にやってこない.これがお前らのやったことだ!!」(注:教祖は箱の中に復活するとされていた)
信者は女教祖によって予言された教祖の再臨を待つのだが,しかしそれは永遠にやってはこない.女教祖は,「神」は,確かに死んだのだった.これがキリスト教の再臨を暗喩しているのは言うまでもないだろう.ただおもしろいのは,この幹部の怒りの糾弾に対して,科学者もマジシャンも何の反論もせず黙っていたことだ.

  確かに科学者とマジシャンは,女教祖が詐欺師であることを証明した.しかし結果的に女詐欺師は逮捕されることなく絶命し,娘は母を目の前で失った.女教祖がこの映画の中での,唯一の死者であることは注目に値する.そしてコミューンは何も変わらず,信者は箱を作り続け,教祖の再臨を待つという.果たして彼らの活躍によって,みなは幸せになったのだろうか?科学者とマジシャンが採った手法以外に,この女詐欺師を回心させ,母と娘の関係を回復し,コミューンの囚われ人たちを解放する方法はなかったのか?

 ここに自分は科学的手法の暴力性を見るのである.科学者とマジシャンは私益のために活動しただけであった.そこに罪人に対する愛はあっただろうか?

 最後になった.それはこの映画が確信犯的にカトリックをターゲットにしていた事の証でもあり,製作者側からの声明でもあろう.

 それはエンディングテーマ曲である Joelle の「ラッキー・マリア」にある.この曲は,ピエトロ・マスカーニ(イタリア人,1863~1945)作曲の「アヴェ・マリア」に,阿木燿子が歌詞をつけなおしたものである.歌詞はこちらのリンクを参照のこと.

 ちなみに余談だがWikipediaによれば,マスカーニは
ファシスト政権が誕生すると、スカラ座監督の座を狙ってムッソリーニに接近。このため、第二次世界大戦でイタリアが降伏した後、全財産を没収され、ローマのホテルで寂しく生涯を閉じた
とのこと.

入射角(on twitter @rahumj)

 希望し,その到来を楽観的に予測していた「光」が,予測とは違った曲がった角度で入ってくると,人々は喜んでその「光」に全身をさらした.

 しかし,希望もせず,その到来を全く予期すらしなかった「光」が,まっすぐ差し込んでくると,人々はその「光」を恐れて,背を向けて逃げ出した.