2013年8月25日日曜日

ルカ14:10 輝ける末席(主日礼拝)

招待を受けたら,むしろ末席に行って座りなさい(ルカ14:10)
本日の主日礼拝の説教は,主イエスのへりくだりに関してだった.イエスは,わざわざ天上からこの地上に救いのために下ってきてくださった.それは,とてつもない出来事である.なぜなら,明らかにあらゆる存在の中で最も美しく尊い方であるイエスが,この汚れ穢れた地上にまで,わざわざ下りてきてくださったからである.それだけではない.彼はその汚れ穢れた地上に暮らしている人々の中でも,最も惨めな人間として生きることを,自ら選ばれたのだ.そしてあの十字架において,彼は我々のために死んでくださった.それは,一般の日本人の持つ「神」のイメージ,生死を超越した存在,超自然的な能力により何でも自分の思うようになる能力者,偉大なる「力」といった,「神」のイメージとは,全くかけ離れている.

 彼の想像を絶するへりくだりは,十字架の死において頂点を極めるが,そのイメージは信徒でないとわからないかもしれない.しかし「弟子の足を洗う(ヨハネ13:1-20)」エピソードは,イエスを信じない者,すなわち,イエスが人間であり,ユダヤ教の先生であったと考える者であっても,彼の徹底したへりくだりに驚愕するであろう.

 彼は,十字架の死が近くなった頃,自ら弟子達一人一人の足を洗われた.当時,家を来訪した客人の足を洗ったのは,その家の奴隷だったという.イエスは,弟子達に対して,人間の中でも最も低い立場である奴隷(仕える者) にまでなって,へりくだった姿を弟子達に見せたのだ.手の届かないような高いところにいる尊敬する先生が,自分たちの奴隷となった姿に,弟子達も驚愕したであろう.そこには,「偉大なる力」としての神の姿は全くない.

 イエスは,「人に仕える神」という,にわかには信じがたい神概念を持っていた.その考えはこのルカのエピソードにも現れている.しかし先生は,このエピソードの表層上の教訓は,極めて一般的道徳のレベルにとどまっているとした.たしかに,わざわざ聖書に書かれなくても,「宴会においては末席に座れ」という教訓自体は,何かのマナーの本,あるいは道徳的な本に書かれていてもおかしくはない.ではこの聖書に書かれたルカのエピソードには,どのような深い意義があるのか?

 先生は,このエピソードが,真の謙遜とはどのようなものかを示しているとした.それは人の賞賛を期待して行われる,偽物の謙遜ではない.真の謙遜は,その謙遜に対して何の見返りも期待しないはずである.真に尊敬する対象に対して自分を低める者は,それによって自分がどうなるかなどと考えることがない.彼は,己の尊敬する対象を前にしたとき,自分の現状や立場や損得などを考慮することもなく,その対象に対し,なすべきことをなす.それは敬意を表すことであり,対象の前に自分を低めることである.それが見せかけのものではないことは,彼がその時に捨てたものが証をする.彼は自分を捨てるであろう.

 「自分を無にすること」これが真の謙遜の正体である.そしてそのような真の謙遜を示したものに,主は寄り添われる.
わたしは,高く,聖なるところに住み/打ち砕かれて,へりくだる霊の人と共にあり/へりくだる霊の人に命を得させ/打ち砕かれた心の人に命を得させる(イザヤ57:15)
  イエスは真の謙遜者の模範を自ら我々に示された.またこの末席のエピソードにおいて,謙遜こそがイエスに至る道であることを語られたのである.

 自分は自分の意志とは関係なく,神によって打ち砕かれた者である.それは誤解を恐れずに言えば,「神のふるわれた暴力」である.しかし同時に神の愛であり,神の救いの1プロセスであった.その暴力があったからこそ,私は受洗し,救われたのだ.それがなかったら,自分は一生,受洗しなかっただろう.もし受洗しなかったら…,自分は生きていたかどうかもわからない…

 私がこのエピソードを読むとき,もう一つのことを思う.この宴会への「招待」が,イエスからのものであったらと想像するのである.しかもその宴会は,私の心の中で開かれている.イエスが私の心の中にその様な宴会の準備をされたのである.想像の中で私が宴会の開かれる部屋に行くと,イエスはおろか誰もまだ来ておらず,たくさんの空席が並んでいる.イエスは,いついらっしゃるのかと待っている内に,自分は席に座らなければならない.その時に,キリスト者としての自分は,最初,末席を選ぶのだろう.しかし,イエスをずっと待っている内に,だんだん考えが変わってくる.「これだけ待っても誰も来ないのならば,末席でなくても良いのではないか」という思いが頭をもたげてくる.

 そしてついに,末席から席を上座に向かって,一つずつ移動し始める.そしてついに一番の上席にたどり着き,そこに座ってしまう.それは宴会ホストの席であるだけではない.王の席,イエスの席である.その席に座ってしまった時に,自分は招待客の立場から,宴会ホストの立場に変わり,自分の思うとおりの宴会を開こうと画策を始めるのだ.イエスのいない

 心の中で王の席に座ること.それはすなわち,自分が神の所有物ではなくなり, 自分のものとなることである.それは自分をイエスよりも上のものとする不遜で尊大な行為である.同時にそれは神からの逃亡であり,神の憐れみ・神の救いの放棄でもある.自分のような者がイエスの宴会に招待される事,それだけでも,ありえない奇跡であることを忘れてはならない.その宴会の末席が,どれほどまでに自分にとって,身分不相応な,いわば,「もったいない」席であるか,その末席の輝かしい価値を知るべきである.

2013年8月18日日曜日

ルカ14:2 呪いからの解放(主日礼拝)


そのとき、イエスの前に水腫を患っている人がいた。
(ルカ14:2)

 受洗後、母教会とは違う教会の主日礼拝に初めて参加した。ちょっと緊張したが、それでも私は平安に満たされ、神への感謝の気持ちが溢れた。今回の説教は、ルカ14の「安息日に水腫の人をいやす」についてだった。その説教は私にとっては、私の人生そのものであり、改めて主の御恵みに感謝した次第であった。

 このエピソードは、安息日に律法学者やファリサイ派の人々の前で、イエスが病をいやすというパターンの逸話のひとつだが、ルカ14においては
  • 場所:ファリサイ派のあるサンヘドリン議員の家
  • 発端:イエス議員の宴会に招かれ、それを受諾したこと
  • 病気:水腫(体内のリンパ液がたまって、特に腹がむくむ病気)
という点が特徴的である。

 当時、ラビたちは、この水腫という病を、不品行の結果、罪により神に呪われて患う性病と考えていた。民数5:21-22によれば、不倫をした疑いのある女性に対して、祭司は「苦い水」を彼女に飲ませることにより、不倫が実際に行われたかどうかを検証することが可能であった。もし不倫をしていれば、苦い水を飲んだ女性は、水腫的な症状を起こすとされている。おそらく水腫は、腹が大きくなるにも関わらず、子を孕んでいないことから、不倫という行為にふさわしい結果ということなのだろう。それゆえルカ14における水腫を患った人は、おそらく女性であったと思われる。つまりこのエピソードは、不倫により呪われてしまった女性を、イエスが救うというものである。

 本日の説教において、先生は詩編109:18-19を引用された。
呪いを衣として身にまとうがよい。呪いが水のように彼のはらわたに、油のように彼の骨に染み通るように。呪いが彼のまとう衣となり、常に締める帯となるように。(詩篇109:18-19)
この詩編においては呪われた人は、男性のようであるが、「呪いが水のようにはらわたに染み通る」のであるから、やはり水腫のイメージがある。私はこの聖句から、呪いの恐るべき浸透力、あるいは粘着力を感じとった。このような体の芯にまで染み通った呪いは、まるで末期ガンのように身体と一体化しており、どんな優秀な霊的外科医の手によっても、呪いのみを取り除くことはできないであろう。それは人間にできることではない。しかし神には不可能なことはない。

 呪いが衣になってしまうとは、なんという不幸なことだろう。アダムは、罪を犯した後、皮の衣を与えられ、神の似姿からかけ離れた、動物的な姿に表面上なってしまったが、それでも呪いの衣を神からいただくことはなかったのである。呪いの衣は動物的な生存、そこには動物的な喜びもあるだろうが、それすらも許さない間断の無い苦しみを、生存の根本においてもたらすものなのだから。

 私はある事情から、現実的に人から、この世の呪いを受けている。そしてつい最近、その呪いが永遠に消えることがないことを知ることとなった。私はいつか時間がその呪いを消し去り、自分を呪いから解放してくれるにちがいないという、甘い考えを抱いたので、唖然とせざるを得なかった。本物の呪いはそんな甘いものではなかったのだ。本物の呪いは永遠である。

 その呪いは、私の骨の髄にまで染みわたっている。もし私に信仰がなかったら、その呪いは私を完全に絶望させ、心と魂を徹底的に蝕み、生物学的に、そして霊的に私を抹殺していただろう。私が生物学的に生きており、こうしてブログを書いていられるのは、信仰があるからであり、神が私を生かしてくださっているからに他ならない。神に感謝します。そういう意味では、呪いあるいは罪は、私と主イエスをタイアップさせている、捕縛の縄のようなものと言えるのかもしれない。祈り…

 イエスはこのエピソードにおいて、罠にはめられつつあった。水腫を患った人は、ファリサイ派の人々がしこんだエサだった。その人がイエスの歩まれる進行方向(前)にいたのは、あらかじめ彼らがイエスの通る経路を知っており、そこに水腫の人を配置したからである(ルカ14:2)。従って彼らは、イエスが水腫の人と必ず出くわすことを知っていた。それが「イエスの様子をうかがっていた」理由である(ルカ14:1)。

 おそらくイエスは水腫の人が目の前に現れたとき、これが彼らの罠であることに気づかれたであろう。だからこそまず水腫の人をいやす前に、彼らに対して「安息日に病気を治すことは律法で許されているか」と、先に質問したのだ。彼らが隠していた悪意を暴露したのである。ファリサイ派の人々の計画とは、安息日にしてはいけないと考えられていることを、イエスが行行うように仕向けて、その現場を二人以上で同時に目視確認することであった。それによって、イエスを律法に反したとして告訴し、二人以上の証人を確保しておくことにより、法廷において勝訴を確実なものとするつもりだったのだ。

 イエスのこの質問に対して、ファリサイ派の人々は黙っていた。彼らの内心の答えはもちろん、「許されていない」である。彼らが黙っていたのは、「許されていない」と言ったときに、イエスがもしそれを聞いて思い直して、水腫の人を治されなかったら、彼らの計画が破綻してしまうからだろう。しかしイエスは躊躇することなく、沈黙を続ける彼らの返答を待たずに、水腫の人を癒し,呪いから解放された。水腫から癒されたその人は、宴会に招かれていなかったので、そのまま帰宅の途についた。

 ファリサイ派による罠は,結果的には,イエスと水腫に苦しむ人を巡り合わせ,イエスはその栄光を露わにし,水腫の人は癒され,切望していた呪縛からついに解放された.それは実に,安息日にふさわしいすばらしい出来事だった.

 私は水腫の人であった.私は今,イエスによって癒され,生かされている.それに深く深く感謝した.教会からの帰り道は,夏の日差しが強く,すべてが白く光り輝いていた.その白い世界の中を,自分はイエスを携えて,自転車に乗って家に帰って行った.

 

2013年8月14日水曜日

ルカ18:1 気を落とすことなく祈るために

イエスは気を落とさずに絶えず祈り続けなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。  

 イエスは、弟子たちにこの後の説教をたとえで話された。「たとえ」は聞く耳を持たない者のために、イエスが採った手法である(ルカ8:9)。つまりこれ以降の説教について、弟子たちは理解できないとイエスは見ていることになる。

 祈りには、トレーニング的な要素が存在する。従って、熟達者になれば、いかなる状況下においても、気を落とさずに祈り続けることは可能であろう。たとえ刃が首筋に突きつけられようとも.

 この時の弟子たちは、祈る者としてまだ未熟であり、そのようなレベルに達していなかった。彼らのレベルは、一般信徒とさしてかわりはなかった。それは当然である。イエスは12使徒を、宗教者からは全く選ばなかったからだ(例外はいるのかもしれない。それはイスカリオテのユダか?)。彼が選んだのは、幼子のような気持ちでイエスの教えを受け入れた人々だったからである。イエスは彼らの宗教者としての能力について、関心すら持っていない。

 同様に、働いて生計を立てている一般の信者には、そのような専門的トレーニングを行うゆとりはない。従って、そのような一般信徒の祈りの能力は弱く、弟子たちもおそらくゲツセマネに至るまでに、何度も信仰の危機に立たされたのではないかと想像する。 気を落とさずに絶えず祈り続けることは、一般信徒にとって、それほどまでに困難なことなのだ。

 信仰生活において、気を落とすことは、通常、誰の身にも必ず訪れる。その最も強い現れは、遠藤周作的な「神の沈黙」だろう。その沈黙に対して人は、どう応答するのか?そこには「信仰を棄て,棄教する」という、魂の危機が存在する。イエスはその危機に祈りで立ち向かうよう、導かれている。

 祈りは、生命の絶対的危機に対してもすらも、その絶大な力を発揮する。しかし弱い者である一般信徒には、祈ることのできないほどにまで、打ちのめされる時が確かに存在する。祈ることができなければ、神との交わりから断たれて、おそらく魂の死は近いだろう。その死を避けるためには、そのような危機にある一般信徒を、支えることのできる身近な兄弟が必要となる。そのような支え合いの中で、信徒は信仰生活の荒波を乗りきっていけるのだろう。荒海を航海する舟の乗組員は、たとえ真夜中の絶望的な嵐の中においても,希望のともしびを灯し続け、互いに支えあって、憧れの御国まで舟を進めていくのだ。

ルカ17:20 神の国の非空間的構造と不可視性

 ファリサイ派の人々が,神の国はいつ来るのかと尋ねたので,イエスは答えて言われた.神の国は,見える形では来ない.『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない.(ルカ17:20)
  ファリサイ派の人々の質問は,「神の国はいつ来るか」であるのに対して,イエスはその時期を答えてはいない.イエスは,神の国の1)可視性と2)非空間性について彼らに語っている.つまりファリサイ派の人々の質問が,彼らには神の国が見えておらず,またその国が,物体のごとく,あるまとまった空間を占拠し,王(神)がその領土を支配していると考えている事から発しているのだとイエスは見抜いたのである.

 神の国は,通常,目に見えない.また,まとまった領土としては存在しない.それはおそらくこの世に点在している.しかも極めて微細な点となって,この世を覆っている.

 そのために,それを一般の人々は,その微細な拡散した粒子の集合体,言い換えれば,この世界を覆う極めて薄い雲を,「国」とは考えないだろう.それはとても「国」のように,ある一定の連続的な領土空間を,システマチックに管理している状態には思えないであろう.

 その雲は限りなく,空気に近い.そのため,その雲があることさえも,一般の人は気がつけないであろう.

 しかしその薄雲が見える人もいる.そして見える人は,雲を構成するバラバラな各粒子が,実は別の次元で,すなわち霊的な次元でつながっており,一つの身体を構成していることを知っている.その霊的な次元から見れば,その雲は,一般の人々の想像するような空間占有的な「国」を構成していることがわかる.

 その薄雲が,実は国であることに,見えない人々にも気づけるチャンスはある.それは,神の国が本格的な交戦状態に入ったときであろう.