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2013年12月27日金曜日

荒野(on twitter @rahumj)

荒野の孤独は,鏡であり,揺籃である.

荒野は彼に,彼自身の真の像と,彼のみに許された物語を手渡す.

故に彼は,獣とアザゼルの住む死の領土へと足を踏み入れた.

生命活動としての「分離」と「統合」(on twitter @rahumj)

 全体からの逸脱により誕生した独立的自律的「部分」が,その母体たる「全体」へと再び帰還し,その中に吸収されるのであれば,その「部分」は部分として死に,「全体」として蘇ることになる.それにより「全体」は分離以前の状態に復元されるわけではなく,むしろ,分離と統合の過程がもたらした新たな未来を獲得する.

 さらに,その分離と統合が必ず,量子力学的な「対生成」すると仮定するのであれば,我々は分離の中に死を見出し,統合の中に生命を見出す必然はない.すなわち分離すらも,生命活動の一部と捉えることができるであろう.

2013年12月22日日曜日

透明な病(on twitter @rahumj)

 罪は,無口で透明な病である.

 それは透明な辛子種,顕微鏡レベルのミクロの種から始まる.種は,この世の欲望を吸い上げて芽吹き,闇の放射を浴びながら,極めて速い速度で連続的成長を続け,やがては宿主を遙かに超えた透明な大木となる.

 そしてついには宿主から萌え出でたその根や枝は,貪欲に他者を捕食しながら,さらに,この世の果てへと,その勢力を伸ばしていく.

 その忌まわしい透明な巨木が,その長い沈黙を破り,彼に向かって死を語り出す時,彼はようやく,自分を飲み込んでいたその巨木を視認し,必死になって斧を探すであろうが,それは無駄である.彼はあまりにも巨木と一体になりすぎていた.

 故に彼は,あの外科医の名を天に向かって叫ぶ.すると彼を憐れんだ外科医はやってきて,誰にも出来ない手術を行い,巨木の中から彼を救い出して言った.

 「これからは定期検診を受けに来て下さい.あの種がまたは身体に入ってしまうかもしれません.私は良い顕微鏡を持っています.来ていただければ,それを使ってあなたの体内を調べて,あの忌まわしい種が身体の中に入っていないか,検査してあげましょう.この病気は,何よりも早期発見が大事なのです.」 
 

2013年12月8日日曜日

死を呪う(on twitter @rahumj)

 私はこの世に「死」が侵入したことをたいへん残念に思う.「死」はこの世にふさわしくない.「死」によって時間は切り刻まれることとなった.

 この世は生命に完全に満たされ,さらに外へあふれ出でるはずだったのに,「死」はこの世の底に穴が穿ち,そこから生命は奈落の底へとこぼれ落ちていった.

2013年10月13日日曜日

美(on twitter @rahumj)

 美によって酔いしらされた彼は,その酔いの中で彼女に命を差し出した.彼女はその命を喜んで食し,それにより酔いは彼女に戻され,彼女もまた酔いしれた.

 こうして酔いしれた二人は,やがて眠り込み,二度と目覚めることはなかった.故に,美は生命に従属すべきである.

2013年9月29日日曜日

平安(on twitter @rahumj)

 山を平らげ,谷を埋めると,目に見えるものは何も無くなった.興奮が生ならば,平安は死となる.平安に生を見出し,興奮に死を見出す者は少ない.

2013年9月24日火曜日

闇に座し(on twitter @rahumj)

 残虐と理不尽と死.生をあざ笑う巨人達を前にして,人は怒りの拳を握る.生きるために.絶望に押しつぶされないために.しかしその拳が何度も空を切る時,人は絶望に囚われる.

 希望のともしびは闇の中にしかない.それを見出すのは闇に慣れた目である.拳を下ろし,闇に座し,見つめ続ける.

2013年9月21日土曜日

反逆と従順(on twittter @rahumj)

 若い頃,生命とは反逆であった.やがて年を重ね,死が目の前に見えてくると,生命とは従順であることに気づく.

2013年9月17日火曜日

眠った子を起こす時(on twitter @rahumj)

 「眠った者」は聞かない者である.ごちそうの準備をし,「さあ食べて元気を出しなさい」と言われても,彼は眠り続ける.それが長引けば,ますます死に近づいていく.

 だからおそらく「眠った者」の手を取って,起こしてあげる必要が,まず第1にある.食事の準備はそれからでもよい.

 眠りは彼にとって平安である.したがって,その眠りから目を覚ますために手を取ることは,彼にとって暴力と感じられる可能性がある.

 故に,手を取って起こす者は,眠っている者に対して,ある種の公的な権威を持っていなければならない.

2013年8月14日水曜日

ルカ18:1 気を落とすことなく祈るために

イエスは気を落とさずに絶えず祈り続けなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。  

 イエスは、弟子たちにこの後の説教をたとえで話された。「たとえ」は聞く耳を持たない者のために、イエスが採った手法である(ルカ8:9)。つまりこれ以降の説教について、弟子たちは理解できないとイエスは見ていることになる。

 祈りには、トレーニング的な要素が存在する。従って、熟達者になれば、いかなる状況下においても、気を落とさずに祈り続けることは可能であろう。たとえ刃が首筋に突きつけられようとも.

 この時の弟子たちは、祈る者としてまだ未熟であり、そのようなレベルに達していなかった。彼らのレベルは、一般信徒とさしてかわりはなかった。それは当然である。イエスは12使徒を、宗教者からは全く選ばなかったからだ(例外はいるのかもしれない。それはイスカリオテのユダか?)。彼が選んだのは、幼子のような気持ちでイエスの教えを受け入れた人々だったからである。イエスは彼らの宗教者としての能力について、関心すら持っていない。

 同様に、働いて生計を立てている一般の信者には、そのような専門的トレーニングを行うゆとりはない。従って、そのような一般信徒の祈りの能力は弱く、弟子たちもおそらくゲツセマネに至るまでに、何度も信仰の危機に立たされたのではないかと想像する。 気を落とさずに絶えず祈り続けることは、一般信徒にとって、それほどまでに困難なことなのだ。

 信仰生活において、気を落とすことは、通常、誰の身にも必ず訪れる。その最も強い現れは、遠藤周作的な「神の沈黙」だろう。その沈黙に対して人は、どう応答するのか?そこには「信仰を棄て,棄教する」という、魂の危機が存在する。イエスはその危機に祈りで立ち向かうよう、導かれている。

 祈りは、生命の絶対的危機に対してもすらも、その絶大な力を発揮する。しかし弱い者である一般信徒には、祈ることのできないほどにまで、打ちのめされる時が確かに存在する。祈ることができなければ、神との交わりから断たれて、おそらく魂の死は近いだろう。その死を避けるためには、そのような危機にある一般信徒を、支えることのできる身近な兄弟が必要となる。そのような支え合いの中で、信徒は信仰生活の荒波を乗りきっていけるのだろう。荒海を航海する舟の乗組員は、たとえ真夜中の絶望的な嵐の中においても,希望のともしびを灯し続け、互いに支えあって、憧れの御国まで舟を進めていくのだ。