2014年1月6日月曜日

「TRICK 劇場版2」とカトリック(on twitter @rahumj)

 「TRICK 劇場版2」をTVで見た.昨年末再放送された「TRICK 新作スペシャル2:村祭りに響く死を呼ぶ子守唄!!」を偶然見て,その映像表現や脚本の中に,昭和の怪奇・ミステリー映像に対するオマージュやパロディが散見されたからだった.

  「TRICK 劇場版2」の監督は,その再放送の演出と同じ堤幸彦だったので,同様の映像表現に期待したのだが,見始めてしばらくすると,今回の作品はそのような昭和の怪奇・ミステリー映像のパロディやオマージュが,狙いではないと感じられた.そこで視聴をやめようかとも思ったのだが,気になることがあったので見続けることにした.

 その理由の一つは,この映画の舞台が,閉鎖的な新興宗教団体の自給自足的コミューンであったからだ.設定では,このコミューンは孤島に作られているため,現実に存在する「ヤマギシズム社会実顕地」等のコミューンよりも,一般社会から隔絶された状況にある.しかしそれ以上の理由が自分にはあった.

 それは映画開始20分頃に初登場したキャラクターで,主人公たちの「導き手」として紹介される伊佐野銀造のためだった.

 実は私は元日に,エキュメニカルな礼拝に参加したのだが,その時,私の隣に座った方がカトリックの聖職者だった.おそらく若い助祭か司祭で,黒い背広に白いローマンカラーのYシャツを着用していらした.

 自分は初めて生で,男性のカトリック聖職者を見たので,色々と観察させていただいた.「テゼの集い」にお招きしてくださった時のしゃべり方,その物腰,コートの持ち方,黒のアタッシュケース,礼拝中の態度等々.それはやはりプロテスタントの聖職者とは異なり,ある種の洗練された作法のようなものを感じさせた.

 伊佐野銀造が登場した時,自分は妙な親近感のようなものを感じた.そしてその風貌,しゃべり方,物腰が,あの時見たカトリックの若い聖職者とそっくりなことに気がついた.それで彼の服装を,静止画像にしてよく観察してみた.彼は灰色の背広に,白いローマンカラーのYシャツを着ていた.そのYシャツの襟には十字架らしい刺繍(模様?)が施されていた.

 さらに物語が進むと,伊佐野銀造は,科学者とマジシャンの目の前で,自分が当初この新興宗教を迫害していたが,教祖の起こした奇跡を見て,回心し,帰依したと涙ながらに告白した.その告白の語調は,あのカトリック聖職者のみならず,私自身のかつての懺悔をも彷彿とさせるものだった.

 伊佐野銀造は,その懺悔やその前の主人公との会話において,「目からうろこ」「証」という言葉も使っている.製作者が伊佐野銀造というキャラを作るにあたって「カトリックの若い聖職者」をモデルにしたことは,ほぼ間違いなかった.しかし話はそれだけでは終わらない.その後,信仰宗教の女教祖が信者たちの前に登場する.

 その信者の宗団の中に白いベールを頭にかけ,指を組んで祈る女性グループが登場する.それはあきらかに修道女のイメージであった.また修道女だけではなく,その他の男性信者等の祈り方も,手を合わせるものは一人もなく,みな指を組んだり,手を手で覆っていた.これは明らかに演出者が指示しているものと思われた.

 ここまで来ると,今回の舞台となっている新宗教団体が.実はカトリックと修道院をモデルにしていると思えて来たのだが,まだその確信には至らなかった.ところが映画スタートから30分経過した時点で,決定的証拠とも言えるシーンが登場した.

 それは教祖が自分の霊能力を証明するための儀式として,自ら棺桶に入り,泣き叫ぶ信者の前で火を付けられ,焼死し,その後何事もなかったかのように復活するというものだった.復活したその教祖を見た信者たちは,主人公たちを除いて,一斉に彼女の前にひれ伏し,その教団の聖職者(学生服姿)は,服従を表わす騎士のようなポーズをとった.

  決定的だった.なるほど,それでなぜ教祖の部下たちが,黒い詰め襟の学生服を着ているのかも理解できた.あれはカトリック司祭が通常着として着ている,黒のスータン(キャソック)のイメージなのだと.

 「導き手としての若いカトリック聖職者,修道女グループ,教祖の自死と復活,それを見た信者たちの平伏」直後のシーンでは,伊佐野銀造が信者になるにあたって,自分の子供の貯金を含めて,全財産を教団に喜捨したと告白した部分が修道院を思わせた.

  「お金で得られる幸せなど幻想にすぎない」という銀造のセリフも,それらしく聞こえる.ただそれ以降のシーンではカトリックを思わせるものは,なかなか出てこなかった.

 科学者とマジシャンがコミューンに潜入した目的は,教団内に囚われているある女性の救出にあった.その対象者であった西田美沙子は,「肩幅しかない」と表現される箱部屋から発見された.彼女は10年前(小学生の頃)に,ある山村からコミューンに拉致されていた.当然,彼女はその後ずっと世間から隔絶され,修道女的生活を続けていたことになるが,それは彼女の意思ではなく,何度も脱出を図って,それに失敗していた.

  科学者とマジシャンは,西田美沙子を伴い,「滑車の原理」を応用してコミューン脱出に成功する.このドラマの基本的なプロットは,科学的説明による超自然の否定と,科学応用による「救い」にあるようだ.滑車の応用は,映画のラスト辺りにも出てきて, 科学者とマジシャンの命を救っている.

  こうして科学の力は,箱(修道院)の中に囚われていた若い修道女を,その箱から解放し,許婚者のいる「外の世界」に連れ戻した.その過程において彼女は,科学者を当初「素敵な殿方」と呼ぶのだが,ついには「お父さん」と呼んでしまう.父なる神を信じていた者が,科学(者)を父と呼んだのだ.

  おそらく製作者側は,宗教に囚われていた者が,科学による救いを経験し,神から科学へ「回心=棄教」する姿を表現したかったのだろう.彼女が「素敵な殿方」と科学者を呼ぶたびに,彼に向かって目から放出される星々が,何のシンボルなのかはよくわからないが…

 物語の舞台が村に移った後,ついに,捨て子であった西田美沙子が,実は女教祖の娘であることが明らかになる.つまり西田美沙子は,憧れであった父親のイメージ(父なる神)だけではなく,母親(マリア)の愛にも囚われていたことになる.

 そこで初めて西田美沙子は,女教祖を「おかあさん」と呼ぶ.しかし女教祖は,自分の犯した罪とその汚れを告白するが,西田美沙子の母であることは否認する.それは自分の娘を「犯罪者の娘」としないための親心であった.

 女教祖が娘に母であることをずっと告白せず,箱入り娘としてコミューンに監禁したのは,娘を手元に置き,また自分の後継者として彼女を養育する事がその第一の目的であったのだろう.だが他にも理由があるように思えた.

 女教祖は己の罪深さを強く自認していた.それは,この女教祖がマジシャンに対して3度ほど行う,罪の告白内容から明白である.彼女は罪人である自分を嫌悪していたことだろう.彼女が常に白い服装に固執していたことも,彼女の罪の意識の裏返し,反動形成なのだろう.そして自分の罪はもちろんのこと,いかなるこの世の汚れや罪からも,娘を守りたいという願いが,娘を監禁し箱入りにすることの動機になっている.つまり母の願望を娘に投射していたのだ.

  結果,女教祖は娘を監禁したのだが,その姿こそは,まさに彼女自身の姿でもあった.女教祖は無意識のうちに,自分自身を,「女教祖」という箱の中に閉じ込めていたのだ.女教祖が時折,堰を切ったように自分の罪をマジシャンに告解するのは,その息苦しさゆえではなかったのか?

  そして彼女の「箱」の持つ「頑なさ」は,彼女を地獄のような泥沼(富毛沼)への投身自殺へと誘う.それは,彼女が西田美沙子の母ではないことを証明するため,すなわち娘を罪から守るための犠牲的行為であった.彼女はおそらく,逮捕されれば二人の親子関係が証明されてしまうと思ったのだろう.母の愛はその自死によって証しされた.

 西田美沙子は母のすべての罪を知った.そしてその母が,頑なに自分との親子関係を認めようとしないことを知った.にもかかわらず,彼女は母を「おかあさん」と呼びつづけた.西田美沙子にとって,自分に対して母が行ってきたひどい仕打ちや,犯罪行為はもはやどうでもよかったのだ.

 彼女にとって「母の発見」は,そのような否定的感情を遙かに超えるものだった.どんなに罪に汚れていても,その娘への愛がどんなにねじれたものであったとしても,西田美沙子にとって筐神佐和子(女教祖)は母であり,大切な人だったのだ.母が地獄の沼に落ちる直前,音はしないが女教祖の口の動きが確認でき,それは娘の名(美沙子)を呼んだように見える.

 最後の最後に女教祖は,自分の作り出した箱の扉をわずかに開けて,娘に対して母の顔を見せたのだ.それは娘である西田美沙子にとって,どれほど待ち焦がれていた瞬間だったであろうか.ここに自分は本作の頂点を見る.しかし残酷な罪の重力は母親を地獄の沼へと突き落とす.

  娘である西田美沙子が絶叫する「おかあさん」がこだまする中,地獄へと落下する母 筐神佐和子.その愛する娘の切なる叫びを,母はどのような思いで聞いたのであろうか.

 娘を罪から守るためとはいえ,やっと巡り会えた大切な母が,娘の目の前で自死することの残酷さ,そして因果応報的に罪によって地獄に落ちて滅んでしまった罪人.この構図が自分にはたまらなく,絶望的に思えてしまう.あまりにも後味が悪いのだ.ただこの作品については,後2つ語らねばならない.

 まずは,女教祖の死後,村で教団聖職者(学生服)が全員逮捕され連行されるときに,教団の最高幹部であった佐伯周平が言った下記のセリフ(注:適当に要約しました)だ.

「コミューンの仲間には,箱を作り続け,教祖の復活を待てと伝えておいた.彼らは何十年でも教祖の復活を待ち続け,箱を開け閉めするだろうが(注),教祖は永遠にやってこない.これがお前らのやったことだ!!」(注:教祖は箱の中に復活するとされていた)
信者は女教祖によって予言された教祖の再臨を待つのだが,しかしそれは永遠にやってはこない.女教祖は,「神」は,確かに死んだのだった.これがキリスト教の再臨を暗喩しているのは言うまでもないだろう.ただおもしろいのは,この幹部の怒りの糾弾に対して,科学者もマジシャンも何の反論もせず黙っていたことだ.

  確かに科学者とマジシャンは,女教祖が詐欺師であることを証明した.しかし結果的に女詐欺師は逮捕されることなく絶命し,娘は母を目の前で失った.女教祖がこの映画の中での,唯一の死者であることは注目に値する.そしてコミューンは何も変わらず,信者は箱を作り続け,教祖の再臨を待つという.果たして彼らの活躍によって,みなは幸せになったのだろうか?科学者とマジシャンが採った手法以外に,この女詐欺師を回心させ,母と娘の関係を回復し,コミューンの囚われ人たちを解放する方法はなかったのか?

 ここに自分は科学的手法の暴力性を見るのである.科学者とマジシャンは私益のために活動しただけであった.そこに罪人に対する愛はあっただろうか?

 最後になった.それはこの映画が確信犯的にカトリックをターゲットにしていた事の証でもあり,製作者側からの声明でもあろう.

 それはエンディングテーマ曲である Joelle の「ラッキー・マリア」にある.この曲は,ピエトロ・マスカーニ(イタリア人,1863~1945)作曲の「アヴェ・マリア」に,阿木燿子が歌詞をつけなおしたものである.歌詞はこちらのリンクを参照のこと.

 ちなみに余談だがWikipediaによれば,マスカーニは
ファシスト政権が誕生すると、スカラ座監督の座を狙ってムッソリーニに接近。このため、第二次世界大戦でイタリアが降伏した後、全財産を没収され、ローマのホテルで寂しく生涯を閉じた
とのこと.

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