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2013年12月30日月曜日

ドラマ「あまちゃん」に見た光(on twitter @rahumj)

「あまちゃん」は,海の水に清められた海女であり,プロに毒されることのない永遠のアマチュアであり,そして,太陽の光を放つアマテラスであろう.

 その光はあまりにも目映く,その周囲から影を消し去り,人々の痛みを快癒させ,過去を清算した.その祝祭の中心にある彼女は,もはや人間ではない.アイドル=偶像であり,人々の願いと祈りの顕現である.

 視聴者は,「あまちゃん」終了後,消え失せた光を求めて,自分の周囲に彼女を探すであろうが,それは不可能である.また単なる役者にすぎない能年玲菜にそれを求めるのは,酷であろう.故に,闇の中を生きる人々は,その「光」を人の外に求めねばならない.

 フィクションである「あまちゃん」によって予言された,そのアマテラス的「光」を,人の外に見出すことのできた人々は,その光を浴びながら,今度は,「祝祭の視聴者」から「祝祭への参加者」に変貌し,その聖なる光を自分の内部に宿すであろう.そしてその光は,永久に消えることはない.

2013年12月7日土曜日

不安と平安(on twitter @rahumj)

「自分の生きているこの場所(世界)は,いかなる場所であるのか?」

 この知識への強い欲求はしばしば,自己の生存に関する不安に依拠していると思われる.

 現代人の特徴と呼ばれて久しい「不安」を持たない人間,すなわち平安に満たされて生きている人間は,この世界よりも,己にもたらされた平安の源泉に関する知識に深い関心を持つ.

 ゆえに平安は,良い意味でも悪い意味でも,人を世界から乖離させる両刃の刃でもある.逆に不安は,人の目を自分のいる世界へと向かわせるポジティブな側面を持つ.

 厭世的平安に甘んずることを戒め,この猥雑な世界の直中において,祈りと不安と共に「生きる」勇気を持つこと.

2013年10月1日火曜日

水車(on twitter @rahumj)

 村はずれの水車は,生ける水の流れを受けて,喧騒の昼も,沈黙の夜も,人知れずゆったり,回り続けていた.ある真夜中に,彼はその水車小屋に忍び入り,臼の中を確かめる.杵がついていたのは,「自己」だった.

祈りと糧(on twitter @rahumj)

 賛美と感謝の祈りの他に何もできないとしても,彼が祈るならば,彼は働いている.そしてその働きの故に,彼にその日の糧は与えられる.

ピグマリオンの死(on twitter @rahumj)

 永遠の命を求めて,ピグマリオンは像を造った.彼は像の静止に永遠を見,それを礼拝する.しかしその祈りの中における像との近親相姦は,彼を死に至らしめた.永遠の死は永遠の死をもたらし,永遠の命は永遠の命をもたらす.

2013年9月29日日曜日

水車(on twitter @rahumj)

 その祈りは,村はずれの水車のようである.忙しい日中も,寝静まった深夜も,ゆっくりゆっくり回り続ける.

2013年9月17日火曜日

多くを語る者(on twitter @rahumj)

 祈りを知らぬ者,祈りを拒絶する者は,多くを語る.自分の語りで,埋められるはずのない空虚を埋め尽くそうとする.

2013年8月14日水曜日

ルカ18:1 気を落とすことなく祈るために

イエスは気を落とさずに絶えず祈り続けなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。  

 イエスは、弟子たちにこの後の説教をたとえで話された。「たとえ」は聞く耳を持たない者のために、イエスが採った手法である(ルカ8:9)。つまりこれ以降の説教について、弟子たちは理解できないとイエスは見ていることになる。

 祈りには、トレーニング的な要素が存在する。従って、熟達者になれば、いかなる状況下においても、気を落とさずに祈り続けることは可能であろう。たとえ刃が首筋に突きつけられようとも.

 この時の弟子たちは、祈る者としてまだ未熟であり、そのようなレベルに達していなかった。彼らのレベルは、一般信徒とさしてかわりはなかった。それは当然である。イエスは12使徒を、宗教者からは全く選ばなかったからだ(例外はいるのかもしれない。それはイスカリオテのユダか?)。彼が選んだのは、幼子のような気持ちでイエスの教えを受け入れた人々だったからである。イエスは彼らの宗教者としての能力について、関心すら持っていない。

 同様に、働いて生計を立てている一般の信者には、そのような専門的トレーニングを行うゆとりはない。従って、そのような一般信徒の祈りの能力は弱く、弟子たちもおそらくゲツセマネに至るまでに、何度も信仰の危機に立たされたのではないかと想像する。 気を落とさずに絶えず祈り続けることは、一般信徒にとって、それほどまでに困難なことなのだ。

 信仰生活において、気を落とすことは、通常、誰の身にも必ず訪れる。その最も強い現れは、遠藤周作的な「神の沈黙」だろう。その沈黙に対して人は、どう応答するのか?そこには「信仰を棄て,棄教する」という、魂の危機が存在する。イエスはその危機に祈りで立ち向かうよう、導かれている。

 祈りは、生命の絶対的危機に対してもすらも、その絶大な力を発揮する。しかし弱い者である一般信徒には、祈ることのできないほどにまで、打ちのめされる時が確かに存在する。祈ることができなければ、神との交わりから断たれて、おそらく魂の死は近いだろう。その死を避けるためには、そのような危機にある一般信徒を、支えることのできる身近な兄弟が必要となる。そのような支え合いの中で、信徒は信仰生活の荒波を乗りきっていけるのだろう。荒海を航海する舟の乗組員は、たとえ真夜中の絶望的な嵐の中においても,希望のともしびを灯し続け、互いに支えあって、憧れの御国まで舟を進めていくのだ。