2013年9月29日日曜日

輝く銀貨(主日礼拝)

あるいは,ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて,その一枚を無くしたとすれば,ともし火をつけ,家を掃き,見つけるまで念を入れて探さないだろうか?(ルカ15:8)
無くしたギリシアの1ドラクメ銀貨は,一日分の賃金に当たる.これはローマの1デナリオン銀貨と同じ価値であると同時に,羊1頭の値段に相当する.

 その女は家の中にいた.彼女は家の管理人,もしくは所有者である.彼女の手中にあった10枚の銀貨の内,1枚が床に落ちた.重力に引っ張られ,銀貨はそれに従ったのである.彼女は腰をかがめ,顔を床に近づけてその銀貨を探し始めるが,家の中はあまりに暗く,見つけることはできなかった.銀貨はおそらく床に落ちた後,転がって彼女の元から離れていったのだろう.

 そこで彼女はともし火をつける.その光によって浮かび上がってくるのは,床に積もった汚い塵である.転がり去った銀貨は,この塵の中に埋もれている可能性があった.そこで彼女は家の中を掃き清めながら,ともし火で床を照らしつつ入念に探した.

 するとキラリと光る物があった.あの銀貨だった.銀貨はともし火の光を反射して,闇の中で輝いていた.彼女は腰をかがめて,その銀貨を拾い上げ,手中の残り9枚とそれを一緒にし,握りしめた.そして周囲の皆と発見の喜びを分かち合った.

 銀貨の落下は彼女の意図では無い.銀貨が落ちたのは,銀貨が重力にしたがったためである.地の誘惑は,地から引き上げられた10枚の銀貨に常に働いていた.それに打ち勝った9枚は彼女の手中に残ったが,そのうちの1枚は誘惑に負けて,所有者の手からこぼれ,塵にまみれた地に落ちて,闇の中を転がりながら彼女から逃走し,とある場所にうずくまった.それが銀貨の罪である.

  銀貨の所有者はその一枚を惜しみ,徹底的かつ執拗な探索を開始した.救いを完全にするためである.彼女は1枚のドラクメ銀貨の価値を惜しんだだけでは無い.彼女は1枚の銀貨が欠けたことにより,「10」という完全性が失われたことをも惜しんだ.救いは完全でなければならない.なぜなら
独り子を信じる者が一人も滅びないで,永遠の命を得るためである(ヨハネ3:16)
彼女はまず,ともし火をともし,闇を照らす.すると床は塵まみれで汚れていた.落ちた銀貨が錆びていなければ,この深い闇の中においても,ともし火を反射し,光るはずであった.すなわち神の呼びかけに対して,逃走者は応答するはずであった.しかし仮に銀貨が錆びていたり,銀貨と彼女の間に障壁(塵)があったのならば,銀貨は光ることがない.彼女は銀貨の応答(反射)を発見の手がかりとしていた.

 そこで彼女は,塵を掃き清めた.その神の御業によって,銀貨を被い,神との交わりを阻んだ塵(汚れ・罪)は取り除かれた.その掃き清めは,銀貨の上に積もった塵を取り除いただけではない.彼女の元から逃走した事の罪,その汚れをもぬぐい去ったのである.失われた銀貨は神の前にその美しい裸体を露出した.今や銀貨は,ともし火の光に対して,光で応答する.それは暗い床の上で極めて美しく輝いた.彼女は床にしゃがみこみ,そのへりくだりと共に銀貨を拾われる.銀貨は再び地上を離れ,神の手の中で平安を得た.それは銀貨の喜びであり,同時に神の喜びでもあった.
 
 この構図は,「見失った羊」のプロット,すなわち,地の誘惑(牧草)に導かれて,群れを離れた一匹の羊とほぼ同じであるが,羊のたとえには存在しない「床を掃く(=罪を取り除く)」部分が加えられている.この「床を掃く」部分を導入するため,イエスは婦人(女性)を主人公にしたのかもしれない.

 また「見失った羊」の例えには,神の呼びかけと見失った羊の応答(鳴き声=祈り)は,行間に書かれており,明記されていない.しかし「無くした銀貨」のたとえでは,ともし火の導入によって,神の呼びかけと銀貨の応答が具体的に描かれている.

 さらに「見失った羊」のたとえがこの前,「聖書の中の聖書」である「放蕩息子」のたとえがこの後に続くことから,イエスは3つのたとえによって,徐々に具体的に「見失われた者の悔い改めと彼への神の愛」を提示する意図を持っていたと言えよう.それはおそらくイエスの教育的配慮であろう.

 銀貨はともし火を受けて輝く.その光は,銀貨の発光によるのでは無い.それは神の栄光の反射である.銀貨はその光に,いっさい手を加えず,素直にそのまま,鏡のように反射するだけである.そのように銀貨が常に輝くためには,神によって銀貨表面の汚れをぬぐっていただかねばならない.そこに祈りはある.

水車(on twitter @rahumj)

 その祈りは,村はずれの水車のようである.忙しい日中も,寝静まった深夜も,ゆっくりゆっくり回り続ける.

平安(on twitter @rahumj)

 山を平らげ,谷を埋めると,目に見えるものは何も無くなった.興奮が生ならば,平安は死となる.平安に生を見出し,興奮に死を見出す者は少ない.

告白(on twitter @rahumj)

 自分は不思議に思う.なぜ聖者を前にした悪者は,それまでひた隠しにしていた自分の正体を彼に告白するのか.

従順(on twitter @rahumj)

 たいへん美しい1枚の絵の巨大なジグソーパズルがあった.ピース数が1億以上あると思われるそのパズルをバラバラに崩し,かき混ぜ,掃き寄せてみると,小さな山のようになった.そこを通りかかった人は言った.「このゴミの山は何ですか?」

 そのゴミの山から,1枚の美しい絵が再現できると確信する多くの者は,その絵とそのジグソーパズルの存在をあらかじめ知っている者か,その美しい絵の存在を信じる者である.

 このジグソーパズルのピースの形がすべて同じだった場合,コンピュータによる復元は,元の絵をコンピュータが知らない限り,かなりの困難を伴う.「かなりの困難」とは,仮に復元が数学的に可能であると証明されていたとしても,莫大な無限に近い時間がかかる事を意味する.

 数学者ベルンハルト・リーマンは,数学的根拠も無く,1859年にその美しい絵の存在を確信した.いわゆるリーマン予想である.10兆個まで彼の予想は当たっていたが,未だ予想のままであり,証明はされていない.

 彼の予想は帰納的推論によるものであっただろうが,それを予想として発表できたのは,彼がその美しい絵を信じ,そこに価値を見出したからである.

 多くの数学者・物理学者は,彼らの信じる美を求め,それを予想し,実証・証明を探求する.それに対して「真実は醜い」とニーチェは言った.しかし,彼らは「真実は美しい」という信仰を持って,ニーチェを拒む.

 予想には不安がつきまとう.10兆個まで正しかったリーマン予想も,10兆1個目からずっと続けて予想をはずす可能性は否定できない.数学者にとっては,10兆などものの数では無いだろう.では数学者が不安を払拭するために,証明に駆り立てられているのかというとそうでもない.

 むしろ彼らは,美への憧れと情熱に突き動かされ,その美の目撃者となるために,仕事に没頭している.彼らは確信者である.

 確信者である彼らが,妄想者にならないのは,数学的アプローチを用いているからだろう.リーマン予想を否定する証明がなされたのであれば,彼らはどれほどその予測証明を夢見ていたとしても,予測の間違いを認め,受け入れる.彼らは頑なな者ではない.彼らは数学に対して徹底的に従順である.

2013年9月28日土曜日

生ける水(on twitter @rahumj)

 無限にあふれ出す生ける水は,重力法則にしたがって流れていく.故に有り余る水は,執拗に下方を目指して,流れていく.そして遙かなる下方には,深淵の闇が広がっている.

ワナ(on twitter @rahumj)

 末席に座ろうとしたら,周りの人々が,もっと上の席へ座れという.これは聖書に書いてある通りになったと喜んで,やや上の席に座ると,もっと上へと回りが 言う.それに従っていたら,ついにイエスの席に着いてしまった.その時に彼が,彼らの望み通りの偶像に仕立て上げられたと気づくのは難しい.

生きるために捨てる(使徒27:38, on twitter @rahumj)

 太平洋を泳いで渡ろうとする者はいない.だから舟に乗る.だが海が荒れ,その舟が沈没しそうになった時,人は大切な船荷・船具を捨てて,舟を軽くする.捨てる事により,その後の航海どころか,生存維持そのものが困難になるとわかっていても.

 おそらく金さえも,状況が厳しければ捨てるだろうが,最後まで捨てられない物もある.それは当然,水と食料.だが,それさえも捨てねばならないほど海が荒れていた時,人はどうするだろうか?

 理屈で考えれば,今を生き抜かなければ明日は無いのだから,食料は捨てるべきだろう.できるのであれば食べられるだけ食べた後に.しかしその合理的判断に逆らって,食料に執着する者は少なくないだろう.

 ましてや食料を節約してきたために,飢餓状態にあった乗組員にとって,大切な食料廃棄はあまりにも酷である.しかしパウロは,そのような状況にあった乗組員たちにそれをさせた(使徒27:38).

 しかもパウロは,その直前に「舟は失うが,命は助かる」と信じがたいことを乗組員にに宣言していた(使徒27:22).

 大洋のど真ん中に浮かんだ舟の乗組員にとって,舟とは大地であり,世界である.食料がなくなっても,数日間は生きながらえるかもしれない.しかし己の存在する世界が無くなってしまえば,どこにも生きる場所は無い.

 だからパウロの宣言は,全く持って信じがたいものだっただろう.しかもパウロはそれが自分の理性的判断ではなく,天使のお告げがあったと乗組員に説明した.通常であればそのような話を誰も信じなかったはずだ.

 ここで乗組員達がパウロを信じた一つの理由は,「この航海は危険と損失をもたらす」とあらかじめ人々に忠告しており,それが実際その通りになったからだろう.ただこの時彼は,理性的な判断により忠告したのであって,天使のお告げによったのではない(使徒27:10).

 つまり乗組員はその時,パウロの知的能力や経験に信頼を置いたと言うことになる.しかし天使のお告げとなると話は別だ.その話を乗組員が信じたとするならば,それはパウロの経験や能力ではなく,パウロという人間そのものを信じたということだろう.

 では乗組員たちは,なぜ囚人であったパウロをそこまで信頼するようになったのか.一つには「助かる望みは全く消えうせようとしていた」その状況下におけるパウロの振る舞いだろう.場合によっては,彼は嵐に翻弄される舟の艫の方で,枕をして寝ていたかもしれない.

 嵐の中,恐怖と不安に支配されていた乗組員たちにとって,パウロの振る舞いは精神的な安定を彼らに与えると同時に,ある種の憧れさえ彼らに感じさせたかもしれない.

 つまりパウロの目に見える行い(業)によって乗組員は導かれ,彼の信じがたい言葉を信じるに至った.そして彼らは聖餐にまで至るのである(使徒27:35).

 乗組員は最終的に舟を捨てマルタ島にたどり着き,救われ,その命を得た.まさにパウロ の預言は,成就したのである.舟をこの世と見なすことができるのであれば,マルタ島は天の国である.

 乗組員が,積み荷・船具を捨てなければ,大切な食料を捨てなければ,そして最後に生存拠点である舟すらも捨てなければ,マルタ島には至れなかった.そしてそれらを捨てていきながら,パウロの信じがたい言葉を受け入れ,生存への希望を維持し,最後に救いに至ったのである.

 生きるために,救いのために,自ら大切なものを捨てる事.それは通常の生活をしていれば,生やさしいことでは全くない.しかしこの乗組員のように,その生存が根本から脅かされるのであれば,選ばれた人はそれを実行する.

 そして選ばれた人には,神からその艱難が与えられる.彼は艱難の苦しみの中で気づくのかもしれない.これこそは私の望んでいたものであったと.

音楽としての聖書(on twitter @rahumj)

 聖書は建築的であるが,同時に音楽的である.聖書では,様々なヵ所が相互参照しており,それらが一種の和音的響きをなす.また聖書に書かれた預言とその成就,あるいは予型とその提示後に現れるバリエーションは,一種のカノンとなっている.これらの特徴は バッハの音楽と一致する.

依存対象の喪失に対するコーピング(on twitter @rahumj)

 失うことが怖いのは,それに執着し,依存しているからだ.そしてそれを失う可能性が存在すれば,未来への不安は生まれ,不安は依存を強化する.恐怖や不安を感知し,その原因を探ることは,自分が何に依存しているのかを発見する手がかりとなる.

 人が何かに依存してしか生きていけないとしたら,不安と恐怖に対処するためには,
  1. 複数の異なる対象に弱く依存する
  2. 失われることのない永遠の対象に強く依存する
 ということになるだろうか.

 1のコーピングでは,何か一つ失っても,残りの他の複数の依存でバックアップするというものだから,各依存対象は関連性がない方がよい.つまり同時に複数の依存対象を失わないためだ.また各依存のウエイトもできたら均等の方がよいだろう.


 それぞれは弱い依存であるため,仮にそのうちの一つを失ったとしても痛手は小さいと予想できる.したがって,失う事の不安は小さい.ただ問題は,自己同一性を維持しながら,多次元方向のウエイトコントロールされた弱い依存のネットワークを構築できるかだ.

 ネットワークを構築した後も,ネットワークはダイナミックに変化する可能性がある.少なくとも定期的に,依存ウエイトをモニタリングし,何か一つの依存に偏りが発生していないかどうかチェックし,制御する必要がある.これは(特にメンタルな)エネルギーを消費する事でもある.

 一般に人が,自分自身とは何者であるかという問いを封印している理由の一つは,その問いに答えるためには,相当なエネルギーが必要になるからだろう.

 このモニタリング&コントロールのエネルギー消費は,トレーニングを行う事により,習慣化させ,省エネすることができる.ただそのトレーニング自体がコストとなる.

 2のコーピングについては,かなりの危険が伴う.失われることのない永遠の依存対象とは,基本的にはこの物理世界のものではないことを意味するからだ(物理学は永遠を発見しただろうか?).

 このコーピングは,狂気と関わり合いが深いからだ.いくつかの公理系(信念)を導入し,そこから演繹された理論により,その永遠の依存対象の像(イメージ)を記述・説明する者の中には,少なくとも理性が生きている.しかしそのようなケースはまれだろう.

 逆に主観的直感のみによって永遠の依存対象を認識したとする者が,それに強く依存した場合,理性が破綻してしまう可能性もあるだろう.つまり理性によるブレーキが,このコーピングには必要となる.

 この安全装置が言語である.宗教において,教典が尊いとされ,またその教典にこだわり続けるのは,そのためだろう.言語によって保たれる狂気と理性とのバランスが,永遠の依存対象に強く依存するコーピングのポイントのように自分には思われる.

 「宗教はアヘンである」と言う言葉は,「宗教依存が人を不幸にする」と言う意味ではないが,ある側面を言い当てている.我々の生存は食事に依存しているが,この依存は問題にならない.しかし過食症・拒食症は問題となる.

 こうして考えてみると,「選択可能な依存」をこそが,依存問題の対象であり,依存そのものが問題ではないことがわかる.

Twitterとメタ認知(on twitter @rahumj)

 つぶやき ,セルフトークは,人格の輪郭を表す.

 他者への自己顕示の道具として Twitter を使うのではなく,それを自己のメタ認知の道具とするためには,他者の存在を想定せずに自然につぶやくことか?コミュニケーションは副産物として.

 自己 とは,最もやっかいな他者であるから.

HSPと黙想(on twitter @rahumj)

 「問題解決に夢を使うための訓練法」は,黙想に似ている.  HSP (Highly Sensitive Persons)の人は,夢ときっちり向き合うために夢の記録を取った方がよいとした,ユング派の Elain.N.Aron を思い出した.

参考文献:
エレイン・N・アーロン「ささいなことにもすぐに「動揺」してしまうあなたへ。」(原典:The Highly Sensitive Person)

救われた者(on twitter @rahumj)

 救われた者が,救う者になる.それは救われるためには,救う者になる必要があるから.救われた者であるキリスト者にとって,救った者は主イエスに他ならない.

2013年9月27日金曜日

啓示(on twitter @rahumj)

 TK-80 から40年近く,マイコン・PC・サーバのプログラミングに関わってきたが,ついに足を洗う日が来たのかもしれない.

  すべての技術は流れ去る.残されるのは技術そのものではなく,その技術者の生き様である.

  失うことで人は,自分が何者であるかを知る.奪われ,失った後に残ったものこそが,本当の自分自身だ.

  自分に残されたものは,あらゆる意味でわずかしかない.その中に,長年蓄積したプログラミング技術や知識が含まれている.そこから足を洗うかもしれない今気づくのは,その知識に対する自己の執着である.自分のアイデンティティは,それらの知識に依存して,立脚していたのか.


  だから失うことは,啓示的である.

2013年9月25日水曜日

科学理論と科学者のパーソナリティ(on twitter @rahumj)

 自分は,リチャード・ドーキンス の理論よりも,彼の生い立ちや人格形成に興味がある.
彼の洞察には価値があると思うが,その理論には彼のパーソナリティが影を落としている気がする.

 それは,リチャード・ドーキンス的無神論からキリスト教徒に転向した「親切な生物学者」であるジョージ・プライスのその生涯を思い出させるから.

2013年9月24日火曜日

牧師と教会プランターの7つの誤った考え(邦訳)

著者:Ron Edmondson(Twitter:@RonEdmondson)
原文:7 False Thoughts of a Pastor or Church Planter
(注:専門家ではないので,誤訳・意訳ご容赦)
  1. 牧師が教会を建てれば、人はやってくる
    人は来るかもしれないし,来ないかもしれない。実際,神がそれを建てられたのならば,人はきっと来るだろう.
  2. 牧師がこれを行うためには,誰かに支払う必要がある
    牧師のあなたに支払うことはできたかもしれない.だが,あなたのお金をすぐに必然的に必要とせず,奉仕する場所を探していて,予定に空きのある人々がいる.彼らがその機会を望んでいる限りにおいて,その人々に支払いのチャンスがある.
  3. 何人かの人々は,常に教会に留まるだろう
     人々は留まらないだろう,以上.たとえ所属信徒に彼らが望んでいることをすべてやったとしても,その内の幾人かは去って行くだろう.そして,牧師が何らかの変化を教会にもたらすことにより,信徒達がずっと話し合ってきたのだが,まだ決めかねているような教会離脱の決断を,後押ししてしまうかもしれない.
  4. 牧師は,教会で起こっているすべてを知っている必要がある
    牧師はそれをやってみることができるが,もしやってしまったら,教会は大変小さくなり,教会のポテンシャルは極めて限られたものになってしまったでしょう.それでよく自問してみるのですが,この考えは,牧師が教会を知る必要のためなのか?それとも,牧師が教会をコントロールする必要のためなのだろうか?
  5. 信徒は牧師なしでこれはできない
    ふむ...これは印象的に聞こえるかもしれないが,真実ではない。全く真実ではない.牧師達が「真実ではない」と考えれば考えるほど,「それがおおむね真実」という事態は減少する.
  6. 人々は,与える準備ができているときに与える
    彼らはそれでも与えないでしょう,以上.牧師は施しを奨励する必要があります.彼らに与えるための理由を与えなさい.彼らに機会を提供しなさい.彼らを教えなさい.
  7. 牧師には所属信徒全員の霊的成熟に対する責任がある
    牧師にはその責任はない,以上.牧師は教えているだけです.神の御霊は,彼らの神への服従にしたがって成長するのです.

生命=情報+媒体 (on twitter @rahumj)

 「情報」の持つ永遠への生命的意志は,その媒体によって阻まれる.現実世界に存在する情報の媒体は,決して永遠を保証しない

理性のコスト (on twitter @rahumj)

笑いが小さな狂気であるならば,我々は日々,狂気の瞬間を必要としていることになる.だとすれば,その小さな狂気こそは,理性を維持するためのコストではないか?

民主主義:biomimetics 的アプローチ(on twitter @rahumj)

 民主主義 が,ベストではなくベターであることは言うまでも無い.「それは歴史が証明している」というのが一般的だろうが,自分はその論拠を非線形数学に置くべきだと考える.それは一種の biomimetics である.

闇に座し(on twitter @rahumj)

 残虐と理不尽と死.生をあざ笑う巨人達を前にして,人は怒りの拳を握る.生きるために.絶望に押しつぶされないために.しかしその拳が何度も空を切る時,人は絶望に囚われる.

 希望のともしびは闇の中にしかない.それを見出すのは闇に慣れた目である.拳を下ろし,闇に座し,見つめ続ける.

都市と村(on twitter @rahumj)

 思想は,脳内に建てられた人工建築物群である.その建築物群の維持には,コストがかかり,その中には地代も含まれる.

 都市の喧騒は若者には似つかわしい.都市は成長しコストは回収されるであろう.しかし死に近づいた者は村を目指す.そこには己の意のままにならぬ自然が広がり,夜は沈黙が支配する.

2013年9月23日月曜日

パウロの目 (on twitter @rahumj)

 パウロは闇の中にいた.故にイエスのまぶしさは彼の目を焼いた.しかしもし彼が目を閉じていたのなら,目は焼けなかったであろうし,結果,闇にとどまっていたであろう.

入り口と出口(on twitter @rahumj)

 ケンカ別れした友は,私から離れていき,遠くの別の入り口から入っていった.

 一人になった私は私の選んだ入り口に入り,歩みを進めた.そして,ついに出口から外へ出てみると,あの友はそこにいた.

 入り口はいくつもあったが,出口は一つだったのだ.

 入口がどれであるかは,さほど問題ではない.

ルカ15:5 迷える羊と神の暴力(主日礼拝)

そして見つけたら,喜んでその羊を担いで(ルカ15:5)
 「見失った羊」の例えにおける一匹の迷い出た羊は,求道者を象徴するだけでなく,すでに洗礼を受けた者が群れを離れた状態をも意味する,と先生は説かれた.確かに群れの残りの99匹が「悔い改める必要のない正しい人(ルカ15:7) 」の集団であるということは,洗礼を受けた者の集団,すなわち教会に所属する者達であることは間違いないだろう.その集団から迷い出たと言うことは,その羊が求道者,すなわち未だ洗礼を受けていない者とするよりも,洗礼を既に受けた者,教会に所属していた者と考えた方が,妥当性が高いように思える.

 ただ自分は,教会から迷い出てしまった者が,このような形で,すなわち見えざる神の御手により,ある意味では強引に暴力的に,再び教会に連れ戻されるというシーンを見聞した経験が無い.実際にそのようなことはあるのかもしれないが,極めてレアなケースと言えるのかもしれない.

 ただ実際,教会から出てしまった人が,すべて棄教者となるわけでもない.無教会主義的に信仰を一人で保つことのできる方もいる.おそらく彼もしくは彼女は,神と直結しているのであろう.この枝は幹につながっているのである.

 無教会主義には,ある種の,いくつかの危険が常に伴う.教会という砦,すなわち「羊の囲い」の外における危険を伴う生活を送る内に,本人も気がつかないまま,いつのまにか異端化してしまい,キリスト教徒は言えなくなってしまう例は,過去にいくらでもある.つまり教会は,信仰のアイデンティティを維持するための安全装置でもある.

 ただ繰り返しになるが,教会を離れたすべての人が,異端化するわけでも,棄教するわけでもない.無教会主義にある危険や戦いを乗り越えて,信仰を保つ事のできる人は,むしろ極めて優れた信仰者である.多くの優れた宗教者は孤独を求め,厳しい荒野的環境に自分の身を置いた.それは神との一対一の関係に入るためである.そこでの「生存の試練」に耐え抜いた者は,もはや環境には左右されずに,己の信仰を保つことができるのだろう.それは極めて少数ではあるが,中世のみ成らず,現代にも存在する.神の導きは時として,人智を越えているのである.

 さらに付け加えれば,教会を出た棄教者が,教会やキリスト教の攻撃者となるケースもある.「逆パウロ化現象」とでも言えばいいのだろうか.彼は教会を出た後,キリスト教に騙され続けた詐欺の被害者として,加害者である教会・キリスト教,果てはイエス・キリストまで呪う.それはもはや「迷える羊」というよりも,羊を食い荒らす狼である.彼らは羊をよく理解しており,その弱点をも熟知しているため,その攻撃は極めて効率的である.狼は羊を食い殺すのだが,狼自体はそれを悪として行っているわけではない.狼は自己の生き残りのために,その食欲に従っているのであり,彼にとってそれは自然な正当な行動である.のみならず,狼は羊を悪霊に取り憑かれ,自己を見失った病人,あるいは信仰の囚人,自己責任や判断の放棄者と見なしている.故に狼は正義の名の下に迫害を行う.狼にとってそれは救済行為でもあるのだ.この狼をも,神は「迷える羊」と見なされて,狼を羊に変えて,99匹の羊の群れに戻してくださるのであろうか?自分はまだ,その実際のケースを寡聞にして知らない.

 いずれにしても「迷える羊」は,神によって探索される.その探索は執拗を極め,その発見まで継続される(ルカ15:4).そしてついに,神は死の谷の陰の中に,その羊を見出す.その時に神にあふれた喜びはいかほどであろうか.神は羊に駆け寄り,羊を抱きしめたであろう.

 それは美しい再会のシーンに思えるが,このエピソードはそれほど甘くはないと自分は思う.イエスが羊を見出した時,羊はどのような状態であっただろうか?

 比較的よく言われる解釈としては,迷った羊は帰り道がわからなくなり,群れに,羊飼いの元に戻ろうとして鳴き声を上げ,羊飼いを呼んでいたとするものである.その鳴き声,すなわち祈りは,探索する羊飼いに手がかりを与え,その手がかりにより羊飼いは羊を発見し,歩き疲れた羊を肩に担いで,ついに群れに帰すというものである.

 この解釈においては,迷える羊は,群れに戻りたいという意志を持っており,しかもそれを神に嘆願し祈っている.そのため神は比較的容易に(?),羊を群れに返すことができた.しかし先ほども書いたとおり,教会から迷い出た羊は,すでに「野生の羊」もしくは「狼」に変わっている可能性がある.彼らにはそのような祈りも嘆願も,群れに戻ろうとする意志のかけらすらもない.ではそのような祈り無き者達が,神の見えざる力によって群れに戻される事があるのだろうか?

 自分はそれがあると信じる.羊の群れを憎み,あるいはそれを捕食せんとする者が,人によるのではなく,見えざる神の御力のみによって,この弱き者の群れに再び加わることが実際にあるのだと言うことを信じる.そのようなにわかには信じがたいことが起こる時,それは迷える羊にとっても信じがたき,想定外の出来事となる.

 羊が迷い出た理由は,周囲に目もくれず,地に生えているおいしい牧草を追っている内に,いつのまにか群れから迷い出たとするのが一般的な解釈だろう.すなわち,この地上に存在する様々な誘惑や,それらに対する欲望にそそのかされて,群れを出てしまったということになる.その場合,ふと我に返った羊が鳴き声を上げるのは,理にかなっている.しかしそのような理由で群れを離脱した羊が,我に返ることなく,ずっと草に夢中であったのなら,その羊が鳴き声を上げることは期待できない.彼は羊飼いの呼び声をうっとうしく感じるであろう.あるいは群れに引き戻されることに恐怖を感じたかもしれない.この草(地上のもの)を,また自己の欲求の充足,その味わいを失いたくないからである.

 また先ほども書いたように,教会離脱の原因は地上の誘惑だけではない.群れの他の羊を嫌って,あるいは羊飼いそのものを嫌悪し,決意を持って群れを後にした者もいるからだ.以上を考え合わせるとすべての迷える羊が鳴き声を上げ,羊飼いを求めるわけではないことがわかる.それどころかむしろ,探しに来た羊飼いに気づいて逃げ出したり,あるいは羊飼いに反抗し,かみつこうとする者すらいるであろう.羊飼いが羊を見つけて喜んだことは間違いない.しかし迷える羊は,必ずしも羊飼いによる自分の発見を喜んでいるとは限らないのである.

 もし迷える羊が羊飼いとの再会を心から喜び,そして羊飼いと共に群れに戻ることを臨んでいたとするのであれば,羊は精神的な元気を取り戻し,羊飼いの後について歩いて行くこともできたであろう.しかし羊飼いは羊を背負ったのである.それは羊を背負う必要があったからと解釈されるのが一般的であろう.

 その必然的な理由とは,一般的な解釈では,羊を地上から引き離し,地上から「上げる」ことにより,羊の視野から地上の誘惑(草)を消し去り,本来的自己を内省させるためとされる.羊は神によりすでに地上から脚を離し,天に近づいている.この時点で迷える羊は,他の99匹の地上に足をつけている羊を越えて,天に近づいていたのである.

 また羊飼いは羊を肩に担がれた.ここにおいて羊飼いと迷える羊は一体となっている.担がれた羊は既にすべての足を羊飼いに捕まれており,自らの意志を封殺されている.羊を担いだ羊飼いを見た者は,羊が彼の服の一部のように見えたであろう.迷える羊は,他の99匹よりも先に,神との一体化を果たしたのである.こうして「後の者が先になる」のである.

 しかし,鳴き声を上げなかった羊,すなわち羊飼いも待ち望むどころか,羊と羊飼いを嫌悪し,執拗に探索を続ける神のその御手から逃れようと,知恵を巡らし,脚を速めていたその羊が,ついに羊飼いの手にかかったその時,羊は大いに抵抗したであろう.大暴れに暴れ,悲鳴を上げ,その強靱な脚力で羊飼いを蹴飛ばし,自由を得んと,その脚に満身の力を込め,イエスを蹴りつけたであろう.それは羊の傲慢であるのだが,羊には羊飼いの方が傲慢に見えているため,罪の意識など微塵もない.羊にとって,それは暴力以外の何物でも無いのである.

 神は「宮清め」の時のような暴力を使ってでも,この迷える羊を救済されようとなさる.それはその羊のために,命をも惜しまない「善き羊飼い」の強靱な意志の現れである.そのような神の強靱な意志の前に,羊の抵抗などはものの数ではない.羊は神の肩に担がれるしかないのである.

 それでも羊は肩の上で抵抗し続けたであろう.すでに自由を奪われ,神に捕らわれ,地上を離れたのにもかかわらず.しかしその抵抗は蓄積する疲労と共に,やがては収まっていく.そして諦念が彼をおおうと同時に,彼の中で自己の現状に対する考察と内省が開始される.自分は結局何者であったのか,群れや羊飼いから離れて,自分がやっていたことは何だったのか.その価値とは何だったのか.彼は「計算」をも始めるかもしれない.群れに戻された後,再び脱走を試みるべきなのか.もしそうした場合,羊飼いはどのように動くのか.その結果はどうなるのか.それは自分にとってトクなことなのか,損なことなのか.

 地上を離れ,羊飼いの肩の上で,自由を奪われた一匹の羊には,考える時間が与えられる.やがてその時間は,自分の行いや羊飼いへの無礼に対する悔い改めを経て,祈りの時へと変わるであろう.こうして迷える羊,あるいは「野生の羊」「狼」は,再び「以前より善い羊」,「上げられた羊」として,群れに帰ってくる.それは周囲から見ればあり得るはずのない奇跡であり,神の栄光そのものである.

 教会を離脱し,「逆パウロ化」した棄教者,すなわち迫害者が,このような形で神の栄光を表した例を自分はまだ知らない.「迷える羊」のたとえは,自分にとってまだ預言であり,予告にとどまっている.しかし私を含めて,神の突然の「暴力」によってこの道に「投げ込まれてしまった者」は,この預言が成就されるであろうことを身体で知っている.私の耳は,そのあかしを欲している.そして求める者は与えられるであろう.

追記:
 このエピソードにはまだ語りたいことが多くある.十字架と背負った羊,100匹という数のスケーラビリティ,羊飼いのいない99匹の群れの動向等であるが,またの機会にしておく.

2013年9月21日土曜日

反逆と従順(on twittter @rahumj)

 若い頃,生命とは反逆であった.やがて年を重ね,死が目の前に見えてくると,生命とは従順であることに気づく.

2013年9月19日木曜日

手術痕 (on twitter @rahumj)

イエスの十字架は,自分にとって大きな手術痕のようなものである.

ヨセフの思い (on twitter @rahumj)

 サンヘドリン議員で,イエスの弟子でありながら,イエスを死刑から救い出すことができなかったアリマタヤのヨセフ.

 その彼が,もう遺骸となってしまったイエスを十字架からおろすために,イエスの手首を貫いた釘を,今引き抜く.

 その瞬間の彼の思い.

2013年9月17日火曜日

多くを語る者(on twitter @rahumj)

 祈りを知らぬ者,祈りを拒絶する者は,多くを語る.自分の語りで,埋められるはずのない空虚を埋め尽くそうとする.

悲劇(on twitter @rahumj)

 「眠った者」は天に向かって,顔だけでなく,身体全体を自然に向けている.しかしその方向に目を開けず,耳を傾けず,歩くこともない.そこに悲劇がある.

疎外(on twitter @rahumj)

 人が神の目からこぼれ落ちることはない.人は神から疎外されることはない.しかし人が疎外感を感じる時,人は神を疎外している.

眠った子を起こす時(on twitter @rahumj)

 「眠った者」は聞かない者である.ごちそうの準備をし,「さあ食べて元気を出しなさい」と言われても,彼は眠り続ける.それが長引けば,ますます死に近づいていく.

 だからおそらく「眠った者」の手を取って,起こしてあげる必要が,まず第1にある.食事の準備はそれからでもよい.

 眠りは彼にとって平安である.したがって,その眠りから目を覚ますために手を取ることは,彼にとって暴力と感じられる可能性がある.

 故に,手を取って起こす者は,眠っている者に対して,ある種の公的な権威を持っていなければならない.

十字架を下ろして(on twitter @rahumj)

 自分の十字架を背負う者は,時としてその十字架を重みとしてのみ知覚し,十字架の意味を忘れてしまうことがある.

 だから時にはその十字架を下ろし,自分の目の前に立てて,その十字架にかかっている自分を見つめる必要がある. 

 その恐るべき自分の姿を受け入れられなければ,生命に至ることはできない.人はそれに何を見出すのか.喜びか?それとも恐怖か?

 喜びは生命の本質であり,エネルギーである.それは眼前の死を突き抜けて,生命を先の方へと進める.

 その姿に憧れ,また現実にそうなることが決まった時,激しい喜びを感じた人々が過去にはいた.

 喜びによって死を突き抜けていった人々は,今も我々の中で生き続け,語りかけてくる.彼らはこれからも,残された人々に語り継がれ,無限の未来を生き続けていくであろう.

2013年9月8日日曜日

ルカ14:25-35 「この道」を歩く者が立ち止まる時(主日礼拝)

塔を建てようとするとき,造り上げるのに十分な費用があるかどうか,まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか(ルカ14:28)
キリスト者ならば,一度ぐらいは非キリスト者から,「キリスト教は邪教である」と罵声を浴びせかけられ,糾弾されたことがあるかもしれない.自分にはその経験がある.その時に彼らは,新約聖書のあるヵ所を指弾したと記憶している.それが今回の説教で取り上げられた部分である.すなわち
父,母,妻,子供,兄弟,姉妹を,さらに自分の命であろうとも,これを憎まないなら,わたしの弟子ではあり得ない(ルカ14:26)
である.「家族を否定するとは何事か!」「父母を憎むとは不遜も甚だしい」「命を軽んじている」といった非キリスト者からの非難は,同時に彼らの持っている血縁者中心的倫理観という常識を,高らかに賞揚するものでもある.

 聖書はおそらくこのような誤解や無理解を招くことを承知で,またおそらくは,それを意図的に引き起こすために書かれていると自分は推測する.この部分は確かに,ナイーヴな一般の善良な市民に,ある種の強烈な怒りを引き起こすインパクトを持っている.彼らは良きヒューマニストなのである.しかし誤解を恐れずに言えば,キリスト者はヒューマニストではない.キリスト者はだれよりも主イエスを,神を愛している.そしてその主イエスをあらゆる人の中に見いだし,その人の中の主イエスを信じ,愛し,また敬い,仕えるのである.ヒューマニストと見なされることの多いマザーテレサの言葉などは,それを端的に表現している.

 この聖句の持つ,自分の命(自我)を含めて,この世のものを徹底的に捨離していくという精神は,極めて仏教的でもある.おそらく仏教者ならば,この聖句の意味を容易に理解してくださるであろう.この捨離によって人は,イエスの囚われ人となる.すなわち罪から解放され,真の自由を得ることになるのである.そして自分の十字架を背負い,イエスの後を追って,イエスが先に歩いていかれた十字架への道を歩いて行く.

 しかし「この道」に入り,「この道」を歩きだした者達が,その歩みを全うする事は至難の技である.特に在家でこの世との関わりを保ちつつ,信仰生活を続けていかなければならない信徒にとっては,信仰とはこの世の誘惑・迫害・悪との熾烈な戦いを意味する. その戦いに疲れ切って弱ったところに,石につまずき,よろけ,ころんで,ついには棄教する者は,原始教会においても相当数いたことだろう.そのような経過をたどった棄教者は,「この道」を歩いている内に,自分が知らず知らずのうちに疲れ,弱くなっていたことに気づけなかったのかもしれない.

 それは自己への配慮を,神への愛ゆえに,怠った結果であろう.キリスト者は,肉体のみならず,魂すらも神の所有物である.キリスト者は.その神の所有物である自己の管理責任者でもあるのだ.したがって自己への配慮は信仰生活の一部であり,義務ですらある.自己への配慮を怠って「この道」を邁進するものは,いずれ信仰生活に破綻をきたす危険性をはらんでいる.

 自己への配慮のために,「腰をすえて計算」することは,「この道」を歩ききるためには必須であろう.その時,人は歩みを止め,道の途中で座り込み,計算をしなければならない.現在の自己の状態を,理性を用いて客観的に判断し,残りの道程を算定し,この自分の現在の状態で,道を歩ききれるかどうかを,計算するのである.そこで現状の自分の状態に不安を覚えるのであれば,人は歩みを止め,自己の状態を回復させるための時間を持たなければならないだろう.またいつの間にか自分が棄教寸前の危険な状態に陥っていたことに気づいたのならば,棄教することと,道を歩き続けることのどちらが自分にとってトクになるかを計算することになるだろう.

 その時に,自分が捨離し失ったものすべての価値と,信仰に入って得たすべての価値とを比較することになる.それは自分の洗礼式の時の感動を,思い出させることになるのかもしれない.両者の価値を理性的に客観的に数量化して算出し,比較した時に答えは得られるだろう.それは,通常,一時的な価値と永続的な価値との比較となる.そのため比較の結果は比較的明瞭である.

 その結果を目の当たりにした時,すなわち入信によって自分が得た途方もない価値を再発見した時,人は再び立ち上がるために,主の差し出してくださった御手を,目の前に見出し, 喜びと感謝に満たされながら,その命の御手を取るであろう.
二万の兵を率いて進軍してくる敵を,自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか,まず腰をすえて考えてみないだろうか(ルカ14:31)
  「この道」の途中で信徒が死にかけた時,父なる神は子を救うために,強制的な,誤解を恐れずに言えば,暴力的な力を発動するケースがある.それは私が経験したことだ.その時子は,怒りと不快と悲しみを父なる神に投げつけ,手足をばたつかせ,あらゆる方法を用いて徹底的に反逆しようとする.神を呪う瞬間である.ここでの彼には,計算をするゆとりなど全く存在しない.彼の理性は死んでいて,感情が彼を支配しているのである.

 イエスはそのような神の暴力が自分に臨んだ時に,計算をしなさいと言われる.はたして進撃してくる神の力に徹底抗戦して,勝利することができるか,冷静に客観的に判断せよと言われるのである.ヨナはある程度計算したのだろう.だから勝てないと思い,逃亡を選択した.しかし彼の計算は甘かった.計算すれば,神から逃げ切れるわけがないと悟っていたであろう.

 確かに計算すれば,神に勝てるはずはないのである.したがって計算することのできた反逆者は,戦いが始まる前に抗戦を放棄を決断し,神に和睦を申し出ることになる.神は受諾の条件として,またその証として,敗北者に貢ぎ物を要求するであろう.それは人間関係や自己を含めた,敗北者のこの世の持ち物一切である(ルカ14:33).敗北者はこの世のすべてを失い,神の国に捕囚され,神の僕として生きていくことになる.そして気づくのである.自分がゲヘナに投げ込まれずにすんだことを.これから神の国の中で,永遠に生きていくことができることを.彼は神の暴力に感謝し,祈るであろう.「あなたこそは私の父である」と.

 計算とは,理性と客観性,すなわち科学である.つまりキリスト教は科学を否定していない.むしろ科学を,信仰生活の道具として積極的に利用せよと,イエスはこのエピソードにおいて奨励しているのである.「この道」を歩みきるために科学を杖(道具)とし,また自己への配慮のため,歩みを止め腰をすえ計算する必要がある.これらは長い信仰生活において極めて有益なことである.言い換えれば,信徒は信仰生活において惰性に流されてはならないのである.

2013年9月2日月曜日

ルカ14:16-18 神の招きへのつまずき(主日聖餐礼拝)

そこで、イエスは言われた「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう準備ができましたから、おいでください』と言わせたすると皆、次々に断った(ルカ14:16-18)

 本日の主日聖餐礼拝の説教は、ルカ第14章15~27節についてだったこの宴会のホストである主なる神と共に食事をすることは、すなわち神の友として、神と親しく交わることである言い換えれば、神の国の中に入ることであるそれはユダヤ教徒にとって、極めて光栄なことであり、何にも変えがたい喜びであったはずだ従って信徒であれば,その招きは、いかなる個人的な事情があろうと、最優先にすべきイベントとなる.

 しかしその招待に対し、ユダヤ人達の反応は極めて冷ややかだった.結局、彼らはその招きを拒否したのである(ルカ14:18).先生によれば、当時のユダヤの風習では、まずあらかじめ宴会の招待者には、宴会開催予定が通知されるのだそうだ.従って、招待客は事前に自分のスケジュールにその宴会予定を組み込み、他のイベントとバッティングしないように配慮することは可能だった.つまりこの神の招きは、決して唐突な出来事ではなく、その招きに応じるために招待客は,礼服の準備やスケジュール調整等のための時間的余裕を十分与えられていたはずである.

 にもかかわらず、彼等は招待を拒否した拒否の理由は、畑と牛と妻である.それらの用事は,いわゆるこの世的な事情,この世におけ資産管理であるが,それだけではない.それらの用事は宴会の後に行っても,それほど不都合がない緊急性のないものばかりであった.彼らは招待を拒否することが,招待者のメンツをつぶすことになり,招待との関係を悪化させることはわかっていたはずだ.だとしたら,資産管理は後回しにして,とりあえず,形だけも宴会に出席し,招待者のメンツを保ち,なおかつ,招待者と自分たちの関係を維持するという配慮は当然できたはずである.招待者は明らかに,招待された者の上に立つ者である.ましてやそれが神であるのならば,なおさら出席は死守しなければならない

 にもかかわらず彼らは,出席を拒否した.そこには出席拒否の強い意志が感じられる.つまり彼等は,資産管理を神との宴会より優先させたと言うよりも,宴会にどうしても行きたくなかったため,その口実を後付けしたと思われる.ではなぜそこまで,かたくなに出席を拒否したのか?

 一つ考えられるのは,彼らがその宴会において,自分の服を脱いで,礼服に着替えたくなかったというケースだ.
が客を見ようと入って来ると,婚礼の礼服を着ていない者が一人いた(マタイ22:12)
 招待された宴会が,婚宴であるかどうかは,このエピソードからはわからない.ただこのエピソードの前ルカ14:7)には婚宴における話があり,さらにその話の最後の方ルカ14:12)では,婚宴ではなく一般的な宴会の話になっている.仮にこのエピソードが婚宴に近いフォーマルなものであったとしたら,やはり礼服着用義務はあっただろう.

 自分の服を脱ぎ,礼服を着ることが,偽りの自分自身,世間向けの自分自身を脱ぎ捨てて,イエスを着ることであり,イエスと一体となることであるならば,彼らはイエス故に,神の宴会出席を拒絶したことになる. つまり正確には,彼らは彼らの神の招きを拒絶したくはなかったが,そこにイエスという存在が介在するために,その招きをかたくなに断ったのだ.イエスの門を通ることを拒否したのである.しかし自分たちの信じる神の恩寵やその関係性は失いたくなかった.そのため,僕に対して欠席の言い訳をしたのである.

 彼らにしてみれば神に対して,今回の欠席がやむを得ないことの言い訳をうまくしたつもりだったのだろう.彼らのその時の社会的常識では,畑・牛・妻に関する用事は,神の宴会を欠席する理由として,十分であったのかもしれない.しかしそれは,宴会の招待者である神を,激怒させることになった.神は裏切られたのだ.そして彼らのために用意された席は,この世から見捨てられた貧しい人や身体の不自由な人,さらにはユダヤ教すら視野に入っていない異邦人(通りや小道にいる人々,ルカ14:23)のための席へと変えられていく.

 ユダヤ人達に対して事前に招待を通知した者達が、洗礼ヨハネを最後とするイエス以前の預言者達であれば,招待者を直接呼びに行った僕はイエスであろう.もし宴会のホストであり招待者である神が,直接彼らを呼びに行ったのであればどうだったであろうか?おそらくさすがに頑固な彼らも,その招待に応じざるをえなかったであろう.そして実際,神は直接彼らを呼びに行ったのである.つまり彼らは,彼らを呼びに来た貧しい身なりをした僕イエスを,神の子としてと認められなかったがゆえに,出席を拒否したのであった盲目であるが故に,彼らはイエスにつまずいたのだ.

 神に呼び出されることは,あまりにも尊い光栄なことである.そしてそれに応答することは,深い喜びである. なぜならそれによって,一方通行ではない「交わり」ができるからである.そしてその呼び出しに応答するということは,自分の服を脱ぐことであろう.そこには真の自由がある.しかしこんなことを書いている私自身は,果たしてその呼び出しに応え,自分の服を脱いで,神の御前に出ているのだろうか? 祈り…