2013年12月30日月曜日

ドラマ「あまちゃん」に見た光(on twitter @rahumj)

あまちゃん」は,海の水に清められた海女であり,プロに毒されることのない永遠のアマチュアであり,そして,太陽の光を放つアマテラスであろう.

 その光はあまりにも目映く,その周囲から影を消し去り,人々の痛みを快癒させ,過去を清算した.その祝祭の中心にある彼女は,もはや人間ではない.アイドル=偶像であり,人々の願いと祈りの顕現である.

 視聴者は,「あまちゃん」終了後,消え失せた光を求めて,自分の周囲に彼女を探すであろうが,それは不可能である.また単なる役者にすぎない能年玲菜にそれを求めるのは,酷であろう.故に,闇の中を生きる人々は,その「光」を人の外に求めねばならない.

 フィクションである「あまちゃん」によって予言された,そのアマテラス的「光」を,人の外に見出すことのできた人々は,その光を浴びながら,今度は,「祝祭の視聴者」から「祝祭への参加者」に変貌し,その聖なる光を自分の内部に宿すであろう.そしてその光は,永久に消えることはない.

羊か,狼か(on twitter @rahumj)

 狼の声で鳴く羊がいた.羊の皮をかぶった狼がいた.この二匹とともにいた羊の群れは,彼らの鳴き声を聞いて恐れ,急いで彼らから離れ去った.

 すると羊の皮をかぶった狼は,共に残された,狼の声で鳴く羊を食い殺した.

 こうして食された羊は,残された羊達に,食する者の正体を証した.

2013年12月29日日曜日

「力」と影(on twitter @rahumj)

「力」には影が伴う.影には罪が伴う.

「力の君」と壺(on twitter @rahumj)

「力の君」が探し求めているのは,柄のついた壺である.柄は壺の耳であった.

 彼がその壺の柄をつかみ,持ち上げ,軽く左右にゆすると,中に入っていたその粉は大きく動揺し,壺の外にあふれ出た.

 気をよくした彼は,さらに強く壺を揺すってみた.すると壺の中の粉は,すべて外に飛び出してしまい,壺の中身は空っぽになった.

 軽くなった壺を彼がさらに強い力で揺すり続けると,とうとう柄の付け根が壊れて,取れてしまった.

 柄の無くなった壺は支えを無くして,そのまま地面に落下し,粉々に砕け散った.

反省(on twitter @rahumj)

罪の認識→断罪(価値判断)→怒り(感情)→処罰(行動)→罪の認識…
最近の自分を振り返ってみると,このデススパイラルの最初の遷移ステップ(罪の認識→断罪)が,S-R的随伴性によって未だに自分の中で保たれているようだ.セルフモニタリングを続けてみる.

2013年12月28日土曜日

「力」の発生(on twitter @rahumj)

 正統主義に潜んでいる教条主義とは,一種の律法主義であり,必然的に「赦し」に対して厳格な態度をとる.それは同時に異端に対する臭覚を鋭敏化させ,異端審問に対する恐怖を発生させる.

 裁く者と裁かれる者の間に発生した「力」は,内部の構造化を促進すると同時に,人々に対し「力への意志」を煽動する.

頭(on twitter @rahumj)

 私が彼とともに歩いていると,道端に私の生首が転がっていた.そこでようやく私は自分が罪ゆえに斬首され,「頭なし・顔なし」となっていたことに思い出した.

 私と彼がその生首を見つめ立ち止まっていると,彼はおもむろに,その生首の上に身をかがめ,それを丁寧に取り上げ,懐にしまいこんだ.

 そして彼は言った「あなたは頭を失った.それは新しい頭を得るためである.そしてあなたは既に,その新しい頭,その新しい顔を見た.だから私はあなたの手を取り,共に歩くのである.私には頭があり,顔がある.」

超自然と背理の奥義(on twitter @rahumj)

人の論理限界を示す「超自然と背理の奥義」を,神の懐から人が奪取し,それを自己正当性の弁護人に仕立て上げてならない.その影に罪は芽吹く.

「ゆるい」バッハ(on twitter @rahumj)

 敬虔主義は,バッハの音楽にインスピレーションをあたえた.マタイ受難曲しかり.ヨハネ受難曲しかり.正統主義からそれらのバッハの音楽は,生まれてきえたであろうか?

 かといって,すべてのバッハの音楽が敬虔主義的というわけでもない.バッハはルター派正統主義内にいた.したがってその作品は正統主義的作品がむしろメインであり,彼の作品の建築的作法にそれは表れている.しかしバッハには,神秘主義的ともいうべき作品も存在する.

ルター派正統主義の教義では、音楽は人を神により近づけるものであったと考えられていたのに対して、敬虔主義では、音楽は個人的な黙想の訓練に用いられるものと考えられていた読書感想文のページ「神には栄光 人の心に喜び-J.S.バッハ その信仰と音楽/ヘレーネ・ヴェアテマン/村上茂樹訳」

 またルター派プロテスタントであっにもかかわらずバッハは,カトリックのミサ曲ロ短調 BWV232 をも作曲し,「カトリック的な神の讃美の世界と、ルター派的な十字架信仰の世界の、類のないほどの衝撃的出会」いをもたらした.

 神秘主義を含むカトリックの批判から生まれたルター派正統主義.そのルター派正統主義の批判から生まれた敬虔主義.バッハはルター派正統主義を中心としながら,その弱点を補うかのように,その周辺の宗派要素をバランスよく取り入れて作品を作っていたのだろうか?

 バッハ における聖と俗とのバランス感覚.パトスとロゴスとのバランス感覚.そして自分にはとても認識しきれない,音楽内における数学的幾何学的なバランス感覚.それを思うとき,彼が正統主義の立場でありながら,背理的にそれらを導入したことは十分考えられると思う.

 正統主義者バッハの耳は開かれていた.その彼に「自由」を保証したのは,言うまでもなく神自身である.彼は自分が「司祭」であることを強く自認していたのかもしれない.その自由は,正統からの逸脱をもたらすと同時に,彼と彼の作品に生命を与えた.

 バッハ の持つ絶妙なバランス感覚は,正統主義者にありがちな,硬直した教条主義者化から彼を守った.そして正統主義に身をおいたはずのバッハの作品に,ある種の普遍性をももたらした.それは彼の「ゆるさ」と言っても良いのかもしれない.

 しかしこのバッハ の「ゆるさ」は,今見てきたとおり,極めて制限されたものであることを忘れてはならない.つまり「手抜き」でも「制御不能」でも「ノイズ」でもない.それは彼の「art」である.彼は人格的に顕現される神の讃美からは,いつ何時も逸脱しなかったと自分は思う.

 バッハ に与えられた賜物であろうその「バランス感覚」「ゆるさ=許し」を,自分は果たして,その何百万分の1でも与えられているのだろうか?それは自分の信仰生活や自分の周囲において何を意味するのか?それともそれはは捨て去るべき幻影(まやかし)なのだろうか?身分不相応なのか?

2013年12月27日金曜日

荒野(on twitter @rahumj)

荒野の孤独は,鏡であり,揺籃である.

荒野は彼に,彼自身の真の像と,彼のみに許された物語を手渡す.

故に彼は,獣とアザゼルの住む死の領土へと足を踏み入れた.

真の喜び(on twitter @rahumj)

真の喜びは,純粋で,美しい

生命活動としての「分離」と「統合」(on twitter @rahumj)

 全体からの逸脱により誕生した独立的自律的「部分」が,その母体たる「全体」へと再び帰還し,その中に吸収されるのであれば,その「部分」は部分として死に,「全体」として蘇ることになる.それにより「全体」は分離以前の状態に復元されるわけではなく,むしろ,分離と統合の過程がもたらした新たな未来を獲得する.

 さらに,その分離と統合が必ず,量子力学的な「対生成」すると仮定するのであれば,我々は分離の中に死を見出し,統合の中に生命を見出す必然はない.すなわち分離すらも,生命活動の一部と捉えることができるであろう.

2013年12月26日木曜日

臨死(on twitter @rahumj)

 肉の臨死は人に対して肉的暴力を explicit に行使し,生命の重量を人に突きつける.しかし霊の臨死は人に対して,その暴力性を巧みに隠蔽する.その暴力のすべては臨死末期において,爆破テロ的に行使されるため,霊の死は通常,即死の形をとる.「その家の倒れ方はひどかった」のである.

2013年12月25日水曜日

ハサミ(on twitter @rahumj)

「異端」とは「正統」の輪郭に差し入れられるハサミである.

敗残兵(on twitter @rahumj)

 クリスマスイヴの礼拝へ向かう途中,何人かひとり歩きしている若者とすれ違った.奇妙なことにそれらの人はみな,敗残兵のごとく,苦虫を噛み潰したように顔をしかめ,うつむき,足早に私の傍らを通り過ぎていった.

 今日は人生の勝敗を決する日だったか?

 否,むしろ,本物の戦争すら休止させるほどの,喜びの日ではなかったか?

 あなたがたのその「戦い」は,作為されたもの,つまり「まやかし」である.

 

クリスマス休戦 (1914/12/24): 

戦場のクリスマス・第一次世界大戦、クリスマス休戦

2013年12月23日月曜日

弁別(on twitter @rahumj)

 鳥が巣を作るほどに成長した大木を,皆で鑑賞していた.やがて,そのうちの一人がその大木の中に,妙なものを見つけた.それは一風変わった枝で,明らかに他の枝と異なる形状を持っていた.「ならばそれは,いつの間にか彼が接ぎ木した枝であろう」と言って,皆は納得し,また満足して帰っていったが,その内の一人の者は残り,その異形の枝を見つめ続けた.彼は植物学者だった.

 観察を続けた彼は,やがて奇妙な枝のあちこちに,たいへん小さな,やはり変わった形をした木の実が,いくつも付いていることに気づいた.胸騒ぎを感じた彼は,手にしていた双眼鏡を目に当て,その実をじっくり観察した.しばらくすると彼は双眼鏡を下ろし,顔をしかめ,うめくようにつぶやいた.これは彼が接ぎ木した枝ではない.ヤドリギだ.

クリスマスと罪をめぐる断章(on twitter @rahumj)

 愛される者は,試される.試された者は打ちひしがれて,神に向かって泣きうめく.「あなたが霊に課された,この苦しみと重荷を今すぐに取り除いてください」と.やがて祈りが神に届き,尊い赦しが与えられ,「食べて元気を出す」と,人はますますある確信を深めていく.「私はあの方の子なのだ」と.



  罪を犯し,赦されるたびに,人は子になっていく.そしてこれは奇妙なことだが,彼の
周囲の人々も,彼の子になっていく.



 罪が茨のように絡み合い,空を覆い尽くすこの闇の世界において,希望を見出そうとするのであれば,人は天を仰いで,その茨の隙間から見える,僅かな空を見出さねばならない.



  重い病気を患った者が,医師の前に立ち,痛みを伴う治療を受けるために,歩いて彼のもとに行かねばならないとすれば,その足取りが重いのは至極当然であり,途中で引き返してしまう者もいるだろう.しかしありがたいことだ.その医師は,その患者を治療するために,彼のもとにまで,はるばるやって来てくださった.



 罪の石の重量は,その人を圧死させるのに十分である.その石が彼の上に落ちてくれば,彼は押しつぶされ,死に,そのとてつもない重量により,その死体は永遠に地に留まるはずであった.ところがこの石を取り除き,下敷きになった彼を蘇生するため,はるばるやって来る者があった.彼は医者であった.

懺悔録:こどもクリスマス会で神の指弾を受ける

「あの人は仕掛け人だよ!」そう言って全会衆の目の前で,少年が私を指さした時,私は神の御前に立たされた.そして心の中でうめいた.「少年よ,君は正しい.私は君たちを騙している.」

 本日,こどもクリスマス会が開かれた.彼らを教育的に楽しませようと,大人のキリスト者達は様々なイベントを案出した.じゃんけん大会,トーンチャイム合奏,腹話術人形,そして手品!

 クリスマスの催しに「マジック(magic)」とは意味深だ.ご存じの方も多いと思うが,生まれたばかりのイエスを礼拝した,古い言い方ならば「東方の三博士」,新共同訳ならば「占星術の学者達」を意味するラテン語「magi」は,英語の magic の語源であった.

 原始教会以来,魔術師はキリスト教の敵であった事は,以前にもブログ等で強調した通りである.使徒言行録に登場する「魔術師シモン(使徒8・9)」は言うまでも無いが,その後も様々なキリスト教異端判定において, その信仰の魔術性は一つの基準であった.

 マタイ(2・1-12)は
  • 幼子キリストを異教の高僧が礼拝(屈服)することによる,異教に対する「キリストの勝利(回心)」
  • 生殺与奪の権を持ち,現実的支配者であるヘロデの口頭命令よりも,非現実的形式であり,行動決定の根拠として極めて心許ない「夢のお告げ」によって啓示された神の命令を,躊躇無く選択し実行した事で示される,彼らの「神への信仰」
  • 本来イエス暗殺成功後,ヘロデにより口封じのため殺される予定の彼らであったが,神への信仰により,無事帰国できたことによって示される「神の救い」
という構図を示すことで,異教の未来を予型した.しかし,2,000年というの年月は,魔術の駆逐に対して,あまりにも短期間だった.21世紀の現代においても,魔術に見せられ,その力の虜となる人々は後を絶たないどころか,むしろ既存宗教の成し得なかった「救済」をもたらす「新しい宗教」として注目されている.

 魔術の持つビジュアルな超自然の力は,子供にもその驚異が感覚しやすく,言葉よりも具体的現実的であり,一般大衆を魅了し続けてきた.イエスが大衆に対して,ビジュアルな癒しを用いた理由もそこにあったのだろう.しかしイエスは,断じて魔術師ではなかった.彼が行ったのは魔術では無く,「神の栄光」の顕現である.

 子供たちを楽しませ,驚かせる目的において,マジックは大変効果的だろう.そこには教理的な説明などいらない.その種を明かさないかぎり,あるいは暴かれない限り,不思議と「術者の力」の顕現がそこにあるだけである.子供達は術者に魅せられ,また術者に憧れ,その力を得たいと思うだろう.ニーチェの「力への意志」は,子供達の共有する標語でもある.

 カトリックで非難の的となった「ハリー・ポッター」シリーズの著者 J・K・ローリング は、うつ病の後,貧しいシングルマザーとして生活保護を受けながら,その苦しみからの脱出を可能とする超自然的「力」に希望を見出そうとした.その彼女の「力」への祈りは,ついに小説として結実した.

 それは長編小説であったにもかかわらず,世界中の子供達を魅了し,虜にした.本は世界記録的ベストセラーとなり,シリーズ化・映画化されたのはご存じの通りだ.彼女は生活保護受給者から,「年収182億円,歴史上最も多くの報酬を得た作家(Wikipedia)」となった.彼女の「力」への祈り(魔術)は,確かに聞き届けられたのだ.

 子供達,特に幼い子供達持っている世界に対する認識は,大人とは当然異なる.発達心理学の世界では,小さな子供達(3~5歳)は「魔法の世界に住んでいる」と言われることがある.

3~5歳の幼児は,年齢や魔術的な信念の高低にかかわらず,日常的な因果理解に適合しない現象の原因を呪文や魔法へ帰属する傾向があることが示唆された.(引用文献: 太田・込山・杉村「幼児の因果推論における呪文の効果」広島大学心理学研究 第10号 2010)

 小さな子供達にとって世界は魔術的である.客観的なデータは無いが私見では,アニメにおける「魔女っ子もの」とでも言うべき分野がある事を考えれば,女子の方が魔女や魔術への傾倒が強いように自分には思われる.彼ら彼女らにとっては,おそらく本物のビジュアルな魔術(マジック)をその目で見届けることは,力の顕現をその目に焼き付け,それに対して憧憬と敬意を表する一種の礼拝行為といってよいのかもしれない.

 必然,小さな子供達に対してのマジックは,その名の通り,正に魔法のような効果がある.大人のキリスト者たちもその効果について熟知しており,この幼き者達を喜ばせようとして,その力に手を出したのだった.

 マジックが行われることを知った時,自分は瞬時にこれらのことに,思い巡らせたわけではない. 礼拝堂におけるマジックに対する本能的直感的と言ってもよい嫌悪感は,正直言ってあった.しかし自分はこう思って自分を納得させたのだった.

「そのマジックを大人に見せるわけでもないし,子供たちが喜ぶような,素人の子供だまし的マジックを,このこどもクリスマス会でやったって,神様も目をつぶってくれるだろう.子供たちがそれで喜ぶのであれば,マジックも悪くない.第一,自分はこの教会の教会員ではなく,ゲストとして参加させてもらっている.この教会にも歴史はあるのだし,その流儀に沿って行くのは当然ではないか.」

 そこまでは良かったのかもしれない.いや,逆だ.もう悪くなっていたのだ.神はここでひとつの采配を取られた.

 あらぬ方から,白羽の矢が私をめがけて飛んできた.こどもクリスマス会開催直前のことだった.子供たちにマジックを披露する方が,突然,私の方に歩み寄ってきて言った.

「その席から動く予定はないですか?もし動かないのでしたら,これを持っていてください.手品の種として使いますので,よろしくお願いします.」

 自分がそれを了承すると,その方は1枚の10円玉を私に手渡し,マジックの準備のため楽屋に向かわれた.どうやら自分に,手品の種,仕掛け人になれということらしかった.自分はその秘密の10円玉をポケットに押し込みながら,かすかな不安を感じた.はたして子供たちに見破られないように,うまく演技ができるのだろうか?自分は頭のなかで,その演技のシミュレーションをしてみた.

 …ポケットの中の物を全部出す.最後に10円玉が手の先に当たる.驚きの表情とともに10円玉を取り出す.そしてまるで,ドラクメ銀貨なくした女(ルカ15・8)のように「ありました,ありました」と声を張って叫んで喜び,その魔術的力を賞賛しながら,突如出現した10円玉を術者に手渡す.子供たちの術者に対する賞賛の拍手がそれに続き…

 まあそんなところだろう.相手は子供なのだからこれで十分だ.そう思い,シミュレーションを終えた.しばらくすると教会堂は,子供たちのざわめきに満たされた.こどもクリスマス会開催の時間だ.

 出し物は順調に進んでいった.子供たちはそれなりに楽しんでいたようだった.キリスト者の大人たちもそれを見ながら微笑みをたたえ,満足していた.やがてマジックの時間となった.

 「ハンカチに置かれた10円玉が消えるよ」と術者が言うと,子供たちは我先にとそのハンカチの前に集まってきた.術者はハンカチに10円玉を包み,その後,何人かの子供たちにハンカチの上から手で10円玉の存在を確認させた.そしてワンツースリー!さっとハンカチを取ると,10円玉は消えていた.「わーっ」と奇声を上げて驚く子供たち,そしてざわめき.しかし私の予想に反して,それは長くは続かなかった.

 その子供の中にいた小学校4年生ぐらいの少年が,他の子供達に対して,種明かしを始めたのである.それを聞いていた術者も,キリスト者の大人たちも苦笑せざるをえなかった.子供たちも同様だった.がっかりして,せっかく盛り上がった場が一気にしらけてしまった.自分は思った.おそらく他のキリスト者の大人たちも同様だっただろう.

「子供だから空気読めないのはしょうがない.機会があったら,彼にこう言ってやろう.『いいかね,真実は,それがどんなに正しくても,時に人を傷つけるものだ.だから場所と時と相手をわきまえなければいけない.奥義は,それを許された者,成熟した者にとっては薬だが,幼い者にとっては毒なのだだから奥義を知ったものは,それを幼い者から隠さねばならないのだ』と」

 種明かしを無視して,強引にマジックは進められた.

「消えた10円玉はどこにいったのかな?自分はあの人が持っていると思う.ほら,あの黒い服を着た男の人」

 舞台の幕はこうして上がった.まずは,自分が指さされたことなど気づかんぬふりをしてみる.左右の人を見渡す.次に自分で自分を指さして,自分が指名されたことにようやく気づいたふりをする.そして…

 いくらでも出てくるものだ,偽装のテクニックとその演技.自分はシミュレーションに対して,さらにいくつかの無理のないアドリブの演技を加えて,それを自然体のままやってのけた.その騙しのテクニックは,後から教会員の方に褒められたほどだった.

 しかしその時だった.あの種明かしをした少年が,私を指さし言い放った.

「あの人は仕掛け人だよ!はじめから10円玉を渡されていたんだよ!」

 自分は彼の真実の言葉に圧倒されそうになった.しかし場を維持するために,演技は続けなければならない.幕はもう上がっているのだ.自分は彼の言葉を無視して,椅子を立ち,術者に向かって驚きの表情を浮かべながら歩いて行き,「ありましたねぇ」と言いながら子供たちの目の前で10円玉を手渡した.

 マジックが終わると,こどもクリスマス会は,お楽しみのお菓子の時間に入っていった.私は後片付けを手伝いながら,「これで自分は子供たちから『嘘つき』『信用ならぬ人』と思われたかもしれない」と漠然と思った.だがそれと同時に「この教会の中で,誰かがこの,人をだます『汚れ役』を引き受けなければならないのなら,まだ子供たちの名前すらわからない,顔に馴染みのないゲストである私以外ないではないか.まさか牧師先生がそれをやるわけにもいくまい.」と自分の行為を正当化してもいた.
 
 礼拝堂の隣にある集会室に移り,子どもたちと一緒にお菓子を食べるとき,自分は偶然にも種明かしをしたあの少年の隣に立った.少年は座り黙ってスナック菓子を食べていた.私は内心思った.

「もしかしたら,彼にはまだ私に何か言いたいことがあるのかもしれない.『あなたは仕掛け人ですよね 』と詰問したいという気持ちがあるかもしれない.もし詰問してきたら,言ってやろう.彼に『場の空気』のことについて教えてやろう.」

 私は身構えていた.しかし少年は何も語らなかった.友人と話すこともなく,私の方に視線すらくれずに,目の前に広げられたコンソメ味のポテトチップスと,得体のしれない味のするカールを,私と一緒にただひたすらに頬張っていた.今思えば,私の罪,彼と神に対する罪は,ここに絶頂を極めていたのだった.

 こどもクリスマス会は終わり,教会員の女性たちが3日間かけて焼き上げたクッキーの詰め合わせとともに,子供たちも,大人たちも,私もそれぞれの家路についた.私は自転車で家に向かいながら,なぜか彼のことを思った.何かがひっかかっていた.

彼は確かに真実を叫んだ,そして和やかな場の空気を壊した,しかしそれは彼の罪なのか?

 おそらくそういうことなのだと思う.自分はその疑問を消化しきれないまま,思いを巡らせ,夕暮れの中,ペダルをこいだ.

  帰宅後,私は年老いた母とともにすき家で夕飯をとった.そして満腹して家に戻るとPCの前に座り,本日のこどもクリスマス会での発見についてブログを書く準備を始めた.まずは,フォローしている人々の最近のツイートを確認し,さらに自分の過去のツイートやブログの読み直しをしてみた.特に本日の出来事に関係ありそうな内容,例えば魔術に関する内容を持つ自他の情報をざっと見渡してみた.それが終わると,ブログのタイトルを決めにかかった.

 最初に浮かんだタイトルは「奥義」だった.あの少年に言いたかったことを,ここで書いてやろうと意気込んでいたのだ.ところがである.あの少年の罪業について,また嫌悪する魔術について思いを巡らせていると,やがて私はある事実を突きつけられることになった.

「逆だ.彼は正しい.そして私は,あの少年と神に対して罪を犯したのだ」
 
 彼の断罪は全くもって正しかったのだ.それは神の声だった.なぜ自分はあの場で,それを聞き取れなかったのか!いや,むしろその声を,その声の主を守れなかったのか!私は彼を断罪しようとさえしたのだ.なんということだ,なんという罪だ.

 私は確かに魔術に加担したのだ.「力」への礼拝に参加し,あろうことか大事な子供たちをその礼拝において幻惑し,「力」を伝道した.そればかりか,その力が全くのマヤカシであることを糾弾したあの少年を諌めようとさえした.

 私が彼の傍らに立った時,彼が感じたのは「この人に怒られる」という恐怖ではなかろうか?私は確かに立って,彼を見下ろしていた.子供と同じ目線で立つのは,教育の基本中の基本であると知っていたではないか!彼が何も言えなかったのは,彼が指弾した私に対する報復の恐怖ゆえではなかったのか?

 彼は確かにその真実の声により,場の空気を壊し,白けたものにした.彼が周囲に対して与えた不快感を,彼の仲間も持っていたとしたら,彼は仲間から爪弾きにされるのではないか?彼が繰り返し真実を周囲に告げていたのは,周囲の自分に対する不快表明を肌で感じとった彼が,自分の立場がどんどん悪くなっていくのを予感しつつ,一発逆転を狙って,その真実の力に自身を全面的に託して行った,彼の決死の作戦だったのではなかろうか?

 なんどでも言おう.私は邪悪な魔術に加担した.そして子供たちを騙し,幻惑し,神の愛から引き離し,皆を甘い魅惑的な超自然的「力」へと誘った.そしてそれをただ一人告発した預言者の声を持つ勇気ある少年を,おそらく断罪し,彼に高圧的な態度を取り,彼に対して愛のかわりに,恐怖を与え,諭そうとすらした.これがキリスト者のやることなのか.

 傲慢である.全くもって傲慢である.子供のやることだから,すべて稚拙だなどと決めつける傲慢.子供は時に,それが未就学児であっても,母を超えることがあるのを忘れたのか.ああそして,マタイが描いたクリスマスのその構図には,「高度な知識と経験を持つ大の大人が,何の知識も経験も力もない生まれたばかりの赤子を伏し拝む」そのあまりにも深い異邦人のへりくだりが含まれていたではないか!神はそれを教えるために,このクリスマスの時を選んで,あの少年の声と身体を用いて,私の罪に向かってその指をつきつけられたのか!

 … これを書き始めて,数時間が経った.すでに夜が明けようとしている.私にできることは,ただただ祈ることしかない.ただただ祈ることしかない.

2013年12月22日日曜日

見えないものを見る(on twitter @rahumj)

 今見えている部分群のみから,見えないその全体を推測するためには,少なくとも,見えている部分群の,見えない全体に対する割合が,相当に高いと想定されねばならない.

 しかるに,全体が不可視とされるのであれば,「見る」という手法による全体の測定は論理的に不可能である.

透明な病(on twitter @rahumj)

 罪は,無口で透明な病である.

 それは透明な辛子種,顕微鏡レベルのミクロの種から始まる.種は,この世の欲望を吸い上げて芽吹き,闇の放射を浴びながら,極めて速い速度で連続的成長を続け,やがては宿主を遙かに超えた透明な大木となる.

 そしてついには宿主から萌え出でたその根や枝は,貪欲に他者を捕食しながら,さらに,この世の果てへと,その勢力を伸ばしていく.

 その忌まわしい透明な巨木が,その長い沈黙を破り,彼に向かって死を語り出す時,彼はようやく,自分を飲み込んでいたその巨木を視認し,必死になって斧を探すであろうが,それは無駄である.彼はあまりにも巨木と一体になりすぎていた.

 故に彼は,あの外科医の名を天に向かって叫ぶ.すると彼を憐れんだ外科医はやってきて,誰にも出来ない手術を行い,巨木の中から彼を救い出して言った.

 「これからは定期検診を受けに来て下さい.あの種がまたは身体に入ってしまうかもしれません.私は良い顕微鏡を持っています.来ていただければ,それを使ってあなたの体内を調べて,あの忌まわしい種が身体の中に入っていないか,検査してあげましょう.この病気は,何よりも早期発見が大事なのです.」 
 

2013年12月21日土曜日

続・ロボット「ヨブ」(on twitter @rahumj)

 食事中に吐き気に襲われた.それは昨日のツイートした,四足歩行ロボット BigDog に関する新たな悪夢的イメージが頭をよぎったからだ.

 前回のブログでは,このロボットが,フォルムやメカニクスにおいてバイオミミクリーを応用しているのは間違いないが,その制御系プログラムにおいても,モーションキャプチャー等により,やはりバイオミミクリーが応用されている可能性があると書いた.

 以上の推測が正しいのであれば,ウォルト・ディズニーがアニメ映画「バンビ」制作のために,本物の鹿をスタジオで飼い,観察したように,このロボット開発者たちは,そのモデルとなる動物を買い入れた可能性は十分あるだろう.

 
 開発者達が,様々な物理的アクシデントに対処可能なロボットを開発するためには,フォルムの検討は言うまでも無く,各モーターを同期的に制御し,可能な限り姿勢を維持するためのプログラム開発は重要だろう.

 その姿勢制御プログラム開発にあたってバイオミミクリーを応用するのであれば,突然の物理的衝撃に対し,モデル動物がどのように姿勢制御し,対処しているのかを観察記録することになるだろう.

 そのため開発者達が.3Dでモーション記録できるカメラの前にモデル動物を立たせ,実際に「蹴り」を入れ,そのよろめき方や姿勢の立て直しを記録した可能性は十分にある.そして,そのモーションデータを充実させるために,その記録行為は繰り返し行われたことだろう.

 過酷な自然環境での使用が想定される,「戦争の道具」としてロボットを開発するために,そのモデル動物を実際にそのような環境において観察し,その動作を記録するのは工学者の発想として自然だが,その「過酷」な環境下における動物実験は,おそらく,「渾身の蹴り」数百発ではすまないだろう.

 Boston Dynamics社の提供しているYouTube動画では,4足歩行ロボット BigDog をはじめとするロボットたちが,雪の中,斜面,林の中,ぬかるんだ山道,浜辺,凍った地面,石だらけの河原的な場所等の環境を歩行している

 これらのロボットたちに想定されている運用環境は単に,車両の入ることのできない厳しい自然というわけではない.それは戦場の最前線である.彼らは運搬用軍事ロボットのプロトタイプであった.そのためか,いくつかの映像においても,彼らにペイロードが課せられているようだった.

 だとすると,おそらくモデル動物の動作記録は,同様の環境において,同様のペイロードを課した状態で記録されたものと推測される.私が目撃したあの痛々しいロボットのよろめき方は,本物の動物のそれだったのかもしれない.

 戦場の最前線ではアクシデントがつきものであり,完全なサポートやバックアップは存在しえない.与えられた装備のみでミッションを完遂しなければならないケースも多いことだろう.となれば故障がつきものであるロボットに関しては,半故障状態における運用も想定しなければならない.例えば,4足中1足が壊れた場合の対処的運用である.

 その運用に対する答えを,バイオミミクリー工学者たちがどのような手法で模索するのかをイメージした時,またそれがどのような発展を見せるかをイメージした時,自分は吐き気に襲われた.

 確かに奇妙なことに, Boston Dynamics 本社のサイトには,動物の姿は全く見当たらない.獣の匂いのしない,クリーンでメカニカルなイメージで構成されている.なぜここまでバイオミミクリー応用をしながら,そのモデル動物には全く触れないのか.

 現在のところ,彼らのバイオミミクリー応用のロボット開発が,実際にはいかなる手法で行われているかは,全くベールに包まれている.自分がイメージした,そのベールの下の悪夢的光景が,単なる妄想であることを願ってやまない.

2013年12月20日金曜日

ロボット「ヨブ」 (on twitter @rahumj)

馬のように歩いていた四足の犬型(?)ロボット BigDog が,突然彼の開発者の一人に蹴られてよろめいた時,自分は激しい不快感に襲われた.彼は生命を,おそらく「羊」を虐げたのだ.

 この映像の構図は,近未来の社会における人間とロボットの関係を予型している. 
 
 被造物(ロボット)には,創造者の意図は全くわかるまい.創造者から与えられたそのミッションを,ただ実直に遂行しようと前進する彼に,なぜ創造者は自ら渾身の蹴りを入れ,そのミッションを頓挫させようとするのか.

 確かにこの動画に限って言えば,創造者は被造物(ロボット)を信頼している.その渾身の蹴りによって転倒し,彼が精魂込めて作った高価な被造物が壊れてしまうとは全く思っていない.だからこそ創造者は,彼を「試み」にあわせることができた.では何のための「試み」だったのか?

 それは被造物(ロボット)の性能を,より現実的な状況において,より現実的な手段によって,他者に証しするためであろう.Boston Dynamics 社はこのデモにより,出資者を募っていたと想像される.結局この会社は,巨大企業 Google に買い取られることとなった.

 このデモンストレーションは,使用されたロボット個体を販売するために,その性能を誇示するものではなかった.創造者が他者に証ししたかったのは,創造者の持つ卓越した技術や創意であった.ロボットの性能の現れは,言うなれば「創造者の栄光」である.

 もしそうであれば,あのロボットは,創造者の栄光のための道具にすぎない.目的が達成されればプロトタイプは,どんなに高価であろうと秘密保持のためスクラップとなるだろう.そこには創造者の被造物に対する深い愛は感じられない.

 確かに被造物がロボットではなく,自動車やTVのような一般的な工業製品ならば,愛着のようなものは感じるかもしれないが,深く愛するということはないのだろう.しかし自分は確かに,創造者に蹴られてよろめいた,あの四足のロボットを憐れに思った.彼を守りたいと思った.

 それはやはり,ロボットの中に「生命」を感じたからだ.おそらくこのロボットは,その形状や行動から,バイオミミクリーを使用しているのだろう.もしかしたらフォルムやメカニクスだけでなく,制御系プログラムにもモーションキャプチャー等によりバイオミミクリーが使用されているのかもしれない.

 その擬似生命(ロボット)は,創造者の創造意図も,被造物に対する無慈悲も知らず,ただただ,創造者から与えられたミッションを遂行するためだけに「生き」,その遂行の中で創造者によって迫害され,そして最後には創造者の手によって「殺される」ことになる.

 この(擬似)生命の物語の持つ悲惨さは,あのロボットがヨブのようにならなかったことによるのだろう.あの蹴りのシーンの後に,ヨブ記的ラストを入れてくれたのなら,自分はこんなツイートをすることもなかったはずだ.

 つまりあのロボットの創造者が神的ではなく,むしろ悪魔的であることが,この物語の後味の悪さなのだ.なるほど,この創造者は確かに人間であった.

 今後ロボットとして,またデザイナークリーチャーとして,様々な人工生命体が,人間の奴隷として創造されるだろうが,その世界は果たして創世記的な美をたたえているのだろうか?その Artificial Biosphere が創造者自身の写像であるとしたら,我々はその鏡の前で,我々の真の姿を見て愕然とするであろう.

参考ページ:

2013年12月18日水曜日

尊い痛み(on twitter @rahumj)

 痛みを感じていないキリスト者など一人もいない.みなイエスの十字架の痛みを,日々日常の中で感じながら生きている.そのあまりにも尊い痛みこそが,我らを眠らせないのだ.

パラドックス(on twitter @rahumj)

 パラドックスの論理表層は矛盾である.その設問は回答すべき者を旅へと誘うが,彼が地表を漂浪している限り,その回答にはたどり着けない.なぜならその設問者の視座は,その階層の上にあるからである.

透過(on twitter @rahumj)

 逮捕により,人間として法的権益を剥奪され,獣扱いされた彼は,その十字架において,獣にすら許されていた,彼の皮,その衣服さえ奪われ,獣以下になった.だが同時に彼は完全(just)に彼となった.神の栄光を遮蔽するものは,そこには何もない.

色の季節(on twitter @rahumj)

 色の無い世界に住む修道士たちは色を希望し,その壁の向こうの,色のある世界に住む人々はさらに色を求めた.故に色は両者に与えられ,それはこの2つの世界を見えない形で一つにした.

声(on twitter @rahumj)

 彼が最初に求めたのは,彼の「声」であった.それはボアネルゲス的声,すなわち預言者的声である.

 声は声の主を知らなかった.理解する力もなかった.しかし声の主はそれをよしとした.声の無理解は,彼の思惟の透過的伝達を可能にした.声は,声の主を「見て」,深く愛した.故に声は声の主に忠実であろうとしたが,声の主が「見えなくなる」と,声は声の主を見捨てた.

 声の主が去った後,彼の声は世界の中で永遠に残響している.それはあの最初の声たち,ボアネルゲス的声が非常に大きかったからだった.

2013年12月17日火曜日

風土病(on twitter @rahumj)

 彼女はその土地のものを食べ,その土地を歩かなければならなかった.その土地の食べ物はひどくまずい上に,不衛生で食べるたびに彼女は吐き気を催した.また食べ物だけではなく,その地面も糞尿まみれで,ひどく不衛生だった.彼女は仕事から家に帰ると,毎日汚れたその足をきれいに洗っていた.

 しばらくすると彼女の「からだ」の表面に異変が起こった.アレルギーによる掻痒だった.彼女はそのひどいかゆみに悩まされ,夜も眠れぬほどだった.

 ところがさらにしばらくすると,彼女のその病気は自然治癒してしまった.彼女は大いに喜び神に感謝した.当初は吐き気を感じたその土地の食べ物にも慣れ,やがておいしく食することができるようになった.不衛生だと思っていた土にも慣れたのか,足を洗わなくても病気にはならなくなった.彼女は快適に毎日をすごし,仕事に精を出し,ぐっすりと眠ることができた.

 しかしそれこそが,彼女がいつの間にか感染した,その土地の風土病の末期症状であることに,彼女は気づくことができなかった.

 彼女と彼女の子供たちは,この風土病によって病死した.

4台のキャメラ(on twitter @rahumj)

 キャメラマンが監督に苦言を呈した「このシーンに4台のキャメラでは足りません.キャメラを増やしてください.」

 監督は答えた「ここには既に無数のキャメラがあると私が言ったとしても驚くに当たらない.今あるもので十分である.」

 後に公開されたその作品は,事実,無限と永遠を得た.

regime(on twitter @rahumj)

 それが国であっても,教会であっても,あらゆる regime は生命であり,ナマモノである.

 故に時が経てば,預言者は生命を携えて,その外部から闇へと派遣されるのだが,その「試み」に気づけない者は多い.

 彼は「災い」と見なされた.

2001: A Space Odyssey(on twitter @rahumj)

2001: A Space Odyssey (1968) :ベッドに横たわる,臨終間近いボーマン船長が,ずっと彼を導き養ってきた,永遠の絶対沈黙,黒いモノリスに向かって,手を伸ばす.

彼は最後の瞬間まで求め,そして生命を得た.

その長男(on twitter @rahumj)

 次男は父に泣きながら訴えた.「あなたをもう『父』とは呼べません.あなたと私がどれほど似ていないか,気づいたからです.私は実は捨て子だったのですね?あなたはそれを憐れに思われ,拾って育てられたのですね?感謝します.でもあなたを見れば見るほど,私の姿は惨めです.もう耐えられません.」

 そう言って彼が家を飛び出しそうとした時,長男が彼の前に立ちはだかって言った.「弟よ,私をご覧なさい.私の姿も父とは全く似ていない.むしろおまえのその惨めな姿にそっくりだ.しかし私は間違いなく,あの父の子だと言い切れる.おまえも私のような者なのだから,おまえも間違いなく私の父の子なのだ」

乾いた種(on twitter @rahumj)

主イエスの愛が,乾いた種の髄にまで染み渡っていく.

彼は種の乾きを喜ばれた.

呪う者,呪われる者(on twitter @rahumj)

 キリスト者から祈られるどころか,呪われるキリスト者.

 そのような現象自体が論理的にあり得ないと一笑に付したのは,自分の幼さのためだったのだろうか?

 それは「光の中に闇を見出した」のでは決してない.「闇の中に見出した光」を見つめていたため,いつの間にか周囲の闇が見えなくなっていたのだ.

2013年12月16日月曜日

銀幕(on twitter @rahumj)

 彼の「目の中のウロコ」は銀幕であった.彼は彼の内側で人工の光を発する映写機を回して,自分が監督した映画作品を銀幕に映し出し,それを堪能している.

 しかし停電が起こり,映写機が止まると同時に,彼は漆黒の闇に包まれた.恐れおののきながら,彼が光を求め祈ると,どこからともなく小さなともし火が現れた.

 彼は闇の中でそれを手に取り,上にかざして,あたりを見渡した.するとあの銀幕が,実は何者かによって,無数のウロコを貼り付けて作られたものであることがわかった.

 試しに彼が,そのうちの一枚はがしてみると,小さな穴があいた.彼は穴をのぞき込む.初めて見る外の世界.それは闇夜であった.

人生のシナリオと総合知(on twitter @rahumj)

神学の世界には「総合知に対立する博識」という格言がある。断片的な知識をいくらたくさん持っていても、それは叡智にならないということだ。断片的な知識をいかにつなげて「物語」にするかが、有識者の課題と私は考える。ここでもストーリーテラーとしての能力が必要となる.
佐藤優『人間の叡智』From Twitter 佐藤優BOT@satoumasaru_bot 
…と言うか,以前 tweet したように,物語のプロトタイプは,既に潜在意識下に準備されており,そこにパズルをはめ込むようにして,後から得られた情報を当てはめていくことで,すべて時間・空間において唯一の「自分だけの物語」が醸成されてくるのではなかろうか?

  つまり我々,「人生の主人公」は,既に存在していたシナリオに生かされているとも言えるし,同時に,そのシナリオを書いているとも言える.

 さらに言えば,その「物語のプロトタイプ」は,民族・宗教・地域などの様々な集団単位で共有されうるものでもあろう.

2013年12月15日日曜日

人によって「始められた宗教」(on twitter @rahumj)

 アメリカの新宗教サイエントロジーの創始者 L・ロン・ハバードの発言.
宗教か,精神医学の手法を発明することは,金儲けのための有力な方法だ
(Wikipediaより)
  人によって「始められた宗教」と,神によって「始まった宗教」の違い.

参考:サイエントロジーの有名人信者は以下の通り.
  • トム・クルーズ(映画俳優)
  • ジョン・トラボルタ(映画俳優)
  • チック・コリア(ジャズピアニスト)
  • ジェニファー・ロペス(歌手)

漁(on twitter @rahumj)

 漁師が大きな投網を投げると,警戒しながらおいしい撒き餌を食べていたたくさんの魚たちは,天から降ってくる恐るべき投網にみな気づいて,一目散に逃げ出した.

 漁師が網を引き上げてみると,そこには一匹の魚も入っていなかった.

 そこで漁師は考えた「この魚たちには投網はむいていない.時間はかかるが,竿釣りで一匹ずつ釣り上げよう.」

 それゆえ彼は,釣り竿とエサを準備しなければならない.

ホスピタリティ(on twitter @rahumj)

 ホスピタリティは,病院においても,教会においても必須かつ大切なこと.

 日経メディカル:
「ディズニーランドのようなサービス精神をもって病理診断書を作成する」

2013年12月12日木曜日

人生のシナリオとプロトタイプ(on twitter @rahumj)

 人生の主人公として生きている人間の,そのシナリオにはプロトタイプがある.そのプロトタイプは彼にとって,いわば聖なるシナリオ(聖典・原典)であるため,それに対する攻撃・歪曲・侮辱に対して,彼は義憤を感じてしまうのだが,通常,そのプロトタイプは潜在意識下にあるため,彼には己にわき上がる義憤が理解できない.

参考ページ:キアヌ主演「47RONIN」 記録的大コケもプロは高評価

ブレークスルー(on twitter @rahumj)

 自分の作品に囲まれて,身動きが出来なくなったとき,それを粉々に破壊する勇気が要求される.

たこ八郎の名言に酔う(on twitter @rahumj)

 先ほどTVであき竹城が話題に上った.自分はそれで「たこ八郎」のことを思い出した.そして久しぶりに,彼の名言「迷惑かけてありがとう」の底知れぬ深みに酔いしれそうになった.

 「迷惑かけて」から「ありがとう」に至るまでに凝縮された時間の濃度.そして「迷惑かけてくれてありがとう」まで.

分光(on twitter @rahumj)

 この世界において,神の栄光は自然分光され,ある連続性を持つ,しかし互いに独立したスペクトラムを表した.それは実に豊かな色彩の諧調であった.

2013年12月11日水曜日

あの数学者のために祈る(on twitter @rahumj)

 自分の部屋は2階なのだが,1階から階段伝いに「トポロジー …云々」というTVの音声が聞こえてきた.「TVでトポロジーとはいったい何事か」と,急いで階下に下ってみた.

 年老いた睡眠障害の母が見ていたその番組は,NHKスペシャル 2007年10月22日放送の『100年の難問はなぜ解けたのか ~天才数学者 失踪の謎~』の再放送だった.それは1904年以来数学上の大問題となっていた ポアンカレ予想 の証明に関する一般向けの番組だった.

 それはちょうど,アメリカの壇上における ポアンカレ予想 の証明解説のシーンだった.壇上に立った証明者である ロシアの数学者グリゴリー・ペレルマン(1966-,フィールズ賞を受賞したが辞退)の採用したそのアプローチは全く驚くべきものであった.彼は純粋数学の証明において,物理学を用いたのだ.

 全くの理性・論理の産物であるはずの数学上の問題が,物理世界の法則の援用を受けて証明されるという驚異.物理学の道具であるはずの数学が,数学の道具となり得るという事実は,何を意味するのか?

 その3次元ポアンカレ予想の証明により,閉じた3次元宇宙(3次元閉多様体)の形は,球体を含むいくつかのパターン(8つ以内の幾何構造)に分類されることになる.ただし宇宙マイクロ波背景放射の研究成果から,「宇宙は閉じておらず平坦である」とする説が現在有力とのことだ.

 自分が,今この時間(注:2013/12/10 3:36AM)にこの ポアンカレ予想 に関するツイートを,いわば強行しているのは,先ほど受けた知的衝撃から来るものでは,実はない.あまりにも悲しかったからだ.

 ポアンカレ予想 の偉大な証明者であるペレルマン のその後を知ったとき,自分は,あの無限を数えた数学者カントールの悲劇的な生涯を思い出したのだった.その信仰(ルーテル)ゆえに無限を研究し,それ故に攻撃され,また証明に裏切られて,ついには精神病院で息を引き取ったカントール.

 ポアンカレ予想の証明者ペレルマンは,誉れ高きフィールズ賞を辞退し,クレイ数学研究所が懸けていた証明懸賞金1億円の受領も拒否し,アカデミズムの世界から完全に引退したのみならず,いわゆる「引きこもり」となってしまった.現在は母の年金で生活しているという.

 番組後半では,ペレルマン の師に当たる人物が,彼の先行きを案じ,懸命の接触を試みるというドキュメンタリーとなっている.だがその接触はペレルマン 自身によって拒絶されてしまった.

 あの不完全性定理ゲーデル は,精神を病んだ上で餓死.アーベル群アーベル は,論文が査読されず放置され,評価されぬまま肺結核で死去.26歳.ガロア理論ガロア は,逮捕投獄を経験した上,出所直後の決闘で負傷し,放置されて20歳で死んだ.

 数学者なら必然的に悲劇的人生を歩むというわけでは決してないが,この数学史に名を残し,人類に貢献したと言っても過言ではないペレルマンの現状には胸が締め付けられる思いだ.Wikipediaの彼の写真を見ていると,どことなく幼さと純粋さがにじみ出ており,涙を誘う.

 だから今から自分は,ペレルマンさん,あなたのために祈ります.ただ祈ります…

 …2つだけ付け加えておこうと思う.1つは,ペレルマンの用いた物理学援用の証明方法がポアンカレ予想の唯一の証明であるとは証明されていないこと.つまり純粋数学内での証明の可能性が残されていると言うこと.

 もう一つは,チューリングマシンで数学者としてだけで無く,計算機科学分野でも著名なチューリングが,同性愛の罪で逮捕され,その後青酸カリで自殺したこと.

補足情報:


 この番組の内容は文庫本になっています.内容は番組とほぼ同じようですので,番組を見た方は買う必要は無いかもしれません.

春日 真人(NHKディレクター)

100年の難問はなぜ解けたのか―天才数学者の光と影」 (新潮文庫, 2011年)

追記(2013/12/24):

 英国時間2013年12月24日、英国政府は,アラン・チューリングに与えた死後恩赦を正式に確定した.

2013年12月9日月曜日

魔術師の時代(on twitter @rahumj)

 魔術師による超自然的「力」の顕現を神の証とみなし,その力に憧れるとともに,彼を神の代理人として崇拝する者は,現代の日本においても多い.

 しかしキリスト教は,原始教会の時代から,この神の代理人を僭称する魔術師たちと戦ってきた.

2013年12月8日日曜日

死を呪う(on twitter @rahumj)

 私はこの世に「死」が侵入したことをたいへん残念に思う.「死」はこの世にふさわしくない.「死」によって時間は切り刻まれることとなった.

 この世は生命に完全に満たされ,さらに外へあふれ出でるはずだったのに,「死」はこの世の底に穴が穿ち,そこから生命は奈落の底へとこぼれ落ちていった.

2013年12月7日土曜日

不安と平安(on twitter @rahumj)

「自分の生きているこの場所(世界)は,いかなる場所であるのか?」

 この知識への強い欲求はしばしば,自己の生存に関する不安に依拠していると思われる.

 現代人の特徴と呼ばれて久しい「不安」を持たない人間,すなわち平安に満たされて生きている人間は,この世界よりも,己にもたらされた平安の源泉に関する知識に深い関心を持つ.

 ゆえに平安は,良い意味でも悪い意味でも,人を世界から乖離させる両刃の刃でもある.逆に不安は,人の目を自分のいる世界へと向かわせるポジティブな側面を持つ.

 厭世的平安に甘んずることを戒め,この猥雑な世界の直中において,祈りと不安と共に「生きる」勇気を持つこと.

「火垂るの墓」と「砂の器」(on twitter @rahumj)

 高畑勲監督「火垂るの墓」の兄と妹だけの生活シーンと,野村芳太郎監督「砂の器」の親子の放浪シーンがダブる.

存在と世界(on twitter @rahumj)

 あらゆるシステム(情報)は,その存在する世界において「永遠の存在」となるべく,自己のバリエーションを作り出し,それらをコピーする.コピーする理由は,時間経過とともに増大するエントロピーよる死を回避するため.バリエーションを作る理由はシステムを取り巻く環境変化による死を回避するため.

 最低限,現時点でシステムが存在するためには,現時点の環境(世界)に適応している必要があるが,その環境が永遠に変わらないという前提をシステムは持ってはいない.それゆえに,様々な環境に適応可能な様々なバリエーションを作り出すのであるが,通常,システムの創りだすバリエーションは環境の漸次的変化のみを前提として作られる.したがってバリエーションの偏差はそれほど大きくはなく,なおかつ,そのバリエーションの創出者とも乖離していない.これによりシステムの情報アイデンティティは保たれるのである.

 環境内のシステムの採用する「永遠の存在」への戦略は,環境も一種のシステムであることを前提としている.環境の変化がランダムではなく漸次的ならば,淘汰によって残存するバリエーションにもある方向付け(変化のベクトル)がなされるだろう.言い換えれば進化を方向づけるのは環境であるが,その外向きの進化の中で,個体の生存期間延長の模索(内向きの進化)も行われる.

 おそらくコピーにかかる莫大なエネルギーを考慮すると,細菌的に短時間にコピーを連続的に行うよりも,個体生存期間を適切に延長した方が(情報)生存率が良いためだろう.

 まとめるとシステムは,その存在する世界の2つの死の側面,時間(エントロピー)と空間(環境変化)の2つに対抗すべく,変化を意図する.


 つまり進化は(生命的)システムの必然であるが,それはシステム内に複雑化をもたらす.その複雑化は,一種の環境の写像であると思われる.システムは環境の鏡とも言えるのである.

 この複雑化の過程が進むと.システムの内部はいわば,「環境化」される.システム内が一種の世界となり,そのシステムとは異なる情報アイデンティティを持つ存在(システム)に場を提供する.


 その内的世界に生まれたシステムは,やはり「永遠の存在」を志向する.おそらく内的世界を提供する外側のシステムが,その存在の有用性を認知するのであれば,内側に存在するシステムと共存できるだろう.腸内有用細菌叢のように.しかしこの共存認可には条件がある.外側のシステムの情報アイデンティティを破壊しないということである.

 この外側のシステムの情報アイデンティティの破壊は,いくつかのケースが考えられる.ひとつは内的システムの巨大化・専有化.人体で言えば内蔵肥大.もう一つは内的システムの反逆.人体で言えばガン.この2つの内的システムはいずれも,その最終局面において,世界(人体)とともに死ぬ.

 環境と環境内システムがこのような死に至らないための「知恵」は,通常はそれぞれのシステムに獲得されている.それは「対話」である.環境とその内側のシステムは,共通言語を持ち,対話することができる.お互いの情報アイデンティティを維持しつつ,共存するために対話を行うのである.

 逆に言えば,上述の内蔵肥大やガンは,環境(周囲の細胞等)との対話を行ってはいない.特にガンは己の生存のために,環境との対話(おそらくアポトーシス命令?)を無視し,生に執着するあまり,環境を自己に隷属すべき敵であるとみなし,専制的にコントロールし,征服するという手法を取る.

 しかしガンはその環境征服が完了し,己の世界帝国が完成すると同時に,世界とともに滅びてしまう.「永遠の存在」となるべく,死から逃れようとしたガンのとった手法は,結局は自らの死を引き寄せる結果となってしまった.この手法をガンが今後も維持していくならば,ガンの進化の方向は感染であろう.

 おそらく遺伝子は一種の図書館である.その個体や種に関する情報のみならず,様々な過去の進化過程におけるobsoleteな情報や,不要で不活性となっている情報が眠っているだろう.ガンがそれらの書物を開いて,生存のための進化学習をする可能性はある.

 ところがガン自身には他者との対話性がなく,交雑もしない(無性的)上に,生に向かって狂奔しており,短命であるため,仮に知識を獲得したとしても,それを次の世代に残すことができない.ただ天才的な短期学習をしたガンが,人体の中でおしゃべりなウイルスと接触し,そそのかされて対話するとなると,話は違ってくるのかもしれない.

 いずれにしても,世界がシステムであるとすれば,その世界内に存在するシステムは,互いの情報アイデンティティを維持しつつ共存するために,世界と対話し,交渉しなければならない.ガンは世界に対して無知だった.世界の王になれば「永遠の存在」になると妄想していたのだ.

 ガンは世界(人体)を知らないが,世界はガンを知っている.そのためTNFシグナルによるアポトーシス発動やNK細胞等の数層に渡る免疫防御システムを内包しているのだろう.ただガンが免疫に対して擬態することを考えると,ガンには少なくともある程度の世界に対する知識はあるのかもしれない.

 おそらく世界(人体)との対話性を獲得したガンは,その情報アイデンティティを最も長く維持する方法として,「小さな独立王国」を世界の中で建国し,領土拡大路線を捨て去るだろう.場合によってはその対話の中で,ガンが世界のある一定の役割を担う可能性も否定出来ない.

 世界がシステムならば,その世界内のシステムは,世界内の他者(他のシステム)のみならず,世界そのものとも対話し,交渉しなければならない.そして「永遠の存在」を志向する世界内システムは,世界に対する「自己存在」の従属性を認めねば,その目的は達成することができない.

 ただもし仮に,世界内システムの情報アイデンティティが,その存在する世界の情報アイデンティティと一致した場合どうなるのか?存在する世界が異なるだけの,同一の情報を持つ2つのシステム(インスタンス).

 少なくとも世界システムに近づくに連れて,世界内の他者(他のシステム)から見たその世界内システムは,「透明」「無」に近づくのではないか?つまり背景にフェードアウトするように…

 さらにその世界と同一の情報アイデンティティを持つ世界内システムが,(事実にかかわらず)世界が「永遠に存在する」と想定した場合,そのシステムは「永遠の存在」となるという目標を,その世界内で達成したと認識するだろう.

 その認識を得た世界内システムは,一番最初に戻って,バリエーション作成,コピー作成,個体生存期間延長の模索,といった一切の生命的な活動,進化と生存の努力を放棄するだろう.

 もしそれだけならば,上述の状況における世界内システムは,他者からいわばミイラ,永遠の死体のように見える.ところが世界内システムがその中に存在し,identifyする世界もまたシステムであり,「永遠の存在」を志向し,なおかつ「生きている」のであれば,世界内システムは生きざるを得ない.

 つまり世界内システムは,世界の只中にいながら,「世界の外」に生きていることになる.それ故その生命活動は,「世界の外」におけるシステムと同様となり,世界内の他者の生命活動とは大きく異なる.そのような特殊な世界内システムの生存確率は,他の世界内システムよりも厳しくなるはずであり,時には死に向かって積極的に活動しているようにも見えるだろう.だた世界の外が世界の中に写像されているのであれば,写像の仕方にもよるものの,その類似性により生存は不可能ではないだろう.

 なお附言すれば,そのような「世界外に生きているような」世界内システムは,他者からは,「(半)透明」な存在,「無」的存在と認識されるだけでなく,その存在事実から「世界からの突出」としても認識されるであろう.

世界を一つの実体と一つの魂を備えた一つの生命だと常に見なせ.
—マルクス・アウレリウス, 『自省録』、第IV巻第40節

生のある場所(on twitter @rahumj)

自尊感情の極端な高さ,あるいは極端な低さは,共に人を死に近づける.自己の生は,自己とは違う他者と自己の間に存在するため.つまり自己の生は,意外にも自己の存在中心からずれた場所に存在する.

祝福(on twitter @rahumj)

祝福とは新たな生命が与えられることである.

その新たな生命は,それを受ける者の中に宿り生きるがそれは寄生ではない.なぜならその新たな生命は,その宿 主の生命に依存していないからである.むしろ宿主は,その新たな生命の生命力に依存して生きるように自己システムを変革する.

ミトコンドリア的.

情報とノイズ(on twitter @rahumj)

情報が存在(図)ならば,おそらくノイズは空間(場,地)的にそれを内包しているとみなしうる(反対もあるか?)が,ミクロの中にマクロを見,マクロの中 にミクロを見る時,その内包関係がその起点から幾重にも外向き・内向きにnestしている可能性がある.

インターネットを飛び交うパケットの構造.

参考ページ:

連鎖に出くわす(on twitter @rahumj)

昨日,教会の読書会で討論した「正統主義」の話を,本日,全く教会と関係のない場所で,ノンクリスチャンの人と話し合うことになると思いもよらなかった.

乞食の告白(on twitter @rahumj)

「これは私の肉です.これを食べなさい」といって,飢えた乞食である彼にイエスがパンを差し出した時,彼は自分の裸身をさらけ出して言った.

「とんでもありません.まずくて,硬くて,わずかしかありませんが,どうか私の肉をお食べください.あなたに食べていただければ,私はそれだけで満足です.」

割礼(on twitter @rahumj)

肉における割礼は,人を人に対して男にする.霊における割礼は,人を神に対して女にする.

問いかけ(on twitter @rahumj)

問われた者は問いに集中し,問うた者を忘却する.しかし時に問う者は,問う者の存在そのものについて相手に問うために,全く関係のない内容の設問することがある.

問いは,問う者との関係性の中に存在する.

原罪のからし種(on twitter @rahumj)

 原罪のからし種は,自我の確立とともに芽吹いていき,自我に根をはり広げ,それに甘いまやかしの養分を与えながら,やがて人を支配下におき,悪の華を咲かせる.

 その過程があまりにも自然であり,懐柔的であるため,人は自力でその支配に気づくのは難しい.

 それ故に罪の弁別閾を下げ,その Sensitivity の gain を上げておく必要があるのだが,それは同時に,罪人としての苦しみを増大させる.しかしそれは産みの苦しみでもあり,人を第2の誕生へと導く.

神学と言語学(on twitter @rahumj)

神が言(logos)であるのであれば,言語学や論理学は一種の神学なのか?

 言語学のドグマである 普遍文法 (UG)の否定的証拠とされるアマゾンの種族「ピダハン」.その未開人の伝道と言語研究のために,家族でその地に移り住んだ言語学者の伝道師は,彼らのその言語の特異性に驚愕する.やがて伝道は失敗に終わり,彼は神を捨て無神論者になっていく.

参考文献: ダニエル・L・エヴェレット 『ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観』

2013年11月25日月曜日

生命との再会(収穫感謝祭2013)

本日は,教会で礼拝後に収穫感謝祭があった.自分は出席するつもりはなかったのだが,牧師先生が誘ってくださったので,どんなものかと出席することにした.自分はこの教会の教会員ではないのだが,将来的にはここに転会しようと思っている.牧師先生にもそのことは伝えてあるので,おそらく先生が交わりの中に積極的に入るように促してくださったのだろう.

 礼拝堂に子どもたちが集まった.果物の乗った盆が聖餐台の上に運びこまれ,牧師先生が聖書朗読(ヨハネ福音書),果物を示しながら子供向けの易しい説教,そして小さな祈りと続いた.椅子に座った子どもたちの足が床につかないので,みんなでぶらぶらと揺らしているところが,とても可愛らしかった.

 そのあと,子どもたちが楽しみにしていた昼食の時間となった.本日子どもたちが作るのは,「たこ焼き」「お好み焼き」「焼きそば」だ.誰が作ったのか,手作りのおにぎり(鮭のふりかけをまぶしたもの)は,ラップで巾着状に包まれていた.後で自分は,そのおにぎりを3個も頂いたのだが,その形がみんなドラクエのスライムそっくりで,頭が尖っていた.こんなおにぎりは初めて見た.自分は思わず微笑んでしまった.

 先生や兄弟たちの指示を受けながら,自分は食事の準備を手伝った.料理していた子供の中には,やけどをした子もいたようだったが,大したことはなさそうだった.とりあえず焼きそば以外の子供向けに作られた料理が完成すると,主賓である子どもたちが食べ始めた.次は大人向けの調理で残りを大人たちが仕上げていく.大人向けのたこ焼きとお好み焼きは紅しょうが入りだ.子供は,紅しょうがが苦手ということをすっかり忘れていた.そんな頃が自分にもあったはずなのに,思い出せない.紅しょうがを入れて焼くたこ焼きは,自分にとっては初めてだった.

 久々に食べる日本のジャンクフードは,意外なほどうまかった.特にお好み焼き.豚肉の甘みが程よく,お好みソースにあっていてたまらない.ちなみにたこ焼きの中身は,途中から予算の関係でちくわに変わっていた.そのハズレを引いた子供もいたようだった.自分は全部当たりだったので,ちょっと主賓に申し訳ない気がした.

 おなかがいっぱいになったところで,みんなで教会の近くにある小さな山の麓の公園に行った.天気は大変良く,またこの時分にしては暖かだった.自分は牧師先生と話をしながら,子供のころ数回だけ遊んだ経験のあるその公園へ向かった.

 公園はずいぶん様変わりしていた.いくつかの近代的な遊具があるのは当然のことだが,人工の滝が山の上の方から流れ落ちているのには驚いた.ちょっとした観光スポットのムードを漂わせていたその公園の中で,子どもたちは我々大人たちに見守られながら,くったくなく遊ぶ.やがて牧師先生の意見で,山の頂上まで登ることにした.高さは60mほどの山なので,園児たちにも容易に登ることができる.石の階段を登り頂上につくと子どもたちはさっそく遊びはじめた.台の上で体操を始めたり,秋の木漏れ日の中で,松葉ずもうをやってみたり,松ぼっくりをたくさん集めたり,変わった毒キノコ(?)を見つけたり…楽しそうに無邪気にはしゃいでいた.その一般の人にはありふれた光景が,子供のいない未婚の50代には,あまりにも美しく見えた.

 彼ら彼女らは,生きることが楽しくてたまらないのだろう.それはなぜなのか?ふと「この子らもまた,私と同じ罪人なのだろうか?」という疑問が頭をよぎった.その疑問はやがて自分の心の片隅に,薄いブルーの影に変わり,広がっていった.

「少なくとも,この邪気のないこの子らも,やがては大人になり,自分の罪の苦味を噛み締め,涙せねばならぬ」

それが人の宿命なのか.涙に似た,人への憐れみが,心の底から静かに湧き上がってくるのを感じた.

 紅葉,もう斜めに指している秋めく暖色の日差し,澄んだ山の空気に冴え渡るモズの鋭い鳴き声,飛行機が細い直線を微かに描いていくだけの,ただっぴろい単純な青空,子どもたちの単発的な歓声と無造作に駆けまわり交わるいくつもの足音,そのすべてが…いとおしく,そして神々しかった.

 下山.階段を降りている途中で,牧師先生が,手のひらいっぱいに抱えていた松ぼっくりを持って,私の方にやってきた.電話をかけたいので,松ぼっくりを預かってくれと言う.私は両の手のひらで小さな椀を形作った.その肌色の小さな椀の中に,先生の松ぼっくりが,それがまるで貴重な香油であるかのように,ゆっくりゆっくりコロコロと注がれていく.

 私は拝受したその松ぼっくりを覗きこんむ.そして,息を呑んだ.私は見たのだ.そのつめ込まれた種子の形状,繰り返しのパータンとバリエーション.永遠の生命への意志を結晶させた,乾いたこの種子の中に,神の数学的美意識は無限のパターンとなってミクロへマクロへと展開されている.そしてゲノムに組み込まれたそのプログラムは,リカーシブな自己参照関数によるムダのないシンプルな構造,無限のカノンであり,それゆえに遺伝子ストレージ消費に無駄はなく……

ああ,今,全宇宙は,私の手の中にある」 

 そうなのだ.生命なのだ.何よりも「生命」は尊い.それは神が他ならぬ「生命」であるからなんだ.もし宇宙にただの一つの生命もいなかったなら,その宇宙がどんなに雄大で美しく精緻で緻密であったとしても,それは「死の世界」でしかないんだ.そんなものよりも,ちっぽけな,たった一匹のアメーバのほうが,はるかに価値のある,途方も無い存在なのだ.それは生命が「神的」だからである.故に神は「生命」を愛す.そして人間は自分を含めて,皆,神の似姿であると言う.いったいなんという莫大な価値であろうか.なんと偉大な価値を私達は与えられているのだろうか.

 そこでめまいがして…立ち止まると,目の前には,更に傾いた午後の日差しが,名も知らぬ蔦植物の茂りが照らしていた.その蔦どもは,秋風にすっかり身体を預けて,楽しそうに右に左に揺れていた.先生は,もう先に行ってしまわれたようだ.

2013年11月14日木曜日

せいさん(on twitter @rahumj)

聖書を食いちぎっている獣の口から,したたり落ちているのは,イエスの尊い御血.

来訪(on twitter @rahumj)

主をたたえよ。主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒す(詩編 103:2-3)
壁を埋めつくす古い本.人工灯の薄暗がり.窓もない小さな密室の中で,エアコンはかすかな動作音をたてて,生暖かいその息を,我々二人のうなじに向かって吐き続けていた.

 忍び寄る闇の気配を感じながら二人は,光を求めて,言葉少なに話をする.そこに祈りの芳香は,止めどなく漂い続けた.

 そして突然の来訪. この詩編103:2-3は,何の前触れも無く,我ら二人の目の前に出現した.あなたは絶句し,私は慟哭した.なんということだ.なんということだ.

 そして今はわかる.二人をこの密室に招き,閉じ込めたのは彼であると.彼は壁を通り抜け,やってきて,予定していたとおり,我らの会話に加わった.そして我ら二人の灯心にともし火をともすと,来たとき同様,二人を残して壁を抜けてお帰りになった.それは,

 あの日のように.

 約束の通りに.
2013/11/13(水) 16:00~18:00
牧師室にて

関連聖句: その日,すなわち週の初めの日の夕方,弟子たちはユダヤ人を恐れて,自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた.そこへ,イエスが来て真ん中に立ち,「あなたがたに平和があるように」と言われた(ヨハネ20:19)

2013年11月9日土曜日

隣人(on twitter @rahumj)

 それは去る11月6日に起こった.

 86才になる母が,車いすに乗った自分の息子に,灯油をかけ,火を付けて殺した.介護疲れで無理心中しようとしたという.その悲劇が起こった場所は,自分のお気に入り,風の小道,あの浜辺の自転車道だった.

 あの浜辺の美しい風景と,そこで起こった子殺し,しかも焼殺という悲劇のあまりのギャップ.そしてもし自分がそこを通りかかっていたなら,助けることが出来たかもしれないというその思いの痛み.

 これが自分の生きている現実だ.平和な装いの裏側で,息づいている無限の悲惨,私の隣にたたずんでいる.

2013年11月6日水曜日

貧しさ(on twitter @rahumj)

 貧しさは,闇夜の中で輝く.その光に伴う慢性の疼痛は,決して病を意味しない.否,それは健常の証しである.

2013年11月5日火曜日

伝道者の「永遠の住まい」(主日聖餐礼拝,ルカ16・9)

そこで,わたしは言っておくが,不正にまみれた富で友達を作りなさい.そうしておけば,金がなくなったとき,あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる(ルカ16・9)
私の最近通い始めた教会は,長老派であるためか,説教は聖書の特定の場所を頭から順番にやっていく連続講解説教のパターンが多い. そのため本日は,先週・先々週と2回に分けて行われた「不正な管理人」のたとえに続いて,「律法と神の国」について説教が行われた.ただ自分自身,「不正な管理人」のたとえについて,まだ消化し切れていないので,先週に引き続き,「不正な管理人」の上記の聖句を取り上げてみた.

  上記の聖句も,おそらく一般の人には,受け入れがたい話なのかもしれない.特に「不正にまみれた富」にひっかかってしまうだろう.ちなみに上記は新共同訳だが,新改訳では,「不正の富」と訳されており,不正と富とが分かちがたく表現されている.「不正の富」とは,例えば「盗んだ金」のようなものなのだろうか?もしそうだとすれば,イエスは「盗んだ金は,仲間を作るために有効利用しろ」と言われているのだろうか?

 もともとルカ8・14やマタイ13・22にもあるように,新約聖書において「この世の富」は,人を惑わし,「実」の熟成を阻害するもの(茨)とされている.またルカ18・18の「金持ちの議員」においても,財産が神の国への入国の障害として語られている.つまり「この世の富」は,一般的な意味での 「不正(法律違反)」によって得られた富であろうと,正当な経済活動による富であろうと,信仰生活の妨げるものとみなされている.神の意向に逆らうことが「不正」であるならば,この世の富はすべて「不正の富」ということになる.ではなぜこの聖句において,「この世の富」という言葉ではなく,わざわざ「不正の富」という言葉が使われたのか?

 この「不正」,NSRV英語訳では dishonest ,ギリシア語 adikos (人物に使われ、「正しいことに違反する」)について,先週のブログ「『光の子』らの先へ」 では「律法違反」と仮定した.しかし一般的なこの「不正」の聖書解釈では,「道徳的な不正の意味ではなく,終末前の現世を表す術語で『この世』を意味する」とされている.「光の子」が終末論用語であると考えれば,この「不正=終末前の現世」と考えるのは,つじつまがあっている.ただ残念ながら,その根拠となっている文献を自分は知らない.

 おそらくイエスが「不正の富」という一種の終末論用語を用いたのは,前回のブログでも書いたとおり,弟子達,特に「光の子」らに対する警告のためだろう.前回のブログの中では,「光の子」らを,弟子達の中で,特に終末が明日にでも来ると想定しているグループとした.彼らは,すでにイエスへの信仰によって,自分たちは終末から完全に救われ,永遠の命を得て,神の国に入ることが出来ると考えた.そのため,現世の動向や非信徒に対して何の関心も持たず,排他的で内向きな選民思想の者達となった.彼らにとって,この世は嫌悪すべき「不正」そのものであったが,明日にでも訪れるであろう終末によって,それが神によって正しく裁かれることを期待していた.それゆえこの世のこと,現在のことは彼らにしてみれば,些末な小事であった.明日になれば,終末が来てすべてが終わってしまうのだから,今更何をしても無駄以外の何物でも無かったのだ.行為は救いとは関係が無く,信仰こそが救いをもたらすと彼らが信じていたことも,この世に対する関与の消極性を誘導したのだろう.そのような思想は,彼らの霊的成長を阻害することになるだけでなく,一種のカルト宗教の持つムードを漂わせていたに違いない.

 当然のことながら,彼らは「この世の富=不正の富」にも関心は無かった.彼らがその時,所持金を持っていたのか,すでにイエスの宗団にすべて喜捨していたのかはわからないが,その資金運用については関心は薄かったと考えられる.現在ある金で,その日の生活ができればそれでよいといった程度に考えていたのかもしれない.それゆえ 「この世の富=不正の富」をうまく利用するといった経済活動や,ましてやそれで「友」を作ることなど,考えても見なかったであろう.

 「不正な管理人」のたとえにおいて,イエスは「この世の子」らの,仲間に対する抜け目ないふるまいをほめられた.すなわち「この世の富=不正の富」に強い関心を持ち,自分の仲間の利益についても配慮しつつ,自分の利益を追求する抜け目なさ,その知恵・賢さを賞賛された.それは,この「この世の富=不正の富」への強い関心と忠実が,彼らに様々な人間関係における経験をさせ賢くし,彼らを仲間とうまく結びつけていたからだ(折り合いと共存の知恵).「この世の子」らは活発に活動し,自己の利益の追求のため,他者と積極的に関わっていく.これらの経済的活動は,「光の子」らからしてみれば,無駄であり,罪と不正にまみれた活動であり,嫌悪すべき俗事であると感じたであろう.しかしイエスは,その考えを叱責されたのだった.

 「光の子」らのクムラン宗団的内向性・排他性・厭世観は,イエスの望まれるところではなかった.イエスは,できるだけ多くの「この世の子」らを救おうとされたにもかかわらず,弟子(の一部)であった「光の子」らは,「この世の子」らと関わりを持とうとしなかった.つまり自分たちの「友(仲間)」を作るための伝道への意欲を持っていなかった.

 そこでイエスはまず,「この世の富=不正の富」が神から貸し与えられた富,つまり「他人の富」であると示された.「不正な管理人」のたとえでわかるとおり,その富の管理人は,主人(神)の意向にしたがって,富を賢く運用する義務が管理人(弟子)にある.

 次にイエスは,その神から貸し与えられた「この世の富=不正の富」の賢い運用方法として,自分のために「友」を作る活動,すなわち伝道をせよと命じられた.つまりイエスは「光の子」らに対して,自分たちの救いばかりではなく,宗団の外にいる非信徒の救いにも関心を持ち,彼らが嫌悪していた「この世の富=不正の富」を積極的に運用して伝道を行うように促した.しかもイエスはそれが,彼ら自身の利益となると説明された.

  イエスはそのようにして伝道をする理由として,「金がなくなったときに,永遠の住まいにむかい入れてもらえる」からだと彼らに教えられた.ここで注目しなければならないのは,「永遠の住まい」という言葉である.この言葉とほぼ同じ言葉「永遠の住みか」は,コリントII5・1に
人の手で造られたものではない天にある永遠の住みか
として登場する.

 通常,この世の友は「永遠の住まい」など与えはしない.この世の住まいである限り,一時的な仮の宿であり,それが永遠である事はあり得ない.とすると「永遠の住まい」が意味するのは,「神の国」ということになる.

 もしこの「神の国」が地上のものではなく,天上の世界にあるならば,「金がなくなったとき」とは,金銭を含めたこの世の所有物の一切から離脱する「死んだとき」ということになる.しかし「光の子」らはイエスへの信仰によって,自分たちはすでに救われていると考えていた.つまり終末の後に,彼らは神の国に必ず入れると信じていた.とすると仮に「永遠の住まいにむかい入れてもらえる」事が,死後の「神の国に入ること」を意味するならば,それは彼らに対する伝道の動機づけとはなり得ない.また伝道という行為が義認されて,神の国に入るとするのであれば,そもそも「信仰による義認」と言う考えに反する.となると伝道行為に対する報いとして,「(天上の)神の国にむかい入れてもらえる」ということになるが,自分にはその「むかい入れる」がイメージできない.

 仮に「金がなくなったとき」が,比喩ではなく,実際に所持金が底をついたときとするならば,「永遠の住まい」は,「地上における神の国」を意味するものと思われる.「地上における神の国」とは,神の国の前味であり,人間の社会の一部である.これは具体的には「目に見える教会」と「目に見えない教会」の2つに分かれる.前者は具体的な組織であり,教会政治機構を持つ団体である.後者は具体的な組織を持たず,キリスト者同志の友愛的関係(交わり)を意味する.

 ここである仮定の話をしてみたい.「光の子」らが,イエスのグループを離れて,異教徒の地へ伝道旅行に旅立ったとする.彼らは出発時に,伝道費用として「この世の富=不正の富」である金銭が与えられた.彼らはその金銭を効率よく,賢く用いる必要があった.そうしなければ伝道旅行は,たちまち頓挫してしまうだろう.

 しかし旅行を続ける内に与えられた伝道資金は,いつかは底をつく.そうなってしまえば,もはや彼らには伝道を続ける手段はなくなる.それどころか彼ら自身の死活問題にすら関わってくる.しかしその時までに,彼らの伝道がある程度成功していれば,彼らが伝道した者達である「友」は,窮地に陥った伝道者たちを喜んで迎え入れ,衣食住を与え,彼らの伝道継続を支援してくれるだろう.「光の子」らは,「友」の間,すなわち地上における永遠の住まいである「目に見えない教会」に生きていくことが出来るわけである.また彼らがその「友」の間に定住することができれば,そこに教会(会堂ではなく組織)を作り,その群れと暮らすことになるのかもしれない.その場合,「永遠の住まい」とは,「地上の神の国」としての「目に見える教会」を意味することになるだろう.

 では,もし伝道資金がなくなったにもかかわらず,伝道に失敗し,「友」を作ることが出来なかった場合はどうなるのか?

 その答えこそが,この「不正な管理人」のたとえの直前に配置された「放蕩息子」のたとえである.放蕩息子は,父から財産を分けてもらったが,遠い国で放蕩して使い果たしてしまったのであった.彼には「賢さ」がなかったのだ.その結果,彼は食うことすら出来なくなってしまったのに,父の家には帰ろうとはしなかった.それは伝道資金を渡され開拓伝道へと旅立ったものの,異邦人の地で伝道に失敗し,資金を使い果たして無一文となり,途方に暮れ,打ちのめされている伝道者の気持ちに等しい.その伝道者は,もはや「神を父と呼ぶ資格はない」とまで考え,自分を追い詰めていたかもしれない.そんな絶望の直中にいる彼には一つの危険な選択肢があった.この異教の地で棄教し,異邦人となって生きていくことだ.たしかにここで棄教すれば,自分を神の教えに反する異邦人の生活スタイルに合わせることにより,そこで生物学的に生きていけるかもしれない.

 しかしご存じの通り,放蕩息子は異邦人となって,父を捨てて,そこで生きていくことよりも,故郷に帰り,そこで父の僕として生きていくことを選んだ.そして長く過酷な帰省の旅へと出たのである.そうなのだ.失敗した伝道者も故郷に,父のもとに帰るべきなのだ.戻った彼を故郷がどのように出迎えるべきかを,この「放蕩息子」のたとえは教えてくれてもいる.
 
 ただし「永遠の住まい」や「放蕩息子」を伝道と関係づけた解釈には一つ問題がある.それは,イエスが基本的に金銭(財布)を含め,何も持たずに伝道せよと言われている(ルカ10・4等)ことと矛盾するからだ.それは金銭に頼ることなく,ただ神のみを信頼して伝道せよと言うことなのだろうが,これは仏教の托鉢僧と同様に,伝道というよりも,一種の厳しい修練であろう.もしそうであれば,通常の伝道目的の旅行であれば,ある程度の資金がイエスの宗団(教会)から提供されていた可能性は十分あるだろう.パウロは伝道旅行中に資金を稼ぐために働いていたようだが,おそらくある程度の旅行資金はもらっていたと想像する.

 最後に一つ疑問が残る.金がなくならなければ,伝道者は「永遠の住まい」に入ることはできないのだろうか? 確かに伝道者に金がある限り,それはある種の(茨の)壁を,周囲の人々や「友」との間に築いてしまうだろう.それは,伝道者にとって「永遠の住まい」の前に立ちはだかる壁である.なぜなら伝道者が資金を所有していた場合,「彼らは神よりも自分たちの金に頼って生きており,神のみに頼った生き方をしていない」と周囲の人々に思わせてしまうからだ.だからこそイエスは,72人の修練的伝道に際し,財布無しで出発させたのであった.伝道者が金を蓄えている限り,周囲の非信徒のみならず,伝道した「友」すらも,伝道者を見習い,神よりも金をあてにすることになるだろう.さらに伝道者と伝道された「友」との間には,どこかよそよそしい風が吹くことになるだろう.伝道者の経済的サポートに関しても,渋る「友」がいても不思議ではない.ゆえに,伝道者が「永遠の住まいに迎え入れられる」ためには,彼に何の資金も所有物もなくなること,逆に言えば,隣人の愛によって衣食住や伝道生活がまかなわれることが必要となるのである.

2013年10月29日火曜日

2013年10月28日月曜日

深淵(on twitter @rahumj)

聖書の行間に神が配置された,無限の深淵をじっと見つめる.

「光の子」らの先へ(ルカ16・8,主日礼拝)

この世の子らは,自分の仲間に対して,光の子らよりも賢く振る舞っている(ルカ16・8)
本日の主日礼拝の説教は,先週に引き続いて「不正な管理人」のたとえについてであった.本日の説教では,このたとえの最後の部分「神と富とに仕えることはできない」を扱ったのだが,このたとえについては,その一節一節についてじっくり考えてみたいので,今回は前回の続きを書こうと思う.

 前回のブログ『すばらしい「不正」』では,不正な管理人が,債務者・主人・管理人のすべてに喜びを与えた「不正(律法違反)」について考えてみた.その時に,上記の聖句については触れなかったので,ここで触れてみたいと思う.

 この聖句で気になるのは,まず「光の子」という特殊な表現だ.「光の子」という表現は,新約において,このルカ16・8,テサロニケI 5:5,エペソ5・8,ヨハネ12・36だけに出てくる.知っている方も多いと思うが,「光の子」は死海文書の「戦いの巻物」中に出てくる表現であり,最終戦争において勝利する者達のことである.おそらく,クムラン宗団やエッセネ派の影響を受けていた原始教会において用いられていた終末論用語と推測される.死海文書によれば,この「光の子」らの敵は「闇の子」であり,最終戦争において「闇の子」は滅ぼされることになっている.しかしおもしろいことに,ここで「光の子」らに対比される者達は,「闇の子」ではなく「この世の子」である.

 最終戦争の後に,「光の子」らが「信仰により救われた者達」,「闇の子」らが「信仰を拒否して滅ぼされた者達」となるのであれば,その最終戦争が起こっていない時点での「この世の子」らは,「現在救われてはいないが,救われる可能性が残されている者達」,すなわち「(完全な)闇の子でも光の子でもない者達」を言い表していると考えられる.

 さて聖句では,その「この世の子」らが,ある種の賢さ,すなわち自分の仲間に対する賢さにおいて,「光の子」らを上回っていると主張している.「不正な管理人」のたとえでは,管理人の不正な「抜け目ないやり方」を主人にほめられたのだが,それが「賢さ」を意味するとすれば,「この世の子」らの賢さについても,イエスは評価をされていることになる.ではなぜ「この世の子」らの賢さをイエスは評価されているのか?

 「この世の子」らは当然のことながら,この世に生きている.彼らには真の信仰がなく,彼らの思考パターンは,基本的には経済学的(Give & Take)である.この世に生きる彼らの人生の目標は,この世における自己の利潤追求(この世の富)である.ここでは便宜上,「利潤」と言ったが,その中には財産だけではなく,「権力」「名誉」等も含まれている.したがって「利潤」を「快楽」と言い換えても良いだろう.この世の富(財産,地位,権力,名誉等)は快楽を生み出すがゆえに,それを追求するわけだ.当然彼らの関心は,この世に存在する自己の所有する富,あるいは自己所有の可能な他者の富である.他者所有の富は,基本的には,自己所有可能な富と考えていいだろう.

 「この世の子」らの利潤追求行為(経済行為)は,この世の他者との交流や戦いにおいて成り立っている.特に自分に利益をもたらす仲間(味方)に対して行為者は,うまく折り合いを付けて,共存を探りつつ,自己の利益を追求していかなければならない.「この世の子」らの知恵は,その利潤追求行為の一環として駆動されている.この利潤追求行為の経験によって得られ,蓄積された知識こそが,彼らの「賢さ」である.その賢さの中に,「不正(律法違反)」に関するテクニックが含まれるのは言うまでも無い.この世に生きる彼らにとって,律法遵守はさほど重要なことではない.イエスは,彼らの賢さの中でも,「自分の仲間に対する賢さ(折り合いと共存の知恵)」をほめ,評価したのだった.これに対して「光の子」らはどうか?

 「光の子(救われた者)」らの関心の対象は,この世に存在しない.彼らの関心は,終末と終末時の自己の「救い」にある.信仰によって究極の目標を得たと信じた彼らには,「この世の子」らのように,富を追求する意欲も無く,神とのネゴシエーション(取りなし)に悩んであれこれ知恵を絞る必要も無い.それゆえ彼らは経験を積み重ねることもないため,知識も増えてはいかない.つまり「光の子」らにおいて,「賢さ」はその進歩を停止している.それに対して「この世の子」らは,この世に対して貪欲であり,自己の利潤・快楽の追求を止めることはない.故に彼らのその賢さや知識は増すばかりである.

 さてそれではイエスがなぜ,終末論用語である「光の子」と言う表現を,わざわざここで用いられたのか?

 ご存じの通り,この聖句はファリサイ派や律法学者だけではなく,弟子達,すなわち信徒に向けられたものでもある.終末論用語をイエスが用いた理由は,おそらく,新約の他の部分も指摘しているとおり,信徒の中に,終末が明日にでもやってくると信じ,その時の「救い」以外に,関心を持つことのできない者がいたからだろう.

 「救い」をあまりにも重視しすぎた彼らは,入信によりそれを得て,心の底から安堵したことだろう.入信により,究極の目標を達成してしまった彼らの中には,「自分は救われ,明日には世界が滅ぶのだから,もう何もしなくてもいい.何をやっても無駄だ.」と考える者も出てきたのだろう.またそのような考えを持つ者の中には,「この世の子ら」に対して優越感・選民意識を持つと同時に,クムラン宗団がそうであったように,「この世の子」らの接近に対し排他的な態度に出ていた者,あるいはグループも存在していたのかもしれない.クムラン宗団が消滅したように,そのような考えを持ってしまった信徒達が,その後,転落していったことは想像に難くない.つまり「光の子」と言う表現は,信徒の中の堕落してしまった早期終末論者を批判するために,イエスが用いられたと考えられる.彼らは「救い」の心地よさに眠ってしまったのである.それゆえ神の呼びかけを聞くことができない.

 「この世の子」らは,限りなく「闇の子」らに近い.しかし,彼らには「光の子(救われた者)」となる可能性が残されている.そして彼らが回心し,信仰により救われた後,「救い」のみに満足することのない彼らの持つ底なしの欲望の鉾先が,「この世の富」から神へと,「天の富」へと方向転換するのであれば,彼らは神のみこころを貪欲に求め,神の呼びかけに応答し,活発な活動を精力的に行うであろう.その時,彼らが「この世の子」らとして生きていた時に得た,「不正」をも含む知識や経験,すなわち「賢さ」は大いに生かされることになる.

 管理人が「不正」によって友と生活を得たように,彼らも友と生活を得るであろう.こうして「放蕩息子」のたとえと同様,後の者は先になり,彼らは「光の子」らではなく,キリスト者となる.

2013年10月26日土曜日

解放(on twitter @rahumj)

 自己の無力を見出した者は,「力」の呪いから解き放たれるであろう.彼にはもはや,作用点がない.

2013年10月21日月曜日

すばらしい「不正」(ルカ16.8,主日礼拝)

主人は,この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた(ルカ16・8)
本日の説教は「不正な管理人」のたとえであった.先生のおっしゃるとおり,このたとえの第一印象は,「なぜこのような悪い人間が賞賛されるのか?」という一種の拒絶感のようなものだろう.もちろん,イエスはその拒絶感が起こることを,むしろ期待して,このたとえ話をされたに違いない.その「拒絶感・違和感」が,実は自分の認識の限界を示していることに気づいたとき,人は成長できるのだろう.

 特にこのたとえは,イエスの弟子達のためにも語られた(ルカ16・1).すなわち未信者や信仰の初心者ではなく,ファリサイ派や律法学者などをも含む,ユダヤ教・キリスト教信仰のレベルの高い者に対するたとえ話となっている.したがって,一般大衆的常識では歯が立たないが,信仰の深い者には理解できるように作られている.そういう意味で,これは禅の公案にも似ていると言えるだろう.

 管理人は確かに文書偽造を行った.これは一般常識からいっても,当時の律法においても犯罪であろう.ところが二重の被害者とも言える「ある金持ち」は,彼の「抜け目ないやり方」に対して,腹を立てるどころか彼をほめた.なぜ,二重に被害を受けた者が,その加害者(のやり方)をほめ,何よりも先にその罪に対して怒りを発しないのか?

 ここで管理人の罪について,明らかにしておこう.まず「主人の財産の無駄遣い(ルカ16・1)」がそもそもの発端であった.ただし注意したいのは,これが告げ口であったことだ.主人自身が,直接無駄遣いを確認したわけではなく,間接的にその密告(証言)を聞いただけである.それだけで管理人を即,解雇するのはなかなか考えにくい.証言ならばやはり,二人以上の証言が欲しいところである.

 にもかかわらず主人が,解雇を決定したと言うことは,その証言を裏付ける証拠が,同時に提出されている可能性を考えておく必要があるだろう.主人は会計報告を管理人に要求しているが,これは職務引き継ぎのためであり,彼の無駄遣いの証拠を追求するためではないとするのが一般的な解釈のようだ.とするとやはり主人は,管理人の無駄遣いを確信するに至る確かな情報なり,証拠なりを持っていたことになるだろう.また管理人は,主人の解雇通告に対して,何ら反論・抗議をしていないようなので,「無駄遣い」をしていた事実を主人の前で認めたのかもしれない.しかしその無駄遣いの内容は,いったいどのようなものだったのだろうか?

 少なくともその「無駄遣い」によって,彼が私腹を肥やしたと思わせるような表現は,ここにはない.彼が長年にわたって私腹を肥やしていたのなら,仮に首になってもその金で主人のマネをして,商売を始めることはできたことだろう.しかしおもしろいことに, 彼は解雇されたとたんに,乞食か,肉体労働か,といった誰にでもできる仕事でなければ食べていくことができないと考えている.

 つまり彼には全く私財がない上に,自活能力もないと自認していると考えられるのだ.賢い管理人には,私腹を密かに肥やすチャンスはいくらでもあったはずだ.しかし彼はそれをしなかった.彼がしたのは「無駄遣い」である.

 管理者としての自信が以前の彼にはあったのかもしれないが,今回の無駄遣い騒動でその自信も失われたのだろう.資産も自活能力もない彼に残されたものは,生存に対する絶望と,わずかばかりのプライド,すなわち「物乞いは恥ずかしい(ルカ16・3)」だった.

 こうして考えてみると,無駄遣いが実は,彼の過失もしくは管理者能力不足のためであり,彼は彼なりに,まじめに管理業務をしていた可能性も否定できないのである.もし仮に管理者能力不足の問題であれば,それは任命責任が主人にある.つまり主人が管理者能力の査定を誤ったと言うことになるため,彼の罪は問われないだろう.

 ただしこの管理人が後に,物乞いや肉体労働者にならないために,文書偽造を思いつきそれを実行したことから,彼の倫理観において,律法遵守の精神に欠けていたことはほぼ明らかであり,彼の無駄遣いが,彼の職務怠慢によるものである可能性もある.律法に対する罪人とは,律法を越えて行動する者のことである.

 ではここで,無駄遣いの原因の仮説をまとめておこう.
  1. 管理人の能力不足説
  2. 管理人の職務怠慢説
  3. 管理人の過失説
まず能力不足説についてだが,後に考察する証文偽造の巧妙なやり方から見て,彼は相当に賢い人間だったに違いない.そしてその賢さ・能力を主人は見抜いていた.ゆえに主人は,彼に全財産を管理させたのだろう.したがって,この説には説得力がない.

 職務怠慢説については,前述の通り,彼は律法遵守よりも,自分が物乞いや肉体労働者にならないことを選択したこと,すなわち自己の利益を律法よりも重視したことから,この説が事実であった可能性はある.ただ彼がそれだけの資産を運用しながら,私腹を肥やしていなかった事実は,当時の収税人やローマ兵に比べて,かなり高い倫理観を示しているように思える.それだけの誘惑に打ち勝てる者が,職務怠慢であったとは考えにくい.

 となると過失説は,かなり有力になってくる.すなわち管理職を忠実に行っていたのだが,見落としか何かがあり,無駄遣いとなってしまった.仮にこの説をとるとすると,この賢い管理人の見落としとは何だったのだろうか?

 一つだけ言えることは,この管理人の管理には,確かに問題点があった.それは告げ口をされた事実からはっきりしている. おそらく彼は管理職に忠実すぎたために,雇い人や債務者を苦しめていたのだ.彼には多くの敵がいたにちがいない.そして隙あらば,彼を失脚させようと機会を狙っていた者も多かったと思われる.もし彼が職務に忠実ではなく,私腹を肥やすために,賄賂を受け取って証文の書き換えを行ったり,借金の取り立てを面倒に思い,厳しい取り立てを雇い人にさせたりしなかったら,敵は少なかっただろう.彼の倫理観の高さは,彼が解雇されるまで,文書偽造のような犯罪を思いつかなかったことでも証明される.

 彼の職務に対する忠実さが多くの敵を作ることになり,結果,彼は「刺された」のだった.主人が告げ口を聞いただけで,彼の解雇を決定し,彼に弁解の余地を与えなかったのは,無駄遣いの確たる証拠や証言が,密告者からもたらされたためだと考えられる.したがって密告者は内部の人間であり,管理人の元で働いていた雇い人の一人であることが有力である.

 またこの無駄遣いが,実は密告者によって密かに行われた可能性も否定できない.それによって管理者を失脚させるためである.後にわかるとおり,これだけ能力があり,職務に忠実な管理人が,無駄遣いを見落とすことがあるだろうか?つまり管理人は,敵の罠にはまったのだ.

 ここで仮説をまとめると
  1. 管理人は職務に忠実であり,まじめにそれを実行していた
  2. 管理人は職務遂行のため,債務者や雇い人を虐げており,敵がたくさんいた.
  3. 管理人は指摘された「無駄遣い」があったことに気づかなかった 
  4. 無駄遣いは管理人自身か,密告者(雇い人)によって行われた
彼が主人に対して必死に弁明しなかったのは,おそらく,彼が気づくことのできなかった無駄遣いの存在を,彼がその場で認めたからだろう.仮にその無駄遣いが,悪意のある不忠実が密告者によって行われたとしても,それを見抜けなかったことは彼の管理人としての落ち度とも言える.彼がその場でその陰謀を感じ取ったとしても,彼は主人に対して弁解をせず,己の過失を認めたことだろう.彼には管理人としてのプライド(プロ意識)があり,自分の犯したミスを赦すことができなかったのである.

 前述の通り,彼は解雇後に,自分には乞食か肉体労働者という職業しかない,言い換えれば,自分には管理人以外の能力はないと決めつけていた.すなわち管理人という職業は,彼のアイデンティティの大部分を占めていた.さらに「乞食になるのは恥ずかしい」というプライドも,職業に対する彼の意識を物語っているように思える.

 彼のそのような心情を思うとき,主人から無駄遣いを指摘され,解雇を通告されたとき,彼のプライドはズタズタに引き裂かれたことだろう.彼が反論・抗弁をしなかったのは,無駄遣いに気づかなかったという管理上の過失(罪)を認め,「自分は管理人に値しない」と自らを裁いたためだ.彼は彼を有罪に処し,懲戒免職処分という罰を無条件で受け入れたのである.たとえそれが自分に対するワナであったとしても.
 
 次に物語の後半,文書偽造の罪についてを考えてみる.解雇された彼は生きることに絶望したであろうが,その苦悩の中で,生きていくためいくつかの選択肢にたどり着いた.それは次の3つであった.
  1. 土を掘る:自分だけの力で生きていく.他者には与えない.
  2. 物乞いになる:他者に頼って生きていく.他者には与えない.
  3. 文書偽造で寄食:他者に頼って生きていく.他者には与える.罪を犯す.
 彼は結局,律法を破り,文書を偽造し,他者の中に生きていくことを選択する.彼の文書偽造の目的は,「自分を家に迎え入れてくれるような者(ルカ16・4)」を複数作ることだった.彼はそのために,未だ残っていた管理人の職権を「悪用」し,債務者に対して文書偽造をそそのかして,実行させたのであった.

  確かに彼は証文を書き換えさせたのだが,おもしろいことに証文の破棄はしていない.証文の破棄の方が,書き換えよりも証拠が残らない分だけ,完全犯罪となる可能性が高いはずである.むろん債務者も,目の前で証文を破棄すれば,証文書き換えよりも喜ぶはずである.しかし彼はそれをせず,当時の負債の利子に当たる分,借用量を減らしている.

 当時,オリーブと小麦等の農作物は,収穫の多い年と少ない年があり,そのリスクを含めて貸し借りの利子が決められており,小麦25%,油100%であった.それが正しければ,油は100バトスから50バトスに書き換えたので,返済は100バトスということになる.小麦は100コロスから80コロスに書き換えたので,返済は100コロスになる.すなわち債務者にとっては,無利子で借りた形となる.しかし
同胞には利子をつけて貸してはならない.銀の利子も,食物の利子も,その他利子が付くいかなるものの利子も付けてはならない(申命23・20)
 つまりもともと利子を取ることは禁止されていた.もし主人が同胞の債務者から利子を取っていたとするならば,主人も実は犯罪者なのである.

 このたとえにおいて,利子は具体的に出てこないため,確かなことは言えないが,もしこの仮定が正しければ,管理者は自分が生きていくためにやったことではあるが,むしろ彼のやったことは,債務者を主人の不正から守ったことになる.主人が,二重に不正な管理人を法廷に訴えることができなかったのは,主人に彼以上に大きな罪があったからなのかもしれない.

 いずれにしても,管理人は彼の持つ倫理観や計算の中で,この無利子で貸したことにすることが,証文破棄よりも良いだろうと考えた.これが彼の知恵であり,賢さであり,まじめさであり,信仰であった.

 もう一つここで考えておきたいのは,証文書き換えのときに,管理人がどのようにして,債務者に対して書き換えを説得したのかである.債務者は確かに証文を書き換えたであろう.しかし,もしそれが主人の許可を得ておらず,管理者の独断であり,その見返りとして彼を家に迎えてもらうためであったと知れば,文書の書き換えが犯罪であることは明白であり,それなりに躊躇があるだろう.しかも債務者が管理者によって虐げられていたとすれば,この証文書き換えによって,新たな災難が自分に降りかかってくるかもしれないと債務者達が想像した可能性もある.

 おそらく管理人は,債務者たちの友となるべく,柔和な微笑みと共に,次のように債務者達を言いくるめたのだろう.
 自分は君たち(債務者)が経済的に極めて苦しい状況である事を知った.私の友である君たちの苦しみは,私の苦しみでもある.そこで私は君たちのために主人に対して、貸付利子の帳消しを願い出ることにした.

 私は主人に全面的に信頼されているから,私の言うことなら聞いてくれる.その上,主人は気前のいい,物わかりの良い人なので,私の申し出を快く受け入れてくださった.主人もあなた方を,憐れに思ってくださったのだ.

 だから書き換えには何の問題も無いし,犯罪でもない.友よ,どうか安心して書き換えてください.そして私の主人に感謝してください.
  かつての冷酷な振る舞いなど想像することもできない,様変わりした管理人の優しい心遣いと,主人の気前の良さに債務者は感謝し,躊躇することなく証文を書き換えたことだろう.だとすると,書き換えについて,債務者には全く罪はないことになる.債務者は管理人の「言葉」を信じたのである.この証文書き換え,いわば再契約(!)についての罪・責任は,あくまでも管理人のみにある.管理者は,仲介者(とりなしをする者)として機能した.彼は仲介を行いながら,主人の評判を上げ,自分の生活の術を確保し,債務者の重荷を軽するという,極めて難しい業を成し遂げたのだ.

 彼の取った行動(証文偽造)の結果をまとめてみよう.
  1. 主人:
    主人には利子分の損害を与えたが,この利子分は本来とってはいけないものであった.したがって主人に損はない.また管理人によって,当時多くの人が破っていた律法を主人が遵守したことになった.それによって主人の評判が良くなり,また債務者から感謝された.
  2. 債務者:
    債務が減り,経済的に助かった.主人と仲介してくれた管理人に感謝している.
  3. 管理人:
    自分が解雇された後に,家に招いてくれる友をたくさん作ることができ,人々の中で生きていくことになった.
つまり管理人のとった証文偽造という律法違反は,おどろくべきことに,関係した三者にとって,喜ばしいこととなった.律法違反にもかかわらず,損をした者も不幸になった者もいなかったのである.主人はこのように,すべての人に対して喜びをもたらすことのできた「不正(律法を破った)な管理人 」のその「抜け目なさ」「賢さ」をほめた.それは彼の律法違反の罪を越えた,すばらしい出来事だったからである.よって彼は敵を作るどころか,敵を味方に変えて,誰からも証文偽造の罪で訴えられることもなかったのだ.

 律法に乗っとり,職務に忠実であったときに,人々に憎まれ,その過失罪を問われた管理人は,その職務から放免され,意図的な罪を犯したときに,その罪を問われることはなく,むしろ皆に賞賛された.ある意味では皮肉な結果であるが,我々はここにイエスのストーリーを重ね合わせてみることができるだろう.解雇されるまでの管理人を「人々に厳しく臨むファリサイ派の僧」,解雇された後の管理人を「人々に柔和な笑顔で臨む破戒僧的仲介者」と見れば…

 神の律法は人間には計り知ることができない.神は常に正しい.そしてイエスは律法を破った者として,ファリサイ派に唾棄されたが,イエスご自身は律法を完全にするために来たと言われた.神の真の律法は,人間に知ることはできない.神のみぞ知る.それはイエスのみが知っていることである.管理人のやったことは,ファリサイ派から見れば立派な犯罪であり罪であろう.しかし神から見たときには,それは犯罪ではなく,むしろ律法を完全にするための行為であり,人々を幸せにする善い行いだった.彼は主人の見込んだとおりの人間であったのだ.

 主イエスは,御父の財産をすべて任された管理人である事は言うまでも無い.彼はその御父と,罪の負債を抱えている人々との間の,仲介者として働いた.その働きは時に,ファリサイ派にとっては,律法違反であり,罪深く許しがたい神に対する冒涜行為だった.しかしそれが実際には,仲介者イエス(管理人)と罪人(債務者)と御父(主人)の三者に大いなる喜びをもたらした.そこには御父に対する罪はない.そして管理人イエスは,人々の中に入り,友として生き続けられるのである.

 この「不正な管理人」のたとえにおいて,イエスが弟子達に対して,意図的にしこんだワナは,「律法違反者=悪者」という公式に弟子が囚われている限り,抜け出すことができない.イエスがこのようなワナで弟子達を試そうとしたのは,それほどまでに,ファリサイ派や律法学者はもちろんのこと,弟子達の間にも,この公式が根強く残っていたからだろう.

 不正な管理人のたとえを聞いて,まず最初に管理者の不正の糾弾に走る者は,「裁く者」の立場に居座る者である.彼は神の座に座る不遜者である.まず裁かずに,心をむなしくして,よく聞き,よく見ることである.「裁き」は,「目の中のある梁」である事を忘れてはならない. 

2013年10月14日月曜日

2013年10月13日日曜日

美(on twitter @rahumj)

 美によって酔いしらされた彼は,その酔いの中で彼女に命を差し出した.彼女はその命を喜んで食し,それにより酔いは彼女に戻され,彼女もまた酔いしれた.

 こうして酔いしれた二人は,やがて眠り込み,二度と目覚めることはなかった.故に,美は生命に従属すべきである.

つまずき(on twitter @rahumj)

 道を歩んでいると大きな石が前方に見えた.彼がその石の脇を通り,さらに前に進むと,平らな道が目的地までまっすぐ続いているのが見えた.

 彼は歩みを速めた.しかしこの旅人はその後の道中で,つまずき,倒れ,打ち所が悪く,そのまま死んでしまった.

 その道の地下にうずくまっていた大岩が,小石にも満たないわずかな頭を地表に突き出し,何万年もの間,彼を待っていたことを,彼は知らなかった.

2013年10月8日火曜日

真理(on twitter @rahumj)

 人にとって真理が,砂浜の一握の砂に過ぎないのであれば,人は握ったその手を開いて,その砂を吟味し,手に残すものとそうでないものを,選別すべきである.

死者について(on twitter @rahumj)

 目の前の死者の中に,命を見出した者は,それを賛美するであろう.その生命を永遠のものとするために,彼は彼に命を与えた.故に彼は消え,彼は現れる.

 自分は生きていると信じている死者は多い.

 死者には死が見えない.故に命も見いだせない.

 死者が命を求めて死者をむさぼる時,死は彼を支配するであろう.死者が命を求めて生者をむさぼる時,命は彼を支配するであろう.そして生者は,彼によって生き続けるであろう.

「実」(on twitter @rahumj)

 「実」はやはり30倍が最低ラインなのか.

「頑張れ」について(on twitter @rahumj)

 「頑張れ」が禁句である理由は,「頑張ったから,このような状態になったのに…」という思いだけで無く,「頑張れ」が「自分の努力で何とかしろ.私は協力しない.」という,突き放し宣言にも聞こえるからなのか?

2013年10月6日日曜日

放蕩息子の帰路(ルカ15:13,主日聖餐礼拝,世界聖餐日)

何日もたたないうちに,下の息子は全部を金に換えて,遠い国に旅立ち,そこで放蕩の限りを尽くして,財産を無駄遣いしてしまった.(ルカ15:13)
本日は世界聖餐日であったが,いわゆる「放蕩息子」のたとえが,説教のテーマであった.このたとえは大変有名なので,多くのノンクリスチャンも知っている上に,解説の類いも多い.それゆえ「今更,このたとえに関して,より深いものが見いだせるだろうか」と思われる方も多いかもしれない.

 自分は間違いなく,この放蕩息子に他ならない.だからこのたとえには,特別の思いがある.だからより深く読み込もうとする.そこで気がつくのは,あまり解説されたことのない,このたとえのいくつかの疑問だ.

 その第1は放蕩息子の動機.「彼は父から自由になりたかった」「思いっきり遊んでみたかった」等はよく聞く理由である.しかしただそれだけの理由で,果たして,家族から独立するかのようにして,一人で遊びたいと思うものだろうか?そのくらいの動機であったのなら,数週間分の小遣いをせびって,遊びに行き,自由を満喫して,また家に帰ってくるという手もあったのではないか?あるいは父の財産をこっそり盗んで,遊びに行くという手もあったかもしれない.いずれにしても,自分の家,帰ることのできる唯一の場所を,遊びや一時的自由のために捨てようとは,なかなか思わないだろう.

 考えられることは,彼はその家そのもの,すなわち父と兄に対して,がまんのならない不快感を感じていたということだ.それはおそらく,自分が2番目の息子(弟)であり,長子の権利を持たない事に対する,コンプレックスにあると自分には思われる.弟は,自分が長子でないことに絶望していたのである.そして弟であるが故に,自分は父に愛されていないと,常々感じていたのであろう.

 「兄は父の愛を一身に受けて,まじめに一生懸命働いている.それはその働きの報いが約束されているからだ.兄は長子として家を継ぎ,父の財産もほとんど(3分の2)は彼のものとなる.そして父の家は兄によってこれからも安泰だろう.自分はこの家族において,できの悪い僕のようなもので,父と兄の奴隷のような存在.愛も報いも結局与えられないのだ.弟なんて,あの父の息子だなんて,名ばかりだ!」と弟は考えていたのかもしれない.

 弟はそのストレスを,放蕩することで発散しようとしていた.おそらく家にいた時から,不真面目で父や兄の言うことを聞かず,怠け者で遊び好きだったことだろう.特に兄からは怠け者・できの悪い弟として,さげすまれていたかもしれない.つまり弟が家を出る前から,既に兄弟仲は悪かったはずだ.彼には家の中に居場所がなかった.だからこそ,家を捨てる気になったのである.

 「財産の分け前を下さい」などと親に言うことは,尋常なことではない.父親も息子のただならぬ様子に気づいたはずである.父はここで弟を説得して,この時点での財産分与をあきらめさせることも可能だったのはずである.また彼の心情を問いただすこともできたはずだ.奇妙なことに,父はそのようなことは全くしていない.それはなぜか?

 父はすべてを知っていた.弟が自分や兄に対し不満を持っており,なおかつ,家出をしようと企んでいたことを,彼の言動から既に予測していたのである.そしておそらく,彼は聞く耳を持っておらず,いかなる説得も,今の彼には通用しないと思っていたのだろう.だから弟が「財産の分け前を下さい」と言った時,父はついにその時が来たのだと思ったに違いない.

 父は弟の言うとおりに財産分与を行った.財産の使用権は,依然として父にあったようだが,父はこのような申し出があった以上,彼がその財産を持って,ある意味,律法に基づき正当性を持って,家を出て行くことは覚悟しただろう.何を言っても息子は聞かないだろうし,仮に財産を分け与えなくても,おそらく彼の決心は変わらず,むしろ財産を分けなかったことに腹を立てて,家を出て行くだろう.彼を引き留めることはもうできなかった.

 父は悲しかった.そして彼の将来をたいへん心配したが,それでも引き留めもせず,彼の好きにさせた.彼に与えた財産が,せめて彼の生活をある程度支えてくれるであろう事を願って.

 そして弟は何日もしないうちに出て行った(ルカ15:13).その「何日」は,家出の準備に当てられていたのだろう.仮に父が鈍感で,弟の家出計画に気づいていないとしても,この「何日」の間には,彼の行動から家出計画に気づき,それを阻止する実力行使も可能だっただろう.しかしおそらく前述の理由により,父は干渉しなかった.そして息子は家から姿を消した.

 このたとえの前に提示された2つのたとえ「見失った羊」「無くした銀貨」においては,羊飼いや女は執拗に失せ物を探索する.しかしこの「父」は,全くそのようなアクションは起こさない.最初から最後まで,出て行った息子を放置するのである.なぜ彼は探索しないのか?

 それはおそらく,息子が戻ってくることを固く信じていたからだろう.弟は根っからの悪人ではない.彼はちゃんと筋を通して,律法に基づいて財産分与を要求し,父や兄から財産を盗むことはしなかった.やろうと思えば,父や兄に復習する意味においても,それはできたはずであるし,それ以上のことも可能だったかもしれない.しかし彼は家を破壊し家の支配者になることなく,正当なやり方で辞去していったことは,彼の中の信仰のともし火が,まだ消えていないことを示しているように思える.彼には回心の可能性が残されており,父はそれに賭けたのである.

 父は家出が発覚した後,すぐにでも息子を探しに行きたかったに違いない.しかし家出直後にもし父が息子を探しに行き,息子がそのことを察知したならば,息子は再び自由が侵害されると思い,彼から逃げ出す可能性があった.

 息子が放蕩の限りを尽くした後,おそらく風の噂に,父はそれを知ったであろう.しかしそれでもその場所に,息子を探しには行かなかった.放蕩の後,息子には,父が働いて稼いだ財産を放蕩したことに対して,強い罪の意識が残った.故に息子には父に合わせる顔がなかった.彼が家に帰れなくなった理由の一つであるが,これは彼の信仰心を表すと同時に,最終的に彼に死をもたらすものであった.父はそれをも見抜いていた.もし父が探しに行けば,息子は罪の意識ゆえに,父に助けを求めるどころか,彼から逃げ出してしまうに違いない.だから父は探さず,息子の回心に賭けたのだ.

 見失った羊は,羊飼いを求めて鳴き声を上げた.無くしたドラクメ銀貨は,ともし火に呼応して光を反射した.しかしこの息子は,食べるにも困っているのに,父に対して助けを求めず,全くの他人であり異邦人でもある「ある人のもとに身を寄せた(ルカ15:15)」.

 この異邦人は彼に食べ物を与えなかった(ルカ15:16).異邦人は,彼が家に帰れない立場(罪)にあることを利用し,彼を奴隷として扱った.それ故に,彼は満足な食事すら与えられなかったのである.つまりこの異邦人は「悪魔」である.しかし彼が身売りをしていたとすると,彼が父の家に帰るのは難しい事から,まだ身売りはしていなかったのだろう.信仰は守られていた.しかしこのままでは,もはや身売りは時間の問題だろう.

 そして息子はついに回心の時を迎える.なぜ自分がこのような境遇に陥ったのか,彼は苦しみの中で内省を続け,その結果,自分の高慢,独りよがりの考え,父に対する誤解が,その原因であったことに気づいた.彼は彼の非を認めたのである.この回心において,彼の信仰が保たれていたことが明らかになる.彼は放蕩生活を楽しんでいたわけではない.むしろ苦しんでいたのだ.愛されぬ苦しみ,生きる場所のない苦しみ,その苦しみから逃れるために,放蕩により気を紛らわせていたに過ぎない.それゆえに無計画に金を使い,破産した.もし彼が父から独立したいと願っていたのなら,目標を持って,計画的に適切に金を使っていたことだろう.

 彼の信仰が保たれていたことは,彼の言葉からわかる.

お父さん,わたしは天に対しても,またお父さんに対しても罪を犯しました.もう息子と呼ばれる資格はありません.雇い人の一人にしてください.(ルカ15:18-19)
もし息子が単純に腹を満たしたいだけであったのならば,まず父に対して必死に謝罪し,許しを請うだろう.しかし彼が最初に謝罪したのは「天」,つまり神である.彼はまず神に対しての罪を認めたのだ.信仰は彼の中に保たれていた.ある意味ではその信仰心が罪の意識を生み,愛されぬ苦しみに加えて,彼をさらに苦しめていたのだ.しかし彼はこの回心において,自分の罪を認め,それを神や父に告白すると同時に,自分に対する処罰案を提示することにより,和解を目指すことにしたのだ.

 それは神や父が,自分の犯した罪ゆえに,自分を殺すことがないと,放蕩息子が確信したからこその希望であった.彼は自分の犯した罪に対する罰として,1)「息子の資格喪失」と共に,2)「父の僕として苦役に従事する」事を想定した.いわば彼は,彼を,彼の律法において裁いたのだ.しかしその裁きにおいて,自分は死刑に相当しないと判断することができた.これは彼の理性的な判断であり,その根拠はおそらく「律法(聖書)」であったのだろう.彼の手元にそれがあったのか,それとも彼の記憶によるものかは定かではないが,聖書は彼に生きる希望をもたらした.

 こうして彼は帰路につくことになった.しかしそれは単純な道のりではない.彼は一文無しであり,食料もろくに持っていない,奴隷のような状況である.しかも彼は「遠い国(ルカ15:13)」におり,帰りの旅路は恐ろしく長い.したがって,この「我が家」への帰還は極めて危険と困難に満ちており,彼に旅立ちを躊躇させたことだろう.ここにとどまれば,やせこけて飢えた餓鬼のような奴隷ではあるが,生き続けることはできるかもしれない.父の家を目指して旅立てば,旅路の途中で飢え死にするかもしれない…

 彼をそれでも,家への旅路につかせたもの.死の恐怖に打ち勝たせたもの.それこそが神を信じる信仰の力であり,「家に必ず戻れる」という希望の力,あの懐かしい父を求める愛の力である.この家までの旅は,とうてい彼一人の力では不可能である.必ず何者かの助けがなければ,とうてい家にはたどり着けない.彼は神が共にいてくださる事を信じ,一種の乞食・托鉢修道者のようになって,家を目指したのかもしれない.彼は自分を低くして,旅路で出会った人々に恵みを乞い,その人々の情けや憐れみによって,生かされた.それこそがまさに神の憐れみであった.

 父は息子の帰還を信じていた.そして父は,息子が帰ってきたその時のために,服や指輪や履物を準備しておいた.毎日,父は息子が消えていった道の先に立っては,息子の姿をその遙か彼方に追い求めていたに違いない.だからこそ,息子が本当に帰ってきたその時,「まだ遠く離れていたのに(ルカ15:20)」父は帰ってきた息子の姿をみとめる事ができたのだ.

  そして父は,その変わり果てボロボロになった息子の姿を見て,深く深く憐れんだ.もう彼の息子には,何も残っていなかった.この地上において,彼に残されていたのは「父の家に帰ること」への思い,ただそれだけであった.それ故に,息子が父に再会した時に発した言葉の中には「雇い人の一人にしてください」が含まれていない.

 帰りの旅路で彼は,様々なことを学んだことだろう.そして彼の信仰は深まったに違いない.その深まりとともに,自分の犯した罪の重さが,当初想定した時点とは比べものにならない程,重いものであったことにも気づいていった.そして次第に,自分が父の雇い人の一人になって,この世に生き続けることなど,どうでもよくなっていったのだろう.彼はただただ父に会って,和解がしたかったのである.そしてその和解の後,この世を去ってもよかったのである.

 しかし父の彼への愛は,そのまま彼を死なせはしなかった.父は彼の命のためにできることを,緊急に「急いで(ルカ15:22)」行った.まず「良い服」に着替えさせた.これは礼服,晴れ着,イエスの服であり,それまでの汚れた服・罪を捨てさせた.次に指輪をはめ,彼が自分の息子(相続者)であることを公にあかしした.そして履物を履かせ,奴隷の身分から彼を解放するとともに,この「地」に密着していた足を地面から分離した.さらに子牛を屠り,彼のやせ細った身体に滋養を送り込んだ.こうして彼は罪が許され,父の息子として生き返り,そして兄を越えた(「いちばん良い服(ルカ15:22)」).それは放蕩息子が全く想像だにしなかった結末であった.彼は必ずや与えられると思っていた罰,すなわち「永遠の死」の代わりに,「永遠の命」を得たのである.


 弟が帰還した時,兄は兄で相変わらずまじめにやっていた.この兄が「残された(まじめな)99匹の羊」や「(手の中に残された)9枚のドラクメ銀貨」と同様に,ファリサイ派を表象しているのは間違いない.兄は,弟の帰還に喜びを感じるどころか,怒りと不快を露わにした.

 おそらく兄は,ろくでなしの弟を自分の恥のように思っていたのだろう.彼は彼の実弟を「あなたのあの息子(ルカ15:30)」と呼び,「弟」と呼ぶことをはばかっている.だから弟は勝手に家を出て行った時は,さぞ清々していたことだろう.しかし今や,再び彼が帰ってきて,自分がもらったこともない子牛が屠られ,皆は彼の帰還を喜び,パーティーで浮かれている.「あのろくでなしのために!赦せない!」,兄は拳を握りしめたことだろう.兄は赦さない人であり,裁く人であり,怒る人である.嫉妬する人であり,呪う人である.

 彼は父を責める.彼は自分が父に何年も仕えたことに対して,何の報酬もなかったと言って,「報酬」の不公平を,弟に対する嫉妬と怒りを交えながら,父に向かって訴えた.兄は,自分の勤勉な行為に対する報酬として,父から十分な物を受けていないと主張する.彼にとって,弟に与えられた様々な物は,弟の行動の「報い」であった.なぜ放蕩者の報いが,何年も仕えた自分のそれよりも良いのか,彼には理解できなかったのである.彼は自分の考え(行動とその報い)が,絶対に正しいと思い込んでいる.しかし父の思いは,全く兄とは異なっていた.

 父にとって勤勉など,極論すればどうでもよかったのである.父と息子の関係は,雇用主と労働者の関係ではない.つまり経済関係ではない.勤勉な労働を行って,報いを稼ぎ出すのは,経済行為であり,その関係は極めて冷たいものである.父と息子の関係は,愛と信頼であり,それはあらゆる経済的原則を越えている.弟は,父に対していかなる労働もしていない.しかし彼は罪を認め,信仰に生きるようになり,父を信じて帰ってきた.そこに父は義を認めたのである.そして父は彼から何ものも要求せず,彼に「恵み」を与えた.

 しかし父は,このような兄に対しても怒ることはなかった.「子よ(ルカ15:31)」と呼びかけ,父に対する不遜と,自分の考えを絶対視する高慢を赦し,優しくその理由を説いた. それに対して,兄が納得したかどうかは記されていない.

 放蕩息子は我々の姿である.それまでの己の罪を認め,回心を経験し,洗礼を受け,神に向かって帰路を歩いている.それは実は,危険と困難に満ちた道でもあり,信仰・希望・愛を唯一の財産として,主イエスと共に歩いて行く神への道でもある.本日の説教において先生は,放蕩息子のこのたとえと,日々の悔い改めの重要性をリンクさせながら語ってくださった.その通りである.放蕩息子の帰路は,毎日が悔い改めであった.それによって,信仰はますます深まって,ついに神にたどり着くのである.日々の悔い改めは,苦痛を伴う部分があるのは事実だろう.しかし,我らの日々の罪もまた事実である.主イエスになった者は一人としていない.故に我らは皆,罪人なのであるから.

2013年10月1日火曜日

水車(on twitter @rahumj)

 村はずれの水車は,生ける水の流れを受けて,喧騒の昼も,沈黙の夜も,人知れずゆったり,回り続けていた.ある真夜中に,彼はその水車小屋に忍び入り,臼の中を確かめる.杵がついていたのは,「自己」だった.

死刑弁護人(on twitter @rahumj)

NHKBSプレミアム「死刑弁護人」:

 「人を裁くな」それが大量殺人者であっても例外では無い.麻原の弁護人であった死刑弁護のプロ安田氏は,この世から呪われただけではない.その後逮捕され10ヶ月もの間,拘留された.なぜ逮捕されたのか.その理由を皆が知るべきである.

祈りと糧(on twitter @rahumj)

 賛美と感謝の祈りの他に何もできないとしても,彼が祈るならば,彼は働いている.そしてその働きの故に,彼にその日の糧は与えられる.

へりくだり(on twitter @rahumj)

 先の者が後の者にへりくだり,また彼から拝領しなければ,後の者は先になる.

ピグマリオンの死(on twitter @rahumj)

 永遠の命を求めて,ピグマリオンは像を造った.彼は像の静止に永遠を見,それを礼拝する.しかしその祈りの中における像との近親相姦は,彼を死に至らしめた.永遠の死は永遠の死をもたらし,永遠の命は永遠の命をもたらす.

2013年9月29日日曜日

輝く銀貨(主日礼拝)

あるいは,ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて,その一枚を無くしたとすれば,ともし火をつけ,家を掃き,見つけるまで念を入れて探さないだろうか?(ルカ15:8)
無くしたギリシアの1ドラクメ銀貨は,一日分の賃金に当たる.これはローマの1デナリオン銀貨と同じ価値であると同時に,羊1頭の値段に相当する.

 その女は家の中にいた.彼女は家の管理人,もしくは所有者である.彼女の手中にあった10枚の銀貨の内,1枚が床に落ちた.重力に引っ張られ,銀貨はそれに従ったのである.彼女は腰をかがめ,顔を床に近づけてその銀貨を探し始めるが,家の中はあまりに暗く,見つけることはできなかった.銀貨はおそらく床に落ちた後,転がって彼女の元から離れていったのだろう.

 そこで彼女はともし火をつける.その光によって浮かび上がってくるのは,床に積もった汚い塵である.転がり去った銀貨は,この塵の中に埋もれている可能性があった.そこで彼女は家の中を掃き清めながら,ともし火で床を照らしつつ入念に探した.

 するとキラリと光る物があった.あの銀貨だった.銀貨はともし火の光を反射して,闇の中で輝いていた.彼女は腰をかがめて,その銀貨を拾い上げ,手中の残り9枚とそれを一緒にし,握りしめた.そして周囲の皆と発見の喜びを分かち合った.

 銀貨の落下は彼女の意図では無い.銀貨が落ちたのは,銀貨が重力にしたがったためである.地の誘惑は,地から引き上げられた10枚の銀貨に常に働いていた.それに打ち勝った9枚は彼女の手中に残ったが,そのうちの1枚は誘惑に負けて,所有者の手からこぼれ,塵にまみれた地に落ちて,闇の中を転がりながら彼女から逃走し,とある場所にうずくまった.それが銀貨の罪である.

  銀貨の所有者はその一枚を惜しみ,徹底的かつ執拗な探索を開始した.救いを完全にするためである.彼女は1枚のドラクメ銀貨の価値を惜しんだだけでは無い.彼女は1枚の銀貨が欠けたことにより,「10」という完全性が失われたことをも惜しんだ.救いは完全でなければならない.なぜなら
独り子を信じる者が一人も滅びないで,永遠の命を得るためである(ヨハネ3:16)
彼女はまず,ともし火をともし,闇を照らす.すると床は塵まみれで汚れていた.落ちた銀貨が錆びていなければ,この深い闇の中においても,ともし火を反射し,光るはずであった.すなわち神の呼びかけに対して,逃走者は応答するはずであった.しかし仮に銀貨が錆びていたり,銀貨と彼女の間に障壁(塵)があったのならば,銀貨は光ることがない.彼女は銀貨の応答(反射)を発見の手がかりとしていた.

 そこで彼女は,塵を掃き清めた.その神の御業によって,銀貨を被い,神との交わりを阻んだ塵(汚れ・罪)は取り除かれた.その掃き清めは,銀貨の上に積もった塵を取り除いただけではない.彼女の元から逃走した事の罪,その汚れをもぬぐい去ったのである.失われた銀貨は神の前にその美しい裸体を露出した.今や銀貨は,ともし火の光に対して,光で応答する.それは暗い床の上で極めて美しく輝いた.彼女は床にしゃがみこみ,そのへりくだりと共に銀貨を拾われる.銀貨は再び地上を離れ,神の手の中で平安を得た.それは銀貨の喜びであり,同時に神の喜びでもあった.
 
 この構図は,「見失った羊」のプロット,すなわち,地の誘惑(牧草)に導かれて,群れを離れた一匹の羊とほぼ同じであるが,羊のたとえには存在しない「床を掃く(=罪を取り除く)」部分が加えられている.この「床を掃く」部分を導入するため,イエスは婦人(女性)を主人公にしたのかもしれない.

 また「見失った羊」の例えには,神の呼びかけと見失った羊の応答(鳴き声=祈り)は,行間に書かれており,明記されていない.しかし「無くした銀貨」のたとえでは,ともし火の導入によって,神の呼びかけと銀貨の応答が具体的に描かれている.

 さらに「見失った羊」のたとえがこの前,「聖書の中の聖書」である「放蕩息子」のたとえがこの後に続くことから,イエスは3つのたとえによって,徐々に具体的に「見失われた者の悔い改めと彼への神の愛」を提示する意図を持っていたと言えよう.それはおそらくイエスの教育的配慮であろう.

 銀貨はともし火を受けて輝く.その光は,銀貨の発光によるのでは無い.それは神の栄光の反射である.銀貨はその光に,いっさい手を加えず,素直にそのまま,鏡のように反射するだけである.そのように銀貨が常に輝くためには,神によって銀貨表面の汚れをぬぐっていただかねばならない.そこに祈りはある.

水車(on twitter @rahumj)

 その祈りは,村はずれの水車のようである.忙しい日中も,寝静まった深夜も,ゆっくりゆっくり回り続ける.

平安(on twitter @rahumj)

 山を平らげ,谷を埋めると,目に見えるものは何も無くなった.興奮が生ならば,平安は死となる.平安に生を見出し,興奮に死を見出す者は少ない.

告白(on twitter @rahumj)

 自分は不思議に思う.なぜ聖者を前にした悪者は,それまでひた隠しにしていた自分の正体を彼に告白するのか.

従順(on twitter @rahumj)

 たいへん美しい1枚の絵の巨大なジグソーパズルがあった.ピース数が1億以上あると思われるそのパズルをバラバラに崩し,かき混ぜ,掃き寄せてみると,小さな山のようになった.そこを通りかかった人は言った.「このゴミの山は何ですか?」

 そのゴミの山から,1枚の美しい絵が再現できると確信する多くの者は,その絵とそのジグソーパズルの存在をあらかじめ知っている者か,その美しい絵の存在を信じる者である.

 このジグソーパズルのピースの形がすべて同じだった場合,コンピュータによる復元は,元の絵をコンピュータが知らない限り,かなりの困難を伴う.「かなりの困難」とは,仮に復元が数学的に可能であると証明されていたとしても,莫大な無限に近い時間がかかる事を意味する.

 数学者ベルンハルト・リーマンは,数学的根拠も無く,1859年にその美しい絵の存在を確信した.いわゆるリーマン予想である.10兆個まで彼の予想は当たっていたが,未だ予想のままであり,証明はされていない.

 彼の予想は帰納的推論によるものであっただろうが,それを予想として発表できたのは,彼がその美しい絵を信じ,そこに価値を見出したからである.

 多くの数学者・物理学者は,彼らの信じる美を求め,それを予想し,実証・証明を探求する.それに対して「真実は醜い」とニーチェは言った.しかし,彼らは「真実は美しい」という信仰を持って,ニーチェを拒む.

 予想には不安がつきまとう.10兆個まで正しかったリーマン予想も,10兆1個目からずっと続けて予想をはずす可能性は否定できない.数学者にとっては,10兆などものの数では無いだろう.では数学者が不安を払拭するために,証明に駆り立てられているのかというとそうでもない.

 むしろ彼らは,美への憧れと情熱に突き動かされ,その美の目撃者となるために,仕事に没頭している.彼らは確信者である.

 確信者である彼らが,妄想者にならないのは,数学的アプローチを用いているからだろう.リーマン予想を否定する証明がなされたのであれば,彼らはどれほどその予測証明を夢見ていたとしても,予測の間違いを認め,受け入れる.彼らは頑なな者ではない.彼らは数学に対して徹底的に従順である.

2013年9月28日土曜日

生ける水(on twitter @rahumj)

 無限にあふれ出す生ける水は,重力法則にしたがって流れていく.故に有り余る水は,執拗に下方を目指して,流れていく.そして遙かなる下方には,深淵の闇が広がっている.

ワナ(on twitter @rahumj)

 末席に座ろうとしたら,周りの人々が,もっと上の席へ座れという.これは聖書に書いてある通りになったと喜んで,やや上の席に座ると,もっと上へと回りが 言う.それに従っていたら,ついにイエスの席に着いてしまった.その時に彼が,彼らの望み通りの偶像に仕立て上げられたと気づくのは難しい.

生きるために捨てる(使徒27:38, on twitter @rahumj)

 太平洋を泳いで渡ろうとする者はいない.だから舟に乗る.だが海が荒れ,その舟が沈没しそうになった時,人は大切な船荷・船具を捨てて,舟を軽くする.捨てる事により,その後の航海どころか,生存維持そのものが困難になるとわかっていても.

 おそらく金さえも,状況が厳しければ捨てるだろうが,最後まで捨てられない物もある.それは当然,水と食料.だが,それさえも捨てねばならないほど海が荒れていた時,人はどうするだろうか?

 理屈で考えれば,今を生き抜かなければ明日は無いのだから,食料は捨てるべきだろう.できるのであれば食べられるだけ食べた後に.しかしその合理的判断に逆らって,食料に執着する者は少なくないだろう.

 ましてや食料を節約してきたために,飢餓状態にあった乗組員にとって,大切な食料廃棄はあまりにも酷である.しかしパウロは,そのような状況にあった乗組員たちにそれをさせた(使徒27:38).

 しかもパウロは,その直前に「舟は失うが,命は助かる」と信じがたいことを乗組員にに宣言していた(使徒27:22).

 大洋のど真ん中に浮かんだ舟の乗組員にとって,舟とは大地であり,世界である.食料がなくなっても,数日間は生きながらえるかもしれない.しかし己の存在する世界が無くなってしまえば,どこにも生きる場所は無い.

 だからパウロの宣言は,全く持って信じがたいものだっただろう.しかもパウロはそれが自分の理性的判断ではなく,天使のお告げがあったと乗組員に説明した.通常であればそのような話を誰も信じなかったはずだ.

 ここで乗組員達がパウロを信じた一つの理由は,「この航海は危険と損失をもたらす」とあらかじめ人々に忠告しており,それが実際その通りになったからだろう.ただこの時彼は,理性的な判断により忠告したのであって,天使のお告げによったのではない(使徒27:10).

 つまり乗組員はその時,パウロの知的能力や経験に信頼を置いたと言うことになる.しかし天使のお告げとなると話は別だ.その話を乗組員が信じたとするならば,それはパウロの経験や能力ではなく,パウロという人間そのものを信じたということだろう.

 では乗組員たちは,なぜ囚人であったパウロをそこまで信頼するようになったのか.一つには「助かる望みは全く消えうせようとしていた」その状況下におけるパウロの振る舞いだろう.場合によっては,彼は嵐に翻弄される舟の艫の方で,枕をして寝ていたかもしれない.

 嵐の中,恐怖と不安に支配されていた乗組員たちにとって,パウロの振る舞いは精神的な安定を彼らに与えると同時に,ある種の憧れさえ彼らに感じさせたかもしれない.

 つまりパウロの目に見える行い(業)によって乗組員は導かれ,彼の信じがたい言葉を信じるに至った.そして彼らは聖餐にまで至るのである(使徒27:35).

 乗組員は最終的に舟を捨てマルタ島にたどり着き,救われ,その命を得た.まさにパウロ の預言は,成就したのである.舟をこの世と見なすことができるのであれば,マルタ島は天の国である.

 乗組員が,積み荷・船具を捨てなければ,大切な食料を捨てなければ,そして最後に生存拠点である舟すらも捨てなければ,マルタ島には至れなかった.そしてそれらを捨てていきながら,パウロの信じがたい言葉を受け入れ,生存への希望を維持し,最後に救いに至ったのである.

 生きるために,救いのために,自ら大切なものを捨てる事.それは通常の生活をしていれば,生やさしいことでは全くない.しかしこの乗組員のように,その生存が根本から脅かされるのであれば,選ばれた人はそれを実行する.

 そして選ばれた人には,神からその艱難が与えられる.彼は艱難の苦しみの中で気づくのかもしれない.これこそは私の望んでいたものであったと.

音楽としての聖書(on twitter @rahumj)

 聖書は建築的であるが,同時に音楽的である.聖書では,様々なヵ所が相互参照しており,それらが一種の和音的響きをなす.また聖書に書かれた預言とその成就,あるいは予型とその提示後に現れるバリエーションは,一種のカノンとなっている.これらの特徴は バッハの音楽と一致する.

依存対象の喪失に対するコーピング(on twitter @rahumj)

 失うことが怖いのは,それに執着し,依存しているからだ.そしてそれを失う可能性が存在すれば,未来への不安は生まれ,不安は依存を強化する.恐怖や不安を感知し,その原因を探ることは,自分が何に依存しているのかを発見する手がかりとなる.

 人が何かに依存してしか生きていけないとしたら,不安と恐怖に対処するためには,
  1. 複数の異なる対象に弱く依存する
  2. 失われることのない永遠の対象に強く依存する
 ということになるだろうか.

 1のコーピングでは,何か一つ失っても,残りの他の複数の依存でバックアップするというものだから,各依存対象は関連性がない方がよい.つまり同時に複数の依存対象を失わないためだ.また各依存のウエイトもできたら均等の方がよいだろう.


 それぞれは弱い依存であるため,仮にそのうちの一つを失ったとしても痛手は小さいと予想できる.したがって,失う事の不安は小さい.ただ問題は,自己同一性を維持しながら,多次元方向のウエイトコントロールされた弱い依存のネットワークを構築できるかだ.

 ネットワークを構築した後も,ネットワークはダイナミックに変化する可能性がある.少なくとも定期的に,依存ウエイトをモニタリングし,何か一つの依存に偏りが発生していないかどうかチェックし,制御する必要がある.これは(特にメンタルな)エネルギーを消費する事でもある.

 一般に人が,自分自身とは何者であるかという問いを封印している理由の一つは,その問いに答えるためには,相当なエネルギーが必要になるからだろう.

 このモニタリング&コントロールのエネルギー消費は,トレーニングを行う事により,習慣化させ,省エネすることができる.ただそのトレーニング自体がコストとなる.

 2のコーピングについては,かなりの危険が伴う.失われることのない永遠の依存対象とは,基本的にはこの物理世界のものではないことを意味するからだ(物理学は永遠を発見しただろうか?).

 このコーピングは,狂気と関わり合いが深いからだ.いくつかの公理系(信念)を導入し,そこから演繹された理論により,その永遠の依存対象の像(イメージ)を記述・説明する者の中には,少なくとも理性が生きている.しかしそのようなケースはまれだろう.

 逆に主観的直感のみによって永遠の依存対象を認識したとする者が,それに強く依存した場合,理性が破綻してしまう可能性もあるだろう.つまり理性によるブレーキが,このコーピングには必要となる.

 この安全装置が言語である.宗教において,教典が尊いとされ,またその教典にこだわり続けるのは,そのためだろう.言語によって保たれる狂気と理性とのバランスが,永遠の依存対象に強く依存するコーピングのポイントのように自分には思われる.

 「宗教はアヘンである」と言う言葉は,「宗教依存が人を不幸にする」と言う意味ではないが,ある側面を言い当てている.我々の生存は食事に依存しているが,この依存は問題にならない.しかし過食症・拒食症は問題となる.

 こうして考えてみると,「選択可能な依存」をこそが,依存問題の対象であり,依存そのものが問題ではないことがわかる.

Twitterとメタ認知(on twitter @rahumj)

 つぶやき ,セルフトークは,人格の輪郭を表す.

 他者への自己顕示の道具として Twitter を使うのではなく,それを自己のメタ認知の道具とするためには,他者の存在を想定せずに自然につぶやくことか?コミュニケーションは副産物として.

 自己 とは,最もやっかいな他者であるから.

HSPと黙想(on twitter @rahumj)

 「問題解決に夢を使うための訓練法」は,黙想に似ている.  HSP (Highly Sensitive Persons)の人は,夢ときっちり向き合うために夢の記録を取った方がよいとした,ユング派の Elain.N.Aron を思い出した.

参考文献:
エレイン・N・アーロン「ささいなことにもすぐに「動揺」してしまうあなたへ。」(原典:The Highly Sensitive Person)

救われた者(on twitter @rahumj)

 救われた者が,救う者になる.それは救われるためには,救う者になる必要があるから.救われた者であるキリスト者にとって,救った者は主イエスに他ならない.

2013年9月27日金曜日

啓示(on twitter @rahumj)

 TK-80 から40年近く,マイコン・PC・サーバのプログラミングに関わってきたが,ついに足を洗う日が来たのかもしれない.

  すべての技術は流れ去る.残されるのは技術そのものではなく,その技術者の生き様である.

  失うことで人は,自分が何者であるかを知る.奪われ,失った後に残ったものこそが,本当の自分自身だ.

  自分に残されたものは,あらゆる意味でわずかしかない.その中に,長年蓄積したプログラミング技術や知識が含まれている.そこから足を洗うかもしれない今気づくのは,その知識に対する自己の執着である.自分のアイデンティティは,それらの知識に依存して,立脚していたのか.


  だから失うことは,啓示的である.

2013年9月25日水曜日

科学理論と科学者のパーソナリティ(on twitter @rahumj)

 自分は,リチャード・ドーキンス の理論よりも,彼の生い立ちや人格形成に興味がある.
彼の洞察には価値があると思うが,その理論には彼のパーソナリティが影を落としている気がする.

 それは,リチャード・ドーキンス的無神論からキリスト教徒に転向した「親切な生物学者」であるジョージ・プライスのその生涯を思い出させるから.

2013年9月24日火曜日

牧師と教会プランターの7つの誤った考え(邦訳)

著者:Ron Edmondson(Twitter:@RonEdmondson)
原文:7 False Thoughts of a Pastor or Church Planter
(注:専門家ではないので,誤訳・意訳ご容赦)
  1. 牧師が教会を建てれば、人はやってくる
    人は来るかもしれないし,来ないかもしれない。実際,神がそれを建てられたのならば,人はきっと来るだろう.
  2. 牧師がこれを行うためには,誰かに支払う必要がある
    牧師のあなたに支払うことはできたかもしれない.だが,あなたのお金をすぐに必然的に必要とせず,奉仕する場所を探していて,予定に空きのある人々がいる.彼らがその機会を望んでいる限りにおいて,その人々に支払いのチャンスがある.
  3. 何人かの人々は,常に教会に留まるだろう
     人々は留まらないだろう,以上.たとえ所属信徒に彼らが望んでいることをすべてやったとしても,その内の幾人かは去って行くだろう.そして,牧師が何らかの変化を教会にもたらすことにより,信徒達がずっと話し合ってきたのだが,まだ決めかねているような教会離脱の決断を,後押ししてしまうかもしれない.
  4. 牧師は,教会で起こっているすべてを知っている必要がある
    牧師はそれをやってみることができるが,もしやってしまったら,教会は大変小さくなり,教会のポテンシャルは極めて限られたものになってしまったでしょう.それでよく自問してみるのですが,この考えは,牧師が教会を知る必要のためなのか?それとも,牧師が教会をコントロールする必要のためなのだろうか?
  5. 信徒は牧師なしでこれはできない
    ふむ...これは印象的に聞こえるかもしれないが,真実ではない。全く真実ではない.牧師達が「真実ではない」と考えれば考えるほど,「それがおおむね真実」という事態は減少する.
  6. 人々は,与える準備ができているときに与える
    彼らはそれでも与えないでしょう,以上.牧師は施しを奨励する必要があります.彼らに与えるための理由を与えなさい.彼らに機会を提供しなさい.彼らを教えなさい.
  7. 牧師には所属信徒全員の霊的成熟に対する責任がある
    牧師にはその責任はない,以上.牧師は教えているだけです.神の御霊は,彼らの神への服従にしたがって成長するのです.

生命=情報+媒体 (on twitter @rahumj)

 「情報」の持つ永遠への生命的意志は,その媒体によって阻まれる.現実世界に存在する情報の媒体は,決して永遠を保証しない

理性のコスト (on twitter @rahumj)

笑いが小さな狂気であるならば,我々は日々,狂気の瞬間を必要としていることになる.だとすれば,その小さな狂気こそは,理性を維持するためのコストではないか?

民主主義:biomimetics 的アプローチ(on twitter @rahumj)

 民主主義 が,ベストではなくベターであることは言うまでも無い.「それは歴史が証明している」というのが一般的だろうが,自分はその論拠を非線形数学に置くべきだと考える.それは一種の biomimetics である.

闇に座し(on twitter @rahumj)

 残虐と理不尽と死.生をあざ笑う巨人達を前にして,人は怒りの拳を握る.生きるために.絶望に押しつぶされないために.しかしその拳が何度も空を切る時,人は絶望に囚われる.

 希望のともしびは闇の中にしかない.それを見出すのは闇に慣れた目である.拳を下ろし,闇に座し,見つめ続ける.

都市と村(on twitter @rahumj)

 思想は,脳内に建てられた人工建築物群である.その建築物群の維持には,コストがかかり,その中には地代も含まれる.

 都市の喧騒は若者には似つかわしい.都市は成長しコストは回収されるであろう.しかし死に近づいた者は村を目指す.そこには己の意のままにならぬ自然が広がり,夜は沈黙が支配する.

2013年9月23日月曜日

パウロの目 (on twitter @rahumj)

 パウロは闇の中にいた.故にイエスのまぶしさは彼の目を焼いた.しかしもし彼が目を閉じていたのなら,目は焼けなかったであろうし,結果,闇にとどまっていたであろう.

入り口と出口(on twitter @rahumj)

 ケンカ別れした友は,私から離れていき,遠くの別の入り口から入っていった.

 一人になった私は私の選んだ入り口に入り,歩みを進めた.そして,ついに出口から外へ出てみると,あの友はそこにいた.

 入り口はいくつもあったが,出口は一つだったのだ.

 入口がどれであるかは,さほど問題ではない.

ルカ15:5 迷える羊と神の暴力(主日礼拝)

そして見つけたら,喜んでその羊を担いで(ルカ15:5)
 「見失った羊」の例えにおける一匹の迷い出た羊は,求道者を象徴するだけでなく,すでに洗礼を受けた者が群れを離れた状態をも意味する,と先生は説かれた.確かに群れの残りの99匹が「悔い改める必要のない正しい人(ルカ15:7) 」の集団であるということは,洗礼を受けた者の集団,すなわち教会に所属する者達であることは間違いないだろう.その集団から迷い出たと言うことは,その羊が求道者,すなわち未だ洗礼を受けていない者とするよりも,洗礼を既に受けた者,教会に所属していた者と考えた方が,妥当性が高いように思える.

 ただ自分は,教会から迷い出てしまった者が,このような形で,すなわち見えざる神の御手により,ある意味では強引に暴力的に,再び教会に連れ戻されるというシーンを見聞した経験が無い.実際にそのようなことはあるのかもしれないが,極めてレアなケースと言えるのかもしれない.

 ただ実際,教会から出てしまった人が,すべて棄教者となるわけでもない.無教会主義的に信仰を一人で保つことのできる方もいる.おそらく彼もしくは彼女は,神と直結しているのであろう.この枝は幹につながっているのである.

 無教会主義には,ある種の,いくつかの危険が常に伴う.教会という砦,すなわち「羊の囲い」の外における危険を伴う生活を送る内に,本人も気がつかないまま,いつのまにか異端化してしまい,キリスト教徒は言えなくなってしまう例は,過去にいくらでもある.つまり教会は,信仰のアイデンティティを維持するための安全装置でもある.

 ただ繰り返しになるが,教会を離れたすべての人が,異端化するわけでも,棄教するわけでもない.無教会主義にある危険や戦いを乗り越えて,信仰を保つ事のできる人は,むしろ極めて優れた信仰者である.多くの優れた宗教者は孤独を求め,厳しい荒野的環境に自分の身を置いた.それは神との一対一の関係に入るためである.そこでの「生存の試練」に耐え抜いた者は,もはや環境には左右されずに,己の信仰を保つことができるのだろう.それは極めて少数ではあるが,中世のみ成らず,現代にも存在する.神の導きは時として,人智を越えているのである.

 さらに付け加えれば,教会を出た棄教者が,教会やキリスト教の攻撃者となるケースもある.「逆パウロ化現象」とでも言えばいいのだろうか.彼は教会を出た後,キリスト教に騙され続けた詐欺の被害者として,加害者である教会・キリスト教,果てはイエス・キリストまで呪う.それはもはや「迷える羊」というよりも,羊を食い荒らす狼である.彼らは羊をよく理解しており,その弱点をも熟知しているため,その攻撃は極めて効率的である.狼は羊を食い殺すのだが,狼自体はそれを悪として行っているわけではない.狼は自己の生き残りのために,その食欲に従っているのであり,彼にとってそれは自然な正当な行動である.のみならず,狼は羊を悪霊に取り憑かれ,自己を見失った病人,あるいは信仰の囚人,自己責任や判断の放棄者と見なしている.故に狼は正義の名の下に迫害を行う.狼にとってそれは救済行為でもあるのだ.この狼をも,神は「迷える羊」と見なされて,狼を羊に変えて,99匹の羊の群れに戻してくださるのであろうか?自分はまだ,その実際のケースを寡聞にして知らない.

 いずれにしても「迷える羊」は,神によって探索される.その探索は執拗を極め,その発見まで継続される(ルカ15:4).そしてついに,神は死の谷の陰の中に,その羊を見出す.その時に神にあふれた喜びはいかほどであろうか.神は羊に駆け寄り,羊を抱きしめたであろう.

 それは美しい再会のシーンに思えるが,このエピソードはそれほど甘くはないと自分は思う.イエスが羊を見出した時,羊はどのような状態であっただろうか?

 比較的よく言われる解釈としては,迷った羊は帰り道がわからなくなり,群れに,羊飼いの元に戻ろうとして鳴き声を上げ,羊飼いを呼んでいたとするものである.その鳴き声,すなわち祈りは,探索する羊飼いに手がかりを与え,その手がかりにより羊飼いは羊を発見し,歩き疲れた羊を肩に担いで,ついに群れに帰すというものである.

 この解釈においては,迷える羊は,群れに戻りたいという意志を持っており,しかもそれを神に嘆願し祈っている.そのため神は比較的容易に(?),羊を群れに返すことができた.しかし先ほども書いたとおり,教会から迷い出た羊は,すでに「野生の羊」もしくは「狼」に変わっている可能性がある.彼らにはそのような祈りも嘆願も,群れに戻ろうとする意志のかけらすらもない.ではそのような祈り無き者達が,神の見えざる力によって群れに戻される事があるのだろうか?

 自分はそれがあると信じる.羊の群れを憎み,あるいはそれを捕食せんとする者が,人によるのではなく,見えざる神の御力のみによって,この弱き者の群れに再び加わることが実際にあるのだと言うことを信じる.そのようなにわかには信じがたいことが起こる時,それは迷える羊にとっても信じがたき,想定外の出来事となる.

 羊が迷い出た理由は,周囲に目もくれず,地に生えているおいしい牧草を追っている内に,いつのまにか群れから迷い出たとするのが一般的な解釈だろう.すなわち,この地上に存在する様々な誘惑や,それらに対する欲望にそそのかされて,群れを出てしまったということになる.その場合,ふと我に返った羊が鳴き声を上げるのは,理にかなっている.しかしそのような理由で群れを離脱した羊が,我に返ることなく,ずっと草に夢中であったのなら,その羊が鳴き声を上げることは期待できない.彼は羊飼いの呼び声をうっとうしく感じるであろう.あるいは群れに引き戻されることに恐怖を感じたかもしれない.この草(地上のもの)を,また自己の欲求の充足,その味わいを失いたくないからである.

 また先ほども書いたように,教会離脱の原因は地上の誘惑だけではない.群れの他の羊を嫌って,あるいは羊飼いそのものを嫌悪し,決意を持って群れを後にした者もいるからだ.以上を考え合わせるとすべての迷える羊が鳴き声を上げ,羊飼いを求めるわけではないことがわかる.それどころかむしろ,探しに来た羊飼いに気づいて逃げ出したり,あるいは羊飼いに反抗し,かみつこうとする者すらいるであろう.羊飼いが羊を見つけて喜んだことは間違いない.しかし迷える羊は,必ずしも羊飼いによる自分の発見を喜んでいるとは限らないのである.

 もし迷える羊が羊飼いとの再会を心から喜び,そして羊飼いと共に群れに戻ることを臨んでいたとするのであれば,羊は精神的な元気を取り戻し,羊飼いの後について歩いて行くこともできたであろう.しかし羊飼いは羊を背負ったのである.それは羊を背負う必要があったからと解釈されるのが一般的であろう.

 その必然的な理由とは,一般的な解釈では,羊を地上から引き離し,地上から「上げる」ことにより,羊の視野から地上の誘惑(草)を消し去り,本来的自己を内省させるためとされる.羊は神によりすでに地上から脚を離し,天に近づいている.この時点で迷える羊は,他の99匹の地上に足をつけている羊を越えて,天に近づいていたのである.

 また羊飼いは羊を肩に担がれた.ここにおいて羊飼いと迷える羊は一体となっている.担がれた羊は既にすべての足を羊飼いに捕まれており,自らの意志を封殺されている.羊を担いだ羊飼いを見た者は,羊が彼の服の一部のように見えたであろう.迷える羊は,他の99匹よりも先に,神との一体化を果たしたのである.こうして「後の者が先になる」のである.

 しかし,鳴き声を上げなかった羊,すなわち羊飼いも待ち望むどころか,羊と羊飼いを嫌悪し,執拗に探索を続ける神のその御手から逃れようと,知恵を巡らし,脚を速めていたその羊が,ついに羊飼いの手にかかったその時,羊は大いに抵抗したであろう.大暴れに暴れ,悲鳴を上げ,その強靱な脚力で羊飼いを蹴飛ばし,自由を得んと,その脚に満身の力を込め,イエスを蹴りつけたであろう.それは羊の傲慢であるのだが,羊には羊飼いの方が傲慢に見えているため,罪の意識など微塵もない.羊にとって,それは暴力以外の何物でも無いのである.

 神は「宮清め」の時のような暴力を使ってでも,この迷える羊を救済されようとなさる.それはその羊のために,命をも惜しまない「善き羊飼い」の強靱な意志の現れである.そのような神の強靱な意志の前に,羊の抵抗などはものの数ではない.羊は神の肩に担がれるしかないのである.

 それでも羊は肩の上で抵抗し続けたであろう.すでに自由を奪われ,神に捕らわれ,地上を離れたのにもかかわらず.しかしその抵抗は蓄積する疲労と共に,やがては収まっていく.そして諦念が彼をおおうと同時に,彼の中で自己の現状に対する考察と内省が開始される.自分は結局何者であったのか,群れや羊飼いから離れて,自分がやっていたことは何だったのか.その価値とは何だったのか.彼は「計算」をも始めるかもしれない.群れに戻された後,再び脱走を試みるべきなのか.もしそうした場合,羊飼いはどのように動くのか.その結果はどうなるのか.それは自分にとってトクなことなのか,損なことなのか.

 地上を離れ,羊飼いの肩の上で,自由を奪われた一匹の羊には,考える時間が与えられる.やがてその時間は,自分の行いや羊飼いへの無礼に対する悔い改めを経て,祈りの時へと変わるであろう.こうして迷える羊,あるいは「野生の羊」「狼」は,再び「以前より善い羊」,「上げられた羊」として,群れに帰ってくる.それは周囲から見ればあり得るはずのない奇跡であり,神の栄光そのものである.

 教会を離脱し,「逆パウロ化」した棄教者,すなわち迫害者が,このような形で神の栄光を表した例を自分はまだ知らない.「迷える羊」のたとえは,自分にとってまだ預言であり,予告にとどまっている.しかし私を含めて,神の突然の「暴力」によってこの道に「投げ込まれてしまった者」は,この預言が成就されるであろうことを身体で知っている.私の耳は,そのあかしを欲している.そして求める者は与えられるであろう.

追記:
 このエピソードにはまだ語りたいことが多くある.十字架と背負った羊,100匹という数のスケーラビリティ,羊飼いのいない99匹の群れの動向等であるが,またの機会にしておく.

2013年9月21日土曜日

反逆と従順(on twittter @rahumj)

 若い頃,生命とは反逆であった.やがて年を重ね,死が目の前に見えてくると,生命とは従順であることに気づく.

2013年9月19日木曜日

手術痕 (on twitter @rahumj)

イエスの十字架は,自分にとって大きな手術痕のようなものである.

ヨセフの思い (on twitter @rahumj)

 サンヘドリン議員で,イエスの弟子でありながら,イエスを死刑から救い出すことができなかったアリマタヤのヨセフ.

 その彼が,もう遺骸となってしまったイエスを十字架からおろすために,イエスの手首を貫いた釘を,今引き抜く.

 その瞬間の彼の思い.

2013年9月17日火曜日

多くを語る者(on twitter @rahumj)

 祈りを知らぬ者,祈りを拒絶する者は,多くを語る.自分の語りで,埋められるはずのない空虚を埋め尽くそうとする.

悲劇(on twitter @rahumj)

 「眠った者」は天に向かって,顔だけでなく,身体全体を自然に向けている.しかしその方向に目を開けず,耳を傾けず,歩くこともない.そこに悲劇がある.

疎外(on twitter @rahumj)

 人が神の目からこぼれ落ちることはない.人は神から疎外されることはない.しかし人が疎外感を感じる時,人は神を疎外している.

眠った子を起こす時(on twitter @rahumj)

 「眠った者」は聞かない者である.ごちそうの準備をし,「さあ食べて元気を出しなさい」と言われても,彼は眠り続ける.それが長引けば,ますます死に近づいていく.

 だからおそらく「眠った者」の手を取って,起こしてあげる必要が,まず第1にある.食事の準備はそれからでもよい.

 眠りは彼にとって平安である.したがって,その眠りから目を覚ますために手を取ることは,彼にとって暴力と感じられる可能性がある.

 故に,手を取って起こす者は,眠っている者に対して,ある種の公的な権威を持っていなければならない.

十字架を下ろして(on twitter @rahumj)

 自分の十字架を背負う者は,時としてその十字架を重みとしてのみ知覚し,十字架の意味を忘れてしまうことがある.

 だから時にはその十字架を下ろし,自分の目の前に立てて,その十字架にかかっている自分を見つめる必要がある. 

 その恐るべき自分の姿を受け入れられなければ,生命に至ることはできない.人はそれに何を見出すのか.喜びか?それとも恐怖か?

 喜びは生命の本質であり,エネルギーである.それは眼前の死を突き抜けて,生命を先の方へと進める.

 その姿に憧れ,また現実にそうなることが決まった時,激しい喜びを感じた人々が過去にはいた.

 喜びによって死を突き抜けていった人々は,今も我々の中で生き続け,語りかけてくる.彼らはこれからも,残された人々に語り継がれ,無限の未来を生き続けていくであろう.

2013年9月8日日曜日

ルカ14:25-35 「この道」を歩く者が立ち止まる時(主日礼拝)

塔を建てようとするとき,造り上げるのに十分な費用があるかどうか,まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか(ルカ14:28)
キリスト者ならば,一度ぐらいは非キリスト者から,「キリスト教は邪教である」と罵声を浴びせかけられ,糾弾されたことがあるかもしれない.自分にはその経験がある.その時に彼らは,新約聖書のあるヵ所を指弾したと記憶している.それが今回の説教で取り上げられた部分である.すなわち
父,母,妻,子供,兄弟,姉妹を,さらに自分の命であろうとも,これを憎まないなら,わたしの弟子ではあり得ない(ルカ14:26)
である.「家族を否定するとは何事か!」「父母を憎むとは不遜も甚だしい」「命を軽んじている」といった非キリスト者からの非難は,同時に彼らの持っている血縁者中心的倫理観という常識を,高らかに賞揚するものでもある.

 聖書はおそらくこのような誤解や無理解を招くことを承知で,またおそらくは,それを意図的に引き起こすために書かれていると自分は推測する.この部分は確かに,ナイーヴな一般の善良な市民に,ある種の強烈な怒りを引き起こすインパクトを持っている.彼らは良きヒューマニストなのである.しかし誤解を恐れずに言えば,キリスト者はヒューマニストではない.キリスト者はだれよりも主イエスを,神を愛している.そしてその主イエスをあらゆる人の中に見いだし,その人の中の主イエスを信じ,愛し,また敬い,仕えるのである.ヒューマニストと見なされることの多いマザーテレサの言葉などは,それを端的に表現している.

 この聖句の持つ,自分の命(自我)を含めて,この世のものを徹底的に捨離していくという精神は,極めて仏教的でもある.おそらく仏教者ならば,この聖句の意味を容易に理解してくださるであろう.この捨離によって人は,イエスの囚われ人となる.すなわち罪から解放され,真の自由を得ることになるのである.そして自分の十字架を背負い,イエスの後を追って,イエスが先に歩いていかれた十字架への道を歩いて行く.

 しかし「この道」に入り,「この道」を歩きだした者達が,その歩みを全うする事は至難の技である.特に在家でこの世との関わりを保ちつつ,信仰生活を続けていかなければならない信徒にとっては,信仰とはこの世の誘惑・迫害・悪との熾烈な戦いを意味する. その戦いに疲れ切って弱ったところに,石につまずき,よろけ,ころんで,ついには棄教する者は,原始教会においても相当数いたことだろう.そのような経過をたどった棄教者は,「この道」を歩いている内に,自分が知らず知らずのうちに疲れ,弱くなっていたことに気づけなかったのかもしれない.

 それは自己への配慮を,神への愛ゆえに,怠った結果であろう.キリスト者は,肉体のみならず,魂すらも神の所有物である.キリスト者は.その神の所有物である自己の管理責任者でもあるのだ.したがって自己への配慮は信仰生活の一部であり,義務ですらある.自己への配慮を怠って「この道」を邁進するものは,いずれ信仰生活に破綻をきたす危険性をはらんでいる.

 自己への配慮のために,「腰をすえて計算」することは,「この道」を歩ききるためには必須であろう.その時,人は歩みを止め,道の途中で座り込み,計算をしなければならない.現在の自己の状態を,理性を用いて客観的に判断し,残りの道程を算定し,この自分の現在の状態で,道を歩ききれるかどうかを,計算するのである.そこで現状の自分の状態に不安を覚えるのであれば,人は歩みを止め,自己の状態を回復させるための時間を持たなければならないだろう.またいつの間にか自分が棄教寸前の危険な状態に陥っていたことに気づいたのならば,棄教することと,道を歩き続けることのどちらが自分にとってトクになるかを計算することになるだろう.

 その時に,自分が捨離し失ったものすべての価値と,信仰に入って得たすべての価値とを比較することになる.それは自分の洗礼式の時の感動を,思い出させることになるのかもしれない.両者の価値を理性的に客観的に数量化して算出し,比較した時に答えは得られるだろう.それは,通常,一時的な価値と永続的な価値との比較となる.そのため比較の結果は比較的明瞭である.

 その結果を目の当たりにした時,すなわち入信によって自分が得た途方もない価値を再発見した時,人は再び立ち上がるために,主の差し出してくださった御手を,目の前に見出し, 喜びと感謝に満たされながら,その命の御手を取るであろう.
二万の兵を率いて進軍してくる敵を,自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか,まず腰をすえて考えてみないだろうか(ルカ14:31)
  「この道」の途中で信徒が死にかけた時,父なる神は子を救うために,強制的な,誤解を恐れずに言えば,暴力的な力を発動するケースがある.それは私が経験したことだ.その時子は,怒りと不快と悲しみを父なる神に投げつけ,手足をばたつかせ,あらゆる方法を用いて徹底的に反逆しようとする.神を呪う瞬間である.ここでの彼には,計算をするゆとりなど全く存在しない.彼の理性は死んでいて,感情が彼を支配しているのである.

 イエスはそのような神の暴力が自分に臨んだ時に,計算をしなさいと言われる.はたして進撃してくる神の力に徹底抗戦して,勝利することができるか,冷静に客観的に判断せよと言われるのである.ヨナはある程度計算したのだろう.だから勝てないと思い,逃亡を選択した.しかし彼の計算は甘かった.計算すれば,神から逃げ切れるわけがないと悟っていたであろう.

 確かに計算すれば,神に勝てるはずはないのである.したがって計算することのできた反逆者は,戦いが始まる前に抗戦を放棄を決断し,神に和睦を申し出ることになる.神は受諾の条件として,またその証として,敗北者に貢ぎ物を要求するであろう.それは人間関係や自己を含めた,敗北者のこの世の持ち物一切である(ルカ14:33).敗北者はこの世のすべてを失い,神の国に捕囚され,神の僕として生きていくことになる.そして気づくのである.自分がゲヘナに投げ込まれずにすんだことを.これから神の国の中で,永遠に生きていくことができることを.彼は神の暴力に感謝し,祈るであろう.「あなたこそは私の父である」と.

 計算とは,理性と客観性,すなわち科学である.つまりキリスト教は科学を否定していない.むしろ科学を,信仰生活の道具として積極的に利用せよと,イエスはこのエピソードにおいて奨励しているのである.「この道」を歩みきるために科学を杖(道具)とし,また自己への配慮のため,歩みを止め腰をすえ計算する必要がある.これらは長い信仰生活において極めて有益なことである.言い換えれば,信徒は信仰生活において惰性に流されてはならないのである.