2014年1月10日金曜日

棟方志功「御二河白道図」(on twitter @rahumj)

 70年代の日本において一大ブームを巻き起こし,映画化・ドラマ化もされた劇画「子連れ狼」.その劇中において「二河白道 (にせんびゃくどう)」という概念が紹介される.現在,子連れ狼は,パチスロ台にもなっており,「CR新・子連れ狼~二河白道、再び~」という機種も存在するため,この言葉をパチンコ屋で初めて知ったという方も多いかもしれない.

 「二河白道」とは,浄土教(浄土宗・浄土真宗)において,極楽往生を願う信心の比喩である「二河白道(にがびゃくどう)」のことである.炎の大河(怒り・憎しみを表象)と,水の大河(貪り・執着を表象)の間に,信徒が歩むべき極めて細い極楽浄土への白い道があるという,信心の「たとえ=イメージ」だ.

 二河白道の教えはおそらく,ビジュアルな説教を考慮して考えられたものだろう.掛け軸に描かれたそのインパクトのあるイメージは,文字をろくに読めぬであろう当時の一般門徒にもわかりやすく,また彼らの脳裏にしっかり焼き付けられたに違いない.

 その二河白道図をネットで検索し,いくつか見てみた.ほとんど図像において,その道は文字通り,白い幅30cmもありそうにない白い直線であったのだが,唯一,その道を黒く描いた図像があった.それは版画家として著名な棟方志功の「御二河白道図」だ.

棟方志功 「御二河白道図」

 この棟方志功の「御二河白道図」を初めて見た時,それが新聞掲載のスキャン画像であったにもかかわらず,自分は殴られたような衝撃を受けた.

 その色彩,そのドラマ,そのまなざし,その聖性,その激動,その危うさ,その生命.俯瞰図なのか横から見たのか,パースがあるのか断面図なのか,空なのか河なのか,炎なのか獣なのか,夜なのか昼なのか,それともそのすべてなのか.

 それだけではない.見る者を殴りつけてきた暴力的な男性的な手が,次の瞬間,その暴力によって倒れつつある者を優しく介抱し,平安に導く女性的な手に変わってしまうという驚異…

 棟方志功 がこのような表現で「御二河白道図」を描けたのは,彼が宗教人というよりは芸術家だったからだろうか?確かに唯一,棟方志功 の「御二河白道図」のみが,「白道」を黒く描いている.それは芸術的な要請によるものだったからだろうか?

 色を除いては,彼が黒く描いた「白道」は他の図像と同じく,右から左上がりの直線となっており,その伝統を踏襲している. おそらく宗教的正統性という観点からは,棟方志功の黒い「白道」の「御二河白道図」は正統であったのだろう.それゆえに現在,高岡市善興寺(浄土真宗)に蔵されている.つまり「道が白色」であること,言い換えれば,おそらく「白」が表象する聖性や視認性は,この教えにおいて,さほど重要ではなかったと思われる.

 事実,この図像において,細く黒い道を行くその信徒の視線は,極楽浄土に立つ阿弥陀如来その一点に注がれており,恐ろしい炎の河も大水の大河も,さらには自分の歩んでいる心許ない黒く細い道すらも眼中にない.自分の歩む黒い道が,闇の中に沈んでいようとも,それは全く問題ではないのである.

 とすると,阿弥陀如来をただ信じ,彼だけを見つめて歩んでいくのであれば,道は白色である必要は無いという,これは棟方志功の宗教的声明なのかもしれない.

 そしてキリスト者もまた,この「道」がどのような道なのかを知っている.

イエスが「来なさい」と言われたので,ペトロは舟から降りて水の上を歩き,イエスの方へ進んだ(マタイによる福音書第14章29節)

 ペトロは「白道」を歩き始めたが,「強い風」に気づいて怖くなり,「二河」に沈みかけた.阿弥陀如来をまっすぐに見つめ続けて歩く「御二河白道図」の信徒のように,イエスを注視し続けることが出来ずに,「死にかけた」のであった.

 しかし溺れかけたペトロがイエスに祈ると,イエスはすぐに手をさしのべて彼を救った.ペトロ一人の力では,決して歩き切ることの出来ない道だったのである.

 それは「御二河白道図」にもしっかりと表現されている. たった一人で危険な歩みを続ける門徒を,此岸の釈尊たちが,彼岸の阿弥陀如来たちが,愛のまなざしで見守り続け,まるで守護天使のように見える3人の仏(?)たちは,彼の危うげな歩みを支えるべく,彼の頭上に飛来する.

 つまりこの信徒は歩んでいるのではなく,歩ませていただいているのだ.その歩みはキリスト教においても,浄土教においても変わりはしない.それゆえ歩ませていただいていることは,畏れ多いことであり,また感謝し,喜ぶべきであろう.

 キリスト教において信徒は,救いの神に感謝と讃美の祈りを捧げる.同様に,浄土真宗において信徒は,入信により浄土往生が決定した後に念仏生活を開始するが,その目的は報恩感謝である.念仏という行為は,浄土往生の条件ではない.

 新正統主義神学の巨人カール・バルトが,浄土宗・浄土真宗とプロテスタンティズムとの驚くべき類似性について言及したことは有名であるが,それは信徒の歩みの観念においても見られる.

 多元主義包括主義排他主義の論議は一時カッコに入れて,ただ純粋に,この棟方志功の「御二河白道図」を,その物語を,その生命を,浄土真宗門徒のみならずキリスト者を含め,その道を歩むすべての人々に味わっていただきたい.

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