2014年4月6日日曜日

神学とナショナリズム(on twitter @rahumj, 2014/2/2)

「シュライエルマッハーによって神の場所は各人の心の中となり,人間の自己絶対化を規制する基準がなくなり,各人の内なる声と神の声の差をなくし,民族という考えが入り込んだ。やがて,ナショナリズムの台頭を背景に,心の中の絶対者の位置にネイション(民族)が入り,国家・民族という大義の前に人が身を投げ出す構えができあがってしまったのである.
 以上のことからシュライエルマッハーがしかけた「神の場の転換」こそ,近代ナショナリズムへの途を拓いたといえる.」
人間科学大事典より
自己の内部における聖霊の声と心の声との弁別が,困難である事は誰にもは否定できないだろう.完全に自己を葬り去った者ならば,聖霊の声だけを常に聞くことが出来るのかもしれないが,それには長い修練期間が必要と思われ,万人にできることではない.

 一般的に考えれば,プロテスタントならば,両者を弁別するための外的基準は「聖書」ということになるだろう.ただし,悪魔も自己正当化の為に聖書を引用する事を考え合わせれば,ことは簡単ではない.

  この件について特に自分が気になるのは,自己の所属する「民族」が,いかにして聖霊に代わって自己の首座についたのか,その過程だ.それとも首座は代わらず「聖霊」が民族を語るのだろうか?

 この問題では,個人のアイデンティティの中に,所属民族への強い帰属意識が潜在していたと仮定すれば理解はしやすい.かつてのドイツのように,各自の潜在意識の中にあった民族への帰属意識が敗戦等によって傷つけられ,たまらず外へ飛び出してきたと考えるのだ.

 しかしその顕在化した民族意識は,「神の国の民」としてのキリスト者アイデンティティに矛盾する部分がある.その自己矛盾を合理化するために,「民族=神の国の民」の公式が同じ意識を持つ神学者によって声高に強弁される.この神学的なバックボーンが得られれば,その神学と神学者の権威が「聖霊の民族主張」を「神の声」であると保証してくれる.

 はたして我々内部の奥底にある潜在意識における民族への帰属意識は,神への信仰よりもはるかに強力なものなのだろうか?それとも所属民族と宗教の一致は,人間が無意識に追い求めている理想の信仰の形なのだろうか?しかし我らは,「この世の寄留者」であり,その国籍は天にあったのではなかったか?

 ちなみに,ナチス支持者のドイツ的キリスト者たちが主流を占めたドイツ福音主義教会(DEK)は,聖霊派ではなく,福音主義のルター派,福音主義の改革派,および合同派の領邦教会群によって構成されていた.これはその教会群の権威主義的構造により,当時,教会の権力トップ(帝国教会監督等)がナチス信奉者だったことで,トップダウン的にファシズムが教会に浸透していったためであろう.さらに著名な神学者らがその後押しをしたことも,少なからぬ影響があったものと想像する.

 それに対抗して告白教会カール・バルトらは,「バルメン宣言」においてそれを偶像崇拝として神学的に批判したのであった.基本的にこの偶像崇拝者においては,その偶像の語る思想の内容によって,その崇拝が左右されない.彼らはその偶像の語る言葉を信じているのではなく,偶像そのものを信じているためだ.このようにしてその「清々しさを与える心地よい思想」の内容は,一部のキリスト者を除いて,精査されなかったのだろう.現在のドイツ福音主義教会(EKD)の教憲の中には,このバルメン宣言が基本信条として含まれている

 こうしてみると, 神の座が各自の中にあっても,あるいは外にあっても,それが偶像崇拝であるならば,容易にナショナリズムと結びつくことができると想像される.神の座が主に外にあるからといって,ナショナリズムと無縁というわけではないと,肝に銘じておくべきだろう.

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