2014年1月27日月曜日

テレビ朝日55周年記念ドラマ「黒い福音」に見る「個の信仰」(on twitter @rahumj)

テレビ朝日「黒い福音」視聴完了.TBS制作の1984年版TVドラマよりもマイルドに仕上がっており,藤沢刑事(ビートたけし)の物語として作られているためか,後味も1984年版よりも良かったと思う.

 このドラマは,実際に起こった事件(BOACスチュワーデス殺人事件)に関して松本清張が推理を展開し,それを小説化したものが原作となっている.「黒い福音」というタイトルからもわかるとおり,この小説におけるカトリック教会組織は犯罪に手を染めており,その神父は上司の命令により自分の愛人を殺害してしまう.しかし「教会」という壁ゆえに警察は彼らを逮捕することが出来ず,神父は帰国してしまい,遂にこの事件は未解決となってしまう,というのが物語の大筋だ.

 1984年版では,カトリック教会の神父たちがマフィアのような悪党として描かれており,そのシーンも長かったが,2014年版ではそのような描写はほとんど見られず,その代わりに藤沢刑事の人間性を描写する時間が長くなった.

 ただし2014年版においても,教会の信徒たちがカルト教団的な不気味な笑みを浮かべて,報道陣と対峙するシーンもあるにはあった.しかし,おおむね一般視聴者は視聴中,1984年版のように教会組織や神父に対する激しい憤りを,持続的に覚える事もなかったのではないかと想像する.ただ逆に,二人の男に犯された後に殺された被害者の悲惨さや,愛人の殺人にまで及んだ神父の激しい葛藤や,「落としの八兵衛」藤沢刑事(モデルは名刑事平塚八兵衛)の無念さという点については薄いと言わざるを得ない.

 2014年版「黒い福音」において,特におもしろかったところは,藤沢刑事がはっきりと「神を信じている」と告白している点だ.脚本では,なぜ藤沢刑事が神を信じるようになったかを視聴者に納得させるために,戦場で死にかけた時のエピソードを彼に語らせている.

 「黒い福音」における藤沢刑事は,組織の人間ではない.彼は彼自身の信念(信仰)に基づいて,組織の圧力をものともせず,物語の最初から組織のルールを破り続ける.それに対して組織は,彼の存在を煙たがったのは当然であるが,彼の卓越した能力は認めており,故に警視庁捜査一課から彼を外すことはなかった.

 このドラマの冒頭で,藤沢刑事の犬がリースを付けたまま逃げ出し,被害者の遺留品へと彼を導くが,この犬こそは,組織にとらわれない藤沢刑事の表象である.脚本家はこの物語の予型をイントロに配置したのだろう.

 2014年版「黒い福音」において,藤沢刑事は神を信じていると公言した.それでは彼の信じていた「神」は,いかなるものであったあろうか?彼の発言からそれを推測してみよう.

 彼の信じる神は,彼が子供の頃,溺れかけた時や,戦場で死にかけた時に,彼の生命を救ってくれた「命を救う」神である.

 次に藤沢刑事は,被害者と巡りあわせてくれたのは,神であったとしている.彼の弁から推測すると,神は彼の最後の大仕事として,彼にしか解決できない事件を彼に担当させてくださったと考えているようだ.おそらく彼は,自分の仕事を神によって与えられた天職だと思っているのだろう.つまり職業召命観を持っていたと言うことだ.

 またルノーの中でトルベック神父と藤沢刑事が対決した時,自分の胸を指しながら藤沢の言ったセリフ

「俺の神様はここにいるから,嘘はつけない.あんたの神様はどこにいるんだ」

から藤沢刑事が「神は,通常,個々の胸中に宿っている」「神はすべてを知っている」の2つを仮定していることが推測される.

 胸中の神の存在によって,藤沢刑事が嘘をつけない理由とはなにか?ここでこの「嘘」についてより細かく考察しなければならない.なぜならこのドラマにおいて藤沢刑事は,「嘘」をついて捜査をしているからだ.

 この捜査上の嘘は,彼の神に許されている嘘ということになる.それが許されているのは,犯人逮捕という目的が「嘘」という手段を正当化したからに他ならない.そして犯人逮捕こそが,彼が彼の神から授かったミッションである.

 したがって藤沢刑事が「嘘はつけない」と言ったその「嘘」とは,自己欺瞞,特に神から授かった担当事件に関しての自己欺瞞のことだろう.こう見てみると藤沢刑事の恐るべき執念が,実は彼の,神への個人的信仰心の故であったことが読めてくる.

 藤沢刑事が規律の厳しい警察組織の中で,あれほど身勝手に動きまわることができたのは,彼に実績があったからである.したがって彼は勝ち続けなければ,組織には残れなかった.その孤独な戦いを支えたのが,彼の信仰ではなかったかと思う.

 トルベック神父のアリバイを崩す証拠写真を市村刑事に渡すときに,藤沢刑事は「神様はいたよ」と言った.藤沢は「内なる神」の存在を固く信じているため,この言葉は,「彼の神」の発見ではない.写真を渡してくれた関田ハナ(市川悦子)の胸中,もしくはその周辺に神は臨在していたということだろう.

 藤沢刑事は,カトリック教会の信徒である関田ハナ(市川悦子)に,刑事であることを隠した.彼は,同じく信徒であった江原ヤス子(竹内結子)の知り合いとして彼女に接触し,その証拠写真を得ている.もし関田が彼を刑事だと知っていたら,写真を渡したかどうかは微妙である.つまり写真を刑事に渡すことにおいて,「関田の神」は試されておらず,現れていない.

 信徒である関田が「教会がごぶさたになった」理由は,劇中明らかにされていない.しかし彼女に信仰が残っていたのは,明らかである.それは彼女の肌身離さぬ胸の十字架だけではない.咳き込みうずくまる藤沢刑事に自分の水筒の水を差し出す思いやり,淀みない聖句暗唱,それに続く十字架のしるし…

 関田ハナが「教会がごぶさたになった」理由として,教会の中の犯罪的行為や,警察の聴取に対する口裏合わせなどに嫌気が差したというのも考えられる.そうであれば,関田ハナの中には「神がいた」ということになるのであろうが,藤沢刑事がそれを知っていたとは思えない.

 藤沢刑事が「神がいた」と言ったのは,おそらく神が摂理的に,関田ハナを教会から遠ざけるようにされ,また彼女に写真が届くようにされたことで,間接的に決定的証拠を彼に手渡したのだということではなかろうか?そこに藤沢は神を見,そして彼の外にも「神がいた」ことを知ったのではないか?

 とすると,藤沢刑事の神は「人の間に臨在する」神でもあるといえるだろう.さらに
「人を生かし,人を救うのが神様ならば,きっと赦してくれる」
という江原ヤス子に対する藤沢のセリフから,彼の神は「赦す神」でもあることもわかる.彼はこの台詞によって江原ヤス子に自白(告解)を迫った.

 藤沢の神の特徴をまとめると
  • 命を救う神
  • 人を生かす神
  • 人を赦す神
  • すべてを知っている神
  • 「人の間に臨在する」神
  • 聴罪する神
  • 天職を与え,それを助ける神(職業召命観)
  • 個々の中に宿る「内なる神」(個人主義)
ということになるだろう.このような特徴がキリスト教の神の特徴に類似するのみならず,後半の2項目に着目するとき,プロテスタンティズム的神概念を思わせるのは気のせいだろうか?

 このドラマにおいて,藤沢がカトリックの神父に掴みかかり,あるいはもみ合いになるシーンが2度ほどあるが,それは単に彼らが犯人であるからではない.彼ら神父の不信仰が赦せないのだ.藤沢は,その信仰故に自分の「内なる神」に忠実であり続け,組織のルールを破ってまで神に従ってきた.ところが彼ら聖職者は,藤沢以上に神に忠実であるべき身分にありながら,彼らの「内なる神」に全く従っていない.その不信仰に対する,激しい怒りが暴力となって現れたのだと思う.

 しかし実のところ,これは藤沢の素朴な彼の神概念による誤解である.神父らは,神に従っていたのだ.神父らの神は藤沢の神に類似しており,故に藤沢は神父の中に「内なる神」を仮定し,神父らがその「内なる神」に従っていないことに怒りを感じた.しかし神父らの神は,彼らの内には元々いなかった.彼らの神は「個人の外」にいた.「教会」の中にいたのだ.

 さらに言えば,この神父たちにとって,神から与えられた聖なるミッション(伝道)は,何よりも優先されるべきことであり, そのために彼らは国内法的合法非合法を問わず,その手段を選ばなかったのだ.かつて有能なカトリックのパードレたちが,密航という形でキリシタン禁制の日本に上陸し,「聖なる偽り」を用いたように.そこには「野蛮人の国日本」に対するある種の傲慢さが見え隠れする.

 この構図,「神から与えられた聖なるミッションという目的のためには,手段を選ばない」という考え方は,実は藤沢も全く同じである.神父はそれ故に殺人まで犯したが,藤沢も事情聴取などにおいて暴力沙汰などを起こしてもおかしくはなく,それによって冤罪が生まれる可能性は否定出来ない.ドラマは,藤沢の持つそのような危うさをもしっかり描写している.

 ただ二人の神父が戒律を破り,愛人を作っていた事実は,彼らの信仰が狂信的であることに疑いを挟む.戒律を破るということは,彼らの神学において,神に逆らったことと同じであろう.そう考えてみると神父らはむしろ,聖なるミッションの遂行というよりは,サラリーマン的に伝道という職務上のノルマを達成するために,闇取引という非合法で安易な方法を選び,それによって得たゆとりを愛人との「甘い生活」に当てていたのかもしれない.そうなると彼ら神父は狂信者ではなく,俗物ということになるが,このドラマの内容からはその真偽は判定できない.


 さて,藤沢のその信仰について,もう少し考察してみよう.藤沢刑事のモデルである平塚八兵衛の有名な言として,次のものがある.
「人間には根っからの悪党はいねえよ」
平塚は退職後、自分が逮捕した犯人で死刑となった者たちの墓参りにも行っている.さらに彼には,
吉展ちゃん誘拐殺人事件の犯人小原保の墓参りに行った際,彼が先祖代々の墓に入れてもらえず,横に小さな盛り土がされただけの所に葬られていた事に愕然とし,盛り土に触れた後に泣き崩れた
というエピソードもある.

 藤沢刑事は平塚八兵衛と同じように,犯罪者の中にも善なる者(神)は宿っていると信じていた.彼は犯罪者の中に隠されているその善なる者に対して訴えかけ,その犯罪者の中の神がその呼びかけに応え,それが犯罪者の表に現れることにより,これまで犯人を落とし,事件を解決してきたのだろう.

 つまり藤沢刑事の取り調べとは,犯罪者に内在する神への祈りであり,そして犯人が落ちた時,彼は神の顕現を目撃するのである.

 トルベック神父が記念写真の件について「自分が撮った」と嘘をついた時,藤沢から語られるあのセリフ「あんたの神様は今消えたよ」の「神」はカトリックの神ではない.それはこれまでの取り調べ経験において,藤沢刑事がその顕現を目撃してきた犯罪者の中の「善なる者」「内なる神」である.藤沢はその時トルベックから,藤沢が祈るべき「内なる神」が消え去ったのを感じ取った.故に藤沢流の取り調べは,もはや成立しえない.彼にとってトルベックは「死んだ」のであろう.

 藤沢刑事は,結局神から与えられた最後の大仕事であったトルベック神父を落とすことはできず,そのミッションに失敗した.その出来事を信仰の人藤沢がどのように消化したのかは不明である.彼はその後すぐに亡くなってしまった.彼は無念に打ちのめされて,失意のうちに死んだのだろうか?

 …しかし彼の失敗は全く無駄ではなかった.すべて若い市村刑事の糧とエネルギーになったからである.警視総監も今回の失敗から「国は強くなければならない」という教訓を得た.この結論はもちろん,現在の我々への問いかけである.特に沖縄のアメリカ軍基地問題を意識しているのだろう.

 ただ自分はこの言葉を単純に取りたくはない.警視総監のこの言葉の前後をよく聞けばわかるが,この「国」とは,たくさんの国がひしめく世界の中の一つの独立国という意味である.つまり組織や集団の中で「個」が生きていくために,「個の強さ」が必要ということなのだ.

 言うまでもなく,その「強い個」の代表者がこのドラマでは藤沢となっている.その個を支えていたのは彼の信仰であった.このドラマにおいてそのような「個」を持っていた人物は,教会人では,教会から距離をおいていた関田ハナ,命令に逆らって殺された被害者生田世津子しかいない.また警察組織では藤沢の他には市村だけだ.

 もちろん市村刑事の「個」は,藤沢刑事の「個」によって徐々に育まれたものだ.それが花開くのは,藤沢の死後,市村が警視庁捜査一課に入ってからだろうから,藤沢はそれを見届けることはできなかったわけだ.

 警察組織もカトリックも軍隊も,同じヒエラルキー的権力構造,絶対服従,厳しい戒律を持つ.トルベックも藤沢もそのような環境で生きてきたのだが,その生き方は対極にある.それは信仰の座が,集団にあるのか,「個」にあるのかという違いによるのだろう.

 トルベックは絶対服従ゆえに愛する女を殺すに至った.藤沢刑事は個の信仰に突き動かされて,事件の真相に至った.一見この構図は藤沢刑事的個の礼賛のように見えるが,実際はそうではない.刑事が全員藤沢刑事的だったらもはや捜査は成立しないだろう.要は「所属集団と個の間でいかにバランスをとるか」なのだ.

 ただ所属集団(権力)は個に対して圧倒的であるため,通常は個が押し流されてしまう傾向にある.集団に所属する者が,所属集団と個の間でバランスをとるためには,個の強さが必須なのだ.その個の強さをもたらしたものが,藤沢刑事の場合,彼の「個の信仰」だった.

 そして本日1月27日の主日礼拝の説教テーマがこれだった.
 ところが,徴税人は遠くに立って,目を天に上げようともせず,胸を打ちながら言った.『神様,罪人のわたしを憐れんでください.』(ルカ18・13)
徴税人は,隣のファリサイ派の人に目もくれず,ただひたすらに神に懇願し,祈った.それは,「神の前にただ一人立つ」キルケゴール的な切実な個人的祈りであった. また我々は知っている.
だから,あなた方が祈るときは,奥まった自分の部屋に入って戸を閉め,隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい.そうすれば,隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる.(マタイ6・6)
  それゆえ我々は,教会における合同の礼拝や交わりを守りつつ,日々,自己の内なるドアを開けその礼拝室に入り,世界に通ずる唯一のそのドアを後ろ手に閉めて,ただ一人,神の御前にひざまずき,祈りを捧げるのである.

2 件のコメント:

  1. 2014年の春まで関連の学校に勤務していたものです。

    縁あってサレジオの学校で学び、十数年社会で働いた後、母校で若者たちを指導する機会を頂き5年間、誠意をもって技術者の卵を世に送り出すべく働いてきました。
    が、内部に巣くう不正、未熟な指導者による不埒な行為の数々を目の当たりにし続け、正されるべきと声をあげ続けてきましたが、ついに先春、学内のネガティブキャンペーンの結果
    「指導する力がない」
    と一方的に認定され追放されるに至りました。

    他の問題も含めた行政の指導に対しても、担当者を脅す様な発言で追い返そうとし、結局門前払いで押し通したそうです。
    ドラマの報道陣の前で薄笑いを浮かべる信者の姿そのままです。

    過去の過ちから何も学ばず、教育者、聖職者の衣に強欲な本性を隠した者たちに支配された学校を信じさせられている学生たちが不憫でなりません。

    ドン・ボスコが泣いています。

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    1. 匿名さん,コメントありがとうございました.

      たいへん辛い体験をなされましたね…匿名さんのコメントを読みながら,聖書に記された預言者の孤独な戦い,また彼のその悲痛な叫び声を聞くおもいがいたしました.貴重な証言をしていただいたことに感謝をいたします.

      コメントは公開とさせていただきましたが,もし都合が悪いようでしたら,ご連絡ください.即時,非公開に変更いたします.

      このような体験をなされた匿名さんが今,どのような状況・心境におられるのか,私には想像することすら出来ませんが,どうかこの体験を今後の糧として,これからも前を向いて歩んでいただければと思います.

      匿名さんに神の祝福が有りますよう,お祈りさせていただくことを,どうかお許し下さい.またその学校の聖職者・職員・学生の方々のためにも,本日は祈りを捧げようと思います.本当の「御国が来ますように」と.

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