2013年11月5日火曜日

伝道者の「永遠の住まい」(主日聖餐礼拝,ルカ16・9)

そこで,わたしは言っておくが,不正にまみれた富で友達を作りなさい.そうしておけば,金がなくなったとき,あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる(ルカ16・9)
私の最近通い始めた教会は,長老派であるためか,説教は聖書の特定の場所を頭から順番にやっていく連続講解説教のパターンが多い. そのため本日は,先週・先々週と2回に分けて行われた「不正な管理人」のたとえに続いて,「律法と神の国」について説教が行われた.ただ自分自身,「不正な管理人」のたとえについて,まだ消化し切れていないので,先週に引き続き,「不正な管理人」の上記の聖句を取り上げてみた.

  上記の聖句も,おそらく一般の人には,受け入れがたい話なのかもしれない.特に「不正にまみれた富」にひっかかってしまうだろう.ちなみに上記は新共同訳だが,新改訳では,「不正の富」と訳されており,不正と富とが分かちがたく表現されている.「不正の富」とは,例えば「盗んだ金」のようなものなのだろうか?もしそうだとすれば,イエスは「盗んだ金は,仲間を作るために有効利用しろ」と言われているのだろうか?

 もともとルカ8・14やマタイ13・22にもあるように,新約聖書において「この世の富」は,人を惑わし,「実」の熟成を阻害するもの(茨)とされている.またルカ18・18の「金持ちの議員」においても,財産が神の国への入国の障害として語られている.つまり「この世の富」は,一般的な意味での 「不正(法律違反)」によって得られた富であろうと,正当な経済活動による富であろうと,信仰生活の妨げるものとみなされている.神の意向に逆らうことが「不正」であるならば,この世の富はすべて「不正の富」ということになる.ではなぜこの聖句において,「この世の富」という言葉ではなく,わざわざ「不正の富」という言葉が使われたのか?

 この「不正」,NSRV英語訳では dishonest ,ギリシア語 adikos (人物に使われ、「正しいことに違反する」)について,先週のブログ「『光の子』らの先へ」 では「律法違反」と仮定した.しかし一般的なこの「不正」の聖書解釈では,「道徳的な不正の意味ではなく,終末前の現世を表す術語で『この世』を意味する」とされている.「光の子」が終末論用語であると考えれば,この「不正=終末前の現世」と考えるのは,つじつまがあっている.ただ残念ながら,その根拠となっている文献を自分は知らない.

 おそらくイエスが「不正の富」という一種の終末論用語を用いたのは,前回のブログでも書いたとおり,弟子達,特に「光の子」らに対する警告のためだろう.前回のブログの中では,「光の子」らを,弟子達の中で,特に終末が明日にでも来ると想定しているグループとした.彼らは,すでにイエスへの信仰によって,自分たちは終末から完全に救われ,永遠の命を得て,神の国に入ることが出来ると考えた.そのため,現世の動向や非信徒に対して何の関心も持たず,排他的で内向きな選民思想の者達となった.彼らにとって,この世は嫌悪すべき「不正」そのものであったが,明日にでも訪れるであろう終末によって,それが神によって正しく裁かれることを期待していた.それゆえこの世のこと,現在のことは彼らにしてみれば,些末な小事であった.明日になれば,終末が来てすべてが終わってしまうのだから,今更何をしても無駄以外の何物でも無かったのだ.行為は救いとは関係が無く,信仰こそが救いをもたらすと彼らが信じていたことも,この世に対する関与の消極性を誘導したのだろう.そのような思想は,彼らの霊的成長を阻害することになるだけでなく,一種のカルト宗教の持つムードを漂わせていたに違いない.

 当然のことながら,彼らは「この世の富=不正の富」にも関心は無かった.彼らがその時,所持金を持っていたのか,すでにイエスの宗団にすべて喜捨していたのかはわからないが,その資金運用については関心は薄かったと考えられる.現在ある金で,その日の生活ができればそれでよいといった程度に考えていたのかもしれない.それゆえ 「この世の富=不正の富」をうまく利用するといった経済活動や,ましてやそれで「友」を作ることなど,考えても見なかったであろう.

 「不正な管理人」のたとえにおいて,イエスは「この世の子」らの,仲間に対する抜け目ないふるまいをほめられた.すなわち「この世の富=不正の富」に強い関心を持ち,自分の仲間の利益についても配慮しつつ,自分の利益を追求する抜け目なさ,その知恵・賢さを賞賛された.それは,この「この世の富=不正の富」への強い関心と忠実が,彼らに様々な人間関係における経験をさせ賢くし,彼らを仲間とうまく結びつけていたからだ(折り合いと共存の知恵).「この世の子」らは活発に活動し,自己の利益の追求のため,他者と積極的に関わっていく.これらの経済的活動は,「光の子」らからしてみれば,無駄であり,罪と不正にまみれた活動であり,嫌悪すべき俗事であると感じたであろう.しかしイエスは,その考えを叱責されたのだった.

 「光の子」らのクムラン宗団的内向性・排他性・厭世観は,イエスの望まれるところではなかった.イエスは,できるだけ多くの「この世の子」らを救おうとされたにもかかわらず,弟子(の一部)であった「光の子」らは,「この世の子」らと関わりを持とうとしなかった.つまり自分たちの「友(仲間)」を作るための伝道への意欲を持っていなかった.

 そこでイエスはまず,「この世の富=不正の富」が神から貸し与えられた富,つまり「他人の富」であると示された.「不正な管理人」のたとえでわかるとおり,その富の管理人は,主人(神)の意向にしたがって,富を賢く運用する義務が管理人(弟子)にある.

 次にイエスは,その神から貸し与えられた「この世の富=不正の富」の賢い運用方法として,自分のために「友」を作る活動,すなわち伝道をせよと命じられた.つまりイエスは「光の子」らに対して,自分たちの救いばかりではなく,宗団の外にいる非信徒の救いにも関心を持ち,彼らが嫌悪していた「この世の富=不正の富」を積極的に運用して伝道を行うように促した.しかもイエスはそれが,彼ら自身の利益となると説明された.

  イエスはそのようにして伝道をする理由として,「金がなくなったときに,永遠の住まいにむかい入れてもらえる」からだと彼らに教えられた.ここで注目しなければならないのは,「永遠の住まい」という言葉である.この言葉とほぼ同じ言葉「永遠の住みか」は,コリントII5・1に
人の手で造られたものではない天にある永遠の住みか
として登場する.

 通常,この世の友は「永遠の住まい」など与えはしない.この世の住まいである限り,一時的な仮の宿であり,それが永遠である事はあり得ない.とすると「永遠の住まい」が意味するのは,「神の国」ということになる.

 もしこの「神の国」が地上のものではなく,天上の世界にあるならば,「金がなくなったとき」とは,金銭を含めたこの世の所有物の一切から離脱する「死んだとき」ということになる.しかし「光の子」らはイエスへの信仰によって,自分たちはすでに救われていると考えていた.つまり終末の後に,彼らは神の国に必ず入れると信じていた.とすると仮に「永遠の住まいにむかい入れてもらえる」事が,死後の「神の国に入ること」を意味するならば,それは彼らに対する伝道の動機づけとはなり得ない.また伝道という行為が義認されて,神の国に入るとするのであれば,そもそも「信仰による義認」と言う考えに反する.となると伝道行為に対する報いとして,「(天上の)神の国にむかい入れてもらえる」ということになるが,自分にはその「むかい入れる」がイメージできない.

 仮に「金がなくなったとき」が,比喩ではなく,実際に所持金が底をついたときとするならば,「永遠の住まい」は,「地上における神の国」を意味するものと思われる.「地上における神の国」とは,神の国の前味であり,人間の社会の一部である.これは具体的には「目に見える教会」と「目に見えない教会」の2つに分かれる.前者は具体的な組織であり,教会政治機構を持つ団体である.後者は具体的な組織を持たず,キリスト者同志の友愛的関係(交わり)を意味する.

 ここである仮定の話をしてみたい.「光の子」らが,イエスのグループを離れて,異教徒の地へ伝道旅行に旅立ったとする.彼らは出発時に,伝道費用として「この世の富=不正の富」である金銭が与えられた.彼らはその金銭を効率よく,賢く用いる必要があった.そうしなければ伝道旅行は,たちまち頓挫してしまうだろう.

 しかし旅行を続ける内に与えられた伝道資金は,いつかは底をつく.そうなってしまえば,もはや彼らには伝道を続ける手段はなくなる.それどころか彼ら自身の死活問題にすら関わってくる.しかしその時までに,彼らの伝道がある程度成功していれば,彼らが伝道した者達である「友」は,窮地に陥った伝道者たちを喜んで迎え入れ,衣食住を与え,彼らの伝道継続を支援してくれるだろう.「光の子」らは,「友」の間,すなわち地上における永遠の住まいである「目に見えない教会」に生きていくことが出来るわけである.また彼らがその「友」の間に定住することができれば,そこに教会(会堂ではなく組織)を作り,その群れと暮らすことになるのかもしれない.その場合,「永遠の住まい」とは,「地上の神の国」としての「目に見える教会」を意味することになるだろう.

 では,もし伝道資金がなくなったにもかかわらず,伝道に失敗し,「友」を作ることが出来なかった場合はどうなるのか?

 その答えこそが,この「不正な管理人」のたとえの直前に配置された「放蕩息子」のたとえである.放蕩息子は,父から財産を分けてもらったが,遠い国で放蕩して使い果たしてしまったのであった.彼には「賢さ」がなかったのだ.その結果,彼は食うことすら出来なくなってしまったのに,父の家には帰ろうとはしなかった.それは伝道資金を渡され開拓伝道へと旅立ったものの,異邦人の地で伝道に失敗し,資金を使い果たして無一文となり,途方に暮れ,打ちのめされている伝道者の気持ちに等しい.その伝道者は,もはや「神を父と呼ぶ資格はない」とまで考え,自分を追い詰めていたかもしれない.そんな絶望の直中にいる彼には一つの危険な選択肢があった.この異教の地で棄教し,異邦人となって生きていくことだ.たしかにここで棄教すれば,自分を神の教えに反する異邦人の生活スタイルに合わせることにより,そこで生物学的に生きていけるかもしれない.

 しかしご存じの通り,放蕩息子は異邦人となって,父を捨てて,そこで生きていくことよりも,故郷に帰り,そこで父の僕として生きていくことを選んだ.そして長く過酷な帰省の旅へと出たのである.そうなのだ.失敗した伝道者も故郷に,父のもとに帰るべきなのだ.戻った彼を故郷がどのように出迎えるべきかを,この「放蕩息子」のたとえは教えてくれてもいる.
 
 ただし「永遠の住まい」や「放蕩息子」を伝道と関係づけた解釈には一つ問題がある.それは,イエスが基本的に金銭(財布)を含め,何も持たずに伝道せよと言われている(ルカ10・4等)ことと矛盾するからだ.それは金銭に頼ることなく,ただ神のみを信頼して伝道せよと言うことなのだろうが,これは仏教の托鉢僧と同様に,伝道というよりも,一種の厳しい修練であろう.もしそうであれば,通常の伝道目的の旅行であれば,ある程度の資金がイエスの宗団(教会)から提供されていた可能性は十分あるだろう.パウロは伝道旅行中に資金を稼ぐために働いていたようだが,おそらくある程度の旅行資金はもらっていたと想像する.

 最後に一つ疑問が残る.金がなくならなければ,伝道者は「永遠の住まい」に入ることはできないのだろうか? 確かに伝道者に金がある限り,それはある種の(茨の)壁を,周囲の人々や「友」との間に築いてしまうだろう.それは,伝道者にとって「永遠の住まい」の前に立ちはだかる壁である.なぜなら伝道者が資金を所有していた場合,「彼らは神よりも自分たちの金に頼って生きており,神のみに頼った生き方をしていない」と周囲の人々に思わせてしまうからだ.だからこそイエスは,72人の修練的伝道に際し,財布無しで出発させたのであった.伝道者が金を蓄えている限り,周囲の非信徒のみならず,伝道した「友」すらも,伝道者を見習い,神よりも金をあてにすることになるだろう.さらに伝道者と伝道された「友」との間には,どこかよそよそしい風が吹くことになるだろう.伝道者の経済的サポートに関しても,渋る「友」がいても不思議ではない.ゆえに,伝道者が「永遠の住まいに迎え入れられる」ためには,彼に何の資金も所有物もなくなること,逆に言えば,隣人の愛によって衣食住や伝道生活がまかなわれることが必要となるのである.

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