2013年10月21日月曜日

すばらしい「不正」(ルカ16.8,主日礼拝)

主人は,この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた(ルカ16・8)
本日の説教は「不正な管理人」のたとえであった.先生のおっしゃるとおり,このたとえの第一印象は,「なぜこのような悪い人間が賞賛されるのか?」という一種の拒絶感のようなものだろう.もちろん,イエスはその拒絶感が起こることを,むしろ期待して,このたとえ話をされたに違いない.その「拒絶感・違和感」が,実は自分の認識の限界を示していることに気づいたとき,人は成長できるのだろう.

 特にこのたとえは,イエスの弟子達のためにも語られた(ルカ16・1).すなわち未信者や信仰の初心者ではなく,ファリサイ派や律法学者などをも含む,ユダヤ教・キリスト教信仰のレベルの高い者に対するたとえ話となっている.したがって,一般大衆的常識では歯が立たないが,信仰の深い者には理解できるように作られている.そういう意味で,これは禅の公案にも似ていると言えるだろう.

 管理人は確かに文書偽造を行った.これは一般常識からいっても,当時の律法においても犯罪であろう.ところが二重の被害者とも言える「ある金持ち」は,彼の「抜け目ないやり方」に対して,腹を立てるどころか彼をほめた.なぜ,二重に被害を受けた者が,その加害者(のやり方)をほめ,何よりも先にその罪に対して怒りを発しないのか?

 ここで管理人の罪について,明らかにしておこう.まず「主人の財産の無駄遣い(ルカ16・1)」がそもそもの発端であった.ただし注意したいのは,これが告げ口であったことだ.主人自身が,直接無駄遣いを確認したわけではなく,間接的にその密告(証言)を聞いただけである.それだけで管理人を即,解雇するのはなかなか考えにくい.証言ならばやはり,二人以上の証言が欲しいところである.

 にもかかわらず主人が,解雇を決定したと言うことは,その証言を裏付ける証拠が,同時に提出されている可能性を考えておく必要があるだろう.主人は会計報告を管理人に要求しているが,これは職務引き継ぎのためであり,彼の無駄遣いの証拠を追求するためではないとするのが一般的な解釈のようだ.とするとやはり主人は,管理人の無駄遣いを確信するに至る確かな情報なり,証拠なりを持っていたことになるだろう.また管理人は,主人の解雇通告に対して,何ら反論・抗議をしていないようなので,「無駄遣い」をしていた事実を主人の前で認めたのかもしれない.しかしその無駄遣いの内容は,いったいどのようなものだったのだろうか?

 少なくともその「無駄遣い」によって,彼が私腹を肥やしたと思わせるような表現は,ここにはない.彼が長年にわたって私腹を肥やしていたのなら,仮に首になってもその金で主人のマネをして,商売を始めることはできたことだろう.しかしおもしろいことに, 彼は解雇されたとたんに,乞食か,肉体労働か,といった誰にでもできる仕事でなければ食べていくことができないと考えている.

 つまり彼には全く私財がない上に,自活能力もないと自認していると考えられるのだ.賢い管理人には,私腹を密かに肥やすチャンスはいくらでもあったはずだ.しかし彼はそれをしなかった.彼がしたのは「無駄遣い」である.

 管理者としての自信が以前の彼にはあったのかもしれないが,今回の無駄遣い騒動でその自信も失われたのだろう.資産も自活能力もない彼に残されたものは,生存に対する絶望と,わずかばかりのプライド,すなわち「物乞いは恥ずかしい(ルカ16・3)」だった.

 こうして考えてみると,無駄遣いが実は,彼の過失もしくは管理者能力不足のためであり,彼は彼なりに,まじめに管理業務をしていた可能性も否定できないのである.もし仮に管理者能力不足の問題であれば,それは任命責任が主人にある.つまり主人が管理者能力の査定を誤ったと言うことになるため,彼の罪は問われないだろう.

 ただしこの管理人が後に,物乞いや肉体労働者にならないために,文書偽造を思いつきそれを実行したことから,彼の倫理観において,律法遵守の精神に欠けていたことはほぼ明らかであり,彼の無駄遣いが,彼の職務怠慢によるものである可能性もある.律法に対する罪人とは,律法を越えて行動する者のことである.

 ではここで,無駄遣いの原因の仮説をまとめておこう.
  1. 管理人の能力不足説
  2. 管理人の職務怠慢説
  3. 管理人の過失説
まず能力不足説についてだが,後に考察する証文偽造の巧妙なやり方から見て,彼は相当に賢い人間だったに違いない.そしてその賢さ・能力を主人は見抜いていた.ゆえに主人は,彼に全財産を管理させたのだろう.したがって,この説には説得力がない.

 職務怠慢説については,前述の通り,彼は律法遵守よりも,自分が物乞いや肉体労働者にならないことを選択したこと,すなわち自己の利益を律法よりも重視したことから,この説が事実であった可能性はある.ただ彼がそれだけの資産を運用しながら,私腹を肥やしていなかった事実は,当時の収税人やローマ兵に比べて,かなり高い倫理観を示しているように思える.それだけの誘惑に打ち勝てる者が,職務怠慢であったとは考えにくい.

 となると過失説は,かなり有力になってくる.すなわち管理職を忠実に行っていたのだが,見落としか何かがあり,無駄遣いとなってしまった.仮にこの説をとるとすると,この賢い管理人の見落としとは何だったのだろうか?

 一つだけ言えることは,この管理人の管理には,確かに問題点があった.それは告げ口をされた事実からはっきりしている. おそらく彼は管理職に忠実すぎたために,雇い人や債務者を苦しめていたのだ.彼には多くの敵がいたにちがいない.そして隙あらば,彼を失脚させようと機会を狙っていた者も多かったと思われる.もし彼が職務に忠実ではなく,私腹を肥やすために,賄賂を受け取って証文の書き換えを行ったり,借金の取り立てを面倒に思い,厳しい取り立てを雇い人にさせたりしなかったら,敵は少なかっただろう.彼の倫理観の高さは,彼が解雇されるまで,文書偽造のような犯罪を思いつかなかったことでも証明される.

 彼の職務に対する忠実さが多くの敵を作ることになり,結果,彼は「刺された」のだった.主人が告げ口を聞いただけで,彼の解雇を決定し,彼に弁解の余地を与えなかったのは,無駄遣いの確たる証拠や証言が,密告者からもたらされたためだと考えられる.したがって密告者は内部の人間であり,管理人の元で働いていた雇い人の一人であることが有力である.

 またこの無駄遣いが,実は密告者によって密かに行われた可能性も否定できない.それによって管理者を失脚させるためである.後にわかるとおり,これだけ能力があり,職務に忠実な管理人が,無駄遣いを見落とすことがあるだろうか?つまり管理人は,敵の罠にはまったのだ.

 ここで仮説をまとめると
  1. 管理人は職務に忠実であり,まじめにそれを実行していた
  2. 管理人は職務遂行のため,債務者や雇い人を虐げており,敵がたくさんいた.
  3. 管理人は指摘された「無駄遣い」があったことに気づかなかった 
  4. 無駄遣いは管理人自身か,密告者(雇い人)によって行われた
彼が主人に対して必死に弁明しなかったのは,おそらく,彼が気づくことのできなかった無駄遣いの存在を,彼がその場で認めたからだろう.仮にその無駄遣いが,悪意のある不忠実が密告者によって行われたとしても,それを見抜けなかったことは彼の管理人としての落ち度とも言える.彼がその場でその陰謀を感じ取ったとしても,彼は主人に対して弁解をせず,己の過失を認めたことだろう.彼には管理人としてのプライド(プロ意識)があり,自分の犯したミスを赦すことができなかったのである.

 前述の通り,彼は解雇後に,自分には乞食か肉体労働者という職業しかない,言い換えれば,自分には管理人以外の能力はないと決めつけていた.すなわち管理人という職業は,彼のアイデンティティの大部分を占めていた.さらに「乞食になるのは恥ずかしい」というプライドも,職業に対する彼の意識を物語っているように思える.

 彼のそのような心情を思うとき,主人から無駄遣いを指摘され,解雇を通告されたとき,彼のプライドはズタズタに引き裂かれたことだろう.彼が反論・抗弁をしなかったのは,無駄遣いに気づかなかったという管理上の過失(罪)を認め,「自分は管理人に値しない」と自らを裁いたためだ.彼は彼を有罪に処し,懲戒免職処分という罰を無条件で受け入れたのである.たとえそれが自分に対するワナであったとしても.
 
 次に物語の後半,文書偽造の罪についてを考えてみる.解雇された彼は生きることに絶望したであろうが,その苦悩の中で,生きていくためいくつかの選択肢にたどり着いた.それは次の3つであった.
  1. 土を掘る:自分だけの力で生きていく.他者には与えない.
  2. 物乞いになる:他者に頼って生きていく.他者には与えない.
  3. 文書偽造で寄食:他者に頼って生きていく.他者には与える.罪を犯す.
 彼は結局,律法を破り,文書を偽造し,他者の中に生きていくことを選択する.彼の文書偽造の目的は,「自分を家に迎え入れてくれるような者(ルカ16・4)」を複数作ることだった.彼はそのために,未だ残っていた管理人の職権を「悪用」し,債務者に対して文書偽造をそそのかして,実行させたのであった.

  確かに彼は証文を書き換えさせたのだが,おもしろいことに証文の破棄はしていない.証文の破棄の方が,書き換えよりも証拠が残らない分だけ,完全犯罪となる可能性が高いはずである.むろん債務者も,目の前で証文を破棄すれば,証文書き換えよりも喜ぶはずである.しかし彼はそれをせず,当時の負債の利子に当たる分,借用量を減らしている.

 当時,オリーブと小麦等の農作物は,収穫の多い年と少ない年があり,そのリスクを含めて貸し借りの利子が決められており,小麦25%,油100%であった.それが正しければ,油は100バトスから50バトスに書き換えたので,返済は100バトスということになる.小麦は100コロスから80コロスに書き換えたので,返済は100コロスになる.すなわち債務者にとっては,無利子で借りた形となる.しかし
同胞には利子をつけて貸してはならない.銀の利子も,食物の利子も,その他利子が付くいかなるものの利子も付けてはならない(申命23・20)
 つまりもともと利子を取ることは禁止されていた.もし主人が同胞の債務者から利子を取っていたとするならば,主人も実は犯罪者なのである.

 このたとえにおいて,利子は具体的に出てこないため,確かなことは言えないが,もしこの仮定が正しければ,管理者は自分が生きていくためにやったことではあるが,むしろ彼のやったことは,債務者を主人の不正から守ったことになる.主人が,二重に不正な管理人を法廷に訴えることができなかったのは,主人に彼以上に大きな罪があったからなのかもしれない.

 いずれにしても,管理人は彼の持つ倫理観や計算の中で,この無利子で貸したことにすることが,証文破棄よりも良いだろうと考えた.これが彼の知恵であり,賢さであり,まじめさであり,信仰であった.

 もう一つここで考えておきたいのは,証文書き換えのときに,管理人がどのようにして,債務者に対して書き換えを説得したのかである.債務者は確かに証文を書き換えたであろう.しかし,もしそれが主人の許可を得ておらず,管理者の独断であり,その見返りとして彼を家に迎えてもらうためであったと知れば,文書の書き換えが犯罪であることは明白であり,それなりに躊躇があるだろう.しかも債務者が管理者によって虐げられていたとすれば,この証文書き換えによって,新たな災難が自分に降りかかってくるかもしれないと債務者達が想像した可能性もある.

 おそらく管理人は,債務者たちの友となるべく,柔和な微笑みと共に,次のように債務者達を言いくるめたのだろう.
 自分は君たち(債務者)が経済的に極めて苦しい状況である事を知った.私の友である君たちの苦しみは,私の苦しみでもある.そこで私は君たちのために主人に対して、貸付利子の帳消しを願い出ることにした.

 私は主人に全面的に信頼されているから,私の言うことなら聞いてくれる.その上,主人は気前のいい,物わかりの良い人なので,私の申し出を快く受け入れてくださった.主人もあなた方を,憐れに思ってくださったのだ.

 だから書き換えには何の問題も無いし,犯罪でもない.友よ,どうか安心して書き換えてください.そして私の主人に感謝してください.
  かつての冷酷な振る舞いなど想像することもできない,様変わりした管理人の優しい心遣いと,主人の気前の良さに債務者は感謝し,躊躇することなく証文を書き換えたことだろう.だとすると,書き換えについて,債務者には全く罪はないことになる.債務者は管理人の「言葉」を信じたのである.この証文書き換え,いわば再契約(!)についての罪・責任は,あくまでも管理人のみにある.管理者は,仲介者(とりなしをする者)として機能した.彼は仲介を行いながら,主人の評判を上げ,自分の生活の術を確保し,債務者の重荷を軽するという,極めて難しい業を成し遂げたのだ.

 彼の取った行動(証文偽造)の結果をまとめてみよう.
  1. 主人:
    主人には利子分の損害を与えたが,この利子分は本来とってはいけないものであった.したがって主人に損はない.また管理人によって,当時多くの人が破っていた律法を主人が遵守したことになった.それによって主人の評判が良くなり,また債務者から感謝された.
  2. 債務者:
    債務が減り,経済的に助かった.主人と仲介してくれた管理人に感謝している.
  3. 管理人:
    自分が解雇された後に,家に招いてくれる友をたくさん作ることができ,人々の中で生きていくことになった.
つまり管理人のとった証文偽造という律法違反は,おどろくべきことに,関係した三者にとって,喜ばしいこととなった.律法違反にもかかわらず,損をした者も不幸になった者もいなかったのである.主人はこのように,すべての人に対して喜びをもたらすことのできた「不正(律法を破った)な管理人 」のその「抜け目なさ」「賢さ」をほめた.それは彼の律法違反の罪を越えた,すばらしい出来事だったからである.よって彼は敵を作るどころか,敵を味方に変えて,誰からも証文偽造の罪で訴えられることもなかったのだ.

 律法に乗っとり,職務に忠実であったときに,人々に憎まれ,その過失罪を問われた管理人は,その職務から放免され,意図的な罪を犯したときに,その罪を問われることはなく,むしろ皆に賞賛された.ある意味では皮肉な結果であるが,我々はここにイエスのストーリーを重ね合わせてみることができるだろう.解雇されるまでの管理人を「人々に厳しく臨むファリサイ派の僧」,解雇された後の管理人を「人々に柔和な笑顔で臨む破戒僧的仲介者」と見れば…

 神の律法は人間には計り知ることができない.神は常に正しい.そしてイエスは律法を破った者として,ファリサイ派に唾棄されたが,イエスご自身は律法を完全にするために来たと言われた.神の真の律法は,人間に知ることはできない.神のみぞ知る.それはイエスのみが知っていることである.管理人のやったことは,ファリサイ派から見れば立派な犯罪であり罪であろう.しかし神から見たときには,それは犯罪ではなく,むしろ律法を完全にするための行為であり,人々を幸せにする善い行いだった.彼は主人の見込んだとおりの人間であったのだ.

 主イエスは,御父の財産をすべて任された管理人である事は言うまでも無い.彼はその御父と,罪の負債を抱えている人々との間の,仲介者として働いた.その働きは時に,ファリサイ派にとっては,律法違反であり,罪深く許しがたい神に対する冒涜行為だった.しかしそれが実際には,仲介者イエス(管理人)と罪人(債務者)と御父(主人)の三者に大いなる喜びをもたらした.そこには御父に対する罪はない.そして管理人イエスは,人々の中に入り,友として生き続けられるのである.

 この「不正な管理人」のたとえにおいて,イエスが弟子達に対して,意図的にしこんだワナは,「律法違反者=悪者」という公式に弟子が囚われている限り,抜け出すことができない.イエスがこのようなワナで弟子達を試そうとしたのは,それほどまでに,ファリサイ派や律法学者はもちろんのこと,弟子達の間にも,この公式が根強く残っていたからだろう.

 不正な管理人のたとえを聞いて,まず最初に管理者の不正の糾弾に走る者は,「裁く者」の立場に居座る者である.彼は神の座に座る不遜者である.まず裁かずに,心をむなしくして,よく聞き,よく見ることである.「裁き」は,「目の中のある梁」である事を忘れてはならない. 

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