2013年8月18日日曜日

ルカ14:2 呪いからの解放(主日礼拝)


そのとき、イエスの前に水腫を患っている人がいた。
(ルカ14:2)

 受洗後、母教会とは違う教会の主日礼拝に初めて参加した。ちょっと緊張したが、それでも私は平安に満たされ、神への感謝の気持ちが溢れた。今回の説教は、ルカ14の「安息日に水腫の人をいやす」についてだった。その説教は私にとっては、私の人生そのものであり、改めて主の御恵みに感謝した次第であった。

 このエピソードは、安息日に律法学者やファリサイ派の人々の前で、イエスが病をいやすというパターンの逸話のひとつだが、ルカ14においては
  • 場所:ファリサイ派のあるサンヘドリン議員の家
  • 発端:イエス議員の宴会に招かれ、それを受諾したこと
  • 病気:水腫(体内のリンパ液がたまって、特に腹がむくむ病気)
という点が特徴的である。

 当時、ラビたちは、この水腫という病を、不品行の結果、罪により神に呪われて患う性病と考えていた。民数5:21-22によれば、不倫をした疑いのある女性に対して、祭司は「苦い水」を彼女に飲ませることにより、不倫が実際に行われたかどうかを検証することが可能であった。もし不倫をしていれば、苦い水を飲んだ女性は、水腫的な症状を起こすとされている。おそらく水腫は、腹が大きくなるにも関わらず、子を孕んでいないことから、不倫という行為にふさわしい結果ということなのだろう。それゆえルカ14における水腫を患った人は、おそらく女性であったと思われる。つまりこのエピソードは、不倫により呪われてしまった女性を、イエスが救うというものである。

 本日の説教において、先生は詩編109:18-19を引用された。
呪いを衣として身にまとうがよい。呪いが水のように彼のはらわたに、油のように彼の骨に染み通るように。呪いが彼のまとう衣となり、常に締める帯となるように。(詩篇109:18-19)
この詩編においては呪われた人は、男性のようであるが、「呪いが水のようにはらわたに染み通る」のであるから、やはり水腫のイメージがある。私はこの聖句から、呪いの恐るべき浸透力、あるいは粘着力を感じとった。このような体の芯にまで染み通った呪いは、まるで末期ガンのように身体と一体化しており、どんな優秀な霊的外科医の手によっても、呪いのみを取り除くことはできないであろう。それは人間にできることではない。しかし神には不可能なことはない。

 呪いが衣になってしまうとは、なんという不幸なことだろう。アダムは、罪を犯した後、皮の衣を与えられ、神の似姿からかけ離れた、動物的な姿に表面上なってしまったが、それでも呪いの衣を神からいただくことはなかったのである。呪いの衣は動物的な生存、そこには動物的な喜びもあるだろうが、それすらも許さない間断の無い苦しみを、生存の根本においてもたらすものなのだから。

 私はある事情から、現実的に人から、この世の呪いを受けている。そしてつい最近、その呪いが永遠に消えることがないことを知ることとなった。私はいつか時間がその呪いを消し去り、自分を呪いから解放してくれるにちがいないという、甘い考えを抱いたので、唖然とせざるを得なかった。本物の呪いはそんな甘いものではなかったのだ。本物の呪いは永遠である。

 その呪いは、私の骨の髄にまで染みわたっている。もし私に信仰がなかったら、その呪いは私を完全に絶望させ、心と魂を徹底的に蝕み、生物学的に、そして霊的に私を抹殺していただろう。私が生物学的に生きており、こうしてブログを書いていられるのは、信仰があるからであり、神が私を生かしてくださっているからに他ならない。神に感謝します。そういう意味では、呪いあるいは罪は、私と主イエスをタイアップさせている、捕縛の縄のようなものと言えるのかもしれない。祈り…

 イエスはこのエピソードにおいて、罠にはめられつつあった。水腫を患った人は、ファリサイ派の人々がしこんだエサだった。その人がイエスの歩まれる進行方向(前)にいたのは、あらかじめ彼らがイエスの通る経路を知っており、そこに水腫の人を配置したからである(ルカ14:2)。従って彼らは、イエスが水腫の人と必ず出くわすことを知っていた。それが「イエスの様子をうかがっていた」理由である(ルカ14:1)。

 おそらくイエスは水腫の人が目の前に現れたとき、これが彼らの罠であることに気づかれたであろう。だからこそまず水腫の人をいやす前に、彼らに対して「安息日に病気を治すことは律法で許されているか」と、先に質問したのだ。彼らが隠していた悪意を暴露したのである。ファリサイ派の人々の計画とは、安息日にしてはいけないと考えられていることを、イエスが行行うように仕向けて、その現場を二人以上で同時に目視確認することであった。それによって、イエスを律法に反したとして告訴し、二人以上の証人を確保しておくことにより、法廷において勝訴を確実なものとするつもりだったのだ。

 イエスのこの質問に対して、ファリサイ派の人々は黙っていた。彼らの内心の答えはもちろん、「許されていない」である。彼らが黙っていたのは、「許されていない」と言ったときに、イエスがもしそれを聞いて思い直して、水腫の人を治されなかったら、彼らの計画が破綻してしまうからだろう。しかしイエスは躊躇することなく、沈黙を続ける彼らの返答を待たずに、水腫の人を癒し,呪いから解放された。水腫から癒されたその人は、宴会に招かれていなかったので、そのまま帰宅の途についた。

 ファリサイ派による罠は,結果的には,イエスと水腫に苦しむ人を巡り合わせ,イエスはその栄光を露わにし,水腫の人は癒され,切望していた呪縛からついに解放された.それは実に,安息日にふさわしいすばらしい出来事だった.

 私は水腫の人であった.私は今,イエスによって癒され,生かされている.それに深く深く感謝した.教会からの帰り道は,夏の日差しが強く,すべてが白く光り輝いていた.その白い世界の中を,自分はイエスを携えて,自転車に乗って家に帰って行った.

 

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