2013年10月6日日曜日

放蕩息子の帰路(ルカ15:13,主日聖餐礼拝,世界聖餐日)

何日もたたないうちに,下の息子は全部を金に換えて,遠い国に旅立ち,そこで放蕩の限りを尽くして,財産を無駄遣いしてしまった.(ルカ15:13)
本日は世界聖餐日であったが,いわゆる「放蕩息子」のたとえが,説教のテーマであった.このたとえは大変有名なので,多くのノンクリスチャンも知っている上に,解説の類いも多い.それゆえ「今更,このたとえに関して,より深いものが見いだせるだろうか」と思われる方も多いかもしれない.

 自分は間違いなく,この放蕩息子に他ならない.だからこのたとえには,特別の思いがある.だからより深く読み込もうとする.そこで気がつくのは,あまり解説されたことのない,このたとえのいくつかの疑問だ.

 その第1は放蕩息子の動機.「彼は父から自由になりたかった」「思いっきり遊んでみたかった」等はよく聞く理由である.しかしただそれだけの理由で,果たして,家族から独立するかのようにして,一人で遊びたいと思うものだろうか?そのくらいの動機であったのなら,数週間分の小遣いをせびって,遊びに行き,自由を満喫して,また家に帰ってくるという手もあったのではないか?あるいは父の財産をこっそり盗んで,遊びに行くという手もあったかもしれない.いずれにしても,自分の家,帰ることのできる唯一の場所を,遊びや一時的自由のために捨てようとは,なかなか思わないだろう.

 考えられることは,彼はその家そのもの,すなわち父と兄に対して,がまんのならない不快感を感じていたということだ.それはおそらく,自分が2番目の息子(弟)であり,長子の権利を持たない事に対する,コンプレックスにあると自分には思われる.弟は,自分が長子でないことに絶望していたのである.そして弟であるが故に,自分は父に愛されていないと,常々感じていたのであろう.

 「兄は父の愛を一身に受けて,まじめに一生懸命働いている.それはその働きの報いが約束されているからだ.兄は長子として家を継ぎ,父の財産もほとんど(3分の2)は彼のものとなる.そして父の家は兄によってこれからも安泰だろう.自分はこの家族において,できの悪い僕のようなもので,父と兄の奴隷のような存在.愛も報いも結局与えられないのだ.弟なんて,あの父の息子だなんて,名ばかりだ!」と弟は考えていたのかもしれない.

 弟はそのストレスを,放蕩することで発散しようとしていた.おそらく家にいた時から,不真面目で父や兄の言うことを聞かず,怠け者で遊び好きだったことだろう.特に兄からは怠け者・できの悪い弟として,さげすまれていたかもしれない.つまり弟が家を出る前から,既に兄弟仲は悪かったはずだ.彼には家の中に居場所がなかった.だからこそ,家を捨てる気になったのである.

 「財産の分け前を下さい」などと親に言うことは,尋常なことではない.父親も息子のただならぬ様子に気づいたはずである.父はここで弟を説得して,この時点での財産分与をあきらめさせることも可能だったのはずである.また彼の心情を問いただすこともできたはずだ.奇妙なことに,父はそのようなことは全くしていない.それはなぜか?

 父はすべてを知っていた.弟が自分や兄に対し不満を持っており,なおかつ,家出をしようと企んでいたことを,彼の言動から既に予測していたのである.そしておそらく,彼は聞く耳を持っておらず,いかなる説得も,今の彼には通用しないと思っていたのだろう.だから弟が「財産の分け前を下さい」と言った時,父はついにその時が来たのだと思ったに違いない.

 父は弟の言うとおりに財産分与を行った.財産の使用権は,依然として父にあったようだが,父はこのような申し出があった以上,彼がその財産を持って,ある意味,律法に基づき正当性を持って,家を出て行くことは覚悟しただろう.何を言っても息子は聞かないだろうし,仮に財産を分け与えなくても,おそらく彼の決心は変わらず,むしろ財産を分けなかったことに腹を立てて,家を出て行くだろう.彼を引き留めることはもうできなかった.

 父は悲しかった.そして彼の将来をたいへん心配したが,それでも引き留めもせず,彼の好きにさせた.彼に与えた財産が,せめて彼の生活をある程度支えてくれるであろう事を願って.

 そして弟は何日もしないうちに出て行った(ルカ15:13).その「何日」は,家出の準備に当てられていたのだろう.仮に父が鈍感で,弟の家出計画に気づいていないとしても,この「何日」の間には,彼の行動から家出計画に気づき,それを阻止する実力行使も可能だっただろう.しかしおそらく前述の理由により,父は干渉しなかった.そして息子は家から姿を消した.

 このたとえの前に提示された2つのたとえ「見失った羊」「無くした銀貨」においては,羊飼いや女は執拗に失せ物を探索する.しかしこの「父」は,全くそのようなアクションは起こさない.最初から最後まで,出て行った息子を放置するのである.なぜ彼は探索しないのか?

 それはおそらく,息子が戻ってくることを固く信じていたからだろう.弟は根っからの悪人ではない.彼はちゃんと筋を通して,律法に基づいて財産分与を要求し,父や兄から財産を盗むことはしなかった.やろうと思えば,父や兄に復習する意味においても,それはできたはずであるし,それ以上のことも可能だったかもしれない.しかし彼は家を破壊し家の支配者になることなく,正当なやり方で辞去していったことは,彼の中の信仰のともし火が,まだ消えていないことを示しているように思える.彼には回心の可能性が残されており,父はそれに賭けたのである.

 父は家出が発覚した後,すぐにでも息子を探しに行きたかったに違いない.しかし家出直後にもし父が息子を探しに行き,息子がそのことを察知したならば,息子は再び自由が侵害されると思い,彼から逃げ出す可能性があった.

 息子が放蕩の限りを尽くした後,おそらく風の噂に,父はそれを知ったであろう.しかしそれでもその場所に,息子を探しには行かなかった.放蕩の後,息子には,父が働いて稼いだ財産を放蕩したことに対して,強い罪の意識が残った.故に息子には父に合わせる顔がなかった.彼が家に帰れなくなった理由の一つであるが,これは彼の信仰心を表すと同時に,最終的に彼に死をもたらすものであった.父はそれをも見抜いていた.もし父が探しに行けば,息子は罪の意識ゆえに,父に助けを求めるどころか,彼から逃げ出してしまうに違いない.だから父は探さず,息子の回心に賭けたのだ.

 見失った羊は,羊飼いを求めて鳴き声を上げた.無くしたドラクメ銀貨は,ともし火に呼応して光を反射した.しかしこの息子は,食べるにも困っているのに,父に対して助けを求めず,全くの他人であり異邦人でもある「ある人のもとに身を寄せた(ルカ15:15)」.

 この異邦人は彼に食べ物を与えなかった(ルカ15:16).異邦人は,彼が家に帰れない立場(罪)にあることを利用し,彼を奴隷として扱った.それ故に,彼は満足な食事すら与えられなかったのである.つまりこの異邦人は「悪魔」である.しかし彼が身売りをしていたとすると,彼が父の家に帰るのは難しい事から,まだ身売りはしていなかったのだろう.信仰は守られていた.しかしこのままでは,もはや身売りは時間の問題だろう.

 そして息子はついに回心の時を迎える.なぜ自分がこのような境遇に陥ったのか,彼は苦しみの中で内省を続け,その結果,自分の高慢,独りよがりの考え,父に対する誤解が,その原因であったことに気づいた.彼は彼の非を認めたのである.この回心において,彼の信仰が保たれていたことが明らかになる.彼は放蕩生活を楽しんでいたわけではない.むしろ苦しんでいたのだ.愛されぬ苦しみ,生きる場所のない苦しみ,その苦しみから逃れるために,放蕩により気を紛らわせていたに過ぎない.それゆえに無計画に金を使い,破産した.もし彼が父から独立したいと願っていたのなら,目標を持って,計画的に適切に金を使っていたことだろう.

 彼の信仰が保たれていたことは,彼の言葉からわかる.

お父さん,わたしは天に対しても,またお父さんに対しても罪を犯しました.もう息子と呼ばれる資格はありません.雇い人の一人にしてください.(ルカ15:18-19)
もし息子が単純に腹を満たしたいだけであったのならば,まず父に対して必死に謝罪し,許しを請うだろう.しかし彼が最初に謝罪したのは「天」,つまり神である.彼はまず神に対しての罪を認めたのだ.信仰は彼の中に保たれていた.ある意味ではその信仰心が罪の意識を生み,愛されぬ苦しみに加えて,彼をさらに苦しめていたのだ.しかし彼はこの回心において,自分の罪を認め,それを神や父に告白すると同時に,自分に対する処罰案を提示することにより,和解を目指すことにしたのだ.

 それは神や父が,自分の犯した罪ゆえに,自分を殺すことがないと,放蕩息子が確信したからこその希望であった.彼は自分の犯した罪に対する罰として,1)「息子の資格喪失」と共に,2)「父の僕として苦役に従事する」事を想定した.いわば彼は,彼を,彼の律法において裁いたのだ.しかしその裁きにおいて,自分は死刑に相当しないと判断することができた.これは彼の理性的な判断であり,その根拠はおそらく「律法(聖書)」であったのだろう.彼の手元にそれがあったのか,それとも彼の記憶によるものかは定かではないが,聖書は彼に生きる希望をもたらした.

 こうして彼は帰路につくことになった.しかしそれは単純な道のりではない.彼は一文無しであり,食料もろくに持っていない,奴隷のような状況である.しかも彼は「遠い国(ルカ15:13)」におり,帰りの旅路は恐ろしく長い.したがって,この「我が家」への帰還は極めて危険と困難に満ちており,彼に旅立ちを躊躇させたことだろう.ここにとどまれば,やせこけて飢えた餓鬼のような奴隷ではあるが,生き続けることはできるかもしれない.父の家を目指して旅立てば,旅路の途中で飢え死にするかもしれない…

 彼をそれでも,家への旅路につかせたもの.死の恐怖に打ち勝たせたもの.それこそが神を信じる信仰の力であり,「家に必ず戻れる」という希望の力,あの懐かしい父を求める愛の力である.この家までの旅は,とうてい彼一人の力では不可能である.必ず何者かの助けがなければ,とうてい家にはたどり着けない.彼は神が共にいてくださる事を信じ,一種の乞食・托鉢修道者のようになって,家を目指したのかもしれない.彼は自分を低くして,旅路で出会った人々に恵みを乞い,その人々の情けや憐れみによって,生かされた.それこそがまさに神の憐れみであった.

 父は息子の帰還を信じていた.そして父は,息子が帰ってきたその時のために,服や指輪や履物を準備しておいた.毎日,父は息子が消えていった道の先に立っては,息子の姿をその遙か彼方に追い求めていたに違いない.だからこそ,息子が本当に帰ってきたその時,「まだ遠く離れていたのに(ルカ15:20)」父は帰ってきた息子の姿をみとめる事ができたのだ.

  そして父は,その変わり果てボロボロになった息子の姿を見て,深く深く憐れんだ.もう彼の息子には,何も残っていなかった.この地上において,彼に残されていたのは「父の家に帰ること」への思い,ただそれだけであった.それ故に,息子が父に再会した時に発した言葉の中には「雇い人の一人にしてください」が含まれていない.

 帰りの旅路で彼は,様々なことを学んだことだろう.そして彼の信仰は深まったに違いない.その深まりとともに,自分の犯した罪の重さが,当初想定した時点とは比べものにならない程,重いものであったことにも気づいていった.そして次第に,自分が父の雇い人の一人になって,この世に生き続けることなど,どうでもよくなっていったのだろう.彼はただただ父に会って,和解がしたかったのである.そしてその和解の後,この世を去ってもよかったのである.

 しかし父の彼への愛は,そのまま彼を死なせはしなかった.父は彼の命のためにできることを,緊急に「急いで(ルカ15:22)」行った.まず「良い服」に着替えさせた.これは礼服,晴れ着,イエスの服であり,それまでの汚れた服・罪を捨てさせた.次に指輪をはめ,彼が自分の息子(相続者)であることを公にあかしした.そして履物を履かせ,奴隷の身分から彼を解放するとともに,この「地」に密着していた足を地面から分離した.さらに子牛を屠り,彼のやせ細った身体に滋養を送り込んだ.こうして彼は罪が許され,父の息子として生き返り,そして兄を越えた(「いちばん良い服(ルカ15:22)」).それは放蕩息子が全く想像だにしなかった結末であった.彼は必ずや与えられると思っていた罰,すなわち「永遠の死」の代わりに,「永遠の命」を得たのである.


 弟が帰還した時,兄は兄で相変わらずまじめにやっていた.この兄が「残された(まじめな)99匹の羊」や「(手の中に残された)9枚のドラクメ銀貨」と同様に,ファリサイ派を表象しているのは間違いない.兄は,弟の帰還に喜びを感じるどころか,怒りと不快を露わにした.

 おそらく兄は,ろくでなしの弟を自分の恥のように思っていたのだろう.彼は彼の実弟を「あなたのあの息子(ルカ15:30)」と呼び,「弟」と呼ぶことをはばかっている.だから弟は勝手に家を出て行った時は,さぞ清々していたことだろう.しかし今や,再び彼が帰ってきて,自分がもらったこともない子牛が屠られ,皆は彼の帰還を喜び,パーティーで浮かれている.「あのろくでなしのために!赦せない!」,兄は拳を握りしめたことだろう.兄は赦さない人であり,裁く人であり,怒る人である.嫉妬する人であり,呪う人である.

 彼は父を責める.彼は自分が父に何年も仕えたことに対して,何の報酬もなかったと言って,「報酬」の不公平を,弟に対する嫉妬と怒りを交えながら,父に向かって訴えた.兄は,自分の勤勉な行為に対する報酬として,父から十分な物を受けていないと主張する.彼にとって,弟に与えられた様々な物は,弟の行動の「報い」であった.なぜ放蕩者の報いが,何年も仕えた自分のそれよりも良いのか,彼には理解できなかったのである.彼は自分の考え(行動とその報い)が,絶対に正しいと思い込んでいる.しかし父の思いは,全く兄とは異なっていた.

 父にとって勤勉など,極論すればどうでもよかったのである.父と息子の関係は,雇用主と労働者の関係ではない.つまり経済関係ではない.勤勉な労働を行って,報いを稼ぎ出すのは,経済行為であり,その関係は極めて冷たいものである.父と息子の関係は,愛と信頼であり,それはあらゆる経済的原則を越えている.弟は,父に対していかなる労働もしていない.しかし彼は罪を認め,信仰に生きるようになり,父を信じて帰ってきた.そこに父は義を認めたのである.そして父は彼から何ものも要求せず,彼に「恵み」を与えた.

 しかし父は,このような兄に対しても怒ることはなかった.「子よ(ルカ15:31)」と呼びかけ,父に対する不遜と,自分の考えを絶対視する高慢を赦し,優しくその理由を説いた. それに対して,兄が納得したかどうかは記されていない.

 放蕩息子は我々の姿である.それまでの己の罪を認め,回心を経験し,洗礼を受け,神に向かって帰路を歩いている.それは実は,危険と困難に満ちた道でもあり,信仰・希望・愛を唯一の財産として,主イエスと共に歩いて行く神への道でもある.本日の説教において先生は,放蕩息子のこのたとえと,日々の悔い改めの重要性をリンクさせながら語ってくださった.その通りである.放蕩息子の帰路は,毎日が悔い改めであった.それによって,信仰はますます深まって,ついに神にたどり着くのである.日々の悔い改めは,苦痛を伴う部分があるのは事実だろう.しかし,我らの日々の罪もまた事実である.主イエスになった者は一人としていない.故に我らは皆,罪人なのであるから.

0 件のコメント:

コメントを投稿