2013年9月23日月曜日

ルカ15:5 迷える羊と神の暴力(主日礼拝)

そして見つけたら,喜んでその羊を担いで(ルカ15:5)
 「見失った羊」の例えにおける一匹の迷い出た羊は,求道者を象徴するだけでなく,すでに洗礼を受けた者が群れを離れた状態をも意味する,と先生は説かれた.確かに群れの残りの99匹が「悔い改める必要のない正しい人(ルカ15:7) 」の集団であるということは,洗礼を受けた者の集団,すなわち教会に所属する者達であることは間違いないだろう.その集団から迷い出たと言うことは,その羊が求道者,すなわち未だ洗礼を受けていない者とするよりも,洗礼を既に受けた者,教会に所属していた者と考えた方が,妥当性が高いように思える.

 ただ自分は,教会から迷い出てしまった者が,このような形で,すなわち見えざる神の御手により,ある意味では強引に暴力的に,再び教会に連れ戻されるというシーンを見聞した経験が無い.実際にそのようなことはあるのかもしれないが,極めてレアなケースと言えるのかもしれない.

 ただ実際,教会から出てしまった人が,すべて棄教者となるわけでもない.無教会主義的に信仰を一人で保つことのできる方もいる.おそらく彼もしくは彼女は,神と直結しているのであろう.この枝は幹につながっているのである.

 無教会主義には,ある種の,いくつかの危険が常に伴う.教会という砦,すなわち「羊の囲い」の外における危険を伴う生活を送る内に,本人も気がつかないまま,いつのまにか異端化してしまい,キリスト教徒は言えなくなってしまう例は,過去にいくらでもある.つまり教会は,信仰のアイデンティティを維持するための安全装置でもある.

 ただ繰り返しになるが,教会を離れたすべての人が,異端化するわけでも,棄教するわけでもない.無教会主義にある危険や戦いを乗り越えて,信仰を保つ事のできる人は,むしろ極めて優れた信仰者である.多くの優れた宗教者は孤独を求め,厳しい荒野的環境に自分の身を置いた.それは神との一対一の関係に入るためである.そこでの「生存の試練」に耐え抜いた者は,もはや環境には左右されずに,己の信仰を保つことができるのだろう.それは極めて少数ではあるが,中世のみ成らず,現代にも存在する.神の導きは時として,人智を越えているのである.

 さらに付け加えれば,教会を出た棄教者が,教会やキリスト教の攻撃者となるケースもある.「逆パウロ化現象」とでも言えばいいのだろうか.彼は教会を出た後,キリスト教に騙され続けた詐欺の被害者として,加害者である教会・キリスト教,果てはイエス・キリストまで呪う.それはもはや「迷える羊」というよりも,羊を食い荒らす狼である.彼らは羊をよく理解しており,その弱点をも熟知しているため,その攻撃は極めて効率的である.狼は羊を食い殺すのだが,狼自体はそれを悪として行っているわけではない.狼は自己の生き残りのために,その食欲に従っているのであり,彼にとってそれは自然な正当な行動である.のみならず,狼は羊を悪霊に取り憑かれ,自己を見失った病人,あるいは信仰の囚人,自己責任や判断の放棄者と見なしている.故に狼は正義の名の下に迫害を行う.狼にとってそれは救済行為でもあるのだ.この狼をも,神は「迷える羊」と見なされて,狼を羊に変えて,99匹の羊の群れに戻してくださるのであろうか?自分はまだ,その実際のケースを寡聞にして知らない.

 いずれにしても「迷える羊」は,神によって探索される.その探索は執拗を極め,その発見まで継続される(ルカ15:4).そしてついに,神は死の谷の陰の中に,その羊を見出す.その時に神にあふれた喜びはいかほどであろうか.神は羊に駆け寄り,羊を抱きしめたであろう.

 それは美しい再会のシーンに思えるが,このエピソードはそれほど甘くはないと自分は思う.イエスが羊を見出した時,羊はどのような状態であっただろうか?

 比較的よく言われる解釈としては,迷った羊は帰り道がわからなくなり,群れに,羊飼いの元に戻ろうとして鳴き声を上げ,羊飼いを呼んでいたとするものである.その鳴き声,すなわち祈りは,探索する羊飼いに手がかりを与え,その手がかりにより羊飼いは羊を発見し,歩き疲れた羊を肩に担いで,ついに群れに帰すというものである.

 この解釈においては,迷える羊は,群れに戻りたいという意志を持っており,しかもそれを神に嘆願し祈っている.そのため神は比較的容易に(?),羊を群れに返すことができた.しかし先ほども書いたとおり,教会から迷い出た羊は,すでに「野生の羊」もしくは「狼」に変わっている可能性がある.彼らにはそのような祈りも嘆願も,群れに戻ろうとする意志のかけらすらもない.ではそのような祈り無き者達が,神の見えざる力によって群れに戻される事があるのだろうか?

 自分はそれがあると信じる.羊の群れを憎み,あるいはそれを捕食せんとする者が,人によるのではなく,見えざる神の御力のみによって,この弱き者の群れに再び加わることが実際にあるのだと言うことを信じる.そのようなにわかには信じがたいことが起こる時,それは迷える羊にとっても信じがたき,想定外の出来事となる.

 羊が迷い出た理由は,周囲に目もくれず,地に生えているおいしい牧草を追っている内に,いつのまにか群れから迷い出たとするのが一般的な解釈だろう.すなわち,この地上に存在する様々な誘惑や,それらに対する欲望にそそのかされて,群れを出てしまったということになる.その場合,ふと我に返った羊が鳴き声を上げるのは,理にかなっている.しかしそのような理由で群れを離脱した羊が,我に返ることなく,ずっと草に夢中であったのなら,その羊が鳴き声を上げることは期待できない.彼は羊飼いの呼び声をうっとうしく感じるであろう.あるいは群れに引き戻されることに恐怖を感じたかもしれない.この草(地上のもの)を,また自己の欲求の充足,その味わいを失いたくないからである.

 また先ほども書いたように,教会離脱の原因は地上の誘惑だけではない.群れの他の羊を嫌って,あるいは羊飼いそのものを嫌悪し,決意を持って群れを後にした者もいるからだ.以上を考え合わせるとすべての迷える羊が鳴き声を上げ,羊飼いを求めるわけではないことがわかる.それどころかむしろ,探しに来た羊飼いに気づいて逃げ出したり,あるいは羊飼いに反抗し,かみつこうとする者すらいるであろう.羊飼いが羊を見つけて喜んだことは間違いない.しかし迷える羊は,必ずしも羊飼いによる自分の発見を喜んでいるとは限らないのである.

 もし迷える羊が羊飼いとの再会を心から喜び,そして羊飼いと共に群れに戻ることを臨んでいたとするのであれば,羊は精神的な元気を取り戻し,羊飼いの後について歩いて行くこともできたであろう.しかし羊飼いは羊を背負ったのである.それは羊を背負う必要があったからと解釈されるのが一般的であろう.

 その必然的な理由とは,一般的な解釈では,羊を地上から引き離し,地上から「上げる」ことにより,羊の視野から地上の誘惑(草)を消し去り,本来的自己を内省させるためとされる.羊は神によりすでに地上から脚を離し,天に近づいている.この時点で迷える羊は,他の99匹の地上に足をつけている羊を越えて,天に近づいていたのである.

 また羊飼いは羊を肩に担がれた.ここにおいて羊飼いと迷える羊は一体となっている.担がれた羊は既にすべての足を羊飼いに捕まれており,自らの意志を封殺されている.羊を担いだ羊飼いを見た者は,羊が彼の服の一部のように見えたであろう.迷える羊は,他の99匹よりも先に,神との一体化を果たしたのである.こうして「後の者が先になる」のである.

 しかし,鳴き声を上げなかった羊,すなわち羊飼いも待ち望むどころか,羊と羊飼いを嫌悪し,執拗に探索を続ける神のその御手から逃れようと,知恵を巡らし,脚を速めていたその羊が,ついに羊飼いの手にかかったその時,羊は大いに抵抗したであろう.大暴れに暴れ,悲鳴を上げ,その強靱な脚力で羊飼いを蹴飛ばし,自由を得んと,その脚に満身の力を込め,イエスを蹴りつけたであろう.それは羊の傲慢であるのだが,羊には羊飼いの方が傲慢に見えているため,罪の意識など微塵もない.羊にとって,それは暴力以外の何物でも無いのである.

 神は「宮清め」の時のような暴力を使ってでも,この迷える羊を救済されようとなさる.それはその羊のために,命をも惜しまない「善き羊飼い」の強靱な意志の現れである.そのような神の強靱な意志の前に,羊の抵抗などはものの数ではない.羊は神の肩に担がれるしかないのである.

 それでも羊は肩の上で抵抗し続けたであろう.すでに自由を奪われ,神に捕らわれ,地上を離れたのにもかかわらず.しかしその抵抗は蓄積する疲労と共に,やがては収まっていく.そして諦念が彼をおおうと同時に,彼の中で自己の現状に対する考察と内省が開始される.自分は結局何者であったのか,群れや羊飼いから離れて,自分がやっていたことは何だったのか.その価値とは何だったのか.彼は「計算」をも始めるかもしれない.群れに戻された後,再び脱走を試みるべきなのか.もしそうした場合,羊飼いはどのように動くのか.その結果はどうなるのか.それは自分にとってトクなことなのか,損なことなのか.

 地上を離れ,羊飼いの肩の上で,自由を奪われた一匹の羊には,考える時間が与えられる.やがてその時間は,自分の行いや羊飼いへの無礼に対する悔い改めを経て,祈りの時へと変わるであろう.こうして迷える羊,あるいは「野生の羊」「狼」は,再び「以前より善い羊」,「上げられた羊」として,群れに帰ってくる.それは周囲から見ればあり得るはずのない奇跡であり,神の栄光そのものである.

 教会を離脱し,「逆パウロ化」した棄教者,すなわち迫害者が,このような形で神の栄光を表した例を自分はまだ知らない.「迷える羊」のたとえは,自分にとってまだ預言であり,予告にとどまっている.しかし私を含めて,神の突然の「暴力」によってこの道に「投げ込まれてしまった者」は,この預言が成就されるであろうことを身体で知っている.私の耳は,そのあかしを欲している.そして求める者は与えられるであろう.

追記:
 このエピソードにはまだ語りたいことが多くある.十字架と背負った羊,100匹という数のスケーラビリティ,羊飼いのいない99匹の群れの動向等であるが,またの機会にしておく.

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