2013年9月8日日曜日

ルカ14:25-35 「この道」を歩く者が立ち止まる時(主日礼拝)

塔を建てようとするとき,造り上げるのに十分な費用があるかどうか,まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか(ルカ14:28)
キリスト者ならば,一度ぐらいは非キリスト者から,「キリスト教は邪教である」と罵声を浴びせかけられ,糾弾されたことがあるかもしれない.自分にはその経験がある.その時に彼らは,新約聖書のあるヵ所を指弾したと記憶している.それが今回の説教で取り上げられた部分である.すなわち
父,母,妻,子供,兄弟,姉妹を,さらに自分の命であろうとも,これを憎まないなら,わたしの弟子ではあり得ない(ルカ14:26)
である.「家族を否定するとは何事か!」「父母を憎むとは不遜も甚だしい」「命を軽んじている」といった非キリスト者からの非難は,同時に彼らの持っている血縁者中心的倫理観という常識を,高らかに賞揚するものでもある.

 聖書はおそらくこのような誤解や無理解を招くことを承知で,またおそらくは,それを意図的に引き起こすために書かれていると自分は推測する.この部分は確かに,ナイーヴな一般の善良な市民に,ある種の強烈な怒りを引き起こすインパクトを持っている.彼らは良きヒューマニストなのである.しかし誤解を恐れずに言えば,キリスト者はヒューマニストではない.キリスト者はだれよりも主イエスを,神を愛している.そしてその主イエスをあらゆる人の中に見いだし,その人の中の主イエスを信じ,愛し,また敬い,仕えるのである.ヒューマニストと見なされることの多いマザーテレサの言葉などは,それを端的に表現している.

 この聖句の持つ,自分の命(自我)を含めて,この世のものを徹底的に捨離していくという精神は,極めて仏教的でもある.おそらく仏教者ならば,この聖句の意味を容易に理解してくださるであろう.この捨離によって人は,イエスの囚われ人となる.すなわち罪から解放され,真の自由を得ることになるのである.そして自分の十字架を背負い,イエスの後を追って,イエスが先に歩いていかれた十字架への道を歩いて行く.

 しかし「この道」に入り,「この道」を歩きだした者達が,その歩みを全うする事は至難の技である.特に在家でこの世との関わりを保ちつつ,信仰生活を続けていかなければならない信徒にとっては,信仰とはこの世の誘惑・迫害・悪との熾烈な戦いを意味する. その戦いに疲れ切って弱ったところに,石につまずき,よろけ,ころんで,ついには棄教する者は,原始教会においても相当数いたことだろう.そのような経過をたどった棄教者は,「この道」を歩いている内に,自分が知らず知らずのうちに疲れ,弱くなっていたことに気づけなかったのかもしれない.

 それは自己への配慮を,神への愛ゆえに,怠った結果であろう.キリスト者は,肉体のみならず,魂すらも神の所有物である.キリスト者は.その神の所有物である自己の管理責任者でもあるのだ.したがって自己への配慮は信仰生活の一部であり,義務ですらある.自己への配慮を怠って「この道」を邁進するものは,いずれ信仰生活に破綻をきたす危険性をはらんでいる.

 自己への配慮のために,「腰をすえて計算」することは,「この道」を歩ききるためには必須であろう.その時,人は歩みを止め,道の途中で座り込み,計算をしなければならない.現在の自己の状態を,理性を用いて客観的に判断し,残りの道程を算定し,この自分の現在の状態で,道を歩ききれるかどうかを,計算するのである.そこで現状の自分の状態に不安を覚えるのであれば,人は歩みを止め,自己の状態を回復させるための時間を持たなければならないだろう.またいつの間にか自分が棄教寸前の危険な状態に陥っていたことに気づいたのならば,棄教することと,道を歩き続けることのどちらが自分にとってトクになるかを計算することになるだろう.

 その時に,自分が捨離し失ったものすべての価値と,信仰に入って得たすべての価値とを比較することになる.それは自分の洗礼式の時の感動を,思い出させることになるのかもしれない.両者の価値を理性的に客観的に数量化して算出し,比較した時に答えは得られるだろう.それは,通常,一時的な価値と永続的な価値との比較となる.そのため比較の結果は比較的明瞭である.

 その結果を目の当たりにした時,すなわち入信によって自分が得た途方もない価値を再発見した時,人は再び立ち上がるために,主の差し出してくださった御手を,目の前に見出し, 喜びと感謝に満たされながら,その命の御手を取るであろう.
二万の兵を率いて進軍してくる敵を,自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか,まず腰をすえて考えてみないだろうか(ルカ14:31)
  「この道」の途中で信徒が死にかけた時,父なる神は子を救うために,強制的な,誤解を恐れずに言えば,暴力的な力を発動するケースがある.それは私が経験したことだ.その時子は,怒りと不快と悲しみを父なる神に投げつけ,手足をばたつかせ,あらゆる方法を用いて徹底的に反逆しようとする.神を呪う瞬間である.ここでの彼には,計算をするゆとりなど全く存在しない.彼の理性は死んでいて,感情が彼を支配しているのである.

 イエスはそのような神の暴力が自分に臨んだ時に,計算をしなさいと言われる.はたして進撃してくる神の力に徹底抗戦して,勝利することができるか,冷静に客観的に判断せよと言われるのである.ヨナはある程度計算したのだろう.だから勝てないと思い,逃亡を選択した.しかし彼の計算は甘かった.計算すれば,神から逃げ切れるわけがないと悟っていたであろう.

 確かに計算すれば,神に勝てるはずはないのである.したがって計算することのできた反逆者は,戦いが始まる前に抗戦を放棄を決断し,神に和睦を申し出ることになる.神は受諾の条件として,またその証として,敗北者に貢ぎ物を要求するであろう.それは人間関係や自己を含めた,敗北者のこの世の持ち物一切である(ルカ14:33).敗北者はこの世のすべてを失い,神の国に捕囚され,神の僕として生きていくことになる.そして気づくのである.自分がゲヘナに投げ込まれずにすんだことを.これから神の国の中で,永遠に生きていくことができることを.彼は神の暴力に感謝し,祈るであろう.「あなたこそは私の父である」と.

 計算とは,理性と客観性,すなわち科学である.つまりキリスト教は科学を否定していない.むしろ科学を,信仰生活の道具として積極的に利用せよと,イエスはこのエピソードにおいて奨励しているのである.「この道」を歩みきるために科学を杖(道具)とし,また自己への配慮のため,歩みを止め腰をすえ計算する必要がある.これらは長い信仰生活において極めて有益なことである.言い換えれば,信徒は信仰生活において惰性に流されてはならないのである.

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