眠る為に生きているのではない.生きる為に眠るのだ.食べる為に生きているのではない.生きる為に食べるのだ.
その純粋な「生きる」に人が立った時,そこに何をも見出さないのであれば,人はそこから引き返し,眠りと食を貪るであろう.
2014年1月30日木曜日
2014年1月27日月曜日
テレビ朝日55周年記念ドラマ「黒い福音」に見る「個の信仰」(on twitter @rahumj)
テレビ朝日「黒い福音」視聴完了.TBS制作の1984年版TVドラマよりもマイルドに仕上がっており,藤沢刑事(ビートたけし)の物語として作られているためか,後味も1984年版よりも良かったと思う.
このドラマは,実際に起こった事件(BOACスチュワーデス殺人事件)に関して松本清張が推理を展開し,それを小説化したものが原作となっている.「黒い福音」というタイトルからもわかるとおり,この小説におけるカトリック教会組織は犯罪に手を染めており,その神父は上司の命令により自分の愛人を殺害してしまう.しかし「教会」という壁ゆえに警察は彼らを逮捕することが出来ず,神父は帰国してしまい,遂にこの事件は未解決となってしまう,というのが物語の大筋だ.
1984年版では,カトリック教会の神父たちがマフィアのような悪党として描かれており,そのシーンも長かったが,2014年版ではそのような描写はほとんど見られず,その代わりに藤沢刑事の人間性を描写する時間が長くなった.
ただし2014年版においても,教会の信徒たちがカルト教団的な不気味な笑みを浮かべて,報道陣と対峙するシーンもあるにはあった.しかし,おおむね一般視聴者は視聴中,1984年版のように教会組織や神父に対する激しい憤りを,持続的に覚える事もなかったのではないかと想像する.ただ逆に,二人の男に犯された後に殺された被害者の悲惨さや,愛人の殺人にまで及んだ神父の激しい葛藤や,「落としの八兵衛」藤沢刑事(モデルは名刑事平塚八兵衛)の無念さという点については薄いと言わざるを得ない.
2014年版「黒い福音」において,特におもしろかったところは,藤沢刑事がはっきりと「神を信じている」と告白している点だ.脚本では,なぜ藤沢刑事が神を信じるようになったかを視聴者に納得させるために,戦場で死にかけた時のエピソードを彼に語らせている.
「黒い福音」における藤沢刑事は,組織の人間ではない.彼は彼自身の信念(信仰)に基づいて,組織の圧力をものともせず,物語の最初から組織のルールを破り続ける.それに対して組織は,彼の存在を煙たがったのは当然であるが,彼の卓越した能力は認めており,故に警視庁捜査一課から彼を外すことはなかった.
このドラマの冒頭で,藤沢刑事の犬がリースを付けたまま逃げ出し,被害者の遺留品へと彼を導くが,この犬こそは,組織にとらわれない藤沢刑事の表象である.脚本家はこの物語の予型をイントロに配置したのだろう.
2014年版「黒い福音」において,藤沢刑事は神を信じていると公言した.それでは彼の信じていた「神」は,いかなるものであったあろうか?彼の発言からそれを推測してみよう.
彼の信じる神は,彼が子供の頃,溺れかけた時や,戦場で死にかけた時に,彼の生命を救ってくれた「命を救う」神である.
次に藤沢刑事は,被害者と巡りあわせてくれたのは,神であったとしている.彼の弁から推測すると,神は彼の最後の大仕事として,彼にしか解決できない事件を彼に担当させてくださったと考えているようだ.おそらく彼は,自分の仕事を神によって与えられた天職だと思っているのだろう.つまり職業召命観を持っていたと言うことだ.
またルノーの中でトルベック神父と藤沢刑事が対決した時,自分の胸を指しながら藤沢の言ったセリフ
から藤沢刑事が「神は,通常,個々の胸中に宿っている」「神はすべてを知っている」の2つを仮定していることが推測される.
胸中の神の存在によって,藤沢刑事が嘘をつけない理由とはなにか?ここでこの「嘘」についてより細かく考察しなければならない.なぜならこのドラマにおいて藤沢刑事は,「嘘」をついて捜査をしているからだ.
この捜査上の嘘は,彼の神に許されている嘘ということになる.それが許されているのは,犯人逮捕という目的が「嘘」という手段を正当化したからに他ならない.そして犯人逮捕こそが,彼が彼の神から授かったミッションである.
したがって藤沢刑事が「嘘はつけない」と言ったその「嘘」とは,自己欺瞞,特に神から授かった担当事件に関しての自己欺瞞のことだろう.こう見てみると藤沢刑事の恐るべき執念が,実は彼の,神への個人的信仰心の故であったことが読めてくる.
藤沢刑事が規律の厳しい警察組織の中で,あれほど身勝手に動きまわることができたのは,彼に実績があったからである.したがって彼は勝ち続けなければ,組織には残れなかった.その孤独な戦いを支えたのが,彼の信仰ではなかったかと思う.
トルベック神父のアリバイを崩す証拠写真を市村刑事に渡すときに,藤沢刑事は「神様はいたよ」と言った.藤沢は「内なる神」の存在を固く信じているため,この言葉は,「彼の神」の発見ではない.写真を渡してくれた関田ハナ(市川悦子)の胸中,もしくはその周辺に神は臨在していたということだろう.
藤沢刑事は,カトリック教会の信徒である関田ハナ(市川悦子)に,刑事であることを隠した.彼は,同じく信徒であった江原ヤス子(竹内結子)の知り合いとして彼女に接触し,その証拠写真を得ている.もし関田が彼を刑事だと知っていたら,写真を渡したかどうかは微妙である.つまり写真を刑事に渡すことにおいて,「関田の神」は試されておらず,現れていない.
信徒である関田が「教会がごぶさたになった」理由は,劇中明らかにされていない.しかし彼女に信仰が残っていたのは,明らかである.それは彼女の肌身離さぬ胸の十字架だけではない.咳き込みうずくまる藤沢刑事に自分の水筒の水を差し出す思いやり,淀みない聖句暗唱,それに続く十字架のしるし…
関田ハナが「教会がごぶさたになった」理由として,教会の中の犯罪的行為や,警察の聴取に対する口裏合わせなどに嫌気が差したというのも考えられる.そうであれば,関田ハナの中には「神がいた」ということになるのであろうが,藤沢刑事がそれを知っていたとは思えない.
藤沢刑事が「神がいた」と言ったのは,おそらく神が摂理的に,関田ハナを教会から遠ざけるようにされ,また彼女に写真が届くようにされたことで,間接的に決定的証拠を彼に手渡したのだということではなかろうか?そこに藤沢は神を見,そして彼の外にも「神がいた」ことを知ったのではないか?
とすると,藤沢刑事の神は「人の間に臨在する」神でもあるといえるだろう.さらに
藤沢の神の特徴をまとめると
このドラマにおいて,藤沢がカトリックの神父に掴みかかり,あるいはもみ合いになるシーンが2度ほどあるが,それは単に彼らが犯人であるからではない.彼ら神父の不信仰が赦せないのだ.藤沢は,その信仰故に自分の「内なる神」に忠実であり続け,組織のルールを破ってまで神に従ってきた.ところが彼ら聖職者は,藤沢以上に神に忠実であるべき身分にありながら,彼らの「内なる神」に全く従っていない.その不信仰に対する,激しい怒りが暴力となって現れたのだと思う.
しかし実のところ,これは藤沢の素朴な彼の神概念による誤解である.神父らは,神に従っていたのだ.神父らの神は藤沢の神に類似しており,故に藤沢は神父の中に「内なる神」を仮定し,神父らがその「内なる神」に従っていないことに怒りを感じた.しかし神父らの神は,彼らの内には元々いなかった.彼らの神は「個人の外」にいた.「教会」の中にいたのだ.
さらに言えば,この神父たちにとって,神から与えられた聖なるミッション(伝道)は,何よりも優先されるべきことであり, そのために彼らは国内法的合法非合法を問わず,その手段を選ばなかったのだ.かつて有能なカトリックのパードレたちが,密航という形でキリシタン禁制の日本に上陸し,「聖なる偽り」を用いたように.そこには「野蛮人の国日本」に対するある種の傲慢さが見え隠れする.
この構図,「神から与えられた聖なるミッションという目的のためには,手段を選ばない」という考え方は,実は藤沢も全く同じである.神父はそれ故に殺人まで犯したが,藤沢も事情聴取などにおいて暴力沙汰などを起こしてもおかしくはなく,それによって冤罪が生まれる可能性は否定出来ない.ドラマは,藤沢の持つそのような危うさをもしっかり描写している.
ただ二人の神父が戒律を破り,愛人を作っていた事実は,彼らの信仰が狂信的であることに疑いを挟む.戒律を破るということは,彼らの神学において,神に逆らったことと同じであろう.そう考えてみると神父らはむしろ,聖なるミッションの遂行というよりは,サラリーマン的に伝道という職務上のノルマを達成するために,闇取引という非合法で安易な方法を選び,それによって得たゆとりを愛人との「甘い生活」に当てていたのかもしれない.そうなると彼ら神父は狂信者ではなく,俗物ということになるが,このドラマの内容からはその真偽は判定できない.
さて,藤沢のその信仰について,もう少し考察してみよう.藤沢刑事のモデルである平塚八兵衛の有名な言として,次のものがある.
藤沢刑事は平塚八兵衛と同じように,犯罪者の中にも善なる者(神)は宿っていると信じていた.彼は犯罪者の中に隠されているその善なる者に対して訴えかけ,その犯罪者の中の神がその呼びかけに応え,それが犯罪者の表に現れることにより,これまで犯人を落とし,事件を解決してきたのだろう.
つまり藤沢刑事の取り調べとは,犯罪者に内在する神への祈りであり,そして犯人が落ちた時,彼は神の顕現を目撃するのである.
トルベック神父が記念写真の件について「自分が撮った」と嘘をついた時,藤沢から語られるあのセリフ「あんたの神様は今消えたよ」の「神」はカトリックの神ではない.それはこれまでの取り調べ経験において,藤沢刑事がその顕現を目撃してきた犯罪者の中の「善なる者」「内なる神」である.藤沢はその時トルベックから,藤沢が祈るべき「内なる神」が消え去ったのを感じ取った.故に藤沢流の取り調べは,もはや成立しえない.彼にとってトルベックは「死んだ」のであろう.
藤沢刑事は,結局神から与えられた最後の大仕事であったトルベック神父を落とすことはできず,そのミッションに失敗した.その出来事を信仰の人藤沢がどのように消化したのかは不明である.彼はその後すぐに亡くなってしまった.彼は無念に打ちのめされて,失意のうちに死んだのだろうか?
…しかし彼の失敗は全く無駄ではなかった.すべて若い市村刑事の糧とエネルギーになったからである.警視総監も今回の失敗から「国は強くなければならない」という教訓を得た.この結論はもちろん,現在の我々への問いかけである.特に沖縄のアメリカ軍基地問題を意識しているのだろう.
ただ自分はこの言葉を単純に取りたくはない.警視総監のこの言葉の前後をよく聞けばわかるが,この「国」とは,たくさんの国がひしめく世界の中の一つの独立国という意味である.つまり組織や集団の中で「個」が生きていくために,「個の強さ」が必要ということなのだ.
言うまでもなく,その「強い個」の代表者がこのドラマでは藤沢となっている.その個を支えていたのは彼の信仰であった.このドラマにおいてそのような「個」を持っていた人物は,教会人では,教会から距離をおいていた関田ハナ,命令に逆らって殺された被害者生田世津子しかいない.また警察組織では藤沢の他には市村だけだ.
もちろん市村刑事の「個」は,藤沢刑事の「個」によって徐々に育まれたものだ.それが花開くのは,藤沢の死後,市村が警視庁捜査一課に入ってからだろうから,藤沢はそれを見届けることはできなかったわけだ.
警察組織もカトリックも軍隊も,同じヒエラルキー的権力構造,絶対服従,厳しい戒律を持つ.トルベックも藤沢もそのような環境で生きてきたのだが,その生き方は対極にある.それは信仰の座が,集団にあるのか,「個」にあるのかという違いによるのだろう.
トルベックは絶対服従ゆえに愛する女を殺すに至った.藤沢刑事は個の信仰に突き動かされて,事件の真相に至った.一見この構図は藤沢刑事的個の礼賛のように見えるが,実際はそうではない.刑事が全員藤沢刑事的だったらもはや捜査は成立しないだろう.要は「所属集団と個の間でいかにバランスをとるか」なのだ.
ただ所属集団(権力)は個に対して圧倒的であるため,通常は個が押し流されてしまう傾向にある.集団に所属する者が,所属集団と個の間でバランスをとるためには,個の強さが必須なのだ.その個の強さをもたらしたものが,藤沢刑事の場合,彼の「個の信仰」だった.
そして本日1月27日の主日礼拝の説教テーマがこれだった.
このドラマは,実際に起こった事件(BOACスチュワーデス殺人事件)に関して松本清張が推理を展開し,それを小説化したものが原作となっている.「黒い福音」というタイトルからもわかるとおり,この小説におけるカトリック教会組織は犯罪に手を染めており,その神父は上司の命令により自分の愛人を殺害してしまう.しかし「教会」という壁ゆえに警察は彼らを逮捕することが出来ず,神父は帰国してしまい,遂にこの事件は未解決となってしまう,というのが物語の大筋だ.
1984年版では,カトリック教会の神父たちがマフィアのような悪党として描かれており,そのシーンも長かったが,2014年版ではそのような描写はほとんど見られず,その代わりに藤沢刑事の人間性を描写する時間が長くなった.
ただし2014年版においても,教会の信徒たちがカルト教団的な不気味な笑みを浮かべて,報道陣と対峙するシーンもあるにはあった.しかし,おおむね一般視聴者は視聴中,1984年版のように教会組織や神父に対する激しい憤りを,持続的に覚える事もなかったのではないかと想像する.ただ逆に,二人の男に犯された後に殺された被害者の悲惨さや,愛人の殺人にまで及んだ神父の激しい葛藤や,「落としの八兵衛」藤沢刑事(モデルは名刑事平塚八兵衛)の無念さという点については薄いと言わざるを得ない.
2014年版「黒い福音」において,特におもしろかったところは,藤沢刑事がはっきりと「神を信じている」と告白している点だ.脚本では,なぜ藤沢刑事が神を信じるようになったかを視聴者に納得させるために,戦場で死にかけた時のエピソードを彼に語らせている.
「黒い福音」における藤沢刑事は,組織の人間ではない.彼は彼自身の信念(信仰)に基づいて,組織の圧力をものともせず,物語の最初から組織のルールを破り続ける.それに対して組織は,彼の存在を煙たがったのは当然であるが,彼の卓越した能力は認めており,故に警視庁捜査一課から彼を外すことはなかった.
このドラマの冒頭で,藤沢刑事の犬がリースを付けたまま逃げ出し,被害者の遺留品へと彼を導くが,この犬こそは,組織にとらわれない藤沢刑事の表象である.脚本家はこの物語の予型をイントロに配置したのだろう.
2014年版「黒い福音」において,藤沢刑事は神を信じていると公言した.それでは彼の信じていた「神」は,いかなるものであったあろうか?彼の発言からそれを推測してみよう.
彼の信じる神は,彼が子供の頃,溺れかけた時や,戦場で死にかけた時に,彼の生命を救ってくれた「命を救う」神である.
次に藤沢刑事は,被害者と巡りあわせてくれたのは,神であったとしている.彼の弁から推測すると,神は彼の最後の大仕事として,彼にしか解決できない事件を彼に担当させてくださったと考えているようだ.おそらく彼は,自分の仕事を神によって与えられた天職だと思っているのだろう.つまり職業召命観を持っていたと言うことだ.
またルノーの中でトルベック神父と藤沢刑事が対決した時,自分の胸を指しながら藤沢の言ったセリフ
「俺の神様はここにいるから,嘘はつけない.あんたの神様はどこにいるんだ」
から藤沢刑事が「神は,通常,個々の胸中に宿っている」「神はすべてを知っている」の2つを仮定していることが推測される.
胸中の神の存在によって,藤沢刑事が嘘をつけない理由とはなにか?ここでこの「嘘」についてより細かく考察しなければならない.なぜならこのドラマにおいて藤沢刑事は,「嘘」をついて捜査をしているからだ.
この捜査上の嘘は,彼の神に許されている嘘ということになる.それが許されているのは,犯人逮捕という目的が「嘘」という手段を正当化したからに他ならない.そして犯人逮捕こそが,彼が彼の神から授かったミッションである.
したがって藤沢刑事が「嘘はつけない」と言ったその「嘘」とは,自己欺瞞,特に神から授かった担当事件に関しての自己欺瞞のことだろう.こう見てみると藤沢刑事の恐るべき執念が,実は彼の,神への個人的信仰心の故であったことが読めてくる.
藤沢刑事が規律の厳しい警察組織の中で,あれほど身勝手に動きまわることができたのは,彼に実績があったからである.したがって彼は勝ち続けなければ,組織には残れなかった.その孤独な戦いを支えたのが,彼の信仰ではなかったかと思う.
トルベック神父のアリバイを崩す証拠写真を市村刑事に渡すときに,藤沢刑事は「神様はいたよ」と言った.藤沢は「内なる神」の存在を固く信じているため,この言葉は,「彼の神」の発見ではない.写真を渡してくれた関田ハナ(市川悦子)の胸中,もしくはその周辺に神は臨在していたということだろう.
藤沢刑事は,カトリック教会の信徒である関田ハナ(市川悦子)に,刑事であることを隠した.彼は,同じく信徒であった江原ヤス子(竹内結子)の知り合いとして彼女に接触し,その証拠写真を得ている.もし関田が彼を刑事だと知っていたら,写真を渡したかどうかは微妙である.つまり写真を刑事に渡すことにおいて,「関田の神」は試されておらず,現れていない.
信徒である関田が「教会がごぶさたになった」理由は,劇中明らかにされていない.しかし彼女に信仰が残っていたのは,明らかである.それは彼女の肌身離さぬ胸の十字架だけではない.咳き込みうずくまる藤沢刑事に自分の水筒の水を差し出す思いやり,淀みない聖句暗唱,それに続く十字架のしるし…
関田ハナが「教会がごぶさたになった」理由として,教会の中の犯罪的行為や,警察の聴取に対する口裏合わせなどに嫌気が差したというのも考えられる.そうであれば,関田ハナの中には「神がいた」ということになるのであろうが,藤沢刑事がそれを知っていたとは思えない.
藤沢刑事が「神がいた」と言ったのは,おそらく神が摂理的に,関田ハナを教会から遠ざけるようにされ,また彼女に写真が届くようにされたことで,間接的に決定的証拠を彼に手渡したのだということではなかろうか?そこに藤沢は神を見,そして彼の外にも「神がいた」ことを知ったのではないか?
とすると,藤沢刑事の神は「人の間に臨在する」神でもあるといえるだろう.さらに
「人を生かし,人を救うのが神様ならば,きっと赦してくれる」という江原ヤス子に対する藤沢のセリフから,彼の神は「赦す神」でもあることもわかる.彼はこの台詞によって江原ヤス子に自白(告解)を迫った.
藤沢の神の特徴をまとめると
- 命を救う神
- 人を生かす神
- 人を赦す神
- すべてを知っている神
- 「人の間に臨在する」神
- 聴罪する神
- 天職を与え,それを助ける神(職業召命観)
- 個々の中に宿る「内なる神」(個人主義)
このドラマにおいて,藤沢がカトリックの神父に掴みかかり,あるいはもみ合いになるシーンが2度ほどあるが,それは単に彼らが犯人であるからではない.彼ら神父の不信仰が赦せないのだ.藤沢は,その信仰故に自分の「内なる神」に忠実であり続け,組織のルールを破ってまで神に従ってきた.ところが彼ら聖職者は,藤沢以上に神に忠実であるべき身分にありながら,彼らの「内なる神」に全く従っていない.その不信仰に対する,激しい怒りが暴力となって現れたのだと思う.
しかし実のところ,これは藤沢の素朴な彼の神概念による誤解である.神父らは,神に従っていたのだ.神父らの神は藤沢の神に類似しており,故に藤沢は神父の中に「内なる神」を仮定し,神父らがその「内なる神」に従っていないことに怒りを感じた.しかし神父らの神は,彼らの内には元々いなかった.彼らの神は「個人の外」にいた.「教会」の中にいたのだ.
さらに言えば,この神父たちにとって,神から与えられた聖なるミッション(伝道)は,何よりも優先されるべきことであり, そのために彼らは国内法的合法非合法を問わず,その手段を選ばなかったのだ.かつて有能なカトリックのパードレたちが,密航という形でキリシタン禁制の日本に上陸し,「聖なる偽り」を用いたように.そこには「野蛮人の国日本」に対するある種の傲慢さが見え隠れする.
この構図,「神から与えられた聖なるミッションという目的のためには,手段を選ばない」という考え方は,実は藤沢も全く同じである.神父はそれ故に殺人まで犯したが,藤沢も事情聴取などにおいて暴力沙汰などを起こしてもおかしくはなく,それによって冤罪が生まれる可能性は否定出来ない.ドラマは,藤沢の持つそのような危うさをもしっかり描写している.
ただ二人の神父が戒律を破り,愛人を作っていた事実は,彼らの信仰が狂信的であることに疑いを挟む.戒律を破るということは,彼らの神学において,神に逆らったことと同じであろう.そう考えてみると神父らはむしろ,聖なるミッションの遂行というよりは,サラリーマン的に伝道という職務上のノルマを達成するために,闇取引という非合法で安易な方法を選び,それによって得たゆとりを愛人との「甘い生活」に当てていたのかもしれない.そうなると彼ら神父は狂信者ではなく,俗物ということになるが,このドラマの内容からはその真偽は判定できない.
さて,藤沢のその信仰について,もう少し考察してみよう.藤沢刑事のモデルである平塚八兵衛の有名な言として,次のものがある.
「人間には根っからの悪党はいねえよ」平塚は退職後、自分が逮捕した犯人で死刑となった者たちの墓参りにも行っている.さらに彼には,
吉展ちゃん誘拐殺人事件の犯人小原保の墓参りに行った際,彼が先祖代々の墓に入れてもらえず,横に小さな盛り土がされただけの所に葬られていた事に愕然とし,盛り土に触れた後に泣き崩れたというエピソードもある.
藤沢刑事は平塚八兵衛と同じように,犯罪者の中にも善なる者(神)は宿っていると信じていた.彼は犯罪者の中に隠されているその善なる者に対して訴えかけ,その犯罪者の中の神がその呼びかけに応え,それが犯罪者の表に現れることにより,これまで犯人を落とし,事件を解決してきたのだろう.
つまり藤沢刑事の取り調べとは,犯罪者に内在する神への祈りであり,そして犯人が落ちた時,彼は神の顕現を目撃するのである.
トルベック神父が記念写真の件について「自分が撮った」と嘘をついた時,藤沢から語られるあのセリフ「あんたの神様は今消えたよ」の「神」はカトリックの神ではない.それはこれまでの取り調べ経験において,藤沢刑事がその顕現を目撃してきた犯罪者の中の「善なる者」「内なる神」である.藤沢はその時トルベックから,藤沢が祈るべき「内なる神」が消え去ったのを感じ取った.故に藤沢流の取り調べは,もはや成立しえない.彼にとってトルベックは「死んだ」のであろう.
藤沢刑事は,結局神から与えられた最後の大仕事であったトルベック神父を落とすことはできず,そのミッションに失敗した.その出来事を信仰の人藤沢がどのように消化したのかは不明である.彼はその後すぐに亡くなってしまった.彼は無念に打ちのめされて,失意のうちに死んだのだろうか?
…しかし彼の失敗は全く無駄ではなかった.すべて若い市村刑事の糧とエネルギーになったからである.警視総監も今回の失敗から「国は強くなければならない」という教訓を得た.この結論はもちろん,現在の我々への問いかけである.特に沖縄のアメリカ軍基地問題を意識しているのだろう.
ただ自分はこの言葉を単純に取りたくはない.警視総監のこの言葉の前後をよく聞けばわかるが,この「国」とは,たくさんの国がひしめく世界の中の一つの独立国という意味である.つまり組織や集団の中で「個」が生きていくために,「個の強さ」が必要ということなのだ.
言うまでもなく,その「強い個」の代表者がこのドラマでは藤沢となっている.その個を支えていたのは彼の信仰であった.このドラマにおいてそのような「個」を持っていた人物は,教会人では,教会から距離をおいていた関田ハナ,命令に逆らって殺された被害者生田世津子しかいない.また警察組織では藤沢の他には市村だけだ.
もちろん市村刑事の「個」は,藤沢刑事の「個」によって徐々に育まれたものだ.それが花開くのは,藤沢の死後,市村が警視庁捜査一課に入ってからだろうから,藤沢はそれを見届けることはできなかったわけだ.
警察組織もカトリックも軍隊も,同じヒエラルキー的権力構造,絶対服従,厳しい戒律を持つ.トルベックも藤沢もそのような環境で生きてきたのだが,その生き方は対極にある.それは信仰の座が,集団にあるのか,「個」にあるのかという違いによるのだろう.
トルベックは絶対服従ゆえに愛する女を殺すに至った.藤沢刑事は個の信仰に突き動かされて,事件の真相に至った.一見この構図は藤沢刑事的個の礼賛のように見えるが,実際はそうではない.刑事が全員藤沢刑事的だったらもはや捜査は成立しないだろう.要は「所属集団と個の間でいかにバランスをとるか」なのだ.
ただ所属集団(権力)は個に対して圧倒的であるため,通常は個が押し流されてしまう傾向にある.集団に所属する者が,所属集団と個の間でバランスをとるためには,個の強さが必須なのだ.その個の強さをもたらしたものが,藤沢刑事の場合,彼の「個の信仰」だった.
そして本日1月27日の主日礼拝の説教テーマがこれだった.
ところが,徴税人は遠くに立って,目を天に上げようともせず,胸を打ちながら言った.『神様,罪人のわたしを憐れんでください.』(ルカ18・13)徴税人は,隣のファリサイ派の人に目もくれず,ただひたすらに神に懇願し,祈った.それは,「神の前にただ一人立つ」キルケゴール的な切実な個人的祈りであった. また我々は知っている.
だから,あなた方が祈るときは,奥まった自分の部屋に入って戸を閉め,隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい.そうすれば,隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる.(マタイ6・6)それゆえ我々は,教会における合同の礼拝や交わりを守りつつ,日々,自己の内なるドアを開けその礼拝室に入り,世界に通ずる唯一のそのドアを後ろ手に閉めて,ただ一人,神の御前にひざまずき,祈りを捧げるのである.
2014年1月26日日曜日
BSプレミアム「超常現象」:意識の自由と舞い込んだチラシ(on twitter @rahumj)
1月18日のNHK BSプレミアム「超常現象」では超能力として,遠隔透視(RV),テレパシー,予知能力を主に取り上げた.この内,前者の2つは一種の情報通信とみなせるため,一つの科学理論によって説明できる可能性を持つ.番組では前回の「量子脳理論」と同様,これらの現象の量子論による説明が仮説として登場した.それが「量子もつれ」だ.
「量子もつれ」を思いっきり意訳すれば,「量子もつれ関係にある2つの量子の状態は,どんなに空間的に離したとしても常に同じ」ということだと思う.おそらくこれを量子脳理論と合わせて,テレパシーで通信する2者の量子論的意識が「量子もつれ」状態にあったとすることで,テレパシーや「虫の知らせ」,さらには遠隔透視を説明したいところなのだろうが,そのグランドデザインすら見えてこないのが現状らしい.
ただ今回放送された内容の中で,量子論(アイソトープ崩壊)を応用して作られたハードウェア乱数生成器の生成する完全な乱数が,人間の意識状態による影響を受けるという実験結果が報告された.
もしそれが事実ならば,それは量子脳理論と整合性があるようにも思える.意識が量子論的特性(特に不確定性原理)を持ち,一種の量子とみなせるのであれば,意識の「身体による空間的拘束」は,意外にも限定的なのかもしれない.
今回のBSプレミアム「超常現象」の中で,最も科学的説明が難しいのが予知能力だ.超心理学者による実験が紹介され,ランダムな画像を被験者に提示し,その身体的反応を測定する実験を行った結果,被検者は事前に提示される画像の種類を予測しているという結論に達していた.
この結果は単純に「意識は空間的だけでなく,時間的にも拘束されない.故に未来を見ることができる」と言いたいところだが,それは量子脳理論をも超えてしまっている気もする.しかし「時間反転対称性の量子論」は,そもそも本来,過去も未来もない(「永遠の今」)と言っているようにも思える.
時間対称化された量子力学 (TSQM)は,過去の状態のみならず(因果律),未来の状態も,現在の状態に影響を与えるとする.時間対称化された量子力学(TSQM)による解釈は,いわゆる「多世界解釈」に矛盾しない.
量子力学の標準的解釈の問題:
エヴェレットの多世界解釈によれば,非局所相関と非因果性の問題は解決できるが,非実在性が解決できなかった.多世界解釈にTSQMを組み合わせた解釈では,この実在性問題を解決できるとされている.
今,ポストを見てみたら偶然なのか,流行なのかわからないが,量子脳理論に基づくと思われる脳教育トレーニングのチラシが入っていた.「お金・健康・人間関係・幸せなど,思いが現実に引き寄せられる秘密」を明らかにし,それを応用・実践して人生を変えるというものらしい.
チラシの表には,それを実践した体験者のドキュメンタリー映画「CHANGE」上映と,その実践セミナーについてに関する情報が掲載されていた.この映画の出演者の中に,驚くべき人物がいた.スチュアート・ハメロフ博士(アリゾナ大学・意識研究センター所長)である.彼こそは,量子脳理論の一つ,「ペンローズ・ハメロフ アプローチ(Orch-OR Theory)」の提唱者である.ちなみにチラシでは彼が「物理学博士」と紹介されていたが,彼は「医学博士」である.
チラシの裏は,量子力学と量子脳理論(?)に基づくとするヨガ教室の広告が掲載されていた.その説明文の中で量子力学の観測問題に触れており,「観察者の意識が,望んだ結果をつくりだす」との大胆な記述がある.これは超心理学者ヘルムート・シュミット (Helmut Schmidt)の行ったハードウエア乱数生成器による念力実験結果にもとづいているのだろう.
チラシを読んでいくと,どうやらヨガ瞑想の基礎理論として量子脳理論を取り入れたものらしい.現世的欲求の充足,癒やし(ヒーリング),「成功」を強調する点からは,自己啓発セミナー的なものを感じた.
最近のカルト的グループの特徴は,(エセ)科学とスピリチュアリズムと宗教・倫理の混淆を基礎理論として,「成功者」「勝ち組」「癒やし」「お金持ち」等の言葉でナイーブな人々を誘惑することにあると思う.
そして入会後はマインド・コントロールを施して見えない形で会員を拘束し,財産を巻き上げ,「社会貢献」「奉仕活動」と称して無給で伝道させ,マルチ商法的手法で会員を再生産する.
ではどうやって,そのグループのカルト性を検出するかだが,その客観的指標としては
また教義の中やグループの活動内に,「聖なる目的のためには人をだましてもよい」「その人のためにポアすべし」といったような「聖なる目的による手段の正当化・合理化」傾向が見られることも特徴の一つだと思うが,それは一般的な倫理に反しているため,通常,それは上級会員に「奥義」として伝授される可能性が高い.
とすると秘教的奥義の有無もカルトの特徴のようにも思われる.奥義の少人数による寡占状態が,カルト性を胚胎するのかもしれない.
いずれにしても,量子脳理論は「魂=意識」の存在に関する科学的論拠を提供したことは間違いない.それはカントが哲学的に形而上学を擁護したように,現代において科学的に「超自然現象」や「霊」を擁護する.オカルティズムやカルト的集団が,この理論を放っておくはずはない.
科学は一種の道具である.そこには善も悪もない.ゆえに,人を生かす道具にも人を殺す道具にもなり得る.純粋な科学の場には,倫理的判断など存在しないのである.またエセ科学の反駁は科学者なら出来ようが,量子脳理論のような「未熟科学」の反駁は科学者でも難しい.
それは量子脳理論が,ペンローズによれば科学的に検証可能であるにもかかわらず,未だに検証されていないからである.量子脳理論の「悪用」を防ぎ,その被害者を出さない為にも,一刻も早い検証が求められる.
これが私の意見である.
「量子もつれ」を思いっきり意訳すれば,「量子もつれ関係にある2つの量子の状態は,どんなに空間的に離したとしても常に同じ」ということだと思う.おそらくこれを量子脳理論と合わせて,テレパシーで通信する2者の量子論的意識が「量子もつれ」状態にあったとすることで,テレパシーや「虫の知らせ」,さらには遠隔透視を説明したいところなのだろうが,そのグランドデザインすら見えてこないのが現状らしい.
ただ今回放送された内容の中で,量子論(アイソトープ崩壊)を応用して作られたハードウェア乱数生成器の生成する完全な乱数が,人間の意識状態による影響を受けるという実験結果が報告された.
もしそれが事実ならば,それは量子脳理論と整合性があるようにも思える.意識が量子論的特性(特に不確定性原理)を持ち,一種の量子とみなせるのであれば,意識の「身体による空間的拘束」は,意外にも限定的なのかもしれない.
今回のBSプレミアム「超常現象」の中で,最も科学的説明が難しいのが予知能力だ.超心理学者による実験が紹介され,ランダムな画像を被験者に提示し,その身体的反応を測定する実験を行った結果,被検者は事前に提示される画像の種類を予測しているという結論に達していた.
この結果は単純に「意識は空間的だけでなく,時間的にも拘束されない.故に未来を見ることができる」と言いたいところだが,それは量子脳理論をも超えてしまっている気もする.しかし「時間反転対称性の量子論」は,そもそも本来,過去も未来もない(「永遠の今」)と言っているようにも思える.
時間対称化された量子力学 (TSQM)は,過去の状態のみならず(因果律),未来の状態も,現在の状態に影響を与えるとする.時間対称化された量子力学(TSQM)による解釈は,いわゆる「多世界解釈」に矛盾しない.
量子力学の標準的解釈の問題:
- 測定前の物理量の非実在性(複数の状態の重合と確率的予測)
- 非局所相関(例:量子もつれ,光速度超え的現象)
- 非因果性(不確定性原理)
エヴェレットの多世界解釈によれば,非局所相関と非因果性の問題は解決できるが,非実在性が解決できなかった.多世界解釈にTSQMを組み合わせた解釈では,この実在性問題を解決できるとされている.
今,ポストを見てみたら偶然なのか,流行なのかわからないが,量子脳理論に基づくと思われる脳教育トレーニングのチラシが入っていた.「お金・健康・人間関係・幸せなど,思いが現実に引き寄せられる秘密」を明らかにし,それを応用・実践して人生を変えるというものらしい.
チラシの表には,それを実践した体験者のドキュメンタリー映画「CHANGE」上映と,その実践セミナーについてに関する情報が掲載されていた.この映画の出演者の中に,驚くべき人物がいた.スチュアート・ハメロフ博士(アリゾナ大学・意識研究センター所長)である.彼こそは,量子脳理論の一つ,「ペンローズ・ハメロフ アプローチ(Orch-OR Theory)」の提唱者である.ちなみにチラシでは彼が「物理学博士」と紹介されていたが,彼は「医学博士」である.
チラシの裏は,量子力学と量子脳理論(?)に基づくとするヨガ教室の広告が掲載されていた.その説明文の中で量子力学の観測問題に触れており,「観察者の意識が,望んだ結果をつくりだす」との大胆な記述がある.これは超心理学者ヘルムート・シュミット (Helmut Schmidt)の行ったハードウエア乱数生成器による念力実験結果にもとづいているのだろう.
チラシを読んでいくと,どうやらヨガ瞑想の基礎理論として量子脳理論を取り入れたものらしい.現世的欲求の充足,癒やし(ヒーリング),「成功」を強調する点からは,自己啓発セミナー的なものを感じた.
最近のカルト的グループの特徴は,(エセ)科学とスピリチュアリズムと宗教・倫理の混淆を基礎理論として,「成功者」「勝ち組」「癒やし」「お金持ち」等の言葉でナイーブな人々を誘惑することにあると思う.
そして入会後はマインド・コントロールを施して見えない形で会員を拘束し,財産を巻き上げ,「社会貢献」「奉仕活動」と称して無給で伝道させ,マルチ商法的手法で会員を再生産する.
ではどうやって,そのグループのカルト性を検出するかだが,その客観的指標としては
- 基礎理論の依拠する「科学」の科学的妥当性
- マインド・コントロールの有無
- マルチ商法的伝道(入会者の人数に比例する報賞)
- 訴訟・被害報告
また教義の中やグループの活動内に,「聖なる目的のためには人をだましてもよい」「その人のためにポアすべし」といったような「聖なる目的による手段の正当化・合理化」傾向が見られることも特徴の一つだと思うが,それは一般的な倫理に反しているため,通常,それは上級会員に「奥義」として伝授される可能性が高い.
とすると秘教的奥義の有無もカルトの特徴のようにも思われる.奥義の少人数による寡占状態が,カルト性を胚胎するのかもしれない.
いずれにしても,量子脳理論は「魂=意識」の存在に関する科学的論拠を提供したことは間違いない.それはカントが哲学的に形而上学を擁護したように,現代において科学的に「超自然現象」や「霊」を擁護する.オカルティズムやカルト的集団が,この理論を放っておくはずはない.
科学は一種の道具である.そこには善も悪もない.ゆえに,人を生かす道具にも人を殺す道具にもなり得る.純粋な科学の場には,倫理的判断など存在しないのである.またエセ科学の反駁は科学者なら出来ようが,量子脳理論のような「未熟科学」の反駁は科学者でも難しい.
それは量子脳理論が,ペンローズによれば科学的に検証可能であるにもかかわらず,未だに検証されていないからである.量子脳理論の「悪用」を防ぎ,その被害者を出さない為にも,一刻も早い検証が求められる.
未熟科学が他の多くの研究者による厳密な検証を経て,正式な手順で理論化し,正統な科学として定立されるまでは,その「応用」なるものに手をだすべきではない.
これが私の意見である.
2014年1月22日水曜日
ドグマの影 - 偽遺伝子に想いを寄せて -(on twitter @rahumj)
偽遺伝子 (Pseudogene):かつて研究者によって,何の機能も果たしていないと考えられていた偽遺伝子は,「生物学的進化論的負の遺産」「役立たずのゴミ」と見なされていた.しかもそれは通常の機能遺伝子と似通っていた為に,遺伝子診断や研究等においては「邪魔者」であり,呪いの対象ですらあった.ところがその後,通常の機能遺伝子とは異なる,偽遺伝子の生物学的機能が偶然発見され,研究者達を驚愕させた.
DNAの配列のうち、かつては遺伝子産物(特にタンパク質)をコードしていたと思われるが、現在はその機能を失っているもの .偽遺伝子は,今日,遺伝子発現の安定化等の重要な生物学的役割を果たしていることが知られている.
偽遺伝子は,機能遺伝子とは異なり進化上の淘汰を受けないため変異が蓄積しやすく,機能遺伝子に対する直接の変異に比べて表現型に与える影響は穏やかである.これは偽遺伝子が生物の進化や,ヒトにおける多因子疾患(糖尿病・高血圧、精神疾患)などの原因になっていることを示唆する.
その主人から見捨てられ「役立たず」と蔑まれながら,人の驕り,ドグマの影の中で,僕であった「偽りの者」は,その主人の生存のために,黙って日々,働き続けていたのであった.
2014年1月15日水曜日
死角(on twitter @rahumj)
「自分は他者に対し謙虚であることの大切さを知っており,また,それを実際に実行しようと務めている」という意識は,内省においてすら気づきにくい,強い傲慢を生む可能性を秘めている.
謙虚とは行動ではなく,姿勢である.意識することなく,またいかなる努力をも必要とせず,自然な姿として立ち現れてくる.
謙虚とは行動ではなく,姿勢である.意識することなく,またいかなる努力をも必要とせず,自然な姿として立ち現れてくる.
2014年1月14日火曜日
てんかん者・統合失調症者に見られる神秘主義的宗教者としての適性(木村敏「心の病理を考える」を読んで)
先日,超自然的現象・体験の脳内幻覚説に触れた.そこで思い出されるのが,てんかん患者や統合失調症患者に見られる神秘主義的宗教者としての適性だ.最初に断っておくが,超自然的現象(客観的現象)と,超自然的体験及び神秘体験(主観的体験)は全く異なる.
ここでは,病に苦しみ,「生きにくさ」を感じているてんかん患者や統合失調症患者が,なぜ超自然的体験や神秘体験を経験しやすいのかについての,科学的機序についてまとめておく.主な情報源は Wikipedia と引用・参考文献である.なお引用・参考文献の著者木村敏(精神医学者,精神病理学者)は,日本の精神病理学第2世代を代表する人物である.また引用は一部自分が修正・加筆している.正確な引用内容は引用・参考文献を直接当たられたい.
まず統合失調症患者の世界認識(妄想)について.
これは
自我形成が不十分となった理由は,多くのケースで,最初の人間関係である母子関係に原因が求められそうである.例えばダブルバインドや機能不全家族やアダルトチルドレン等である.これは次のように比喩されるだろう.
その統合失調症患者の妄想には
統合失調症患者にとって生きる上での最大の困難とは,
また別の病前傾向として,
つまり統合失調症患者は病前から,未来に生を見出している.それは現状の生に著しい困難を感じており,未来に希望を見出し,それを先取りして生きることで,その困難を克服しようとするためだろう.
おそらくその未来においては,あの恐るべき「深淵」は完全に解消されており,自我と世界は渾然一体となっている(神秘的合一).それでいながら,世界はかつてのように自我を抹殺する意志を持たず,むしろ逆に愛と平安と光に満ちあふれており,その中に自我を迎え入れてくれるはずなのだ.
アメリカのTVドラマ「LOST」の登場人物ジョージ・ミンコウスキー(*)のモデルとなった思われるウジェーヌ・ミンコフスキー(精神医学者, 1885-1972 )は,
このような統合失調症患者の特徴は,明らかに,超自然的体験事例や神秘的体験事例との親和性がある.おそらく精神医学も抗精神病薬も存在しない時代においては,彼らを宗教へと導く決定的な体験だった可能性も十分にある.
ちなみに
現在,統合失調症の発症確率は,100人に1人と言われており,比較的高確率であるが, 信仰を持つ者は実際には激減している.これはもちろん精神医学や精神薬理学の発達によって,統合失調症が重症化しにくくなったためだろうが,科学的知識の普及,社会構造や文化の変化も当然大きいと思われる.
かつて統合失調症の主な受け皿は宗教だと思われるが,現代ではその近代的な代替が様々な形で存在する.つまり現代において,統合失調症は,単なる病気に「格下げ」されてしまい,その聖性を失ってしまったと言えるだろう.それは次に触れる「てんかん」も同様である.
それではてんかん,特に「覚醒てんかん」について簡単にまとめてみる.
まず最初に述べておくことは,
以下に引用文献に挙げられていた概念をまとめておく.
アウラに「祝祭」を見出した木村敏は,
だとすると,てんかん患者は,一種の司祭とも言えるのだろう. さらに付け加えれば,側頭葉てんかん患者においては発症後,「哲学的になる」「愛情深くなる」という現象が見られ,臨死体験や体脱体験を含む超自然的体験も増えるとされている.
---
引用・参考文献:木村敏「心の病理を考える」岩波新書, 1994
ここでは,病に苦しみ,「生きにくさ」を感じているてんかん患者や統合失調症患者が,なぜ超自然的体験や神秘体験を経験しやすいのかについての,科学的機序についてまとめておく.主な情報源は Wikipedia と引用・参考文献である.なお引用・参考文献の著者木村敏(精神医学者,精神病理学者)は,日本の精神病理学第2世代を代表する人物である.また引用は一部自分が修正・加筆している.正確な引用内容は引用・参考文献を直接当たられたい.
まず統合失調症患者の世界認識(妄想)について.
妄想とは,その人が現実に生きていく為の手段の一つである.従ってその妄想を取り除くと患者は生きていく術を無くしてしまう為,薬品で妄想を押さえ込んでしまうと自殺することもある.統合失調症患者の世界認識(妄想)は
多くの統合失調症患者にとって,周囲の対人的世界とは,不自然であり何者かによって作られた作為的な世界である.多くの患者はその不自然の背後に,他者の策謀を想定する.患者は常に,自分に押し寄せてくる世界に囲まれており,その世界と戦っている.
これは
病前から「自我形成」が不十分で(*),自我の個別性が確立しておらず,自我境界が不鮮明であるためだ.そのため自我の周囲の世界は,常に「押し寄せてくる」「浸潤してくる」ように感じられ,圧倒的に不利と思われる絶望的かつ孤独な「自我防衛戦争」に患者はかき立てられるのである.(*:これは統合失調症の直接的原因ではなく,症状を悪化させる因子と考えられる)
自我形成が不十分となった理由は,多くのケースで,最初の人間関係である母子関係に原因が求められそうである.例えばダブルバインドや機能不全家族やアダルトチルドレン等である.これは次のように比喩されるだろう.
その統合失調症患者の妄想には
「電波」によって他者から常に先回りして命令(他者→自我)してきたり,「電波」によって自分の考えが他者に前もって筒抜け(自我→他者)になっているというものもある.これも不鮮明な自我境界によるものだろう.
統合失調症患者にとって生きる上での最大の困難とは,
他者と自己の間に横たわる深淵,すなわちこの絶望的な「すきま」を,「すきま」としてあるがままにあらしめながら,それに耐え抜き,その事実を担い通す事である.多くの患者はその恐るべき「深淵」の存在を認められずに苦しむのである.
また別の病前傾向として,
がある.
- 大人の世界のしきたりや常識に反抗し,経験の裏付けのない高い理想を追い求め,自分の存在のウエイトを未来においている
- 直観に優れ,抽象的な思考を好む
- 自分の可能性を大切にする
- 全体を把握することが苦手
- 言語の比喩的含意の理解を苦手(文字通り受け取る傾向)
つまり統合失調症患者は病前から,未来に生を見出している.それは現状の生に著しい困難を感じており,未来に希望を見出し,それを先取りして生きることで,その困難を克服しようとするためだろう.
おそらくその未来においては,あの恐るべき「深淵」は完全に解消されており,自我と世界は渾然一体となっている(神秘的合一).それでいながら,世界はかつてのように自我を抹殺する意志を持たず,むしろ逆に愛と平安と光に満ちあふれており,その中に自我を迎え入れてくれるはずなのだ.
アメリカのTVドラマ「LOST」の登場人物ジョージ・ミンコウスキー(*)のモデルとなった思われるウジェーヌ・ミンコフスキー(精神医学者, 1885-1972 )は,
統合失調症の成因的障害として「現実との生命的接触の喪失」を挙げた.また精神疾患における時間のあり方を生命論的に論じた.つまり精神病を「時間の障害」として理解した.例えば鬱病者における生命的時間の停滞などがあると考えた.(*:彼はドラマ中,自己意識が頻繁に過去や未来にタイムスリップし,意識を現時間に定位できなくなり,鼻血を出して死亡した)
このような統合失調症患者の特徴は,明らかに,超自然的体験事例や神秘的体験事例との親和性がある.おそらく精神医学も抗精神病薬も存在しない時代においては,彼らを宗教へと導く決定的な体験だった可能性も十分にある.
ちなみに
統合失調症患者と覚醒剤中毒患者の症状は似ているが,後者は周囲の世界との過剰なまでの密着を残している点で全く異なる.
現在,統合失調症の発症確率は,100人に1人と言われており,比較的高確率であるが, 信仰を持つ者は実際には激減している.これはもちろん精神医学や精神薬理学の発達によって,統合失調症が重症化しにくくなったためだろうが,科学的知識の普及,社会構造や文化の変化も当然大きいと思われる.
かつて統合失調症の主な受け皿は宗教だと思われるが,現代ではその近代的な代替が様々な形で存在する.つまり現代において,統合失調症は,単なる病気に「格下げ」されてしまい,その聖性を失ってしまったと言えるだろう.それは次に触れる「てんかん」も同様である.
それではてんかん,特に「覚醒てんかん」について簡単にまとめてみる.
ちなみにリドリー・スコットのSF映画「ブレードランナー」の原作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」やグノーシス主義的神秘主義とSFを融合させた作品「ヴァリス」などで有名なSF作家フィリップ・K・ディック,「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」の文豪フョードル・ドストエフスキーもてんかん患者であった.
まず最初に述べておくことは,
ある種の精神病において,急性の精神症状が起こった後の安静時に,てんかんと同じ脳波が発生する.この現象を持つ人の性格行動は覚醒てんかん患者と同じであることだ.覚醒てんかんとは,
内因性のてんかんであり,その患者の性格や行動は,周囲と一体化しようとする傾向や,自分の内面をそのまま外部に表出しようとする傾向が強く,現在置かれている状況以外のことは無頓着.個別的自己が宇宙全体の超個人的生命力に飲み込まれ,アクチュアリティがリアリティをまるごと飲み込んでしまう忘我的エクスタシーに入りやすい.というもの.
以下に引用文献に挙げられていた概念をまとめておく.
- クリティカ:
所与の個別的対象に対して弁別的理性を働かせ,その真理性について判断を下す技術. - トピカ:
多くの所与を綜合的に概観し,それらのあいだに働いている意味関連を発見し,問題の所存=トポスがどこにあるか見抜く技術.妄想はトピカの異常. - リアリティ:
事物的対象的現実. 私達が勝手に作り出したり,操作できない既成の現実.クリティカにより判断している現実. - アクチュアリティ:
対象的認識では捉えられず.関与している人のアクティブな行動によって対処する以外にないような現実.身を持って経験しトピカを働かせて,生命的意味を捉えている現実.科学はアクチュアリティが扱えない.
現世的時間の断絶と,現在の刹那における永遠の体験がある.個人の主体の個別性を保証している「いま」の時間規定が,ここの個体の区別を超えた永遠の「時間」に押し流され,個人の自己と宇宙大の自然との合一が体験される.ここでは生の歓喜と死の恐怖は,完全に区別を失う.それはひとつの祝祭.という特徴がある.ここで体験されている「絶対者との合一=神秘的合一」こそは,マイスター・エックハルトに代表されるキリスト教神秘主義のみならず,様々な神秘主義が目指す目標の一つである.
アウラに「祝祭」を見出した木村敏は,
祭りの日に,人々は日常を抜け出し,生命のほとばしる永遠の現在という非日常に入る.祝祭が死に近いのは,全体が個を吹き飛ばしてしまうため.停滞する日常の時間を破壊し,生命的時間を取り戻す儀式.とも述べている.
だとすると,てんかん患者は,一種の司祭とも言えるのだろう. さらに付け加えれば,側頭葉てんかん患者においては発症後,「哲学的になる」「愛情深くなる」という現象が見られ,臨死体験や体脱体験を含む超自然的体験も増えるとされている.
---
引用・参考文献:木村敏「心の病理を考える」岩波新書, 1994
2014年1月13日月曜日
ザ・プレミアム「超常現象」におけるドラマ「TRICK」批判(on twitter @rahumj)
NHK BS「ザ・プレミアム 超常現象」.その第1集「さまよえる魂の行方」を11日に見た. 始まる前は,ドラマ「TRICK」で主人公の科学者を演じていた阿部寛が出演することから,てっきり実際に起こった超自然的現象を,「TRICK」のように科学者が暴いていく番組かと思っていた.ところが最後まで見たところ,この番組が完全に,ドラマ「TRICK」の批判として作られていることに驚いた.
ちなみにあつかった超常現象をあげてみると
まず最初の「幽霊と火の玉」については,心霊現象研究協会(SPR=The Society for Psychical Research)の科学者チームが,幽霊や火の玉が出るという無人城に最新測定機器等を搬入し,調査を行うというものだった.まるで昔の映画「ヘルハウス」を思わせる展開だ.
ちなみにこのSPRのチームには,映画「ヘルハウス」のように霊能力者は含まれていないが,超心理学者が含まれている.彼らの調査により,火の玉を見たという部屋において,異常な電磁波が検出された.測定された様々なデータから彼らの導き出した結論は,これらの超常現象と称されるものは,その電磁波によるプラズマ発生と脳の錯覚,および,恐怖心によって引き起こされたというものだった.
この結論自体は,いまや「幽霊・火の玉」現象の標準理論と言っても良いものであり,驚くに値しない.SPRチームは電磁波の発生源が見当たらないことを問題としていたようだが,その標準理論ではその電磁波源を地中の活断層にあるとしている.
標準理論では,活断層から発生する強力な電磁波は,火の玉やUFOに似たプラズマ火球を作り出すと同時に,脳に変調をもたらし,幻覚や神秘体験を引き起こし,場合によっては,凄惨な事件の原因ともなる.それゆえ活断層に沿って,宗教的施設が配置されることになる.
次の臨死体験と体脱体験についての科学的説明は,低酸素状態における脳の変調による幻覚という説明だった.これもやはり臨死体験や体脱体験の標準理論に近い説明だと思う.
補足すると体脱体験において失神した本人が,知り得ない情報を見知っていることについては,「失神しても脳や視覚以外の感覚は生きており,それまでの記憶と共にその感覚入力はリアルタイムに情報処理され続け,それによって構築された脳内の仮想的視界において,自己の位置認識が実際とは異なる空間(空中)に定位した結果」と説明される.
ただし遠く離れた場所の出来事や,視覚によってしか得られない情報を体脱体験者が語ることもあり,現在の標準理論ではその現象が説明ができていない.
最後の前世記憶現象についての,最初の科学的説明はちょっと残念なものだった.番組に登場した発達心理学者は,それを「子供の捏造」としたからだ.前世記憶の研究は,大規模な調査がインドで行われたと記憶しているが,捏造では説明しきれないものが多々ある.例えば,前世の人間の親族しか知らない情報を記憶していたり,教えられたこともない前世の人間の母国語を話す(異言)等の事例が確認されている.
今回の前世記憶を含む心霊的超常現象の科学的説明で,特におもしろかったのは,スティーヴン・ホーキングと共にブラックホールの特異点定理を証明した,あの大物理学者ロジャー・ペンローズの提唱する意識の科学「量子脳理論」による説明だ.意訳してしまえば,肉体に憑依可能な「意識=霊」は実在し,それによって心霊的現象や前世記憶も存在するが,「霊」自体は物理学的存在であり,形而上学的存在ではないとするものだ.
この理論は比較的有名らしく,カトリック信者である円谷英二が創業した特撮プロダクション円谷プロ制作による,セカイ系ハードSF特撮TVドラマ「ウルトラマンネクサス」(2004)においては,人間に憑依する「光量子情報体=霊」として表現されている.
クオリア問題を扱う茂木健一郎の得意分野と思われるこの「意識の科学」は,文系理系を越え,あまりにも広大な学問領域にまたがっており,自分の能力ではとてもすべてを俯瞰することは出来ない.いわゆる「意識のハード・プロブレム」は天才たちに任せて,自分はこれ以上の言及を差し控えておこう.
私が言いたかったのは「超常現象」というNHK著作・制作の番組が,たいへんバランス感覚の良い,丁寧な作りであった事である.学術的になりすぎず,かといってオカルト・エンタテイメントでもない.取材もしっかりやっており,要所を抑えている.つまり簡単にいえば「ジャーナリスティック」であり,臨死体験を徹底取材したジャーナリスト立花隆の姿勢を感じさせた.
現象に対する謙虚さは,科学者として忘れてはならない基本姿勢である.先入見を捨てて,raw data を見据えることから,全ての科学は始まる.自分はこの番組にそれを感じ取って,うれしく思った.またその番組を海外の放送局ではなく,日本のNHKが独自に制作したことも賞賛したい.それはドラマとはいえ「TRICK」の科学者には全く見られなかった現象に対するエポケー的態度である.
この番組「超常現象」においてNHKが,「TRICK」の主人公科学者上田次郎を演じている阿部寛をキャスティングし,その主人公のごとく演じるよう番組演出し,進行させた事には全く驚かされる.どのような経緯があったかは知らないが,その出演を承諾した阿部寛にも,その出演決断において相当の勇気が必要だったのではないか?しかもこの番組の放送日1月11日は,なんと最新作「TRICK劇場版 ラストステージ」公開初日に当たっている.
NHKが「超常現象」という番組を制作し,このようなタイミングで放送したのは,彼らが「TRICK」というドラマの仕掛けた本当のトリック,視聴者に対するトリック(ずるさ)に気づき,それが彼らのジャーナリスト魂に火をつけたためなのかもしれない.
NHKはこの番組「超常現象」において,テレビ朝日出身の科学者上田次郎の口から心理学者ユングの言葉を語らせることによって,科学者上田の傲慢を正し,悔悛を促した.彼はもはや断罪者ではない.現象の前にひざまづき,現象に教えを乞う者である.
ちなみにあつかった超常現象をあげてみると
- 幽霊と火の玉現象
- 臨死体験と体脱体験
- 前世記憶
まず最初の「幽霊と火の玉」については,心霊現象研究協会(SPR=The Society for Psychical Research)の科学者チームが,幽霊や火の玉が出るという無人城に最新測定機器等を搬入し,調査を行うというものだった.まるで昔の映画「ヘルハウス」を思わせる展開だ.
ちなみにこのSPRのチームには,映画「ヘルハウス」のように霊能力者は含まれていないが,超心理学者が含まれている.彼らの調査により,火の玉を見たという部屋において,異常な電磁波が検出された.測定された様々なデータから彼らの導き出した結論は,これらの超常現象と称されるものは,その電磁波によるプラズマ発生と脳の錯覚,および,恐怖心によって引き起こされたというものだった.
この結論自体は,いまや「幽霊・火の玉」現象の標準理論と言っても良いものであり,驚くに値しない.SPRチームは電磁波の発生源が見当たらないことを問題としていたようだが,その標準理論ではその電磁波源を地中の活断層にあるとしている.
標準理論では,活断層から発生する強力な電磁波は,火の玉やUFOに似たプラズマ火球を作り出すと同時に,脳に変調をもたらし,幻覚や神秘体験を引き起こし,場合によっては,凄惨な事件の原因ともなる.それゆえ活断層に沿って,宗教的施設が配置されることになる.
次の臨死体験と体脱体験についての科学的説明は,低酸素状態における脳の変調による幻覚という説明だった.これもやはり臨死体験や体脱体験の標準理論に近い説明だと思う.
補足すると体脱体験において失神した本人が,知り得ない情報を見知っていることについては,「失神しても脳や視覚以外の感覚は生きており,それまでの記憶と共にその感覚入力はリアルタイムに情報処理され続け,それによって構築された脳内の仮想的視界において,自己の位置認識が実際とは異なる空間(空中)に定位した結果」と説明される.
ただし遠く離れた場所の出来事や,視覚によってしか得られない情報を体脱体験者が語ることもあり,現在の標準理論ではその現象が説明ができていない.
最後の前世記憶現象についての,最初の科学的説明はちょっと残念なものだった.番組に登場した発達心理学者は,それを「子供の捏造」としたからだ.前世記憶の研究は,大規模な調査がインドで行われたと記憶しているが,捏造では説明しきれないものが多々ある.例えば,前世の人間の親族しか知らない情報を記憶していたり,教えられたこともない前世の人間の母国語を話す(異言)等の事例が確認されている.
今回の前世記憶を含む心霊的超常現象の科学的説明で,特におもしろかったのは,スティーヴン・ホーキングと共にブラックホールの特異点定理を証明した,あの大物理学者ロジャー・ペンローズの提唱する意識の科学「量子脳理論」による説明だ.意訳してしまえば,肉体に憑依可能な「意識=霊」は実在し,それによって心霊的現象や前世記憶も存在するが,「霊」自体は物理学的存在であり,形而上学的存在ではないとするものだ.
この理論は比較的有名らしく,カトリック信者である円谷英二が創業した特撮プロダクション円谷プロ制作による,セカイ系ハードSF特撮TVドラマ「ウルトラマンネクサス」(2004)においては,人間に憑依する「光量子情報体=霊」として表現されている.
クオリア問題を扱う茂木健一郎の得意分野と思われるこの「意識の科学」は,文系理系を越え,あまりにも広大な学問領域にまたがっており,自分の能力ではとてもすべてを俯瞰することは出来ない.いわゆる「意識のハード・プロブレム」は天才たちに任せて,自分はこれ以上の言及を差し控えておこう.
私が言いたかったのは「超常現象」というNHK著作・制作の番組が,たいへんバランス感覚の良い,丁寧な作りであった事である.学術的になりすぎず,かといってオカルト・エンタテイメントでもない.取材もしっかりやっており,要所を抑えている.つまり簡単にいえば「ジャーナリスティック」であり,臨死体験を徹底取材したジャーナリスト立花隆の姿勢を感じさせた.
現象に対する謙虚さは,科学者として忘れてはならない基本姿勢である.先入見を捨てて,raw data を見据えることから,全ての科学は始まる.自分はこの番組にそれを感じ取って,うれしく思った.またその番組を海外の放送局ではなく,日本のNHKが独自に制作したことも賞賛したい.それはドラマとはいえ「TRICK」の科学者には全く見られなかった現象に対するエポケー的態度である.
この番組「超常現象」においてNHKが,「TRICK」の主人公科学者上田次郎を演じている阿部寛をキャスティングし,その主人公のごとく演じるよう番組演出し,進行させた事には全く驚かされる.どのような経緯があったかは知らないが,その出演を承諾した阿部寛にも,その出演決断において相当の勇気が必要だったのではないか?しかもこの番組の放送日1月11日は,なんと最新作「TRICK劇場版 ラストステージ」公開初日に当たっている.
NHKが「超常現象」という番組を制作し,このようなタイミングで放送したのは,彼らが「TRICK」というドラマの仕掛けた本当のトリック,視聴者に対するトリック(ずるさ)に気づき,それが彼らのジャーナリスト魂に火をつけたためなのかもしれない.
NHKはこの番組「超常現象」において,テレビ朝日出身の科学者上田次郎の口から心理学者ユングの言葉を語らせることによって,科学者上田の傲慢を正し,悔悛を促した.彼はもはや断罪者ではない.現象の前にひざまづき,現象に教えを乞う者である.
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