2013年8月14日水曜日

ルカ18:1 気を落とすことなく祈るために

イエスは気を落とさずに絶えず祈り続けなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。  

 イエスは、弟子たちにこの後の説教をたとえで話された。「たとえ」は聞く耳を持たない者のために、イエスが採った手法である(ルカ8:9)。つまりこれ以降の説教について、弟子たちは理解できないとイエスは見ていることになる。

 祈りには、トレーニング的な要素が存在する。従って、熟達者になれば、いかなる状況下においても、気を落とさずに祈り続けることは可能であろう。たとえ刃が首筋に突きつけられようとも.

 この時の弟子たちは、祈る者としてまだ未熟であり、そのようなレベルに達していなかった。彼らのレベルは、一般信徒とさしてかわりはなかった。それは当然である。イエスは12使徒を、宗教者からは全く選ばなかったからだ(例外はいるのかもしれない。それはイスカリオテのユダか?)。彼が選んだのは、幼子のような気持ちでイエスの教えを受け入れた人々だったからである。イエスは彼らの宗教者としての能力について、関心すら持っていない。

 同様に、働いて生計を立てている一般の信者には、そのような専門的トレーニングを行うゆとりはない。従って、そのような一般信徒の祈りの能力は弱く、弟子たちもおそらくゲツセマネに至るまでに、何度も信仰の危機に立たされたのではないかと想像する。 気を落とさずに絶えず祈り続けることは、一般信徒にとって、それほどまでに困難なことなのだ。

 信仰生活において、気を落とすことは、通常、誰の身にも必ず訪れる。その最も強い現れは、遠藤周作的な「神の沈黙」だろう。その沈黙に対して人は、どう応答するのか?そこには「信仰を棄て,棄教する」という、魂の危機が存在する。イエスはその危機に祈りで立ち向かうよう、導かれている。

 祈りは、生命の絶対的危機に対してもすらも、その絶大な力を発揮する。しかし弱い者である一般信徒には、祈ることのできないほどにまで、打ちのめされる時が確かに存在する。祈ることができなければ、神との交わりから断たれて、おそらく魂の死は近いだろう。その死を避けるためには、そのような危機にある一般信徒を、支えることのできる身近な兄弟が必要となる。そのような支え合いの中で、信徒は信仰生活の荒波を乗りきっていけるのだろう。荒海を航海する舟の乗組員は、たとえ真夜中の絶望的な嵐の中においても,希望のともしびを灯し続け、互いに支えあって、憧れの御国まで舟を進めていくのだ。

1 件のコメント:

  1. 自分自身あまりの困難で祈れないときにも、神はわたしたちのなかへ聖霊をお送りくださり、そこでイエスさまがわたしたちの代わりに祈ってくださる。このマザーテレサの言葉は、
    人間にとって最後で、最善の希望のありかを指し示している。

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