2013年11月25日月曜日

生命との再会(収穫感謝祭2013)

本日は,教会で礼拝後に収穫感謝祭があった.自分は出席するつもりはなかったのだが,牧師先生が誘ってくださったので,どんなものかと出席することにした.自分はこの教会の教会員ではないのだが,将来的にはここに転会しようと思っている.牧師先生にもそのことは伝えてあるので,おそらく先生が交わりの中に積極的に入るように促してくださったのだろう.

 礼拝堂に子どもたちが集まった.果物の乗った盆が聖餐台の上に運びこまれ,牧師先生が聖書朗読(ヨハネ福音書),果物を示しながら子供向けの易しい説教,そして小さな祈りと続いた.椅子に座った子どもたちの足が床につかないので,みんなでぶらぶらと揺らしているところが,とても可愛らしかった.

 そのあと,子どもたちが楽しみにしていた昼食の時間となった.本日子どもたちが作るのは,「たこ焼き」「お好み焼き」「焼きそば」だ.誰が作ったのか,手作りのおにぎり(鮭のふりかけをまぶしたもの)は,ラップで巾着状に包まれていた.後で自分は,そのおにぎりを3個も頂いたのだが,その形がみんなドラクエのスライムそっくりで,頭が尖っていた.こんなおにぎりは初めて見た.自分は思わず微笑んでしまった.

 先生や兄弟たちの指示を受けながら,自分は食事の準備を手伝った.料理していた子供の中には,やけどをした子もいたようだったが,大したことはなさそうだった.とりあえず焼きそば以外の子供向けに作られた料理が完成すると,主賓である子どもたちが食べ始めた.次は大人向けの調理で残りを大人たちが仕上げていく.大人向けのたこ焼きとお好み焼きは紅しょうが入りだ.子供は,紅しょうがが苦手ということをすっかり忘れていた.そんな頃が自分にもあったはずなのに,思い出せない.紅しょうがを入れて焼くたこ焼きは,自分にとっては初めてだった.

 久々に食べる日本のジャンクフードは,意外なほどうまかった.特にお好み焼き.豚肉の甘みが程よく,お好みソースにあっていてたまらない.ちなみにたこ焼きの中身は,途中から予算の関係でちくわに変わっていた.そのハズレを引いた子供もいたようだった.自分は全部当たりだったので,ちょっと主賓に申し訳ない気がした.

 おなかがいっぱいになったところで,みんなで教会の近くにある小さな山の麓の公園に行った.天気は大変良く,またこの時分にしては暖かだった.自分は牧師先生と話をしながら,子供のころ数回だけ遊んだ経験のあるその公園へ向かった.

 公園はずいぶん様変わりしていた.いくつかの近代的な遊具があるのは当然のことだが,人工の滝が山の上の方から流れ落ちているのには驚いた.ちょっとした観光スポットのムードを漂わせていたその公園の中で,子どもたちは我々大人たちに見守られながら,くったくなく遊ぶ.やがて牧師先生の意見で,山の頂上まで登ることにした.高さは60mほどの山なので,園児たちにも容易に登ることができる.石の階段を登り頂上につくと子どもたちはさっそく遊びはじめた.台の上で体操を始めたり,秋の木漏れ日の中で,松葉ずもうをやってみたり,松ぼっくりをたくさん集めたり,変わった毒キノコ(?)を見つけたり…楽しそうに無邪気にはしゃいでいた.その一般の人にはありふれた光景が,子供のいない未婚の50代には,あまりにも美しく見えた.

 彼ら彼女らは,生きることが楽しくてたまらないのだろう.それはなぜなのか?ふと「この子らもまた,私と同じ罪人なのだろうか?」という疑問が頭をよぎった.その疑問はやがて自分の心の片隅に,薄いブルーの影に変わり,広がっていった.

「少なくとも,この邪気のないこの子らも,やがては大人になり,自分の罪の苦味を噛み締め,涙せねばならぬ」

それが人の宿命なのか.涙に似た,人への憐れみが,心の底から静かに湧き上がってくるのを感じた.

 紅葉,もう斜めに指している秋めく暖色の日差し,澄んだ山の空気に冴え渡るモズの鋭い鳴き声,飛行機が細い直線を微かに描いていくだけの,ただっぴろい単純な青空,子どもたちの単発的な歓声と無造作に駆けまわり交わるいくつもの足音,そのすべてが…いとおしく,そして神々しかった.

 下山.階段を降りている途中で,牧師先生が,手のひらいっぱいに抱えていた松ぼっくりを持って,私の方にやってきた.電話をかけたいので,松ぼっくりを預かってくれと言う.私は両の手のひらで小さな椀を形作った.その肌色の小さな椀の中に,先生の松ぼっくりが,それがまるで貴重な香油であるかのように,ゆっくりゆっくりコロコロと注がれていく.

 私は拝受したその松ぼっくりを覗きこんむ.そして,息を呑んだ.私は見たのだ.そのつめ込まれた種子の形状,繰り返しのパータンとバリエーション.永遠の生命への意志を結晶させた,乾いたこの種子の中に,神の数学的美意識は無限のパターンとなってミクロへマクロへと展開されている.そしてゲノムに組み込まれたそのプログラムは,リカーシブな自己参照関数によるムダのないシンプルな構造,無限のカノンであり,それゆえに遺伝子ストレージ消費に無駄はなく……

ああ,今,全宇宙は,私の手の中にある」 

 そうなのだ.生命なのだ.何よりも「生命」は尊い.それは神が他ならぬ「生命」であるからなんだ.もし宇宙にただの一つの生命もいなかったなら,その宇宙がどんなに雄大で美しく精緻で緻密であったとしても,それは「死の世界」でしかないんだ.そんなものよりも,ちっぽけな,たった一匹のアメーバのほうが,はるかに価値のある,途方も無い存在なのだ.それは生命が「神的」だからである.故に神は「生命」を愛す.そして人間は自分を含めて,皆,神の似姿であると言う.いったいなんという莫大な価値であろうか.なんと偉大な価値を私達は与えられているのだろうか.

 そこでめまいがして…立ち止まると,目の前には,更に傾いた午後の日差しが,名も知らぬ蔦植物の茂りが照らしていた.その蔦どもは,秋風にすっかり身体を預けて,楽しそうに右に左に揺れていた.先生は,もう先に行ってしまわれたようだ.

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