2014年1月30日木曜日

テゼ,あるいは「キリストのからだ」の誕生 (on twitter @rahumj)

1月23日「テゼ 黙想と祈りの集い」に参加.会場はカトリック教会の信徒会館ホール.参加者は40人ぐらいだろうか?参加者の80%がカトリックの方だった.他の教派の方は,改革派教会,聖公会,ルーテル教会,日本基督教団といった感じだった.

 初めてのテゼだったが実際に参加してみて,なぜテゼの歌が,エキュメニカルなのか,なぜそれによって,違う教派の者達が一体となることが出来るのか,それがよくわかった.

 テゼの歌は大変短く,その同じ歌が何度何度も繰り返し歌われていく.歌を知らない方も多いので,最初に先唱者(カントール,カントル)がその歌の手本を一人で歌い,その後,参加者がそれに合わせて合唱すると言う形式をとる.

 そのためテゼ参加者による合唱の歌い出しは,つぶやくように弱々しく,しかも音程を間違っている人やリズムが合わない人がいるため,かなりぎくしゃくした混沌とした状態にある.その音場では,先唱者の美しい歌声のみが立っていて,合唱隊の歌声はその地に低く広がる泥の海のようである.

 ところが先唱者の美しい歌声を聞きながら,短く単純なその歌を,何度も何度も繰り返し歌い続ける内に,バラバラだった参加者の歌声は次第に整えられていき,一つまた一つとその音場に立ち上がっていく.

 そしてついには参加者全員の歌声が,一つのグレゴリオ聖歌的単旋律の歌,まるで皆の中心に屹立する一本の大きな柱のようになって,輝きを放ち始める.これは今まで私が体験したことのない喜びだった.私は「誕生」に立ち会っていたのだ.

 興味深いのは,その一つのグレゴリオ聖歌的単旋律,いわばモノクロームの歌声が完成した後,それがさらに繰り返されていき,参加者の皆が,惰性的回転あるいは念仏的無に陥る寸前に,その旋律とは別の旋律を先唱者が歌い加える事で,ポリフォニックな色彩を帯びていく点だ.

 その先唱者の別旋律をトリガーとして,他の何人かの参加者も別の旋律を歌い出し,それによって歌のポリフォニックな色彩はさらに豊かさを増していく.

 それでいて参加者全員が別旋律を歌うような,いわば混沌としたフリージャズのような状態にはならず,大半の者は最初の旋律の繰り返しに従事し,別旋律者が歌う為のステージを維持し,曲の車輪を回し続ける.

 自分は言わば,テゼの祈りと歌という場において,「カオス(音の混濁)→組織化(モノフォニックな歌の誕生)→複雑化(ダイナミックなポリフォニック合唱)」という,生命の誕生からその進化や創発までの流れを,身を持って一気に体験したのだった.

 テゼの素朴な歌唱(合唱)の中に,「生命の発生とその進化」なるものは,なぜに現象し得たのか?その「生命の種」は,曲や歌唱形式の中に人為的に仕込まれていたのか?それとも意図せずその中に自然発生したのか?

 その答えは私にはわからないが,テゼが様式の平均化や正統性の抽象化によるのではなく,その素朴な歌詞,素朴な旋律,素朴な祈りによって立ち現れた「生命」への関与をもって,教派を越えた一体感を場にもたらしたとするのならば,我々は「生命」において一致できるという証しなのかもしれない.

 そうなのだ.先唱者は「イエス」であった.そして個々の合唱者は,(実際にそれぞれの教派の代表者であるが)教派そのものの表象である.歌い出し当初は,合唱隊の各自はバラバラに歌っており,調和にはほど遠く,合唱とも言いがたい.ところが「イエス」の美しい歌声に聞き耳を立てながら歌い続けていると,バラバラだった合唱隊の歌声は,次第に一つにまとまっていき,ついに「一つの声」となる.

 こうして誕生した「一つの声」,すなわち一つの生命とは,言うまでも無く「キリストのからだ」である.しかもその後恐るべきことに,「キリストのからだ」は機能分化を続け,より豊かで高次な生命へと進化を続けていく…

 本日のテゼの歌は14曲.内2曲は,日本基督教団出版局「讃美歌21」の中の第34番と第46番だった.6番目の歌において,歌と交互に挿入された詩編朗読は第36編.福音書朗読はマルコ9・33~37.共同祈願は「東日本大震災被災者のための祈り」.1時間半の集いであった.

 今回のテゼでは,歌だけでなく,照明を落とし,ろうそくのともし火だけにして,黙想する時間も与えられたのだが,1時間半という長さは全く感じられなかった.あっという間に終わってしまった感じで,普段の礼拝とは全く異なる時間の流れであった.もしかしたらあの黙想と祈りの場において,「時間」は「永遠」に置き換えられていたのだろうか?

 そしてこれはエキュメニカルな効果とは関係ないと思われるのだが,テゼの歌と祈りには極めて高い魂の浄化作用がある.まるで「魂を何度も何度も手で優しくもみ洗いされていた」ような感覚だ.そのためか,帰宅してからかなり時間が経っているのだが,未だにその余韻が残っている.

 そして今は,洗われたその魂が家の軒先につるされ,干されて,春の穏やかな日差しを浴びて,温まっている.

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