2013年9月2日月曜日

ルカ14:16-18 神の招きへのつまずき(主日聖餐礼拝)

そこで、イエスは言われた「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう準備ができましたから、おいでください』と言わせたすると皆、次々に断った(ルカ14:16-18)

 本日の主日聖餐礼拝の説教は、ルカ第14章15~27節についてだったこの宴会のホストである主なる神と共に食事をすることは、すなわち神の友として、神と親しく交わることである言い換えれば、神の国の中に入ることであるそれはユダヤ教徒にとって、極めて光栄なことであり、何にも変えがたい喜びであったはずだ従って信徒であれば,その招きは、いかなる個人的な事情があろうと、最優先にすべきイベントとなる.

 しかしその招待に対し、ユダヤ人達の反応は極めて冷ややかだった.結局、彼らはその招きを拒否したのである(ルカ14:18).先生によれば、当時のユダヤの風習では、まずあらかじめ宴会の招待者には、宴会開催予定が通知されるのだそうだ.従って、招待客は事前に自分のスケジュールにその宴会予定を組み込み、他のイベントとバッティングしないように配慮することは可能だった.つまりこの神の招きは、決して唐突な出来事ではなく、その招きに応じるために招待客は,礼服の準備やスケジュール調整等のための時間的余裕を十分与えられていたはずである.

 にもかかわらず、彼等は招待を拒否した拒否の理由は、畑と牛と妻である.それらの用事は,いわゆるこの世的な事情,この世におけ資産管理であるが,それだけではない.それらの用事は宴会の後に行っても,それほど不都合がない緊急性のないものばかりであった.彼らは招待を拒否することが,招待者のメンツをつぶすことになり,招待との関係を悪化させることはわかっていたはずだ.だとしたら,資産管理は後回しにして,とりあえず,形だけも宴会に出席し,招待者のメンツを保ち,なおかつ,招待者と自分たちの関係を維持するという配慮は当然できたはずである.招待者は明らかに,招待された者の上に立つ者である.ましてやそれが神であるのならば,なおさら出席は死守しなければならない

 にもかかわらず彼らは,出席を拒否した.そこには出席拒否の強い意志が感じられる.つまり彼等は,資産管理を神との宴会より優先させたと言うよりも,宴会にどうしても行きたくなかったため,その口実を後付けしたと思われる.ではなぜそこまで,かたくなに出席を拒否したのか?

 一つ考えられるのは,彼らがその宴会において,自分の服を脱いで,礼服に着替えたくなかったというケースだ.
が客を見ようと入って来ると,婚礼の礼服を着ていない者が一人いた(マタイ22:12)
 招待された宴会が,婚宴であるかどうかは,このエピソードからはわからない.ただこのエピソードの前ルカ14:7)には婚宴における話があり,さらにその話の最後の方ルカ14:12)では,婚宴ではなく一般的な宴会の話になっている.仮にこのエピソードが婚宴に近いフォーマルなものであったとしたら,やはり礼服着用義務はあっただろう.

 自分の服を脱ぎ,礼服を着ることが,偽りの自分自身,世間向けの自分自身を脱ぎ捨てて,イエスを着ることであり,イエスと一体となることであるならば,彼らはイエス故に,神の宴会出席を拒絶したことになる. つまり正確には,彼らは彼らの神の招きを拒絶したくはなかったが,そこにイエスという存在が介在するために,その招きをかたくなに断ったのだ.イエスの門を通ることを拒否したのである.しかし自分たちの信じる神の恩寵やその関係性は失いたくなかった.そのため,僕に対して欠席の言い訳をしたのである.

 彼らにしてみれば神に対して,今回の欠席がやむを得ないことの言い訳をうまくしたつもりだったのだろう.彼らのその時の社会的常識では,畑・牛・妻に関する用事は,神の宴会を欠席する理由として,十分であったのかもしれない.しかしそれは,宴会の招待者である神を,激怒させることになった.神は裏切られたのだ.そして彼らのために用意された席は,この世から見捨てられた貧しい人や身体の不自由な人,さらにはユダヤ教すら視野に入っていない異邦人(通りや小道にいる人々,ルカ14:23)のための席へと変えられていく.

 ユダヤ人達に対して事前に招待を通知した者達が、洗礼ヨハネを最後とするイエス以前の預言者達であれば,招待者を直接呼びに行った僕はイエスであろう.もし宴会のホストであり招待者である神が,直接彼らを呼びに行ったのであればどうだったであろうか?おそらくさすがに頑固な彼らも,その招待に応じざるをえなかったであろう.そして実際,神は直接彼らを呼びに行ったのである.つまり彼らは,彼らを呼びに来た貧しい身なりをした僕イエスを,神の子としてと認められなかったがゆえに,出席を拒否したのであった盲目であるが故に,彼らはイエスにつまずいたのだ.

 神に呼び出されることは,あまりにも尊い光栄なことである.そしてそれに応答することは,深い喜びである. なぜならそれによって,一方通行ではない「交わり」ができるからである.そしてその呼び出しに応答するということは,自分の服を脱ぐことであろう.そこには真の自由がある.しかしこんなことを書いている私自身は,果たしてその呼び出しに応え,自分の服を脱いで,神の御前に出ているのだろうか? 祈り…

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