2013年9月29日日曜日

従順(on twitter @rahumj)

 たいへん美しい1枚の絵の巨大なジグソーパズルがあった.ピース数が1億以上あると思われるそのパズルをバラバラに崩し,かき混ぜ,掃き寄せてみると,小さな山のようになった.そこを通りかかった人は言った.「このゴミの山は何ですか?」

 そのゴミの山から,1枚の美しい絵が再現できると確信する多くの者は,その絵とそのジグソーパズルの存在をあらかじめ知っている者か,その美しい絵の存在を信じる者である.

 このジグソーパズルのピースの形がすべて同じだった場合,コンピュータによる復元は,元の絵をコンピュータが知らない限り,かなりの困難を伴う.「かなりの困難」とは,仮に復元が数学的に可能であると証明されていたとしても,莫大な無限に近い時間がかかる事を意味する.

 数学者ベルンハルト・リーマンは,数学的根拠も無く,1859年にその美しい絵の存在を確信した.いわゆるリーマン予想である.10兆個まで彼の予想は当たっていたが,未だ予想のままであり,証明はされていない.

 彼の予想は帰納的推論によるものであっただろうが,それを予想として発表できたのは,彼がその美しい絵を信じ,そこに価値を見出したからである.

 多くの数学者・物理学者は,彼らの信じる美を求め,それを予想し,実証・証明を探求する.それに対して「真実は醜い」とニーチェは言った.しかし,彼らは「真実は美しい」という信仰を持って,ニーチェを拒む.

 予想には不安がつきまとう.10兆個まで正しかったリーマン予想も,10兆1個目からずっと続けて予想をはずす可能性は否定できない.数学者にとっては,10兆などものの数では無いだろう.では数学者が不安を払拭するために,証明に駆り立てられているのかというとそうでもない.

 むしろ彼らは,美への憧れと情熱に突き動かされ,その美の目撃者となるために,仕事に没頭している.彼らは確信者である.

 確信者である彼らが,妄想者にならないのは,数学的アプローチを用いているからだろう.リーマン予想を否定する証明がなされたのであれば,彼らはどれほどその予測証明を夢見ていたとしても,予測の間違いを認め,受け入れる.彼らは頑なな者ではない.彼らは数学に対して徹底的に従順である.

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