2013年9月28日土曜日

依存対象の喪失に対するコーピング(on twitter @rahumj)

 失うことが怖いのは,それに執着し,依存しているからだ.そしてそれを失う可能性が存在すれば,未来への不安は生まれ,不安は依存を強化する.恐怖や不安を感知し,その原因を探ることは,自分が何に依存しているのかを発見する手がかりとなる.

 人が何かに依存してしか生きていけないとしたら,不安と恐怖に対処するためには,
  1. 複数の異なる対象に弱く依存する
  2. 失われることのない永遠の対象に強く依存する
 ということになるだろうか.

 1のコーピングでは,何か一つ失っても,残りの他の複数の依存でバックアップするというものだから,各依存対象は関連性がない方がよい.つまり同時に複数の依存対象を失わないためだ.また各依存のウエイトもできたら均等の方がよいだろう.


 それぞれは弱い依存であるため,仮にそのうちの一つを失ったとしても痛手は小さいと予想できる.したがって,失う事の不安は小さい.ただ問題は,自己同一性を維持しながら,多次元方向のウエイトコントロールされた弱い依存のネットワークを構築できるかだ.

 ネットワークを構築した後も,ネットワークはダイナミックに変化する可能性がある.少なくとも定期的に,依存ウエイトをモニタリングし,何か一つの依存に偏りが発生していないかどうかチェックし,制御する必要がある.これは(特にメンタルな)エネルギーを消費する事でもある.

 一般に人が,自分自身とは何者であるかという問いを封印している理由の一つは,その問いに答えるためには,相当なエネルギーが必要になるからだろう.

 このモニタリング&コントロールのエネルギー消費は,トレーニングを行う事により,習慣化させ,省エネすることができる.ただそのトレーニング自体がコストとなる.

 2のコーピングについては,かなりの危険が伴う.失われることのない永遠の依存対象とは,基本的にはこの物理世界のものではないことを意味するからだ(物理学は永遠を発見しただろうか?).

 このコーピングは,狂気と関わり合いが深いからだ.いくつかの公理系(信念)を導入し,そこから演繹された理論により,その永遠の依存対象の像(イメージ)を記述・説明する者の中には,少なくとも理性が生きている.しかしそのようなケースはまれだろう.

 逆に主観的直感のみによって永遠の依存対象を認識したとする者が,それに強く依存した場合,理性が破綻してしまう可能性もあるだろう.つまり理性によるブレーキが,このコーピングには必要となる.

 この安全装置が言語である.宗教において,教典が尊いとされ,またその教典にこだわり続けるのは,そのためだろう.言語によって保たれる狂気と理性とのバランスが,永遠の依存対象に強く依存するコーピングのポイントのように自分には思われる.

 「宗教はアヘンである」と言う言葉は,「宗教依存が人を不幸にする」と言う意味ではないが,ある側面を言い当てている.我々の生存は食事に依存しているが,この依存は問題にならない.しかし過食症・拒食症は問題となる.

 こうして考えてみると,「選択可能な依存」をこそが,依存問題の対象であり,依存そのものが問題ではないことがわかる.

0 件のコメント:

コメントを投稿