2013年9月29日日曜日

輝く銀貨(主日礼拝)

あるいは,ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて,その一枚を無くしたとすれば,ともし火をつけ,家を掃き,見つけるまで念を入れて探さないだろうか?(ルカ15:8)
無くしたギリシアの1ドラクメ銀貨は,一日分の賃金に当たる.これはローマの1デナリオン銀貨と同じ価値であると同時に,羊1頭の値段に相当する.

 その女は家の中にいた.彼女は家の管理人,もしくは所有者である.彼女の手中にあった10枚の銀貨の内,1枚が床に落ちた.重力に引っ張られ,銀貨はそれに従ったのである.彼女は腰をかがめ,顔を床に近づけてその銀貨を探し始めるが,家の中はあまりに暗く,見つけることはできなかった.銀貨はおそらく床に落ちた後,転がって彼女の元から離れていったのだろう.

 そこで彼女はともし火をつける.その光によって浮かび上がってくるのは,床に積もった汚い塵である.転がり去った銀貨は,この塵の中に埋もれている可能性があった.そこで彼女は家の中を掃き清めながら,ともし火で床を照らしつつ入念に探した.

 するとキラリと光る物があった.あの銀貨だった.銀貨はともし火の光を反射して,闇の中で輝いていた.彼女は腰をかがめて,その銀貨を拾い上げ,手中の残り9枚とそれを一緒にし,握りしめた.そして周囲の皆と発見の喜びを分かち合った.

 銀貨の落下は彼女の意図では無い.銀貨が落ちたのは,銀貨が重力にしたがったためである.地の誘惑は,地から引き上げられた10枚の銀貨に常に働いていた.それに打ち勝った9枚は彼女の手中に残ったが,そのうちの1枚は誘惑に負けて,所有者の手からこぼれ,塵にまみれた地に落ちて,闇の中を転がりながら彼女から逃走し,とある場所にうずくまった.それが銀貨の罪である.

  銀貨の所有者はその一枚を惜しみ,徹底的かつ執拗な探索を開始した.救いを完全にするためである.彼女は1枚のドラクメ銀貨の価値を惜しんだだけでは無い.彼女は1枚の銀貨が欠けたことにより,「10」という完全性が失われたことをも惜しんだ.救いは完全でなければならない.なぜなら
独り子を信じる者が一人も滅びないで,永遠の命を得るためである(ヨハネ3:16)
彼女はまず,ともし火をともし,闇を照らす.すると床は塵まみれで汚れていた.落ちた銀貨が錆びていなければ,この深い闇の中においても,ともし火を反射し,光るはずであった.すなわち神の呼びかけに対して,逃走者は応答するはずであった.しかし仮に銀貨が錆びていたり,銀貨と彼女の間に障壁(塵)があったのならば,銀貨は光ることがない.彼女は銀貨の応答(反射)を発見の手がかりとしていた.

 そこで彼女は,塵を掃き清めた.その神の御業によって,銀貨を被い,神との交わりを阻んだ塵(汚れ・罪)は取り除かれた.その掃き清めは,銀貨の上に積もった塵を取り除いただけではない.彼女の元から逃走した事の罪,その汚れをもぬぐい去ったのである.失われた銀貨は神の前にその美しい裸体を露出した.今や銀貨は,ともし火の光に対して,光で応答する.それは暗い床の上で極めて美しく輝いた.彼女は床にしゃがみこみ,そのへりくだりと共に銀貨を拾われる.銀貨は再び地上を離れ,神の手の中で平安を得た.それは銀貨の喜びであり,同時に神の喜びでもあった.
 
 この構図は,「見失った羊」のプロット,すなわち,地の誘惑(牧草)に導かれて,群れを離れた一匹の羊とほぼ同じであるが,羊のたとえには存在しない「床を掃く(=罪を取り除く)」部分が加えられている.この「床を掃く」部分を導入するため,イエスは婦人(女性)を主人公にしたのかもしれない.

 また「見失った羊」の例えには,神の呼びかけと見失った羊の応答(鳴き声=祈り)は,行間に書かれており,明記されていない.しかし「無くした銀貨」のたとえでは,ともし火の導入によって,神の呼びかけと銀貨の応答が具体的に描かれている.

 さらに「見失った羊」のたとえがこの前,「聖書の中の聖書」である「放蕩息子」のたとえがこの後に続くことから,イエスは3つのたとえによって,徐々に具体的に「見失われた者の悔い改めと彼への神の愛」を提示する意図を持っていたと言えよう.それはおそらくイエスの教育的配慮であろう.

 銀貨はともし火を受けて輝く.その光は,銀貨の発光によるのでは無い.それは神の栄光の反射である.銀貨はその光に,いっさい手を加えず,素直にそのまま,鏡のように反射するだけである.そのように銀貨が常に輝くためには,神によって銀貨表面の汚れをぬぐっていただかねばならない.そこに祈りはある.

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