2013年9月28日土曜日

生きるために捨てる(使徒27:38, on twitter @rahumj)

 太平洋を泳いで渡ろうとする者はいない.だから舟に乗る.だが海が荒れ,その舟が沈没しそうになった時,人は大切な船荷・船具を捨てて,舟を軽くする.捨てる事により,その後の航海どころか,生存維持そのものが困難になるとわかっていても.

 おそらく金さえも,状況が厳しければ捨てるだろうが,最後まで捨てられない物もある.それは当然,水と食料.だが,それさえも捨てねばならないほど海が荒れていた時,人はどうするだろうか?

 理屈で考えれば,今を生き抜かなければ明日は無いのだから,食料は捨てるべきだろう.できるのであれば食べられるだけ食べた後に.しかしその合理的判断に逆らって,食料に執着する者は少なくないだろう.

 ましてや食料を節約してきたために,飢餓状態にあった乗組員にとって,大切な食料廃棄はあまりにも酷である.しかしパウロは,そのような状況にあった乗組員たちにそれをさせた(使徒27:38).

 しかもパウロは,その直前に「舟は失うが,命は助かる」と信じがたいことを乗組員にに宣言していた(使徒27:22).

 大洋のど真ん中に浮かんだ舟の乗組員にとって,舟とは大地であり,世界である.食料がなくなっても,数日間は生きながらえるかもしれない.しかし己の存在する世界が無くなってしまえば,どこにも生きる場所は無い.

 だからパウロの宣言は,全く持って信じがたいものだっただろう.しかもパウロはそれが自分の理性的判断ではなく,天使のお告げがあったと乗組員に説明した.通常であればそのような話を誰も信じなかったはずだ.

 ここで乗組員達がパウロを信じた一つの理由は,「この航海は危険と損失をもたらす」とあらかじめ人々に忠告しており,それが実際その通りになったからだろう.ただこの時彼は,理性的な判断により忠告したのであって,天使のお告げによったのではない(使徒27:10).

 つまり乗組員はその時,パウロの知的能力や経験に信頼を置いたと言うことになる.しかし天使のお告げとなると話は別だ.その話を乗組員が信じたとするならば,それはパウロの経験や能力ではなく,パウロという人間そのものを信じたということだろう.

 では乗組員たちは,なぜ囚人であったパウロをそこまで信頼するようになったのか.一つには「助かる望みは全く消えうせようとしていた」その状況下におけるパウロの振る舞いだろう.場合によっては,彼は嵐に翻弄される舟の艫の方で,枕をして寝ていたかもしれない.

 嵐の中,恐怖と不安に支配されていた乗組員たちにとって,パウロの振る舞いは精神的な安定を彼らに与えると同時に,ある種の憧れさえ彼らに感じさせたかもしれない.

 つまりパウロの目に見える行い(業)によって乗組員は導かれ,彼の信じがたい言葉を信じるに至った.そして彼らは聖餐にまで至るのである(使徒27:35).

 乗組員は最終的に舟を捨てマルタ島にたどり着き,救われ,その命を得た.まさにパウロ の預言は,成就したのである.舟をこの世と見なすことができるのであれば,マルタ島は天の国である.

 乗組員が,積み荷・船具を捨てなければ,大切な食料を捨てなければ,そして最後に生存拠点である舟すらも捨てなければ,マルタ島には至れなかった.そしてそれらを捨てていきながら,パウロの信じがたい言葉を受け入れ,生存への希望を維持し,最後に救いに至ったのである.

 生きるために,救いのために,自ら大切なものを捨てる事.それは通常の生活をしていれば,生やさしいことでは全くない.しかしこの乗組員のように,その生存が根本から脅かされるのであれば,選ばれた人はそれを実行する.

 そして選ばれた人には,神からその艱難が与えられる.彼は艱難の苦しみの中で気づくのかもしれない.これこそは私の望んでいたものであったと.

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