2013年12月23日月曜日

懺悔録:こどもクリスマス会で神の指弾を受ける

「あの人は仕掛け人だよ!」そう言って全会衆の目の前で,少年が私を指さした時,私は神の御前に立たされた.そして心の中でうめいた.「少年よ,君は正しい.私は君たちを騙している.」

 本日,こどもクリスマス会が開かれた.彼らを教育的に楽しませようと,大人のキリスト者達は様々なイベントを案出した.じゃんけん大会,トーンチャイム合奏,腹話術人形,そして手品!

 クリスマスの催しに「マジック(magic)」とは意味深だ.ご存じの方も多いと思うが,生まれたばかりのイエスを礼拝した,古い言い方ならば「東方の三博士」,新共同訳ならば「占星術の学者達」を意味するラテン語「magi」は,英語の magic の語源であった.

 原始教会以来,魔術師はキリスト教の敵であった事は,以前にもブログ等で強調した通りである.使徒言行録に登場する「魔術師シモン(使徒8・9)」は言うまでも無いが,その後も様々なキリスト教異端判定において, その信仰の魔術性は一つの基準であった.

 マタイ(2・1-12)は
  • 幼子キリストを異教の高僧が礼拝(屈服)することによる,異教に対する「キリストの勝利(回心)」
  • 生殺与奪の権を持ち,現実的支配者であるヘロデの口頭命令よりも,非現実的形式であり,行動決定の根拠として極めて心許ない「夢のお告げ」によって啓示された神の命令を,躊躇無く選択し実行した事で示される,彼らの「神への信仰」
  • 本来イエス暗殺成功後,ヘロデにより口封じのため殺される予定の彼らであったが,神への信仰により,無事帰国できたことによって示される「神の救い」
という構図を示すことで,異教の未来を予型した.しかし,2,000年というの年月は,魔術の駆逐に対して,あまりにも短期間だった.21世紀の現代においても,魔術に見せられ,その力の虜となる人々は後を絶たないどころか,むしろ既存宗教の成し得なかった「救済」をもたらす「新しい宗教」として注目されている.

 魔術の持つビジュアルな超自然の力は,子供にもその驚異が感覚しやすく,言葉よりも具体的現実的であり,一般大衆を魅了し続けてきた.イエスが大衆に対して,ビジュアルな癒しを用いた理由もそこにあったのだろう.しかしイエスは,断じて魔術師ではなかった.彼が行ったのは魔術では無く,「神の栄光」の顕現である.

 子供たちを楽しませ,驚かせる目的において,マジックは大変効果的だろう.そこには教理的な説明などいらない.その種を明かさないかぎり,あるいは暴かれない限り,不思議と「術者の力」の顕現がそこにあるだけである.子供達は術者に魅せられ,また術者に憧れ,その力を得たいと思うだろう.ニーチェの「力への意志」は,子供達の共有する標語でもある.

 カトリックで非難の的となった「ハリー・ポッター」シリーズの著者 J・K・ローリング は、うつ病の後,貧しいシングルマザーとして生活保護を受けながら,その苦しみからの脱出を可能とする超自然的「力」に希望を見出そうとした.その彼女の「力」への祈りは,ついに小説として結実した.

 それは長編小説であったにもかかわらず,世界中の子供達を魅了し,虜にした.本は世界記録的ベストセラーとなり,シリーズ化・映画化されたのはご存じの通りだ.彼女は生活保護受給者から,「年収182億円,歴史上最も多くの報酬を得た作家(Wikipedia)」となった.彼女の「力」への祈り(魔術)は,確かに聞き届けられたのだ.

 子供達,特に幼い子供達持っている世界に対する認識は,大人とは当然異なる.発達心理学の世界では,小さな子供達(3~5歳)は「魔法の世界に住んでいる」と言われることがある.

3~5歳の幼児は,年齢や魔術的な信念の高低にかかわらず,日常的な因果理解に適合しない現象の原因を呪文や魔法へ帰属する傾向があることが示唆された.(引用文献: 太田・込山・杉村「幼児の因果推論における呪文の効果」広島大学心理学研究 第10号 2010)

 小さな子供達にとって世界は魔術的である.客観的なデータは無いが私見では,アニメにおける「魔女っ子もの」とでも言うべき分野がある事を考えれば,女子の方が魔女や魔術への傾倒が強いように自分には思われる.彼ら彼女らにとっては,おそらく本物のビジュアルな魔術(マジック)をその目で見届けることは,力の顕現をその目に焼き付け,それに対して憧憬と敬意を表する一種の礼拝行為といってよいのかもしれない.

 必然,小さな子供達に対してのマジックは,その名の通り,正に魔法のような効果がある.大人のキリスト者たちもその効果について熟知しており,この幼き者達を喜ばせようとして,その力に手を出したのだった.

 マジックが行われることを知った時,自分は瞬時にこれらのことに,思い巡らせたわけではない. 礼拝堂におけるマジックに対する本能的直感的と言ってもよい嫌悪感は,正直言ってあった.しかし自分はこう思って自分を納得させたのだった.

「そのマジックを大人に見せるわけでもないし,子供たちが喜ぶような,素人の子供だまし的マジックを,このこどもクリスマス会でやったって,神様も目をつぶってくれるだろう.子供たちがそれで喜ぶのであれば,マジックも悪くない.第一,自分はこの教会の教会員ではなく,ゲストとして参加させてもらっている.この教会にも歴史はあるのだし,その流儀に沿って行くのは当然ではないか.」

 そこまでは良かったのかもしれない.いや,逆だ.もう悪くなっていたのだ.神はここでひとつの采配を取られた.

 あらぬ方から,白羽の矢が私をめがけて飛んできた.こどもクリスマス会開催直前のことだった.子供たちにマジックを披露する方が,突然,私の方に歩み寄ってきて言った.

「その席から動く予定はないですか?もし動かないのでしたら,これを持っていてください.手品の種として使いますので,よろしくお願いします.」

 自分がそれを了承すると,その方は1枚の10円玉を私に手渡し,マジックの準備のため楽屋に向かわれた.どうやら自分に,手品の種,仕掛け人になれということらしかった.自分はその秘密の10円玉をポケットに押し込みながら,かすかな不安を感じた.はたして子供たちに見破られないように,うまく演技ができるのだろうか?自分は頭のなかで,その演技のシミュレーションをしてみた.

 …ポケットの中の物を全部出す.最後に10円玉が手の先に当たる.驚きの表情とともに10円玉を取り出す.そしてまるで,ドラクメ銀貨なくした女(ルカ15・8)のように「ありました,ありました」と声を張って叫んで喜び,その魔術的力を賞賛しながら,突如出現した10円玉を術者に手渡す.子供たちの術者に対する賞賛の拍手がそれに続き…

 まあそんなところだろう.相手は子供なのだからこれで十分だ.そう思い,シミュレーションを終えた.しばらくすると教会堂は,子供たちのざわめきに満たされた.こどもクリスマス会開催の時間だ.

 出し物は順調に進んでいった.子供たちはそれなりに楽しんでいたようだった.キリスト者の大人たちもそれを見ながら微笑みをたたえ,満足していた.やがてマジックの時間となった.

 「ハンカチに置かれた10円玉が消えるよ」と術者が言うと,子供たちは我先にとそのハンカチの前に集まってきた.術者はハンカチに10円玉を包み,その後,何人かの子供たちにハンカチの上から手で10円玉の存在を確認させた.そしてワンツースリー!さっとハンカチを取ると,10円玉は消えていた.「わーっ」と奇声を上げて驚く子供たち,そしてざわめき.しかし私の予想に反して,それは長くは続かなかった.

 その子供の中にいた小学校4年生ぐらいの少年が,他の子供達に対して,種明かしを始めたのである.それを聞いていた術者も,キリスト者の大人たちも苦笑せざるをえなかった.子供たちも同様だった.がっかりして,せっかく盛り上がった場が一気にしらけてしまった.自分は思った.おそらく他のキリスト者の大人たちも同様だっただろう.

「子供だから空気読めないのはしょうがない.機会があったら,彼にこう言ってやろう.『いいかね,真実は,それがどんなに正しくても,時に人を傷つけるものだ.だから場所と時と相手をわきまえなければいけない.奥義は,それを許された者,成熟した者にとっては薬だが,幼い者にとっては毒なのだだから奥義を知ったものは,それを幼い者から隠さねばならないのだ』と」

 種明かしを無視して,強引にマジックは進められた.

「消えた10円玉はどこにいったのかな?自分はあの人が持っていると思う.ほら,あの黒い服を着た男の人」

 舞台の幕はこうして上がった.まずは,自分が指さされたことなど気づかんぬふりをしてみる.左右の人を見渡す.次に自分で自分を指さして,自分が指名されたことにようやく気づいたふりをする.そして…

 いくらでも出てくるものだ,偽装のテクニックとその演技.自分はシミュレーションに対して,さらにいくつかの無理のないアドリブの演技を加えて,それを自然体のままやってのけた.その騙しのテクニックは,後から教会員の方に褒められたほどだった.

 しかしその時だった.あの種明かしをした少年が,私を指さし言い放った.

「あの人は仕掛け人だよ!はじめから10円玉を渡されていたんだよ!」

 自分は彼の真実の言葉に圧倒されそうになった.しかし場を維持するために,演技は続けなければならない.幕はもう上がっているのだ.自分は彼の言葉を無視して,椅子を立ち,術者に向かって驚きの表情を浮かべながら歩いて行き,「ありましたねぇ」と言いながら子供たちの目の前で10円玉を手渡した.

 マジックが終わると,こどもクリスマス会は,お楽しみのお菓子の時間に入っていった.私は後片付けを手伝いながら,「これで自分は子供たちから『嘘つき』『信用ならぬ人』と思われたかもしれない」と漠然と思った.だがそれと同時に「この教会の中で,誰かがこの,人をだます『汚れ役』を引き受けなければならないのなら,まだ子供たちの名前すらわからない,顔に馴染みのないゲストである私以外ないではないか.まさか牧師先生がそれをやるわけにもいくまい.」と自分の行為を正当化してもいた.
 
 礼拝堂の隣にある集会室に移り,子どもたちと一緒にお菓子を食べるとき,自分は偶然にも種明かしをしたあの少年の隣に立った.少年は座り黙ってスナック菓子を食べていた.私は内心思った.

「もしかしたら,彼にはまだ私に何か言いたいことがあるのかもしれない.『あなたは仕掛け人ですよね 』と詰問したいという気持ちがあるかもしれない.もし詰問してきたら,言ってやろう.彼に『場の空気』のことについて教えてやろう.」

 私は身構えていた.しかし少年は何も語らなかった.友人と話すこともなく,私の方に視線すらくれずに,目の前に広げられたコンソメ味のポテトチップスと,得体のしれない味のするカールを,私と一緒にただひたすらに頬張っていた.今思えば,私の罪,彼と神に対する罪は,ここに絶頂を極めていたのだった.

 こどもクリスマス会は終わり,教会員の女性たちが3日間かけて焼き上げたクッキーの詰め合わせとともに,子供たちも,大人たちも,私もそれぞれの家路についた.私は自転車で家に向かいながら,なぜか彼のことを思った.何かがひっかかっていた.

彼は確かに真実を叫んだ,そして和やかな場の空気を壊した,しかしそれは彼の罪なのか?

 おそらくそういうことなのだと思う.自分はその疑問を消化しきれないまま,思いを巡らせ,夕暮れの中,ペダルをこいだ.

  帰宅後,私は年老いた母とともにすき家で夕飯をとった.そして満腹して家に戻るとPCの前に座り,本日のこどもクリスマス会での発見についてブログを書く準備を始めた.まずは,フォローしている人々の最近のツイートを確認し,さらに自分の過去のツイートやブログの読み直しをしてみた.特に本日の出来事に関係ありそうな内容,例えば魔術に関する内容を持つ自他の情報をざっと見渡してみた.それが終わると,ブログのタイトルを決めにかかった.

 最初に浮かんだタイトルは「奥義」だった.あの少年に言いたかったことを,ここで書いてやろうと意気込んでいたのだ.ところがである.あの少年の罪業について,また嫌悪する魔術について思いを巡らせていると,やがて私はある事実を突きつけられることになった.

「逆だ.彼は正しい.そして私は,あの少年と神に対して罪を犯したのだ」
 
 彼の断罪は全くもって正しかったのだ.それは神の声だった.なぜ自分はあの場で,それを聞き取れなかったのか!いや,むしろその声を,その声の主を守れなかったのか!私は彼を断罪しようとさえしたのだ.なんということだ,なんという罪だ.

 私は確かに魔術に加担したのだ.「力」への礼拝に参加し,あろうことか大事な子供たちをその礼拝において幻惑し,「力」を伝道した.そればかりか,その力が全くのマヤカシであることを糾弾したあの少年を諌めようとさえした.

 私が彼の傍らに立った時,彼が感じたのは「この人に怒られる」という恐怖ではなかろうか?私は確かに立って,彼を見下ろしていた.子供と同じ目線で立つのは,教育の基本中の基本であると知っていたではないか!彼が何も言えなかったのは,彼が指弾した私に対する報復の恐怖ゆえではなかったのか?

 彼は確かにその真実の声により,場の空気を壊し,白けたものにした.彼が周囲に対して与えた不快感を,彼の仲間も持っていたとしたら,彼は仲間から爪弾きにされるのではないか?彼が繰り返し真実を周囲に告げていたのは,周囲の自分に対する不快表明を肌で感じとった彼が,自分の立場がどんどん悪くなっていくのを予感しつつ,一発逆転を狙って,その真実の力に自身を全面的に託して行った,彼の決死の作戦だったのではなかろうか?

 なんどでも言おう.私は邪悪な魔術に加担した.そして子供たちを騙し,幻惑し,神の愛から引き離し,皆を甘い魅惑的な超自然的「力」へと誘った.そしてそれをただ一人告発した預言者の声を持つ勇気ある少年を,おそらく断罪し,彼に高圧的な態度を取り,彼に対して愛のかわりに,恐怖を与え,諭そうとすらした.これがキリスト者のやることなのか.

 傲慢である.全くもって傲慢である.子供のやることだから,すべて稚拙だなどと決めつける傲慢.子供は時に,それが未就学児であっても,母を超えることがあるのを忘れたのか.ああそして,マタイが描いたクリスマスのその構図には,「高度な知識と経験を持つ大の大人が,何の知識も経験も力もない生まれたばかりの赤子を伏し拝む」そのあまりにも深い異邦人のへりくだりが含まれていたではないか!神はそれを教えるために,このクリスマスの時を選んで,あの少年の声と身体を用いて,私の罪に向かってその指をつきつけられたのか!

 … これを書き始めて,数時間が経った.すでに夜が明けようとしている.私にできることは,ただただ祈ることしかない.ただただ祈ることしかない.

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